2018年7月24日火曜日

甲州街道歩き【第4回:府中→日野】(その2)

昼食を終え甲州街道歩きの再開です。京王電鉄京王線の踏切を渡ります。私達が渡ろうとすると遮断機が下りてきたのですが、遮断機が下りたまま上り下り交互に3本の電車が目の前を通過していきました。さすがに京王線です。頻発して運行されています。


 “開かずの踏切”状態だったのですが、なんとか遮断機が上がり、先に進めます。踏切を渡り終えてまもなく背後で再びカンカンカン…と踏切の警報音が聞こえてきました。ホント“開かずの踏切”です。サツキが咲き始めています。GWの頃には満開で綺麗でしょうね。ここからはJR南武線に沿って西北西に少し進路を変えて進みます。



このあたりは分倍河原(ぶばいがわら)。分倍河原と言えば「分倍河原の戦い」があったところです。「分倍河原の戦い」とは、鎌倉時代後期の元弘3(1333)に北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦のことです。後醍醐天皇の呼び掛けに応じ、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下の一族だけで総勢でもたった150騎ばかりであったといわれています。しかし、利根川に至ったところで越後国の新田党や、甲斐源氏・信濃源氏の一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで膨らみ、利根川を越えたところで足利尊氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)が合流。その後、上野、下野、上総、常陸、武蔵の鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、新田軍は207千まで膨れ上がったとも言われています。

大軍勢に膨れ上がった新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、一気に入間川を渡りました。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を小手指原の戦いで、またその翌日に久米川の戦いで相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、この分倍河原まで撤退しました。鎌倉幕府は、小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流しました。

久米川の戦いの3日後、新田軍は、分倍河原に陣取る鎌倉幕府軍への攻撃を開始。だが、援軍を得て士気の高まっていた幕府軍に迎撃され、次々と撃破されて敗走。堀兼(現在の狭山市堀兼)まで撤退しました。本陣が崩れかかるほどの危機に瀕し、大将の新田義貞も自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退したほどでした。歴史に“もしも”は禁物なのかもしれませんが、もしもここで鎌倉幕府軍が敗走する新田軍の追撃を行っていたら、新田義貞の運命も極まっていたかもしれず、そうなるとその後の鎌倉幕府の滅亡もどうなっていたかわからないという指摘もあるようです。しかし、鎌倉幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍をただ静観していただけでした。この時がまさに『その時、歴史が動いた』瞬間でした。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されています。この敗走の際、武蔵国分寺(現在の東京都国分寺市)が焼失したといわれています。

堀兼まで敗走した新田軍の痛手は大きく、新田義貞は、そのまま上野国への退却も検討していたほどだったのですが、しかし、堀兼に敗走したその日の晩に、三浦氏一族の大多和義勝が相模国の氏族を統率した軍勢6,000騎で新田義貞に加勢したことで、勢いを盛り返します。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったのですが、北条氏に見切りをつけて新田義貞に味方したのです。大多和義勝の援軍を得た新田義貞は、さらに鎌倉幕府軍を油断させるため、忍びの者を使って大多和義勝率いる大軍勢が鎌倉幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を撒き散らしました。そうして翌早朝、大多和義勝の軍勢を先鋒とした新田義貞軍は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んでいた鎌倉幕府軍に奇襲を仕掛け、次々と撃破。北条泰家以下鎌倉幕府軍は瞬く間に陣形を崩され敗走しました。

いずれにせよ、分倍河原の戦いにおける新田義貞軍の勝利はその後の戦局に大きな影響を与えることになりました。この戦いで新田軍が鎌倉幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じ、この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったといわれています。いっぽう、鎌倉幕府軍は鎌倉に籠もり、7つの切通しを固めて籠城戦に持ち込みました。新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだのですが、稲村ヶ崎からの強行突破に成功し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。ここに源頼朝が創設して以来約150年間続いた武家政権は滅び、武家政権は室町幕府、江戸幕府へと継承されることになります。

「天下分け目の合戦」と言えば徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)が戦った「関ヶ原の戦い」のことを指しますが、この「分倍河原の戦い」も「関ヶ原の戦い」に劣らぬ「天下分け目の合戦」と呼べるほどの歴史的に大きなインパクトを与えた合戦であり、もっともっと世の中の注目を集めてもいいのにな…と私は思います。なお、分倍河原では室町時代の享徳4(1454)にも鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉氏を破った合戦が行われています。

分倍河原は「分倍」と「河原」とが複合された地名です。地名表記は「分倍」と「分梅」があり、その由来は「この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説から分倍」、「梅にまつわる土地が多い事から分梅」などと諸説あるようですが、なぜこの地名になったかの明確な資料はなく、いまだに不明のようです。かつては分配(ぶんばい)とも読まれていたとも言われています。

甲州街道を先に進みます。このあたりは2度の「分倍河原の戦い」という大きな合戦が繰り広げられた古戦場、すなわち元々だだっ広い野っ原だったところで、見るべきものもほとんどないので、ただひたすら歩くだけです。おっ!、堂々たる冠木門(かぶきもん)の門構えを持つ歴史を感じさせる大きな民家が建っています。内藤家です。内藤家と言っても内藤新宿にその名を残す高遠藩主の内藤家とは関係はなく、このあたりの名主を勤めた豪農のお宅のようです。この立派な冠木門は幕末期の府中宿の本陣であった番場宿の矢島家の門を移したものといわれています。今でもお住いのようです。


本宿町の交差点で国道20号線(現在の甲州街道)と合流します。国道20号線と東京都道229号府中調布線が合流する地点に「日本橋から32km」という道標が立っています。32kmといえば8里です。日本橋から8里の一里塚の跡が近くにありそうなのですが、どこを見回してみてもそれらしいものはありません。実は初期の甲州街道はここよりももうちょっと南側を通っていたようで、そこが多摩川の氾濫により通れなくなり、少し北側を通るコースに変更になったようなのです。で、日本橋から8里の一里塚跡はこの南にあるNEC府中事業所内にあるのだそうです。



街道脇の民家の庭にシャクナゲの花が綺麗に咲いています。こうした道路脇に咲く季節の花々を見るのも街道歩きの楽しみの1つです。



新府中街道と交差する本宿交番前交差点です。ここを左に行くとJR南武線の西府駅があるようです。交差点の横に常夜灯がひっそりと佇んでいます。府中街道は、神奈川県の川崎市と埼玉県の所沢市を結ぶ道路で、元々は江戸時代に整備された街道です。この常夜灯も甲州街道と府中街道の追分に建てられたもののようです。

水田地帯を通っていた古甲州街道が廃止され、17世紀の中頃に江戸幕府により河岸段丘の上段に甲州街道が整備されると、次第に集落も街道沿いに移ってきました。そうなると水に乏しいために度重なる火災に苦しむようになったと言われています。この本宿でも講中を作り、遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷を行い、寛政4(1792)にこの常夜燈を設けたと言われています。


本宿交番前交差点を渡ったところで、甲州街道からちょっと右の細い道に入ります。



「墓地道」という道標が立っています。その道標に刻まれた説明書きには『墓地道(ぼちみち)の名は本宿の共同墓地のそばを通ることに由来し、「お墓道」「墓場道」とも呼ばれます。この道は幕末の本宿村の絵図に「所沢道」という名で描かれています』と書かれています。「墓地道」と聞くと、夜、お化けでも出そうな印象を受けますが、この墓地道は府中街道の北半分、所沢へと延びる所沢道だったということのようです。



本宿の碑が立っています。本宿(ほんしゅく)は府中宿の手前にあった八幡宿と同様、“宿”という字が付いていても甲州街道の宿場だったというわけではなく、農業が主体の集落の名称だったようです。本宿の碑に刻まれた説明書きによると、『本宿は、幕末に書かれた地誌「新編武蔵風土記稿」によると戸数169軒、たいていは甲州街道の左右に軒を連ね、あるいは田畝の間に位置するものもありとあります。(中略地名の起こりは甲州古街道がハケ下を通っていた頃に、この集落が宿場だったことによります。古い甲州街道は品川道から大國魂神社の隋神門を通り、高安寺の南辺を抜け、水田を縫って四谷に向かい、多摩川を渡って日野の万願寺へと続いていた道です。本宿はもと車戸村と呼ばれていたという説があります』…なのだそうです。なるほどなるほど。ちなみに、この碑文に出てくる“ハケ”とは崖地形、丘陵、山地の片岸を指す日本の地形名の古語で、国分寺崖線や立川崖線など武蔵野台地の崖線を解説する際によく使われる言葉です。同意語に“まま”、“はば”、“のげ”等があります。この読みの地名は関東地方に幾つか見受けられます。



「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳」という文字の書かれた案内標識が立っています。これを最初に見ると、“熊野神社”+“古墳”=ハテ? …って感じがしちゃいますよね。でも実は、ここは凄いところなんです。



この熊野神社は元々は熊野大権現と称し、本宿村の総鎮守でした。その創建は江戸時代初期と伝えられ、別当寺である弥勒寺とともにこことは別の場所にあったのですが、安永6(1777)に現在の地に遷座したものです。本殿は、その遷座当時のままのもので、拝殿は天保9(1838)に再建され、さらに安政6(1859)に修復がほどこされ現在に至っています。安永6(1777)に遷座した当時の本殿が現存するということで神社としても、まぁ〜それなりに見どころのある神社ではあるのですが、平成15(2003)、その熊野神社境内の本殿北側で7世紀中頃~後半にかけて築造されたと思われる大規模な古墳が発見されました。それが「武蔵府中熊野神社古墳」です。 


武蔵府中熊野神社古墳の形状は3段築成の上円下方墳。1段目は1辺約32メートル、高さ約0.5メートル、2段目は一辺約23メートル、高さ約2.2メートルでそれぞれ方形をしており、3段目は直径約16メートル、高さ約2.1メートルで円形をしています。なお3段目は古墳完成当時は5メートル程度の高さがあったものと推定されています。墳丘は古墳周囲から掘削した土や砂利などを突き固めて造成する、版築工法と呼ばれる工法で築造された人工のものです。この形状の古墳は日本国内でも5例しかない稀な形状の上円下方墳であり、その5例の中でもこの武蔵府中熊野神社古墳は最大の規模の古墳です。また武蔵国最大級の古墳でもあります。


  
武蔵府中熊野神社古墳は、多摩川の河岸段丘である府中崖線の北側に広がる武蔵野台地立川面というほぼ平坦な台地上にあります。この武蔵野台地立川面の一帯には大國魂神社や武蔵国国衙跡、武蔵国国府関連の遺跡、武蔵国国分寺跡、さらには古墳時代後期の円墳が集まった高倉古墳群と御嶽塚古墳群などがあります。



武蔵府中熊野神社古墳の造営当時のこの近隣の情勢を考察すると、7世紀中頃から後半にかけてとされる古墳の造営時期が大きな意味を持ってきます。すなわち、古墳が造営された時期と前後して古墳の東方約1キロメートルのところに東山道武蔵路が開かれたとみられ、7世紀末から8世紀初頭にかけては、現在の府中市中心部に武蔵国府が設置されたと考えられるからです。そのため武蔵府中熊野神社古墳に埋葬されている被葬者は、武蔵国府が設置されるにあたって重要な役割を果たした在地の有力者だったのではないか…との説が有力になっています。このように古墳の考古学的価値と並んで社会的に見ても貴重な遺跡であることが評価され、発見から2年後の平成17(2005)には国の史跡に指定されています。



国の史跡に指定されただけあって、熊野神社の境内には「武蔵府中熊野神社古墳展示館」が設けられていて、発掘の様子や古墳内部の様子、出土品の数々などの資料が展示されています。そこで展示館の学芸員の方から説明を伺いました。https://www.city.fuchu.tokyo.jp/shisetu/komyunite/gekijo/kumanokofun_tenjikan.html 府中市公式HP



これは古墳が発見されたあたりの地層の断面図で、武蔵府中熊野神社古墳の盛土の様子を示しています。この大きな古墳が土や砂利などを突き固めて造成する「版築工法」と呼ばれる工法で築造された人工のものであることがよく分かります。
  

武蔵府中熊野神社古墳が造営されたのが7世紀中頃から後半にかけて…ということは、西暦に直すと640年から680年頃ってことですから、大和朝廷だと舒明天皇(34)、皇極天皇(35)、孝徳天皇代(36)、斉明天皇(37代・皇極天皇の重祚)、天智天皇(38)の時代ということになります。この時代には西暦645年に大化改新が起こり、663年には日本の古代史最大の対外戦争である白村江の戦いで敗れ、672年に壬申の乱が起きるなど、日本国が大揺れに揺れていた時代です。私は白村江の戦いのあった西暦663年から710年の平城京遷都までの約50年間に日本の古代史解明の謎が隠されていると睨んでいる時代で、7世紀中頃から後半にかけて…と聞くと私の中の好奇心がやたらと掻き立てられて、それだけでワクワクしちゃいます。面白い!  実に面白い!!


武蔵府中熊野神社古墳が現在正式確認されている上円下方墳の中では最大規模のものであるということは前述のとおりですが、それ以外にも注目すべき特徴があって、それは数学的な知識に基づいて計画的に設計された陵墓であるということです。3段目にある上円部の直径約16メートルを1とした時、2段目の正方形の底辺の1辺は√2の約23メートル。1段目の正方形の1辺は2の約32メートルになっていて、墳丘の各段を規則的な比率にしようとした意図が伺われます。また、古墳全体の中心軸は磁北に近い方向に配置され、石室の入り口はほぼ真南を向いているのだそうです。さらに石室の奥にある玄室の中心が、墳丘のほぼ中心になっているのだそうです。

それだけでなく、石室の下には石室を取り囲むように地盤改良工事が行われていたり、墳丘が崩れないように種類の異なる土を交互に硬く積み上げる「版築工法」を用いたり、高くなる墳丘部は全面を河原石で葺いたり、さらには、石室を構成する切石には地震などで動かないように大小の切組が施されていたりと、相当に進んだ土木技術により作られたものであるようです。


復元された石室には入ることができます。私もヘルメットを被って石室の内部に入らせていただきました。


武蔵府中熊野神社古墳展示館をあとにして、甲州街道を先に進みます。JR南武線の線路の上を跨ぎます。


国道20号線脇の細い歩道を進みます。時折、この細い歩道を自転車が通るので、ちょっと危険です。



「史蹟 獅子宿」と刻まれた石碑が立っています。宿と云っても、宿場のことではなくて、谷保天満宮で奉納される獅子舞の獅子頭を昭和44年までここにある佐藤家が保存していたので、その獅子頭の保存場所と云う意味で、佐藤家は獅子舞の稽古をする家ということで、「獅子宿」と呼ばれていたのだそうです。



その先右手の立派な薬医門を備える家は江戸時代にこのあたりの名主を務めた「本田家」の屋敷です。薬医門は医者の門として知られ、薬医門が備えられている家はたいてい医者なんだそうです。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたといわれています。この本田家の薬医門はとりわけ門の高さが高いのが特徴で、馬の医者だったといわれています。



本田家から100メートルほど先に旧下谷保村の常夜燈があります。



国立インター入口交差点で国道20号線が左に分岐し、ここからは東京都道256号八王子国立線を歩きます。この東京都道256号八王子国立線はかつての国道20号線で、平成19(2007)の国道20号日野バイパスの開通に伴い都道に移管されたのですが、移管後も通称名の「甲州街道」という呼び名は変わっていません。

「関家かなどこ跡」という説明板が立っています。この説明書きによると、『この関家は鋳物三家(矢澤、森窪、関)の一家といわれ、江戸時代から明治の初期までこのあたりで鋳造を生業(なりわい)としていました。梵鐘、仏像等のほかに鍋釜などの日用品も製造していました。鋳物三家の銘のある梵鐘には、立川の普済寺、府中の高安寺、日野の牛頭天王(現在の八坂神社)等があり、谷保山南養寺の梵鐘には安永6(1777)関氏の銘が刻まれています。また、関家には観世音菩薩座像の鋳型が保存されており、この原形をもとにした仏像は所沢の薬王寺にありましたが、戦時中の供出により失われてしまいました。昭和37年の作業場等の発掘調査により面積約150平方メートルの中に鉄滓(てっし)、鉄片、陶片、煉瓦片等が発見されています』…とあります。現在、関家の跡地は葬儀場に姿を変えています。



……(その3)に続きます。

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