2023年12月24日日曜日

令和6年 ジモト学のススメ

 公開日2024/01/03

[晴れ時々ちょっと横道]112回 令和6年 ジモト学のススメ

旧宇和島街道の法華津峠から見た法華津湾(宇和海)の風景です。遠くに藤原純友が本拠とした日振島、そしてその先には九州の南部、さらに太平洋まで見えます。私はここから見た風景が、日本で一番好きです。

皆様、新年、明けましておめでとうございます。

今年一年が皆様にとりまして素晴らしい一年になりますことを、心よりお祈り申し上げます。

 

現在、全国各地で地方からイノベーションを興そうという動きが活発になってきています。嬉しいことに愛媛県でも、松山市を中心に職種・職域・企業の垣根を超えたビジネスパーソンのコミュニティ『たてヨコ愛媛』が活発に活動を行っていたり、「波のないセトウチに波を立てる」を合言葉に瀬戸内地域の若手経営者らが一堂に会して地域経済の活性化などについて考えるイベント『BLAST SETOUCHI』が愛媛県発祥で開催されたりしています。私が会長を務めさせていただいている愛媛デジタルデータソリューション協会(EDS)でも、愛媛県中小企業家同友会様や松山市中小企業振興円卓会議様から委託を受けて開催している「松山DX勉強会」も3年目を迎え、来年度は県内他の自治体様からも開催の御依頼を受けているところです。これにとどまらず、愛媛県内各地で愛媛からイノベーションを興そうという同様の動きが幾つも出てきており、私がデジタル人材育成関連の講義で教壇に立たせていただいている松山東雲女子大学では、今年4月に、その名も「地域イノベーション専攻」という新しい学科も誕生します。これは本当に素晴らしいことだと、私は思い、「愛媛の未来は明るい!」と心から感じているところです。

そうした地域にイノベーションを興していこうという素晴らしい動きの中で、最も重要なことは、その地域の強み、その地域が潜在的に持つポテンシャルを正しく理解し、その強み・ポテンシャルをベースに、それらを最大限に活かす方法を考えていくことだ…と思っています。

経営戦略策定の基本的な手法の1つに「SWOT分析」と呼ばれるものがあります。SWOT分析とは、経営目標を達成するために意思決定を必要としている組織や個人が、事業環境変化に応じた経営資源の最適活用を図るために、自らが置かれている外部環境や内部環境を正しく分析・評価するための基本的な経営手法のことです。SWOT分析では、自らが置かれている外部環境や内部環境を強み(Strength)、弱み (Weakness)、機会 (Opportunity)、脅威 (Threat) 4つのカテゴリーに分けて分析し、事業遂行上の競合やプロジェクト計画などに関係する脅威や機会を表面化していきます。私も崖っぷちの状況に立たされていた気象情報会社の経営を立て直すために、このSWOT分析を用いました。経営立て直しのための戦略策定は、このSWOT分析だけだったと言っても過言ではありません。結果、創業以来10年連続赤字で累積損失の山。崖っぷちの経営状態だった会社のビジネスモデルを根本的に変革し、僅か3年で単年度黒字に持っていき、以降、連続して黒字経営が続いています。おかげで、膨大に蓄積していた累積損失も解消させることができ、株主様に毎年配当が出せる会社にもすることができました。

このように、経営戦略立案においては極々基本的な手法ではありますが、ちゃんとその意味を理解して使えば、そのくらい実用的で効果のある手法であると言えます。 

経営戦略策定フレーム:SWOT分析。

その私の経験から言わせていただくと、SWOT分析において一番重要なのはS、すなわち自社(自分)強み(Strength)”を正しく理解できているかどうかだと思っています。自社(自分)強み(Strength)”を正しく理解できていないと、分析を進めていく中で、どうしても単なる悲観論に陥っていく傾向になってしまいます。また、ありきたりの一般論に陥ってしまいがちで、独自性など出しようがなく、自社の今後の命運を左右するような具体的、かつ実行性(実効性)のある経営戦略を打ち出すことなど、到底できることではありません。地域イノベーションにおいても、同様のことが言えると私は思っています。愛媛県という地域が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)を正しく理解しておくことが、すべてのスタートです。この正しく理解した愛媛県が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)を用いて真剣にSWOT分析を行うことで、地域でイノベーションを興すための様々なビジネスの戦略やアイデアがいろいろと浮かんでくると、私は経験から思っています。

この愛媛県が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)の理解には、単に現在目に見えている社会的な事柄だけにとどまらず、自然環境(地形・地質を含めた地理的環境や気象・気候環境)や歴史、文化、風習といった非常に多岐に渡る視点から、もう一度愛媛県、さらにはご自分が住む自治体等を冷静に眺めて、分析する必要があります。私は高校を卒業した18歳の時に生まれ育った郷里四国の地を離れ、長く首都圏で仕事をし、埼玉県に自宅を構えてそこで暮らしてきました。そして縁あって63歳の時に郷里愛媛に戻り、現在は実家のある愛媛県松山市と自宅のある埼玉県さいたま市を毎月のように行き来する二拠点生活を送っています。

そのような私だからこそ見えてくる愛媛県の強みや潜在的ポテンシャルの高さがあります。15年間も気象情報会社の社長を務めさせていただいたこともありますが、私は自然環境を眺めるのが好きで、これまで全国、いや世界中、いろいろなところに行ってきました。しかし、愛媛に拠点を移してみて、愛媛、もっと言うと四国ほど自然環境の面で面白いと感じられるところはないなと今は思っています。四国は中央構造線をはじめ4本の主要な構造線(断層帯)が東西を横切り、その構造線に挟まれた地質帯は形成された時代や形成する岩石の成分がまるで異なっています。そこが周囲を太平洋、瀬戸内海、豊後水道、紀伊水道といったまったく異なる性格を持った海で囲まれています。まるで四国という島全体がジオパークと呼んでもいいほどの興味深いところです。このうち、中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた三波川変成帯は実は地下資源の宝庫とも言えるところで、別子銅山や佐々連鉱山、市之川鉱山をはじめ大小幾つもの鉱山が存在していました。

歴史的にも、愛媛というところは現代の私達が思っている以上に、日本国において重要なところでした。現代では忘れ去られているようなところもありますが、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、伊予国(現在の愛媛県)の国司である伊予守は、当時国内に60ヶ国余りあった律令国(令制国)の国司の中でも最上位の格式がある官位の一つで、あの平重盛や源義経といった歴史上の有名人達もこの伊予守に任命されていました。これは当時の伊予国がトップクラスの「国力」を誇る律令国だったからです。また、江戸時代、伊予国(現在の愛媛県)には親藩、譜代、外様入り乱れて計8つの藩と幕府直轄領である2つの天領が存在しました。その石高の合計は45万両近くに及び、これは岡山藩や広島藩を凌ぐほどの規模でした。おそらく江戸幕府は伊予国(愛媛県)の持つ潜在的なポテンシャルの高さを知っていて、その勢いを削ぐためにこんなに細かく分割したのではないかと推察されます。こんな都道府県、私が知る限り、ほかにはありません。

このような地元住民の皆さんでもなかなか気づかない愛媛県の魅力につきましては、これまでこのコラム『晴れ時々ちょっと横道』の場で、私からいろいろとご紹介させていただいてきました。愛媛県が持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)の高さを知るにはこれまでとは違ったアプローチで愛媛県を眺めてみる必要があろうかと思います。それでご提案するのが『ジモト学』です。「地元学」ではなく、敢えてカタカナで『ジモト学』としたのは、地元のことを考えるための学問ということに加えて、自分自身のルーツ等についても調べ直してみるための学問という意味も込めました。前述のように、自らが持つ強み(Strength)と潜在的なポテンシャル(Potential)を知ることがイノベーションを興す源泉になるという考えでいますから。

この『ジモト学』、現在私がデジタル人材育成の関連で教壇に立たせていただいている県内6つの大学に対して、今年は開講に向けてのご提案を順次していきたいと考えております。

うーーーーーん、愛媛の未来は明るいです!!

 

2023年12月6日水曜日

棚田・段々畑

 [晴れ時々ちょっと横道]第111回 棚田・段々畑


西条市「黒谷の棚田」です。(4月撮影)

近年、開発によって日本全国の地域における個性が失われていく中にあって、棚田や里山といった人々の生活や風土に深く結びついた地域特有の景観の重要性が見直されるとともに、その保護の必要性が認識されるようになっています。このような流れを受けて、平成17(2005)41日に施行された改正文化財保護法では、第2条第1項に規定されている文化財の範囲に、第5号「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のために欠くことのできないもの」という一文が加えられ、新たに“文化的景観”というものが定義されました。この規定に基づき、国(文化庁)が選定している『重要文化的景観』が現在全国に72カ所あります。そのうち、愛媛県内で国の『重要文化的景観』に選定されている場所は3箇所。宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)段畑」、北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」、そして西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」の3カ所です。この3カ所に共通しているのは段々畑/棚田。(また、北宇和郡松野町の「目黒の農山村景観」も選定に向け、審査を受けているところです。)

また、この文化庁による『重要文化的景観』とは別に、平成11(1999)に農林水産省が棚田の保全のための整備活動の推進や、農業や農村に対する理解を深めることを目的として選定した『日本の棚田百選』というものがあり、現在までに全国134地区の棚田が選定されているのですが、この『日本の棚田百選』にも愛媛県内に以下の3箇所の棚田が選定されています。国の『重要文化的景観』にも選定されている北宇和郡松野町の「奥内の棚田」に加えて、西予市城川町にある「堂の坂(どうのさこ)の棚田」と、喜多郡内子町にある「泉谷(いずみだに)の棚田」の3カ所です。

この『日本の棚田百選』の選定から20年以上が経過している昨今、棚田地域では、担い手の減少や農家の高齢化等により従来のような保全活動が難しくなり、棚田の荒廃の危機に直面しています。このため農林水産省は令和4(2022)3月に、棚田地域の振興に関する取組を積極的に評価し、棚田地域の活性化や棚田の有する多面的な機能に対する一層の理解と協力を得ることを目的、改めて優良な棚田を認定する取り組み『つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~』として、全国271地区の棚田を選定したのですが、ここにも愛媛県内から、西条市千町(せんじょう)の「千町の棚田」、東温市井内(いうち)の「井内の棚田」、同じく東温市河之内の「雨滝音田(あまたきおんだ)の棚田」、大洲市戒川の「樫谷(かしだに)棚田」、そして北宇和郡松野町の「奥内の棚田」のカ所が選ばれました。

このほかにも愛媛県内には西条市黒谷(くろだに、「くろのたに」とも)の「黒谷の棚田」や八幡浜市の「向灘(むかいなだ)の段々畑」「川上の段々畑」「真穴(まあな)の段々畑」など美しい景観の棚田や段々畑が幾つもあり、棚田と段々畑は愛媛県を代表する農村風景となっています。



【棚田とは】


東温市井内の「井内(いうち)の棚田」です。(7月撮影)

棚田(たなだ)とは、傾斜地にある稲作地、すなわち田圃(たんぼ)のことです。傾斜がきつく耕作単位が狭い状態において、水平に保たれた田圃が規則的に集積し、それらが一望の下にある場合は千枚田(せんまいだ)とも呼ばれます。日本以外でも稲作を行っている山間地域には、ほぼ棚田のような耕作地を見ることができ、中華人民共和国とフィリピンの棚田は特に有名です。中華人民共和国の雲南省にある棚田は、世界最大とも言われていて、この地域は、2013年に『紅河哈尼(こうがハニ)棚田群の文化的景観』としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。ちなみに、英語では「rice terraces」と表現されるのだそうです。棚田と同様に傾斜地を段状にした畑は段々畑(だんだんばたけ)と呼ばれます。

日本の国土面積のうち、山地が占める割合は、約3/4で、7375%くらいと言われています。このように山地が卓越する我が国においても、特に四国はさらに山がちなところなんです。国土地理院の提供している国土数値情報に基づく地方別山地割合を見ると、数値の高い順に四国80%、中国74%、中部71%、近畿64%、東北64%、九州64%、北海道49%、関東41%となっています。中でも高知県と愛媛県の両県は山地の割合が86%、83%と8割を超えているのが特徴です。

標高別面積をみると、四国は全国平均に比べ、300メートル~1,000メートルの標高の面積割合が高く、中山間地と言われるところが多いのが特徴です。関西以西の府県別平均標高をみると、1位の奈良県の570メートルに次ぎ、2位は徳島県の461メートル、3位は高知県の433メートル、4位は愛媛県の403メートルと、香川県以外の四国3県は完全な山国といえます。奈良県は海に面していない県なので平均標高が高いのも分かりますが、四国の3県はいずれも海に面していて、この平均標高ということは驚くべきことだと思います。それはすなわち、四国は平野が少なく、海からすぐに山が急な傾斜で立ち上がっているような地形であると言うことを意味しています。それは、私がこのコラム『晴れ時々ちょっと横道』の中で何度もご紹介しているように、四国を東西に日本最大の断層帯である中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)が幾つも横切っていて、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)や第2峰の剣山(1,955メートル)といった標高の高い山々が屏風のように連なる四国山地を形成しているからです。なので、四国では戸外の風景の中には必ずと言っていいほど山が入ってきます。愛媛県に美しい棚田や段々畑が多いのも、この中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)が創り出した地形が大きな要因だと思います。

 

【実は棚田は稲の成育に適していた】

日本の稲作の適地は、安定した水利を得られることに加えて、その水を流すための農業用水路の管理が容易に行える土地である…と言うことができます。土地には元々傾斜があるものなのですが、傾斜が少な過ぎる平坦な土地や排水がしづらいような土地はどうしても“湿地”となるため、安定した稲作を行うためには不適な土地でした。

稲作において水の管理は最も重要なことです。水田においてコメ()を作るのに必要となる水の量は、1(10アール)あたり2,000トン〜3,300トンといわれています。 コメ(玄米)の平年収量は、1反あたり530kgほどですから、ここから計算すると、玄米1グラムを作るのに、3.86.2kgの水を使う必要があるということが分かります。生育するためにはこれほど大量の水が必要な稲作なのですが、出穂(しゅっすい)してからは、今度は水田の水を抜くことが必要となります。この水田の水を抜くことを落水(らくすい)と言います。

稲は、通常8月上旬から下旬頃に茎の中から、さやを割ってうす緑色の穂()が出てきます。このことを出穂(しゅっすい)といいます。そして、この穂にコメ()の花が咲きます。コメの花が開花してから約20日間でコメの粒(籾:もみ)は大きくなり、35日目頃に完熟します。これでコメが完成するわけです。通常は稲が出穂してから2週間後〜25日後頃までは、湛水(たんすい、水を貯めること)・落水状態を数日間隔で繰り返す間断灌漑(かんがい)を行います。 その後、出穂25日後以降に完全に落水を行い、土と稲を乾かすことにより登熟(とうじゅく、玄米の発育・肥大)を完了させ、収穫(稲刈り)に備えます。この落水の時期の判断が、稲作において成否を分ける最大の鍵を握る事項であるとも言えるもので、その年の天候や田圃の土壌条件(湿田か乾田かなど)によって最適の時期を選びます。早く落水しすぎると、玄米の充実が悪くなり、未熟米・くず米・胴割れ米(内部に亀裂が生じた状態)などが増加します。また、水分不足により、病害虫(ウンカや穂いもち=穂首などに発病するいもち病=など)の被害も受けやすくなります。逆に落水が遅れると、籾(もみ)が熟れすぎて、コメの品質が悪くなります。また、稲の穂が倒れて稲刈りを困難にする倒伏(とうふく)の原因ともなります。田圃ごと、年ごとに最適な稲刈りの日を判断し、そこから逆算して落水を行う必要があるわけです。

このような田圃の水の管理を適切に行おうとした場合、ある程度の土地の傾斜が必要であり、傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに、むしろ不適当な土地とされていました。すなわち、近世以前の稲作適地は、比較的小規模で緩やかな沖積扇状地、小規模な谷地、あるいは小規模で扱いやすい地形が連続する隆起準平原と呼ばれる地形の上などが主力であり、いずれも河川の中上流域が中心でした。これらの土地は緩やかな高低差があり、一つ一つの田圃の間に明確な高低差が生じて、棚田を形成していました。

実際、最高級のコシヒカリの産地として有名な新潟県の魚沼地方は、越後三山一帯の越後山脈、三国山脈の麓に広がる周囲を山に囲まれた盆地で、緩やかな傾斜地になっています。もちろん、そこの水田は広い棚田になっています。日本有数の穀倉地帯として知られる山形県の庄内平野も主に最上川と赤川の堆積作用により形成された平野ではあるのですが、昔から米作りが行われていたのは、秋田県との境である鳥海山(出羽富士)をはじめ、摩耶山(まやさん)、金峯山(きんぼうざん) 、月山(がっさん)等の山に囲まれる平野北部の地域で、このあたりも山に向かって緩やかな斜面が広がるところです。

近世以降は農業土木技術が向上し、傾斜が少ない沖積平野でも、水路に水車を設けること等により灌漑や排水が出来るようになり、現在、穀倉地帯と呼ばれるような河川下流域の平野での稲作が急激に広まりました。しかし、愛媛県は前述のように地形的に急峻(きゅうしゅん)な山地がいきなり海に没するような地形で、また沖積平野も比較的狭いところが多い上に、耕作適地は古くから高度に農地化されていて、これ以上の収量は見込めないような状況でした。このため、江戸時代に干拓を含めた沖積平野の新田開発の余地が乏しくなると、地域()経済の基盤となるコメの石高を増やすため、今度は急傾斜の山岳斜面上に水田を作るという今では無謀とも思えるような取り組みが積極的に行われ、多くの棚田が作られました。その際、極限まで収量を増やすため、城郭建築で培ってきた伝統的な石垣構築の技術を活かし、棚田の畔(あぜ)や土手の部分は、急な傾斜に耐えられるように石垣で作られました。これが今も残る棚田の興りです。

第二次世界大戦後は稲作の大規模化・機械化が推し進められ、傾斜に合わせて様々な形をしていた田圃は、農業機械が導入しやすい大型の長方形に統一されて整備されていきました。棚田のうち、特に愛媛県のように急傾斜の地域ではこのような圃場整備(大規模化)や機械化は難しく、大規模化をしようとすると斜面を大きく削らなくてはならず、法面(のりめん)の土砂崩れ対策など付帯工事の費用が莫大となるため、大規模化がされなかったり、そのまま営農放棄されたりして、荒廃していくところも多く見られました。

追い討ちをかけたのが、昭和45(1970)度から実質的に開始され、平成30(2018) 度に廃止となったコメの生産調整、いわゆる「減反政策」で、この減反政策において、農林水産省は木材自由化の目処(めど)が立たないこともあり、棚田のスギ林への転換を奨励しました。しかしこの棚田に対する減反施策は失敗し、無惨に放置されたスギ林は花粉症流行の大きな原因となっていると言われています。

現代日本では非効率の代表のように思われている棚田ですが、欧米人を中心に、文化人の間では以前から稲の成育に適した棚田という手法を称賛する声がありました。実際、昭和の初期にアメリカ合衆国で開催された某経済学会で、ある地理学者が「日本の棚田はエジプトのピラミッドに並ぶ偉大なものであり、農民の労働・勤勉の結晶である」とまで絶賛したことがあったとも言われています。また、昭和60(1985)に、小説家の司馬遼太郎先生が『街道をゆく』シリーズの取材で高知県を訪れた際、梼原町の千枚田を見て、「えらいもん」「大遺産」と絶賛の言葉を連発したという逸話も残されています。

 

【段々畑とは】

八幡浜市の「向灘(むかいなだ)の段々畑」です。(7月撮影)

棚田と同様に傾斜地を段状にした畑のことを段々畑(だんだんばたけ)と呼ぶというのは前述のとおりですが、特に愛媛県で非常に多く見られる柑橘(かんきつ)畑の段々畑は、稲作を行う棚田とはまったく異なる経緯で作られたものです。

収穫時期には山全体がオレンジ色に染まり、美しい風景となる段々畑ですが、実は柑橘類の段々畑は、棚田とは異なり、自然環境を柑橘類の成育条件に合わせることを主目的に敢(あ)えて作ったものなのです。愛媛県は、年間平均気温が15℃以上で冬の最低気温が氷点下5℃以下にならず、また8から10月にかけて日照時間が多いなど、柑橘類の成長に必要な基本的な気象条件が揃(そろ)っているのですが、そのうえでより甘く商品価値の高い柑橘類を作り出すために、海に面した急斜面の畑で主に栽培が行われています。これには以下の4つの理由があるとされています。


[理由1]水はけの良い急斜面

柑橘畑の多くが、なだらかな平地ではなく、山地などの急斜面に段々に拓(ひら)かれています。その結果、雨水や地下水が流れやすく、水はけが良いため、柑橘が余分な水分を吸収せず、コクがある柑橘が育ちます。


[理由2]燦々と降り注ぐ 3つの太陽

急斜面の柑橘畑には、燦々(さんさん)と太陽の光が降り注ぎます。また、段々畑の石垣からの照り返しの光、目の前に広がる海からの照り返しの光という3つの光で美味しい柑橘が育まれます。特に南に面した急傾斜ではどの角度でも太陽の光が当たり、段々になった畑では葉と葉の重なりが少なく、どの木にもほぼ一様に太陽の光を当てることができるため、甘くて美味しい柑橘が栽培されます。加えて、石垣の石は熱が冷めにくいためカイロのように暖かさを保つ役割を担います。

 

[理由3]海からの潮風

海に面した柑橘畑では、海からの潮風によって、土がミネラル豊富な栄養分をたくさん含んでいるため、土が良い土壌を作ることで、栄養価の高い美味しい柑橘を収穫することが可能となります。一部では海水を畑にまく農家があるほど、ミネラルは美味しい柑橘に欠かせません。

 

[理由4]石灰岩の土壌

愛媛県では石灰岩が多く採掘されることから、段々畑の土留めには白い石灰岩の石積みが使われています。石灰岩からは、柑橘栽培に必要なカルシウムを補うことができ、肥料や雨で酸性になりがちな土壌を中和します。


これらは愛媛県に限らず、静岡県や和歌山県、佐賀県といった柑橘類の産地でも、ほぼどこも海に面した急傾斜の段々畑で柑橘類が栽培されています。このことは海外においても当てはまり、アメリカ合衆国で柑橘の産地とされるフロリダ州やカリフォルニア州南部も海に面した急傾斜の段々畑で柑橘類が栽培されています。

 

 

【棚田・段々畑の保護について】

このように、日本の棚田や段々畑の多くは、長い歴史を有し、国民への食料供給にとどまらず、国土の保全、良好な景観の形成、伝統文化の継承等に大きな役割を果たしてきました。現在、棚田や段々畑は、国土や美しい景観の保全、農山村部のコミュニティ維持や都市との交流、文化・教育といった多面的な価値が再評価されており、政府も令和元年(2019)816日に『棚田地域振興法』を施行するなどして営農継続を支援しています。前述の令和4(2022)3月に始まった『つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~』として、全国271地区の棚田を選定したのも、その一環です。

ということで、愛媛県内に幾つも残る棚田や段々畑のうち、特に景観が良くて、国の『重要文化的景観』に選定されている3カ所、宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」、北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」、そして西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」を訪れてみました。

 

遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑(宇和島市遊子)

宇和島市の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段々畑」(7月撮影)

宇和島市の「遊子水荷浦の段々畑」(7月撮影)

宇和島市周辺の宇和海沿岸には、延々と海面上昇や地盤沈下を繰り返して出来上がった入り江が作り出す美しいリアス海岸が続いています。ここではその複雑な地形と温暖な気候とが相まって、柑橘栽培と魚介類養殖が国内屈指の規模で営まれています。遊子水荷浦(ゆすみずがうら)はその中の宇和海に突き出た三浦半島の中ほどにある小さな集落ですが、ここには近世から続く半農半漁の営みの姿を今でも見ることができます。「耕して天に至る」とも形容される遊子水荷浦の段々畑は、急な山の斜面に石垣を積み上げて造られた階段状の畑地です。その雄大な景色は、下から見上げると、まるで天にる階段のようにも見えます。見るものを圧倒するような素晴らしい風景です。かつてはこのような段々畑が三浦半島をはじめとした宇和海沿岸の海岸線で数多く見られたのですが、現在も残っているのはこの遊子水荷浦のみになっているのだそうです。ここの段々畑も一時は面積が約2haまで落ち込んでいたそうなのですが、地元の伝統を残そうとする地元住民の方々の強い思いから平成12年度に結成された地元保存団体「段畑を守ろう会」を中心に休耕地の復旧に取り組み、国や県の支援を受けながら、現在は5ha近くまで回復しているのだそうです。現在は、地元JAで水荷浦産ジャガイモのブランド化が図られるなど、遊子水荷浦の段々畑を資源とした産官民一体の地域活性化へと広がっています。

 

奥内の棚田及び農山村景観(北宇和郡松野町)

北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」(7月撮影)

北宇和郡松野町の「奥内の棚田及び農山村景観」(7月撮影)

北宇和郡松野町は、愛媛県の西南部、高知県との県境に位置し、周囲を標高9001,200メートル級の山々に取り囲まれた山間の町です。四万十川の支流となる広見川や目黒川が流れ、河岸段丘によって平坦地が形成されています。「奥内の棚田及び農山村景観」は、その名称のとおり、主体となる構成要素は棚田です。その棚田を中心に、江戸時代から続く伝統的な土地利用の維持、継承によって良好な農山村の景観が保たれてきました。最大で4メートルを超える石垣をもつ棚田は主に谷の底に向かって展開し、農民が住む民家は谷の上の尾根の部分に、野菜等を栽培する畑は民家の周辺から山際にかけてというように現在でも生活・生業の主体となる部分は、それぞれ昔からの基本的な立地を踏襲している感じです。また、この農山村を取り巻く山林は広葉樹主体の天然林の占める割合が高く、豊富な生物環境を育む場ともなっており、かつては山林資源の利用も活発であったと推定できます。さらに、奥内では集落に溜(た)め池が存在しておらず、周囲の山林全体が棚田等での営農や生活に欠かすことのできない水の供給源となっている点も特徴として挙げられます。この奥内も素晴らしい風景です。

 

宇和海狩浜の段畑と農漁村景観(西予市明浜町)

西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」(6月撮影)

西予市の「宇和海狩浜の段畑と農漁村景観」(6月撮影)

西予市は、愛媛県南西部に位置し、西は宇和海から東は四国カルストまで東西に長く、高低差は01,400メートルまであり、多様な自然景観を有し、市全体がほぼ四国西予ジオパークに位置しています。このあたりは四国を東西に横切る御荷鉾(みかぶ)構造線と仏像構造線という2つの構造線(断層帯)に挟まれた秩父帯と呼ばれる四国で最も古い地質帯で、古生代の石炭紀(36千万年前〜約3億年前)から中生代のジュラ紀(2億年前~約15千万年前頃)にかけて形成されたものです。このため、長い年月をかけて海面上昇や地盤沈下を繰り返して出来上がった入り江が宇和海に沿って延々と作り出す美しいリアス海岸が続いています。西予市明浜町狩浜は西予市南西部に位置し、法華津(ほけつ)峠付近から大崎鼻に突き出た半島の中ほど南側にあり、地区全体が宇和海に面しています。海岸部はリアス海岸が広がり、集落の背後には、間近にまで山々が迫っています。民家は海沿いの狭い平地に密集し、耕地は山の斜面に階段状に広がり、「段畑」と呼ばれています。狩浜の段畑は、地元産出の石灰岩で築かれ、他には見られない壮観となっています。狩浜地区は江戸時代より半農半漁の暮らしが続き、現在も、漁業では真珠や魚類の養殖業とシラス漁が行われています。海には真珠養殖筏(いかだ)が浮かび、浜にはシラスを干す干場が点在しています。かつてはイワシ漁が盛んだったそうですが、今はその面影は殆(ほと)んど残っていません。段畑は江戸時代、自給用の芋、麦を栽培していたそうですが、明治以降に養蚕業が入ると桑を植え付け、石灰岩を利用した段畑の石垣化が進みました。養蚕業は第二次世界大戦中に衰退し、戦後は再び芋、麦の栽培が主体になりましたが、昭和30年代からは今度は柑橘栽培が発展し、現在では県内有数の柑橘の産地となっています。集落内には、養蚕業が盛んだった頃に建てられたと思われる養蚕・居住兼用の家屋や養蚕小屋、納屋等が今も多数残っており、伝統的な集落景観が保たれています。このように狩浜には、「農漁村」として歩んできた集落景観が良好に残され、温暖な宇和海に面した愛媛県南予地方に住む人々の伝統的な生活を理解する上で、忘れてはならない景観地であると言えますね。


どこもちょっと行きにくいところばかりではありますが、さすがに国の『重要文化的景観』に選定されている3カ所です。いつまでも眺めていたい美しい景観に癒されます。一度は訪れてみる価値は十分にあります。いつまでも残しておきたい愛媛の、そして日本の原風景ですね。