2018年7月25日水曜日

甲州街道歩き【第4回:府中→日野】(その3)

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)です。谷保天満宮に伝わる『天満宮略縁記』によると、九州の太宰府に流された菅原道真の第三子・三郎道武がこの武蔵国府中の地に流され、三郎殿を建立したこと、さらに延喜3(903)に菅原道真が薨去したとき、子息の三郎道武は自ら像を刻み、廟を建てて祀ったと記載されていて、これが谷保天満宮の創建だとされています。また、延喜21(921)に道武が薨去すると、道武も相殿に合祀されたといわれています。この谷保天満宮は東日本最古の天満宮であるとされ、亀戸天神社、湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれています。本殿は寛永年間(1624年〜1644)、拝殿は江戸時代末期に造営されたものです。


谷保天満宮の「谷保」は「やぼ」と濁って読みます。南武鉄道(現在のJR南武線)が谷保駅を開業した際、駅名を「やほ」と読むようにしたため、このあたりの地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったそうなのですが、本来の読み方は「やぼ」です。ちなみに、江戸時代の著名な狂歌師の大田蜀山人が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」という言葉が生じたと逸話に伝えられています。この「やぼのてんじん」は言うまでもなくこの「谷保天満宮」のことです。


谷保天満宮は多摩川の河岸段丘、いわゆる立川崖線に沿って造られています。甲州街道からは石段を下って境内に入っていくという天満宮(神社)としては珍しい構造の建て方となっているのですが、それには明確な理由があります。もともと甲州街道は谷保天満宮の南側を通り、本殿より下に位置していたのですが、氾濫により多摩川の流路がたびたび変わり渡し場が変遷していった結果、江戸中期以降は、ほぼ現在と同様に境内の北側を街道が通るように変更になりました。それにより、このような珍しい構造の建て方の天満宮(神社)になってしまったようです。この谷保天満宮には社宝として村上天皇寄進の狛犬一対と、源義経、武蔵坊弁慶が書写したと伝えられる「大般若経」四巻などが保存されているのだそうです。


かつては谷保天満宮を取り囲んでスギ()を主体とする鬱蒼とした森が広がっていました。現在はケヤキ、ムクノキ、エノキの林となっていて、「谷保天満宮社叢」として東京都の天然記念物に指定されています。


これは見事なニワトリ、おそらく「名古屋コーチン」ですね。黄褐色の羽、黒色の尾羽が陽の光に照らされて輝いています。境内で放し飼いにしているようです。人に慣れているのか、近づいても逃げません。堂々としたものです。


谷保天満宮の裏手、と言うか、甲州街道に面した側にある「常盤(ときわ)の清水」です。延宝年間(1673年〜1681)に筑紫の僧某(なにがし)が谷保天満宮に詣でた折、この泉を見て、「とことはに 湧ける泉の いやさやに 神の宮居の 瑞垣(みずがき)となせり」と詠みました。これが「常盤の清水」の名の起こりだと伝えられています。この「常盤の清水」は常に豊かな水量で、ついぞ枯れたことがないと言われており、昔は付近の人々の井戸として使われていたのだそうです。確かに透き通った綺麗な清水です。



谷保地下歩道を通って東京都道256号八王子国立線(旧国道20号線)の反対側に出ます。


ここに「清水の茶屋跡」の説明板が立っています。その昔、天神坂下のこの場所に立場茶屋がありました。このあたりは谷保随一の湧水地で、夏ともなると蕎麦や素麺を冷たい清水に晒して、炎天下の甲州街道を旅する人々をもてなしたと言われています。


「国立富士見台幼稚園」という一見すると誤解を招きそうな文字が刻まれた門柱が立っています。「国立」と書かれていますが「こくりつ」ではなく、「くにたち」です。紛らわしい地名ですね。いつのまにか国立市に入っていました。


国立(くにたち)は中央本線の国分寺駅と立川駅の中間にできた新しい駅の駅名に、両駅から1字ずつ取って「国立」と名付けたことから、昭和26(1951)にこのあたりの地名を国立町に変更し、昭和40(1965)に市制が施行されて国立市となりましたが、それ以前は谷保(やぼ)村と呼ばれていました。このあたりは多摩川左岸の沖積低地とそれが武蔵野台地を削った河岸段丘の段丘面及び段丘崖からなる地形のところで、発達した段丘崖としては北東端に国分寺崖線、南部に立川崖線がみられます。かつて国立が谷保村と呼ばれていた頃、中心は谷保天満宮のある谷保一帯であり、武蔵野台地の崖線下の豊富な湧水と谷保天満宮の存在が集落を形成させていったようです。特に初期の甲州街道は府中を出ると谷保付近で崖線を下り、多摩川を渡っていました。その後、渡河地点が上流の日野の渡しに固定されることで道筋が台地の上に移り、今日に到っています。


甲州街道を先に進みます。「立川 2km、八王子 11km、甲府 101km」の道路標識が出ています。東京都の西の端、八王子が近づいてきました。


ある民家の前に「潤澤学舎跡」と書かれた説明板が立っています。その説明板によると、潤澤学舎とは現在の国立市立第一小学校の前身なのだそうです。明治5(1872)8月に学制が制定され、各村に学校の設置が義務付けられると、翌明治6(1873)925日、青柳村で私塾を開いていた杉田吉左衛門氏を首席(校長のこと)とし、この地に開校されました。校舎は杉田氏の私邸内にある三間×五間(50平方メートル)の蚕室を借り受け、仮校舎として教室にあてました。当初は職員1(杉田氏)と児童30名前後でした。その後、明治9年に「谷保小学校」と名称を改め、明治16年に現在の位置に移転しました…と書かれています。明治維新後、こうやって学校って全国で整備されていったのですね。特にこの甲州街道筋は人の往来が多く、いち早く進んだ文化や先端技術の刺激を受けた地域だったのでしょうね。歴史の一端が見えました。


アヤメですね。鮮やかな濃い紫色が綺麗です。



宝林山 永福寺です。永福寺(ようふくじ)は臨済宗建長寺派の寺院で、立川にある普済寺の末寺です。開基は不明ですが、開山は普済寺第6世天叟・宗裕和尚禅師で、江戸時代の寛文年間(1661年~1673)の創立とされています。本尊は釈迦如来像で、脇仏として木彫の阿弥陀如来座像と不動明王像が安置されています。特に、阿弥陀如来座像(像高57cm)は鎌倉時代の作と言われ、幕末に編纂された「新編武蔵風土記稿」にも明記されている古仏なのだそうです。



永福寺の斜め向かいの参道の奥に同じく臨済宗建長寺派の寺院、谷保山 南養寺があります。この南養寺は、鎌倉五山の1つで臨済宗建長寺派大本山である建長寺の37世真照寺大定禅師・物外可什大和尚(貞治2年:1363年没)が開山、開基は立川入道宗成と伝えられています。江戸期には寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。このあたりは臨済宗の禅寺が多いように思えます。南養寺の周辺は縄文時代の遺跡が幾つかあって、庫裏の下からも縄文時代中期の住居跡が見つかっているのだそうです。



JR南武線の矢川駅入口交差点を直進します。矢川駅の駅名は近くを流れる「矢川」という名の小川に由来します。矢川の名称は江戸時代以前からあり、古くは谷川とも記されていました。由来は、江戸時代に手習師匠が著した『谷保案内』の中で、この川のことを 「古き池こそ諏訪の淵  三家に久保に橋場こそ  流れもはやき矢川とや…(流れが早いので弓から放たれた矢のような川である)」と詠んでいて、これが矢川の地名の起こりだといわれています。


その先には矢川が流れ、道の向こうに「五智如来」を納める祠がひっそりと建っています。説明書きには次のようなことが書かれています。『矢川と甲州街道が交差する付近は“はしば”と呼ばれ、大正の初め頃まで矢川橋が架かっていました。橋のたもとには五智如来の祠があり、江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったのが始まりと伝えられています。五智如来は仏教でいう5種類の智(大円鏡智、妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智)を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています。昭和30年代まで、夕方になると五智如来の前に燈明や線香、供花が絶えませんでした。現代でも毎年10月12日には地元の人達が集まり、念仏をあげ、五智如来を供養する“おこもり”が行われています』…なのだそうです。


青柳稲荷神社の鳥居の近くに元青柳村の常夜燈が建っています。この常夜燈は「秋葉燈」とも呼ばれ、江戸時代に村を火の事故から守るために、油屋近くに建てられたものです。火伏せの神を祀る秋葉神社(浜松市)への信仰です。江戸時代には火事の危険性が高い油屋に隣接して常夜燈が置かれることが多かったと言われています。この常夜燈は国立市内に残る3つの常夜燈のうちの1つで、竿(塔身)には「榛名大権現」「正一位 稲荷大明神」「秋葉大権現」「寛政119  施主村中」と彫られ、寛政11(1799)に青柳村の人々によって建てられたことが分かります。昭和初期頃までは村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられているそうです。


その隣に地蔵堂があります。さらにその奥には祭事等で大勢の人寄せを行う時に使う漆器等の膳椀類を共同で保管する「おわんこ倉(お椀倉)」なる倉庫もありました。昔、村では一軒一軒で多くの膳椀類を所有せず、共同で使用していました。今でもこうした風習が残るのは珍しいことです。


ここから200メートルほどある長い参道を入って行くと、多摩川の土手脇に青柳稲荷神社があります。この青柳稲荷神社は、多摩川の大洪水により寛文11(1671)に流失した青柳島から当地に移住してこの地を開拓した人々とともにこの地へ移転して来た神社で、この青柳の集落の鎮守社です。青柳稲荷神社から多摩川へ出て行くと万願寺の渡し(谷保の渡し)跡があるのですが、現在は運動場となっていて、土手の上に案内板が立っているだけだそうです。


甲州街道(東京都道256号八王子国立線)はここから立川市に入るのですが、この道路標識のある地点で左折して、ちょっと寄り道です。


「貝殻坂」という道標が立っています。このあたりは昔は海だったために、土を掘ると貝殻が出てきたことが坂の名前の由来なのだそうです。この細い道路は(河岸段丘の上の現甲州街道に移されるまでの)初期の甲州街道なのだそうです。


根川貝殻坂橋です。多摩川の支流の根川に架かる歩道橋で、古い吊り橋をイメージさせるような非常に珍しい木製支柱の2径間連続斜張橋です。多摩川河川敷のサイクリングコース上にあるので、「ロードレーサー」と呼ばれる高速走行を目的に設計された自転車に乗ったサイクリストが次々に渡っていきます。橋のたもとにある説明板には根川貝殻坂橋について次のように書かれています。

『甲州街道 は、江戸時代初めの慶長810 (1603~1605)に整備された。初め、江戸日本橋と甲府(山梨県)を結んでいたが、後に下諏訪(長野県)まで延長された。この甲州街道が多摩川を渡る「渡し」は、何度か移動され、それにともなって甲州街道の道筋も変わったことが知られている。そのうち、慶安年間(1648年~1651) から貞享元年(1684)まで使われていたのが「万願寺の渡し」である。台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の青柳で段丘を下り、多摩川の河原に下りた。この段丘を下る坂を、昔は「貝殻坂」と呼んでいた。(現在は、真澄寺の西側、富士見町五丁目にある番場坂を貝殻坂とも呼んでいる。)   貝殻坂の名は、江戸時代に発行された「四神地名録」「武蔵国名勝図絵」「新編武蔵風土起稿」「武蔵野話」などの書物の中に見られる。そのうち、文政11(1828)に完成された「新編武蔵風土起稿」の柴﨑村(現在の立川市)の項には「貝殻坂、青柳村と当村との界にあり、土中をうがてば蛤の殻夥しく出づ。 土人の話に古へはこの辺も海なりしと伝ふ」と記されている。よって本橋を貝殻坂にちなみ根川貝殻坂橋と名付けるものである。』


なるほどぉ〜。


甲州街道に戻ります。日野橋交差点です。この交差点は東京都道256号八王子国立線のほか東京都道29号立川青梅線(奥多摩街道、新奥多摩街道)、東京都道・埼玉県道16号立川所沢線(立川通り)が交差する五叉路になっていて、ここで東京都道256号八王子国立線は左折し、多摩川を日野橋で渡ります。


前述の根川貝殻坂橋のたもとの説明板にも書かれていたように、江戸時代初期、五街道のひとつとして整備された甲州街道は、当初、府中の分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を万願寺の渡しで渡っていました。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移されました。それと共に、貞享元年(1684)、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現在の立川市)への農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15(1926)まで240年あまり、使われ続けました。


谷保方面から現在の日野橋交差点付近まで河岸段丘上を来た甲州街道(東京都道256号八王子国立線)は、今はここで左折して日野橋のほうに向かい、日野橋で多摩川を渡るのですが、実は旧甲州街道はここからこのまままっすぐ奥多摩街道(東京都道29号立川青梅線)に入り、根川と多摩川の氾濫域を一旦避けるために、崖線をなぞり、弧を描くようにして、日野の渡しへと向います。


250メートルほど奥多摩街道(東京都道29号立川青梅線)を歩くと旧甲州街道の道路標識が出てくるので、その道路標識に従ってそこを左折します。


旧甲州街道は立川市立柴崎体育館の東側に沿って多摩川の方向に延びています。今は建物が建て込んで見えませんが、かつては正面に富士山が望めたそうです。多摩川の流れ、丘陵から連なる山々、そして、その後に富士山…。江戸時代、その光景は秀景の地として数多くの絵画に描かれています。ハナミズキが綺麗に咲いています。


新奥多摩街道(東京都道29号立川青梅線)を渡った先に日野の渡し場跡があります。


日野の渡し場跡です。「日野の渡し場跡の碑」が立っています。旧甲州街道はここで多摩川を渡り、対岸の日野に続いていました。


当時、渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められていました。僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用ができました。その経営と管理は、日野宿が行い、渡船料は宿場の収入源ともなっていました。現在に模していえば、新しいバイパスが開通し、そこに架けられた有料橋を地元の自治体が管理運営するようになったというわけです。渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていました。江戸時代後期、文政7(1824)からは通年船による渡しに改められています。

渡しに使った平底船は歩行船(長さ6.4メートル、幅1.2メートル) 1艘、馬船(長さ11.8メートル、幅2.7メートル) 2艘があり、渡し賃は資料によると、延享年間(1744年〜1748)には13文から4文、文政7(1824)には10文、天保5(1834)には13文、慶応4(1868)には30文となっています。これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金となりました。

古典落語(江戸落語)に『時蕎麦』という有名な演目があります。そこに次のようなくだりがあります。

「実は脇でまずい蕎麦を食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「へい、十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ…、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」
すーっと行ってしまいました。

江戸時代の夜泣き蕎麦は116文と相場が決まっていて、今でも言われる「二八蕎麦」は蕎麦粉とつなぎ(小麦粉)の割合からきたという説に加えて、2×816からきたという説もあります。今の時代の立ち食い蕎麦の値段と比較して考えると300円前後のものでしょうか。なので当時の1文は現在の20円程度。と言うことは、渡し賃は資料によると、延享年間(1744年〜1748)の渡し賃13文から4文は60円から80円、文政7(1824)の渡し賃10文は200円、天保5(1834)には13文、慶応4(1868)の渡し賃30文は600円程度だったってことですね。

江戸時代が終わり明治の時代になると、渡しの経営は宿場から町へ移され、毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になりました。明治22(1889)に甲武鉄道(JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し始めました。また、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが問題になり始めました。「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきたのです。大正15(1926)、日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じました。


今は日野の渡しもないので、ここからは多摩川の築堤に登り、築堤の上の遊歩道を200メートルほど歩き、少し上流にある立日橋(たっぴばし)を渡ります。


立日橋は、多摩川に架かる東京都道149号立川日野線の橋です。多摩都市モノレールの建設の為、平成元年(1989)3月に道路橋部分が先行して開通し、その後、平成12(2000)1月に多摩都市モノレールの立川北駅~多摩センター駅間が開業し、道路橋上のモノレール部分が開通しました。


立日橋の下を流れる多摩川では多くの釣り人が釣り糸を垂れています。鮎でも釣っているのでしょうか?



……(その4)に続きます。






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