2018年7月31日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その2)


本郷給水所公苑を出たところから「忠弥坂」を下ります。本郷台はちょっとした標高があるので、この坂もかなり急な勾配になっています。


この坂の上のあたりに浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名な槍の名手・丸橋忠弥の槍の道場があって、丸橋忠弥が慶安4(1651)に由井正雪とともに江戸幕府転覆を企てて失敗に終わった慶安事件の際に丸橋忠弥が捕らえられた場所にも近いということで、この坂の名称が付けられました。

慶安事件は前述のように、由井正雪や丸橋忠弥らが中心となって慶安4(1651)に江戸幕府転覆を企てて起こしたクーデター事件で、由井正雪の乱と呼ばれることもあります。徳川家康が江戸に幕府を開いてから50年近くが経過したこの頃、江戸幕府では第3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていました。また、関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人が溢れていました。浪人の中には、武士として生きることを諦め、百姓や町人に転じるものも少なくありませんでした。しかし、浪人の多くは、自分達を浪人の身に追い込んだ幕府の政治に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在していて、これが大きな社会不安に繋がっていました。優秀な軍学者であった由井正雪は徳川将軍家や各地の大名家からの仕官の誘いを断り、独自の軍学塾「張孔堂」を開いて多数の塾生を集めていたのですが、正雪はそうした浪人達の支持を集めました。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には幕府の政治を批判する多くの浪人が集まるようになっていました。

そのような情勢の下の慶安4(1651)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の子・徳川家綱が継ぐこととなりました。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った由井正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始しました。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人達を味方に付けて、幕府を支持する者たちを完全に制圧する…という作戦でした。

しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまうことになります。慶安4(1651)723日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛されました。その前日である722日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、725日、駿府に到着し、駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したのですが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされました。その後、730日には首謀者である由井正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、810日に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫してしまいました。

江戸幕府では、この慶安事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を教訓に、老中・阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直して、各藩には浪人の採用を奨励するなど浪人対策に力を入れるようになりました。その後、江戸幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになります。

忠弥坂を下りきったところに、大正2(1913)に開館した宝生(ほうしょう)流の能楽専門の公演場である宝生能楽堂があります。


讃岐金刀比羅宮東京分社です。宝生能楽堂からこの讃岐金刀比羅宮東京分社にかけてのあたり一帯はもともと讃岐高松藩松平家の下屋敷のあったところです。この讃岐金刀比羅宮東京分社は讃岐高松藩松平家の第13代当主で本郷学園理事長・校長や日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任された松平賴明(よりひろ)さんが寄進し、昭和39(1964)に建立されたものです。神社としては比較的新しいものですが、ここが讃岐高松藩松平家の下屋敷跡だということに大きな意味があります。この下屋敷に隣接して讃岐高松藩松平家の上屋敷もありました。この讃岐高松藩松平家の藩邸に関しては、次に訪れる小石川後楽園のところで、水戸藩徳川家との関係で出てきます。


また、東京にある金刀比羅宮としては港区虎ノ門にある金刀比羅宮が有名ですが、こちらは讃岐丸亀藩61千石・京極家の上屋敷内に勧請されたものです。万治3(1660)、讃岐丸亀藩の藩主となった京極高和が芝・三田の江戸藩邸(上屋敷)に金毘羅大権現を勧請したものを、延宝7(1679)、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座したものです。丸亀は金刀比羅宮への金毘羅詣りの海路と陸路の拠点として繁栄したところです。なので、東京の金刀比羅宮はあくまでも旧丸亀藩上屋敷跡にある虎ノ門の金刀比羅宮で、同じ讃岐国といっても讃岐高松藩の金刀比羅宮は分社ということなのでしょう。

ちなみに丸亀(香川県丸亀市)は私が中学高校時代を過ごしたところで、私が通った香川県立丸亀高校は総高として約60メートルと日本一の高さを誇る見事な石垣で有名な丸亀城の南側、かつて侍屋敷が建ち並んでいた内濠に面した六番町にありました。なので、丸亀藩上屋敷跡と聞くと、メチャメチャ身近に感じられます。


神田川に架かる水道橋です。この水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していました。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあったようですが、この寺院は明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転しています。寛文12(1670)の地図では「水道橋」と表記されていることから、明暦の大火以降、水道橋と呼ばれるようになったようです。この橋の名称は、橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来します。前述の東京都水道歴史館のところでも述べましたように、江戸時代初期の神田上水は、井ノ頭池を水源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰で塞き上げた後、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路で導水し、そこからこの場所で神田川を懸樋で渡して、神田・日本橋方面に給水をしていました。


現在の水道橋は、昭和3(1928)に、長さ17.8メートル、幅30.7メートルの鋼製の橋に架け替えられました。現在の橋は昭和63(1988)に架け替えられたもので、先代の橋でよりやや大ぶりの橋となっています。現在の橋には上下各4車線の白山通り(東京都道301号白山祝田田町線)が通り、地下には都営地下鉄三田線が通っています。白山通りは、水道橋の左岸側の水道橋交差点で外堀通りと交差します。また、右岸側にはJR中央本線が通り、水道橋駅東口が至近にあります。都営地下鉄三田線の水道橋駅は水道橋交差点の北側にあり、橋を渡っての乗換となります。なお、この水道橋は東京都千代田区と文京区の区境になっています。


神田川を少しだけ下流のほうに進みます。ここに神田上水を神田・日本橋方面に分水するための「お茶の水分水路」があった跡を示す石碑が立っています。


さらにもう少し進むと、水道橋という橋の名称の由来となった神田川に架かる懸樋の跡を示す石碑です。石碑には当時の様子が描かれています。


戻って水道橋を渡ります。先ほど渡ったお茶の水橋と違って、同じ神田川でも水面までの距離が近いことが分かります。こういうことからも、いかに神田山(現在の本郷台、駿河台)が高い山(台地)だったかが窺えます。



水道橋で神田川を渡った先にあるのがJR総武線の水道橋駅です。


三崎稲荷神社です。三崎稲荷神社は、800年以上前の寿永元年(1182)に武蔵国豊島郡三崎村(現在の千代田区神田三崎町)の鎮守の社として創建されたと伝わっています。ちなみに、ここ“三崎町界隈”は、かつて日比谷入り江に突き出した岬でした。そのため、「三崎村」と呼ばれるようになったとされています。神社の正式な社号は「三崎稲荷神社」なのですが、金刀比羅神社を合祀しているため、地元では「三崎神社」と通称されています。現在の場所に移転したのは明治38(1905)のことで、それまでは徳川家康による日比谷入り江の埋め立て工事や江戸城外濠神田川筋の掘割工事、甲武鉄道(JR中央本線)の敷設工事という江戸(東京)の町の発展に合わせて慶長8(1603)、万治2(1659)、万延元年(1860)と何度か移転してきました。


三崎稲荷神社は、第3代将軍徳川家光から旅行安全の神様として信仰されており、家光が江戸城の出入りの際は参拝したと伝わっています。参勤交代の制度を定めた時も将軍家光自らが参拝し、諸大名にも参拝を促したとされています。それがきっかけで諸大名は参勤交代による江戸入りの際には必ずこの三崎稲荷神社に参拝し、心身を祓い清めることが慣例となっていました。このことから、「清めの稲荷」と呼ばれていたとも伝わっています。明治の時代に入ってもその風習は引き継がれ、大隈重信が海外へ渡航する際も、旅の安全を祈願するために参拝したのだそうです。

現在でも「交通安全」や、「旅行の安全」のご利益があるとされ、オフィス街の中にある神社にもかかわらず、多くの参拝者が訪れるところらしいです。私達もこの先の道中の安全祈願をさせていただきました。

新三崎橋で日本橋川を渡ります。


日本橋川は神田川の分流で、東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分岐、ここを起点として真南に流れます。分岐直後からほぼ全流路に渡って首都高速5号池袋線、首都高速都心環状線といった高速道路の高架下を流れます。靖国通りと交差後、南東方向に流れを変え、竹橋の雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に約30 メートルという近距離まで接近し、この付近から首都高速都心環状線の高架下を流れます。神田橋、日本橋、江戸橋などを通過して、江戸橋JCT(ジャンクション)からは首都高速6号向島線の高架下を流れ、亀島川を仕切る日本橋水門付近でようやく川面が開けるのですが、空を望める川面は僅か500メートル弱ほどで、そこを過ぎると中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。


この日本橋川ですが、もともとは平川と呼ばれていました。平川に繋がる神田川開削工事が行われた際、この小石川見附門付近にある三崎橋(新三崎橋の元の橋)より南側の平川の流路は一度埋め立てられ、明治36(1903)に再度開削されたものです。


神田川の前身である平川は、武蔵野台地のハケ(崖線)からの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったのですが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水でした。そこで徳川家康が着手したのが平川の普請でした。

平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われました。当時は潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸の水も海水が混じった水しか出ず飲料水には適しませんでした。これを解決するため、天正18(1590)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水を整備して主に江戸城内への用水は確保できたのですが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、次に豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備しました。神田上水は目白下(現在の文京区関口の大滝橋付近)に、石堰(大洗堰)を作って海水の遡上を防ぎ、ここで分水した平川の水を平川の北側の崖に沿って開削された特別な水路を使って通しました。平川の本流から分水した上水は水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)の中を通った後に(水道橋のところで説明した)懸樋や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給しました。で、当時は目白下の石堰から下流の平川本流は江戸川(現在の江戸川とは別物)と呼ばれていたというのは前述のとおりです。

次に、江戸城を拡張するため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀と繋ぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の外濠としました (現在の日本橋から銀座にかけての地域は徳川家康が入府する以前は平川や隅田川によって江戸前島と呼ばれる大きな砂州になっていて、西側に日比谷入江が所在していました)。しかし、この埋め立てられた日比谷入江は低地であったため、たびたび平川の氾濫による洪水に見舞われて、その洪水対策が新たな課題となりました。

2代将軍・徳川秀忠の時代には、平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われました。元和6(1620)、徳川秀忠の命を受け、初代仙台藩主・伊達政宗が現在のJR飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削という大工事に着手しました。この大工事ではこの小石川見附門付近から東の方向に神田山(本郷台地)を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶ノ水に人工の谷(茗渓)を開削しました。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれています。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて川筋を真東に向かわせ、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させました。この開削当初の「仙台堀」は江戸城の外濠としての機能は果たしたものの、川幅が狭く洪水を解消する機能には事欠いたので、次に江戸幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、万治3(1660)より拡幅工事がなされました。その後、この拡幅された掘割りから隅田川に注ぐ河口までの間の区間は神田川と呼ばれるようになり、広く開削された神田川を使って舟運が船河原橋(ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになりました。

一方、この神田川の開削によりこれまでの平川下流域における洪水対策のため、小石川見附門付近にあった三崎橋(新三崎橋の元の橋)から南流していた旧・平川は現在の九段下付近(現在の堀留橋のあたり)まで埋め立てられて、神田川と切り離されて堀留となりました。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、神田川とは別に道三堀からの舟運を導いてきました。以降、近代に至るまでこの堀(飯田川)の流域は江戸の町の経済・運輸・文化の中心として栄えました。堀(飯田川)の両側には多くの河岸が建ち並び、全国から江戸にやってくる商品で溢れ、大いに賑わいました。上流から鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸などがあり、現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っています。 (道三堀は江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城(現在の皇居)の和田倉門から辰の口(現在のパレスホテルあたり)、さらには現在の大手町交差点を経由し、現在のJR東京駅の北側にある呉服橋交差点あたりで平川に合流していた運河のことです。)

明治の時代に入り、道三堀の西半分と外濠の一部が埋め立てられ、明治28(1895)、甲武鉄道(現在のJR中央本線)の東京側のターミナル駅として飯田町駅(現在の飯田橋駅)が開設されると、飯田川は甲武鉄道の飯田町駅との間を結ぶ運河としても使われるようになります。これを受けて、前述のように明治36(1903)、かつて神田川開削時に埋めた飯田川の北側の区間を再度開削して、再び神田川(旧・平川)と結びました。これが現在の日本橋川と呼ばれている河川となりました。

日本橋川の歴史を書いた「飯田町遺跡周辺の歴史」という説明板が新三崎橋のたもとに立てられています。


今回も企画、そしてガイドは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんです。江戸に関して知らないことはない…って感じで、場所の説明だけでなく、当時の歴史的背景などもスラスラスラスラ出てきます。しかも、話がメチャメチャ上手い!!  話を聞くだけでも価値があります。

かつてここに小石川見附門がありました。小石川見附門は、寛永13(1636)、備前国岡山藩主の池田光政が築いたものです。寛政4(1792)に渡櫓門が焼失したのですが、二度と再建は許されない決まりであったため、再建されることはありませんでした。


この小石川見附門は水戸様御門とも呼ばれ、神田川に架橋された小石川見附橋の外側には徳川御三家の1つ水戸藩徳川家の上屋敷(8万坪)がありました。また神田川を挟んで小石川見附門の内側の一帯には、讃岐高松藩松平家の上屋敷と中屋敷がありました。実は小石川見附門を挟んで並ぶ水戸藩徳川家と讃岐高松藩松平家は密接な関係があるのです。

後に『水戸黄門』の名で知られる水戸藩徳川家第2代藩主・徳川光圀は実は初代藩主・徳川頼房の三男でした。その徳川頼房は徳川家康の十一男でした。頼房の兄の九男が徳川義直が尾張藩の初代藩主で、尾張藩徳川家の始祖となった人物、そして十男の徳川頼宣が紀伊国和歌山藩の初代藩主で、紀州藩徳川家の始祖となった人物です。で、この御三家のうち最初に男子に恵まれたのが水戸藩徳川家藩主の徳川頼房でした。

ですが、水戸徳川家が尾張藩徳川家や紀州藩徳川家よりも先に嫡男に恵まれるということは江戸幕府の秩序を保つ上で許されなかったことのようで、そういう“大人の事情”からせっかく授かった子供は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させられ、頼房にも隠したまま江戸で育てられました。この子が後に讃岐高松藩12万石の初代藩主となる松平頼重です。頼重は15歳の時に父・徳川頼房に初御目見できたのですが、この間に水戸藩の嗣子には同母弟の徳川光圀が既に決定していました。翌年に右京大夫を名乗り将軍徳川家光に御目見したのですが。この時の扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いでした。その後、前述のように頼重は松平頼重として讃岐高松藩12万石の初代藩主となります。ということで、水戸藩徳川家の第2代藩主徳川光圀と讃岐高松藩初代藩主の松平頼重は両親を同じくした兄弟ということになります。

水戸藩徳川家と讃岐高松藩松平家の関係はこれだけにとどまりません。後に松平頼重は実子の綱方、綱條の2人を徳川光圀の養子に差し出し、水戸藩徳川家の家督はこのうちの綱條が徳川綱條として継承しました。一方、松平頼重は徳川光圀の実子・頼常を養子に迎え、松平頼常として讃岐高松藩第2代藩主に据えました。この継嗣(相続人、後継ぎ)の交換の背景には、「本来水戸藩徳川家の家督は自分ではなく長兄の頼重が継ぐべきだったのだ」という徳川光圀の思いがあったとされています。水戸藩徳川家の上屋敷と讃岐高松藩松平家の上屋敷がお隣同士と言っていいほど非常に近いところにあるのも、こういうことが背景にあるのかもしれません。

ちなみに、水戸藩徳川家初代藩主の徳川頼房は生涯正室を迎えなかったのですが、何人かの側室から十一男十五女と多くの子をもうけ、男子は高松藩を筆頭に多くの支藩に分かれました。そのおかげで、水戸藩は幕末に至るまで他家からの養子を一切迎えず、藩祖頼房の血統を守り抜くことができました。逆に水戸本家や支藩から他家へ養子に行く者が多かったので、頼房の血筋は更に広がり、幕末に活躍した徳川慶勝(尾張藩徳川家第14代・第17代当主)、徳川茂徳(尾張藩徳川家第15代藩主)、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)などの高須四兄弟は頼房の男系子孫です。そうそう、御三卿の1つである一橋徳川家の第9代当主を経て徳川宗家を相続し、第15代将軍に就任した徳川慶喜も水戸藩徳川家第9代藩主徳川斉昭の実子です。なので、幕末の幕府は水戸藩徳川家が中心になって動くことになります。また、徳川宗家の現当主の徳川恒孝さん(元日本郵船副社長で公益財団法人徳川記念財団初代理事長等)も、水戸藩徳川家初代藩主である徳川頼房の男系子孫にあたります。


小石川見附門の櫓門の遺構が僅かに残っています。小石川見附門の櫓門は前述のように寛政4年(1792)に焼失した後は再建されませんでした。 明治5(1872)には桝形の石垣もあらかた撤去されてしまったことになっているのですが、ほんの一部が今も残っているようです。


小石川橋で神田川を渡ります。この小石川橋は千代田区飯田橋3丁目から文京区後楽1丁目に通じる橋で、江戸時代には小石川見附門があったところです。明治5(1872)に城門を撤去して、木橋を新しく架け直しました。明治28(1895)に甲武鉄道の東京側のターミナル駅である飯田町駅が近くにできてこの一帯は大いに賑わいました。同じ年、利用者の増加に応えるため、橋も修繕を加えられました。昭和2(1927)に鋼橋として架け替えられたのですが、老朽化のため、平成24(2012)に改修されています。


前述のように、小石川橋の少し下流で日本橋川が神田川の右岸から分流します。また、上流にあたるこの先の飯田橋で右岸から外濠(飯田濠)が合流します。明治36(1903)に飯田町堀留までの埋め立て部分の水路が再び掘削され、小石川見附橋(現在の小石川橋)が神田川と日本橋川の合流地点となりました。




……(その3)に続きます。




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