1月20日(土)、新たな街道歩きを始めました。今度挑戦する街道は、五街道の1つ『甲州街道』です。
これまでは江戸(東京)の日本橋を出発して旧中山道を一路京都の三条大橋を目指して歩く「中山道六十九次・街道歩き」を行ってきたのですが、全行程533.9kmの約半分(266.6km)、宿場としても全69宿の半分の36番目の宿場・宮ノ越宿のところでこれ以上の続行を断念。東京を離れてきたので、ここから先は2泊3日の行程になり、毎回平日に休みを取る必要が生じたことから、まだ現役で働いている者としてはこれ以上の続行は無理と判断したのでした。続行を断念と言っても、実際のところは「中断」です。続きは現役を引退し、時間に余裕ができてから再開するつもりでいます。
中山道の続行は中断しましたが、これまでの「中山道六十九次・街道歩き」で覚えた街道歩きの魅力は忘れがたく、さてさてどうしようか…と思っているところに、いつも「中山道六十九次・街道歩き」で利用している旅行会社から「新しく甲州街道あるき(全16回)の企画(コース)をスタートします」という案内が届き、すぐにそれに飛びついたわけです。最近は中高年の間で「街道歩き」が静かなブームとなっているようで、新たな企画が次々と生まれているようです。中でも、甲州街道なら中央自動車道がほぼ並行して走っているし、終点が中山道でも通った諏訪湖畔にある下諏訪宿(長野県)なので、かなり先まで日帰りでのコース設定ができそうで、比較的気軽に参加ができます。タイミング的にも、まさに2泊3日の壁に直面して中山道の中断を余儀なくされた私を狙い撃ちしたかのような嬉しい企画です。商売うまいわ(笑)
『甲州街道』は、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の合戦を制し、関東地方(武蔵国)の江戸に幕府を開いた徳川家康が、慶長8年(1603年)に江戸と諸国を結ぶために整備した5つの主要な街道(五街道:東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)の一つです。甲州街道は当初は「甲州海道」と称されていたのですが、正徳6年(1716年)4月15日の幕府の触書きによると、この時からこの街道の正式名称は「甲州道中」となりました。しかし、一般的には「甲州街道」と称することが多く、文化・文政期(1804年から1829年)に昌平坂学問所地理局により編纂された武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」にも、甲州道中と甲州街道の表現が併用されています。
甲州街道は江戸の日本橋を起点とし、江戸を出て、八王子、甲府(山梨県)を経由し、諏訪湖畔の諏訪大社下社秋宮付近にある中山道の下諏訪宿(長野県諏訪郡下諏訪町)を終点としています。総距離53里24町20間(210.8km)、その間に44の宿場があります(終点の下諏訪宿が45番目。39宿という数え方もあるようです)。江戸の日本橋から下諏訪宿というと高崎宿や碓氷峠、和田峠経由の中山道があり、当時はこの中山道のほうを使うのが一般的でした。
現代人の感覚で言うと、江戸(東京)から下諏訪(長野県)を目指そうとすると、旧甲州街道沿いの中央自動車道やJR中央本線を利用するのが一般的で、誰も碓氷峠や和田峠を経由する中山道ルートを使おうとは思わないのですが。約150年前まではそうではありませんでした。中山道ルートは、一見、甲州街道ルートと比べ随分と遠回りをする印象を受けますが、実際のところはさほど遠回りではありません。江戸の日本橋から中山道を使って下諏訪宿まで行くと、総距離55里6町14間(216.7km)、甲州街道ルートと比べ僅かに6km遠いだけです。その間に28の宿場があり、下諏訪宿は29番目の宿場でした。しかし中山道には途中に碓氷峠(標高約1,200メートル)、和田峠(標高1,600メートル)という難所と言われる険しい峠が途中に立ちはだかっていました。甲州街道にも笹子峠や小仏峠という難所の峠がありますが、甲州街道最大の難所と言われた笹子峠でも標高は1,096メートル、小仏峠は標高548メートルと中山道ルートの峠に比べると大したことはありません。それでも皇女和宮が降嫁の際に中山道を利用したように、旅人にとっては甲州街道ではなく、中山道を利用するのが一般的でした。また、参勤交代の際に利用した藩も信濃高遠藩、高島藩(諏訪藩)、飯田藩の僅か3藩だけで、それ以外の藩は中山道を利用していました。
その理由としては、甲州街道が整備された意義に関係するとされています。甲州街道が整備された意義は、将軍徳川家が本拠である江戸城を落とされた時に、再起を計る拠点として甲府城を重要視していたことから、有事の際の将軍家の脱出ルートであったとされています。このように甲州街道は幕府にとっての軍事的な目的が強かったことから、警備が厳しく、そのことが敬遠されたのではないか…とされています。加えて、物価も高く、街道沿線のインフラ整備の状況も中山道に比べて悪かったようですし。
それを証明するかのように、江戸(日本橋)と甲府柳町宿の間には140.2kmの距離に38もの宿場が設置されていました。また、この区間の街道沿いはイザとなった時の砦用に多くの寺院を配置されており、その寺院の裏には街道からは見えないように同心屋敷が連なっていました。さらに、短い街道であるにもかかわらず、小仏と鶴瀬の2箇所に幕府直轄の関所が設けられていました。この甲府までのルートは「甲州表街道」と呼ばれていました。
しかし、甲州街道は甲府から下諏訪までの道が続いていて、甲府柳町宿から下諏訪宿までの70.6km、7宿のルートは「甲州裏街道」と呼ばれていました。この甲州裏街道は甲斐国(かいのくに)と信濃国(しなののくに)を街道で、元々は甲斐の盟主・武田信玄の領国統治のために整備された街道でした。徳川家康はその武田信玄が整備した街道を受け継ぐような形で、甲府から信濃へ抜ける道を「甲州街道」として延長したと言うわけです。
このように、甲州街道は元々は軍事的側面の強い街道だったのですが、太平の世になると、信濃〜甲斐〜武蔵の流通が盛んになり、甲州街道は大いに栄えるようになりました。
この日のスタートポイント(集合場所)は「中山道六十九次・街道歩き」の時と同じく日本銀行の本店前にある中央区立本石町公園。指定された時刻に行くと、既に大勢の方が集まっておられました。中には「中山道六十九次・街道歩き」でお見かけした方の姿も。案内していただくウォーキングリーダーさんも「中山道六十九次・街道歩き」で何度もご一緒した方ばかりなので、アウエー感はまったくしません。何度もご一緒してすっかり顔馴染みになったウォーキングリーダーさんのお一人から声をかけられました。
「越智さん、今度は甲州街道ですか?」
「ええ、中山道は中断です。中山道も諦めたわけではなくて、単なる中断です。宮ノ越宿から先は毎回2泊3日になるのですが、まだ現役なので平日に休みを取らないといけないため、毎月2泊3日はとてもじゃあないけど無理。なので、中山道は現役を引退して時間にゆとりができるまでちょいとお休みすることにしました。しかし、街道歩きは中断する気はまったくなくて、今度は甲州街道にトライです。」
「なるほど。でも、中山道池袋新宿出発組の皆さんが寂しがりますね。」
「前回、皆さまの前で中断の宣言をしたのですが、何人もの方から“現役だと仕方ないね。いつか京都三条大橋まで行ってね。先に行っておくから”って声をかけていただきました。甲州街道でもよろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
聞くと、今回の「甲州街道あるき」の参加者のほとんどの方が東海道や中山道を踏破されたか歩いている途中の人達ということのようです。なので、皆さん慣れた感じです(もちろん、今回の甲州街道が初めての街道歩きって初心者の方も1/3ほどいらっしゃいますが…)。この中央区立本石町公園、私は2年前の「中山道六十九次・街道歩き」のスタートの時以来なのですが、あの時とは気持ちの上で全然違っています。中山道の時は週末のグータラぶりを見かねた妻に無理矢理連れてこられた…って感じで、街道歩きにもまったく関心がなかったのですが、あれから2年、中山道を木曽の宮ノ越宿まで歩き、街道歩きの魅力にドップリとはまってしまったので、今回は自ら選んでの甲州街道歩き、期待感に包まれての参加です。
参加者全員が揃ったことを確認し、入念なストレッチ体操の後、ウォーキングリーダーさんを先頭に中央区立本石町公園を出発。日本銀行の本店前を通り、まずは甲州街道の起点である日本橋に向かいます。ですが、ここでちょっと寄り道。日本銀行本店の前を通り、外堀通りに架けられている「一石橋」に立ち寄りました。
この一石橋は皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋され、江戸時代を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋の1つでした。北橋詰の本両替町には幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町には幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤家の援助により再建されました。そのため、後藤の読みから「五斗(ごと)」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から「一石橋」と名付けられたと伝わっています。
現在の橋は平成12年(2000年)に架け替えられたものですが、その前の橋は大正11年(1922年)に架けられた橋で、鉄筋コンクリートRC花崗岩張りの見事なアーチ橋でした(それまでは木橋でした)。橋長43m、幅員27mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電(路面電車)を通す構造で、完成の翌年の大正12年9月に発生した関東大震災にも耐え抜きました。この橋は関東大震災以前のRCアーチ橋としては都内最古のもので、貴重な近代文化遺産であることが認められ、平成14年(2002年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されています。
この一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」なる碑が建っています。江戸時代~明治時代にかけてこの付近はかなりの繁華街で、迷い子が多く出たのだそうです。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857年)にこの「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられました。“しるべ”の右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られていて、上部に窪みがあります。使用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたと伝わっています。この「満よひ子の志るべ」はここのほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたそうなのですが、現存するものはこの一石橋のものだけだそうです。この一石橋の「満よひ子の志るべ」は昭和17年に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年に種別変更されて東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。
ちなみに、日本橋川は東京都の千代田区と中央区を流れる荒川水系の一級河川です。下流に「日本国道路元標」がある日本橋が架かることから日本橋川と名付けられました。水源は千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流して南東へ流れ、中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。ほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れており、この一石橋付近は首都高速都心環状線の高架が川の上を塞ぐように通っています。
日本橋川は15世紀から17世紀にかけて何度にも渡る水利工事が行われた結果、現在の流路が形成された人工の河川、言ってみれば“運河”です。まず、徳川家康の関東移封後、江戸城普請の一環として日比谷入江に直接流れ込んでいた平川を道三堀と外濠に繋ぎ替えたことで最初の日本橋川が誕生しました。このうち明治以後に道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられた結果、残った流路が現在の日本橋川となりました。江戸幕府開幕に伴う天下普請による神田川開削で、日本橋川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ、外堀から切り離されていた時期もあったようなのですが、飯田町駅への運河として市区改正事業によって明治36年(1903年)に再びこの区間が延伸開削され、現在に至っています。
この日本橋川流域は水運の便がよかったことから、この川の流域は江戸時代から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として大いに栄えました。周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京に運ばれてくる商品で大いに賑わいました。現在でも周辺に小網町、小舟町、堀留町など、当時を偲ばせる地名が残っています。
このように、かつて江戸の街には網の目のように縦横無尽に河川や運河、水路が張りめぐらされ、その河川や運河の上を数え切れないくらいの数の橋が架かる「水の都」として、イタリアのベネチアにも負けないほどの美しい光景が広がっていたようです。江戸の市井モノの時代小説などを読むとやたらと猪牙船(ちょぎぶね)と呼ばれる船が登場してきます。江戸時代は駕篭が一般的な乗り物というイメージがありますが、実際にはそれと同じぐらいの頻度で移動手段としては船が利用されていました。いっぽうで、物流に関しては市内であろうとも圧倒的に水運に頼っていました。江戸時代の物流の最大の担い手は船であったといっても過言ではありません。
最初にこのような運河と船による水運の重要さに気がついたのは、江戸の町を作った徳川家康でした。豊臣秀吉に関東への国替えを命じられて江戸城を居城に定めた徳川家康は、天正18年(1590年)、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県市川市南部の行徳地区)に目を付けました。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしか方法がありませんでした。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させました。これが今も東京都江東区を流れる小名木川(おなぎがわ)です。地図で見るとこの小名木川、一直線になっているのが分かります。つまり、この川は計画的に作られた運河の中でも最初の一本だったわけです。
この運河の開削によって行徳から江戸城のお膝元までの経路が大幅に短縮されました。塩以外の運搬や、成田山への参詣客なども運ぶようになって輸送量が飛躍的に増大しました。寛永6年(1629年)、小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅。小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれました。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜や東北地方の年貢米などが行き交う一大航路にもなりました。運河の開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村ができ、また慶長年間には川の南側が埋め立てられて海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てがドンドン進んでいくことになります。
やがて隅田川と荒川に挟まれた現在の江東区一帯には小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が次々と進み、水運を支える重要な運河の一つとして機能しました。現在、隅田川に東側(江東区側)から注いでくる河川は、すべてそうした運河であると考えて間違いありません。その証拠に隅田川に東側(江東区側)から注いでくる河川の流れはほぼ直線になっています。いっぽうで、日本橋川や神田川のように隅田川に西側から注いでくる河川は基本的に自然の湧き水を源流とした自然の河川ですが、それでも前述のように何度も水利工事が行われたことで、流路はその都度少しずつ変化してきました。
水運により巨大都市・江戸の物流を支えた運河や水路ですが、陸上交通の発達に伴い運河はその役割を終え、さらに関東大震災や戦後の残土処理、高度成長時代の高速道路化によって埋め立てられ、しだいにその姿を消していきました。しかし、今の東京でも、よく目を凝らして探せば、かつて縦横無尽に街なかを走っていた運河の跡をたどることができます。
甲州街道の起点・日本橋に向かいます。江戸は鎌倉時代の江戸氏の支配から太田道灌、さらに後北条氏の支配を経て徳川家康が幕府を開くのですが、徳川家康が幕府を開いた直後の早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域でした。また、日本橋が架けられ、ここが江戸と全国主要都市とを結ぶ五街道の起点、すなわち交通の要所として定められてからは、現在の三越百貨店の前身である越後屋をはじめとする大店が集まり、また付近には金座や銀座が置かれるなど金融の中心でもあり、江戸を代表する場所として大いに繁栄を極めたところでした。現在でも日本橋界隈は日本銀行本店や東京証券取引所の立地する日本を代表する金融街であり、また老舗の百貨店を含む商業施設も多く、他にも問屋街や多くの製薬会社が連なる地域となっています。
日本橋の手前に東京市道路元標、さらに日本国道路元標の複製が飾られています。実際の日本国道路元標は日本橋の中心の橋の上の路面に埋め込まれているので、ゆっくり見ることはできません。なので、ここにそのレプリカ(複製)が飾られているわけです。
その東京市道路元標と日本国道路元標の複製が飾られているところから道路(中央通り)を挟んで反対側にあるのが日本橋魚河岸跡。「日本橋魚市場発祥の地」の碑が建っています。東京の魚河岸(魚市場)は現在築地にあり、今秋には豊洲の新市場へ移転することになっていますが、元々はここ日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿い一帯にありました。
日本橋といえば百貨店の三越が有名ですが、その三越の日本橋に面した建物の壁面に掲げられている三越のエンブレム(社紋)の周囲には何故か多数の魚が描かれています。その魚はこの日本橋魚河岸にちなんだものなのだそうです。
日本橋を渡ります。甲州街道の起点は他の4街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道)と同じく日本橋です。初代の橋は木製だったのですが、その後、老朽化や焼失などによりたびたび架け替えられ、現在の橋は19代目で、明治44年(1911年)に架けられました。花崗岩の石造りの美しい二連アーチ橋です。橋の中央には「日本国道路元標」が設置され、今も我が国の全ての国道の起点の役割を果たしています。
「日本国道路元標」は道路に埋め込まれているため、分かりにくいので、橋の中央部にはモニュメントが建っています。さらに橋の頭上を通る首都高速道路を走っていても分かるようにと、「日本国道路元標」の上にはこういうモニュメントも設けられています。ここが甲州街道の本当のスタートポイントです。「日本国道路元標」を真横に見えるところを通過する時、しっかりと心の中でスタートの号砲を刻ませていただきました。さぁて、甲州街道です! (中山道の時はこの日本国道路元標から中央通りを反対の北側に向けてスタートしました。)
日本橋を渡った南詰めすぐ左手(東側)にあるのが「滝の広場」です。今は「滝の広場」と呼ばれていますが、江戸時代、ここは晒しの刑場が置かれていました。極悪犯などの重犯罪人はここで通行人などにその姿を晒された後、生まれが日本橋より西の者は鈴ヶ森で、東の者は小塚原に運ばれて処刑されました。同時にここには刑場管理の非人小屋もありました。TVドラマの『大岡越前』や『遠山の金さん』で、裁判官を務める奉行の大岡越前守忠相や遠山金四郎景元が罪を犯した極悪人(主犯格)に対して「(市中引き回しの上)打ち首獄門!」と沙汰を告げるシーンがありますが、そうした処刑を宣告された極悪人が処刑される前に多くの人の目に晒された場所がここでした。
ここは五街道の起点である日本橋ですから当時も相当に人々の往来が多いところだったはずです。しかも橋の反対側には幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩・干物などを荷揚げする魚河岸がありました。相当の人が目にすることができるこの場所でこの後処刑される罪人の姿を晒すということは、江戸の治安を維持する上で大きな意味があったのだろうと推察されます。現在、「滝の広場」は屋形船のような観光船・日本橋クルーズの発着場にもなっています。
その「滝の広場」の前から横断歩道で中央通りの反対側(西側)に出ると、そこに高札場の跡があります。中山道でも各宿場には必ずと言っていいほどありましたが、高札場とは幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目を引くように高く掲げておく場所のことです。
高札場後の隣に日本橋の説明書きが立っています。その説明書きによると、現在の日本橋の上に掲げられている「日本橋」という文字を揮毫したのは第15代将軍だった徳川慶喜なのだそうです。
……(その2)に続きます。
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