2023年10月5日木曜日

鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】②

 公開日2023/11/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第110回 鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】②


【伊予八藩紀行・新谷藩】

この新谷駅のある大洲市新谷町には、江戸時代、新谷藩の陣屋が置かれていました。新谷藩は、大洲藩の支藩で、石高は1万石。江戸時代、石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主は大名と呼ばれていたので、大洲藩の支藩であったと言っても立派な独立した藩でした。

新谷藩の陣屋跡は大洲市立新谷小学校になっています。右側に立っているのは『銀河鉄道999』のメーテルの像です。

新谷小学校です。元新谷藩の陣屋敷だったところなので、陣屋敷を模した校舎が建てられています。お洒落です。

元和9(1623)、大洲藩初代藩主の加藤貞泰(さだやす)が跡目の届け出を幕府にしないまま急死したのですが、長男の五郎八泰興(やすおき)が時の第2代将軍徳川秀忠に御目見し、相続を認められました。その際、貞泰の遺領6万石のうち5万石を泰興が継いで大洲藩の藩主とし、弟の大蔵直泰(なおやす)が元服した際に残りの1万石を分知することが条件として出されました。これがきっかけとなり寛永16(1639)まで大洲藩加藤家内では長くお家騒動が続き、結局、「内分分知(ないぶんぶんち)」ということで決着がつき、寛永19(1642)に初代藩主・加藤直泰の居宅である陣屋が新谷に完成したことで、新たに新谷藩が立藩しましたた。内分分知とは、江戸時代における武家(特に大名、旗)の分家形態の1つで、分家の創設の際に、主君から与えられた領地の石高を減らすことなく、新規に分家を興す形態のことを言います。藩内の内分分知は、本来は本藩の陪臣(部屋住みの身分)の扱いなのですが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例となりました。まぁ、この分知は第2代将軍徳川秀忠の直々の裁定によるものなので、特例ってことなのでしょう。

ただ、この大洲藩の内分分知にあたっては、長くお家騒動が続き、無理矢理数字上1万石にまとめあげようとしたところもあって、陣屋は大洲藩の城下にほど近い喜多郡新谷村に置かれたものの、その領地は喜多郡のうち3ヶ村と浮穴郡のうち8ヶ村、伊予郡のうち3ヶ村という大洲藩領内に飛び地のように散在する複雑な藩領の形になりました。このような領地分布の形態をもつ藩は全国でも極々少数のことで、このことが愛媛県民の間でも新谷藩という藩が江戸時代に存在したことすらほとんど知られていないことの大きな要因なのではないかと推察されます。

このようにしてめでたく立藩した新谷藩ですが、その後、藩領内及び藩領が異なり隣接する各村落の間で、農業用水についての利害の対立が起こり、ことに藩領が相異する村落間では激しい紛争が頻発しました。その農業用水をめぐる紛争を緩和し解決する手段として、関係する村落を同一藩領分内の村としてまとめ、新谷藩の石高が1万石のまま変わらないように両藩間で調整して交換するいわゆる村替が大洲藩との間で何度か行われ、微妙に藩領の変更が行われています。これにより、藩領の形態がさらに複雑化しています。

伊予八藩紀行(その2)で取り上げた伊予小松藩の場合と同様、石高が1万石という小藩だっただけに藩士の数も限られ、立藩時の藩士の数は僅かに31名だったようで、江戸時代中期の享保12(1727)~天明5(1785)においても総計83人だったようです。現代の中小企業並みですね。

幕末期における新谷藩の陣屋・武家屋敷図です。(出典:愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』)

大洲藩からの内分分知により独立した藩として立藩した新谷藩ですが、初代藩主・加藤直泰に嗣子がいなかったため、寛文9(1669)に大洲藩第2代藩主・加藤泰興の嫡子・加藤泰義の長男(すなわち加藤泰興の孫) 泰觚(やすかど)が直泰の養嗣子となり、天和2(1682)、直泰の死去により跡を継いで新谷藩第2代藩主となりました。これにより新谷藩は独立した藩ではあるものの、大洲藩の支藩の色合いが徐々に濃くなっていきました。

江戸時代後期になると、藩領内を流れる肱川やその支流の矢落川のたび重なる氾濫による水害や陣屋町の火災などに見まわれ、年貢収入が思うようにならないこともあって藩の財政は困窮を極め、何度も倹約令が発せられました。文化6(1809)になると財政は藩としての存続さえ危ぶまれるような危機的な状態に陥り、新谷藩は独立藩としての機能を停止し、その後5年間の期限付きで、行政・財政という藩政の両面にわたって、本家である大洲藩に全面的に執行を委ねるということまで行われました。このように新谷藩の財政は常に非常に厳しかったようで、明治初頭での実高は9,693石と、表高の1万石を割り込んでいました。小藩の藩運営の厳しさが窺い知れる数字です。

そういう厳しい財政状況の中ではあったものの(いや厳しい財政事情であったからこそ)、新谷藩は人材の育成に力を入れました。特に、第4代藩主・加藤泰広(やすひろ)は好学の人で、享保17(1732)の在府中に、江戸藩邸ではじめて藩士教育のための塾を開きました。第6代藩主・加藤泰賢(やすまさ)は、天明3(1783)に藩校を創設して「求道軒(きゅうどうけん)」と名づけました。これは大洲藩も藩校「明倫堂」にならったものだと言われています。しかし、藩財政窮乏がその極に達した文化6(1809)頃から藩校「求道軒」は自然休校となり、いったんは廃校となりました。第8代藩主・加藤泰理(やすただ)は、天保年間(1830年〜1844)に藩校「求道軒」を再興し、侍講(藩主に学問を講義する人)であった儒学者・児玉暉山(きざん)を抜擢して教授とし、藩校の経営を全面的に委託しました。児玉暉山はこの藩主の大きな期待に応えて、藩校の校則諸規定を時代に合わせて全面改定を行うなどの大改革を断行しました。こういうこともあってこの児玉暉山の門弟は多く、その中からは勤王につとめた維新の志士・香渡晋(こうどすすむ)なども輩出しています。ちなみに、香渡晋は幕末の戊辰戦争においては新谷藩大参事を務めて新政府軍の一員として活躍し、明治維新後は岩倉具視の招きにより宮内省へ出仕。岩倉具視の顧問として各界で活躍した人物で、明治憲法の制定にも貢献しました。また、大正天皇の御用掛を拝命し、御養育の大任を果たしました。また、江戸時代初期の陽明学者で近江聖人と称えられた中江藤樹(とうじゅ)はもともとは大洲藩士でしたが、寛永9(1632)、新谷藩に任地替えとなり、2年後の寛永11(1634)27歳の時に母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩しています。

新谷藩の陣屋町は、北端の陣屋から南に伸びる道路に沿って武家屋敷、続いて町人屋敷が配置されていました。武家屋敷は31軒、町人屋敷は上の町・中の町・下の町・町裏・古町などから成り、寛政8(1796)の記録によると76軒の町家があったようです。陣屋に近接する部分には、家老屋敷・練兵場・会所・紙役所などが配置され、天明3(1783)に創設された藩校「求道軒」は、武家屋敷町の西端部に置かれていました。陣屋の建築物は、ほとんど現存していませんが、現在大洲市立新谷小学校の敷地内の北隅に「麟鳳閣」と呼ばれる藩の迎賓館とそこに隣接する庭園の一部が残されています。この慶応4(1868)に建築された「麟鳳閣」は、幕末の転変著しい政情に対処するための迎賓館として、また藩政評議所として使用されました。廃藩置県後は、一時期、新谷県庁としても使用されましたが、現在はこの地に移築されて小学校の施設として利用されています。愛媛県の登録有形文化財に指定されています。なかなか歴史の重みを感じさせてくれる趣きのある建物です。

新谷小学校の敷地内の北隅に「麟鳳閣」と呼ばれる藩の迎賓館とそこに隣接する庭園の一部が残されています。

新谷の陣屋町です。

新谷藩時代を偲ばせる遺構は、この麟鳳閣のほか、陣屋町の跡には武家屋敷の跡が散見でき、陣屋の遺構や商家の町並みなどもところどころに残っています。ちなみに、新谷藩加藤家の江戸上屋敷は現在の東京都台東区の浅草寺近くにあり、その跡は台東区立金竜小学校になっています。また、江戸下屋敷は現在の東京都荒川区南千住1丁目の都電荒川線荒川一中前電停の近くにあり、その跡は住宅地になっています。

新谷藩は幕末の戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いに小藩ながらいち早く参陣。大いに活躍しました。新谷藩は大洲藩とともに明治4(1871)7月の廃藩置県により廃藩となるのですが、その際に戊辰戦争での活躍が評価され、旧藩領を管下とする新谷県が設置され、加藤家は華族に列することとなりました。さらに同年11月、第1次府県統合、いわゆる372県制の実施により新谷県は廃止され、新たな宇和島県に編入されたのですが。その後、神山県(かつて愛媛県南予地方にあった県)を経て愛媛県に編入されました。

 

【銀河鉄道999の始発駅・新谷】

そして、新谷と言えば忘れてはならない人がいらっしゃって、それが漫画家の松本零士さんです。松本零士さんは今年(2023)213日に急性心不全により85歳でお亡くなりになられたのですが、『男おいどん』や『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』など多数の素晴らしい漫画作品を世に残されました。その松本零士さんは福岡県久留米市のご出身ですが、ご両親がともに愛媛県大洲市のご出身だったことで、第二次世界大戦中はお母様のご実家のあった大洲市新谷町に疎開されておられました。新谷で暮らしたのは小学校1年生から3年生までの3年間だったそうですが、その3年間を新谷で過ごされたことがその後の漫画家人生に大きな影響を与えたようで、生前、松本零士さんは新谷のことを「こころの古里」と呼び、毎年のように新谷を訪れては地元の方々との交流を絶やさなかったそうです。松本零士さんが新谷で暮らしておられた頃は、新谷駅を通る列車は国鉄内子線しかありませんでした。なのでしょう、松本零士さんは「山の麓(ふもと)を走る旧内子線の風景が『銀河鉄道999』の作品のモデルになった」と後年語っておられたそうです。新谷ではこうした松本零士さんとのご縁を活かした町おこしに積極的に取り組んでいるのですが、数ある松本零士さんの作品の中で、取り上げているのは『銀河鉄道999』オンリー。もしかしたら、『銀河鉄道999』の始発駅は旧内子線の新谷駅だったのかもしれませんね。

『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』など多数の素晴らしい漫画作品を世に残した漫画家の松本零士さんは新谷に所縁の深い方で、新谷を「こころの古里」と呼んでいたそうです。

松本零士さんは人気漫画家になった後も新谷との繋がりを絶やさず、時々は新谷を訪れては地元の方々との交流を持っていたそうです。

陣屋町に観光客用に置かれたベンチには「銀河鉄道999 始発駅 新谷」と書かれています。新谷は銀河鉄道999オンリーです。松本零士さんにとって国鉄内子線は思い入れがある路線ということなのでしょうね。

その新谷駅をあとにして、「鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線」に戻ります。残りは昭和61(1986)に向井原駅〜伊予大洲駅間内子駅経由の予讃線の新線が完成した際に廃線となった五郎駅までのひと区間。あとちょっとです。

 

【廃線跡を歩く2

新谷駅から西へ矢落(やおち)川に沿って歩きます。矢落川は一級河川・肱川の主要な支流の一つで、伊予市双海町と大洲市の境にある壺神山(つぼがみやま:標高971メートル)を源としています。源流は海(伊予灘)からわずか直線で4kmあまりのところにあるのですが、中央構造線の断層活動が形成した高い断層崖の地形なので、南側の大洲盆地のほうへ流れ、JR予讃線の五郎駅のすぐ西側で本流である肱川と合流します。この矢落川という河川の名称ですが、数百年前、この川を挟んだ両側に小さな城があり、両方の城から矢を射かけたところ、川幅が広く矢が川の中央で衝突し、ほとんどの矢が川の中に落ちたことから、矢落川と呼ぶようになったと伝えられています。また、矢落川の上流、田処地区から新谷地区の矢落橋に至るまでの約12kmの区間はゲンジボタルの生息地として有名です。この区間は水流も穏やかで、水質も良好なので、ホタルの幼虫の餌となるカワニナ(巻貝の一種)が生息するのに適しており、毎年多くのホタルが発生しています。

新谷を流れる一級河川・肱川の支流の矢落川です。川幅が広く、昔、川を挟んで対峙した軍勢が射かけた矢が、ことごとく川に落ちたことから矢落川と呼ばれるようになったのだそうです。

このあたりの現内子線(予讃線新線)は旧内子線の線路をそのまま使っています。新谷駅から約2km歩いた地点から現内子線(予讃線新線)は高架の線路に変わります。この高架になった区間が、新谷駅~伊予大洲駅間の正味の新線区間です。その現内子線(予讃線新線)の高架線区間が始まる徳の森踏切を過ぎたあたりで、旧内子線は右へ(北方向へ)大きく弧を描くように現内子線の高架線からそれていきます。この緩く右カーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

新谷駅から約2km歩いた地点から現内子線(予讃線新線)は高架の線路に変わります。徳の森踏切を過ぎたあたりから旧内子線は大きく弧を描くように現内子線の高架線から右へ(北方向へ)それていきます。この緩く右カーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

分岐地点から約500メートル行った先で大洲市肱北浄化センターに突き当たります。この先、旧内子線の廃線跡はこの大洲市肱北浄化センターの敷地内を通っており、部外者は歩くことができません。仕方なく広大な大洲市肱北浄化センターの敷地を大きく迂回します。大洲盆地のシンボルとも言える「冨士山(とみすやま)」が山裾に至るまでその姿を見せています。大洲盆地の中央に聳(そび)える「冨士山」は、その姿が富士山に似ていることから名付けられた標高320メートルの山です。

分岐地点から約500メートル行った先で大洲市肱北浄化センターに突き当たります。

大洲盆地のシンボルの「冨士山(とみすやま)」です。

【五郎駅】

すぐに予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の線路の下を潜り、予讃線の線路と並行する愛媛県道24号大洲長浜線をほんの少し歩きます。矢落川を渡る鉄橋の手前で旧内子線の線路は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)に合流していました。矢落川を橋で渡った先が旧内子線の起点駅だった五郎駅です。

五郎駅です。今は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。

1時間~2時間おきの運転なのですが、タイミングよく松山行きの上り普通列車(キハ54形ディーゼルカー)がやって来ました。1両編成のワンマン運転です。

現在は予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)にあるメチャメチャ鄙びた田舎の無人駅ですが、かつてはこの駅が予讃線と内子線の分岐駅で、かつては木造の駅舎があり、駅員も配置されていました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。また現在は11線の単式ホームだけですが、内子線の分岐駅だった頃にはさらに島式ホーム12線があり、あわせて23線の立派な駅でした。今でも使われなくなった島式ホームは残っていて、構内は意外なほど広いです。その使われなくなった島式ホームと広い構内にかつての分岐駅だった頃の栄光を感じます。

ちなみに、「五郎」という人名のような珍しい駅名は、このあたりの昔の地名によるものだそうです。「ごろう」は礫(石ころ)のこと。ゴロゴロした石ころの多い土地という意味なのでしょう。この五郎駅の付近で肱川に内子方面から流れてきた矢落川が合流します。その関係で、石ころがゴロゴロと転がっていたのでしょう。歌手の野口五郎さんが全盛だった時代は、この駅の入場券が飛ぶように売れたのだそうです。

 

【肱川】

左手前から流れてくる一級河川の肱川が、手前から流れてくる支流の矢落川と合流するところです。

五郎駅のすぐ近くを一級河川の肱川が流れています。肱川の源は西予市の鳥坂峠(標高460メートル)で、途中、四国山地の1,000メートルを越える標高の高い地点を源流とする小田川、矢落川、船戸川など474 本もの数多くの支流と合流しながら四国山地の中を蛇行しつつ横断し、大洲盆地を貫流して、伊予灘に注ぐ愛媛県随一の大河川です。肱川は、その名が示すように中流部において(ひじ)”のように大きく弧を描くように曲がっており、本流の流路延長距離が約103kmであるのに対して、源流から河口までの直線距離はわずか18kmほどしかありません。また、肱川流域の大部分は、約200万年間に隆起して形成された四国山地ですが、肱川はこの四国山地が形成される以前より存在したと考えられており、山地の隆起とともに下方浸食が進んだために、流域の大部分を山地が占めるわりには河川勾配が緩く、野村盆地~大洲盆地間、大洲盆地~伊予灘(瀬戸内海)間の区間には狭隘なV字谷が形成されている全国的にも珍しい河川です。また、大洲盆地には日本最大の断層帯である中央構造線と並行して東西に伸びる御荷鉾構造線(みかぶこうぞうせん)と呼ばれる断層帯が走っており、この中央構造線と御荷鉾構造線というほぼ平行に走る2つの断層帯によって区切られ、峡谷のような形状をなしている地溝帯と呼ばれる地形になっています。大洲盆地はその地溝帯によって形成された地形で、肱川によって運搬されてきた大量の土砂が堆積し、特に平坦な沖積地を形成しています。

このような地形であるため、肱川流域の大洲盆地は、昔から水害がたびたび発生してきました。洪水を防ぐような堤防がなかった江戸時代の大洲藩主加藤家の記録によると、1688年から1860年までの173年間のうち62年間は出水が記録されており、約3年に1回の割合で洪水が発生し、大洲盆地や肱川流域の低地はたびたび水害に見舞われてきました。

ダムや堤防が整備された現代でも根本的にそれは変わらず、時として大きな河川氾濫を起こしています。記憶に新しいのが平成30(2018)7月に発生した「平成 30 7月豪雨(平成30年西日本豪雨)」です。この時、肱川流域では梅雨前線や台風7号から変わった温帯低気圧の影響で74 22 時頃 から断続的に雨が降り続きました。特に73時から7時の間は時間雨量 20 mm を超える降雨が続き、同日7時には、野村ダム上流域の平均雨量が1時間当たり最大で 53 mm を記録しました。このため、48 時間の降雨量は、野村ダム上流域で 421 mm、鹿野川ダム上流域で 380 mm を記録し、さらには4 22 時から7 14 時までの肱川橋上流域の総雨量は 367.4 mmに達するという記録的な豪雨になりました。こうした記録的な豪雨により肱川本流の水位が上昇し、鹿野川ダム完成後には道路冠水の経験がなかった言われた肱川町鹿野川地区が浸水したほか、上流域から下流域まで広範囲に渡って浸水の被害が発生し、浸水面積は約 1,372ha に 達しました。また、断続的に降り続いた雨のため多数の土砂災害も発生しました。 こうした浸水被害及び土砂災害により、大洲市では 4名の尊い人命が失われました。 また、電気、水道、電話などのライフラインも断絶し、道路、鉄道も通行止めや運休が発生するなど、浸水被害・土砂災害による直接的な被害だけにとどまらず、市内全域 に大きな影響が発生しました。

また、この極めて特異な地形が生み出す世界的にも珍しい気象現象があり、それが「肱川あらし」です。「肱川あらし」とは、10月頃から翌年の3月頃にかけての風のないよく晴れた日の朝、上流の大洲盆地で発生した濃い霧を伴った冷気が、日の出とともに肱川沿いを一気に河口(大洲市長浜)に向かって流れ出し、局地的に強い風(局地風)が吹く珍しい自然現象が起こることがあります。この「肱川あらし」は大洲盆地と伊予灘で大きな気温差が生ずることによって吹く風で、地形による収束の効果が加わった南よりの(すなわち川筋に沿った)強風です。早朝から昼頃にかけて発生し、霧を伴うことが多くあります。 その強風はゴォーゴォーと唸りをたてて可動橋として知られる長浜大橋を吹き抜け、時には霧は扇形に沖合い数kmにまで達することがあります。風速は長浜大橋付近において10メートル/秒以上が観測されることがあります。濃い霧が町をのみ込み、唸りをたてながら海へと扇状に広がるこの「肱川あらし」の様子は、世界中探しても他にほとんど例を見ないほど幻想的な光景で、長浜の冬の風物詩となっています。

ここ五郎は大洲盆地の北端にあたります。五郎から河口の長浜までの区間は、高低差が極めて小さく、両岸に山脚が迫り渓谷的な地形になっています。これが「肱川あらし」発生の大きな要因になっています。また、肱川の河口部は比較的水深が深い上に、前述のように河川勾配も緩いため、特に河川流量の少ない時期には河口から10km以上も遡上したこのあたりまで海水の流入が起こり、中流域にあたるこの五郎の付近でもボラなど海に棲息する魚類が観察されるのだそうです。この海水の大洲盆地あたりまでの流入も、「肱川あらし」の発生に大きく関係しています。

 

【予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)

五郎駅からは予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の各駅停車で松山に帰りました。愛ある伊予灘線のその名のとおり穏やかな伊予灘(瀬戸内海)を車窓に見ながら海岸線を走る予讃線(旧線)もなかなか魅力的な路線です。このあたりの海岸線は日本最大の断層帯である中央構造線によって形成されているため地図で見ると伊予市付近から佐田岬半島の先端の佐田岬まで100km近くほぼ直線に伸びています。この中央構造線の断層活動が形成した断層崖(だんそうがい)が海から急に立ち上がっているため、予讃線(旧線:愛ある伊予灘線)の線路は海沿いのわずかに残る平地になった部分や、断層崖を削ったところに敷設されています。そのため、車窓は松山に向かう上り列車の場合、左側がすぐ海で、右側が断層崖という特異なものが続き、運転席のすぐ後ろに立って前方の景色を眺めていると超楽しいです。下灘駅や串駅など海に近い駅としてポスターや映画のロケなどにもたびたび使われることで全国的に有名になった駅もあり、鉄道マニアのみならず駅や鉄道風景を目当てに多くの観光客が訪れる観光スポットとなっています。平成26(2014)からは四国初の本格的な観光列車『伊予灘ものがたり』が松山駅〜伊予大洲駅・八幡浜駅間がこの「愛ある伊予灘線」経由で運行され、人気を博しています。現在は1両編成(単行)か短い2両編成のディーゼルカーがのどかにワンマン運転の各駅停車で運行されているだけの路線ですが、昭和61(1986)に向井原駅〜伊予大洲駅間内子駅経由の新線が完成するまでは、この伊予灘に面した伊予長浜駅経由の海線(愛ある伊予灘線)を特急列車や急行列車がバンバン運行され、猛スピードで駆け抜けていました。

海が近いことで超有名な下灘駅に停車です。今日も大勢の観光客が訪れています。驚くことにそのほとんどが中国人。いったいどこで下灘駅のことを知っているのでしょうね。

この日はなんやかんや途中寄り道したこともあって、約30km、歩数にして約4万歩ほど歩きました。さすがに足や膝の筋肉を中心に肉体的には疲れましたが、気持ちの上では十分にリフレッシュも行えました。さぁて、次はどこに行こう?


2023年10月4日水曜日

鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】①

 公開日2023/11/01

 

[晴れ時々ちょっと横道]第110 鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】


今回は「鉄分補給シリーズ」と「伊予八藩紀行」という2つの紀行文のコラボ企画です。

現在のJR内子駅前には旧国鉄内子線時代に走っていた小型の蒸気機関車C12231号機が静態保存で展示されています。

【廃線鉄とは】

最近は鉄道マニアのことを鉄道オタク『鉄ヲタ』と呼ぶようですが、『鉄ヲタ』と一言で言っても鉄道に対する愛情の深さや楽しみ方は人により多種多様です。したがって、鉄道マニアには色々な種類(流派)が存在します。主な流派だけを並べてみても、

① 「車両鉄」車輌の分類、パンタグラフや連結器などの車輌装置、内燃機関、内装、外装、編成など車輌に関する研究を楽しむ鉄ヲタ

② 「撮り鉄」鉄道の写真を撮ることを楽しむ鉄ヲタ

③ 「音鉄・録り鉄」列車の走行音はもちろんのこと駅に流れる発車メロディや案内アナウンスなど鉄道に関する音を録音して楽しむ鉄ヲタ

④ 「乗り鉄」鉄道の車輌に実際に乗ることを楽しんだり、鉄道路線を乗りつぶすのがメインの鉄ヲタ

⑤ 「時刻表鉄」時刻表を読み物として楽しみ、列車の運行ダイヤを分析・研究することを楽しむ鉄ヲタ

⑥ 「模型鉄」鉄道模型を作ったり、走らせることを楽しむ鉄ヲタ

⑦ 「収集鉄」切符や不要になった備品や装置、鉄道に関するグッズの収集を楽しむ鉄ヲタ

⑧ 「駅弁鉄」駅弁を食べたり、包装紙を集めたりすることを楽しむ鉄ヲタ等々、様々です。たいていは1つの流派でとどまらず、複数の流派をかけ持つ鉄ヲタがほとんどで、趣味のスタイルは人それぞれっていう感じです。

なかには、鉄道が好きすぎて関連会社でアルバイトする⑨「アルバイト鉄」や、鉄道を何よりも愛し鉄道会社に入社した⑩「プロ鉄」という筋金入りの人達もいらっしゃるようです。私は、鉄道の車輌に実際に乗ることを楽しむ「乗り鉄」が基本のオールラウンダーの『鉄ヲタ』といったところでしょうか。しかも、趣味の守備範囲が鉄道だけに限らず、バスやフェリー、飛行機といった公共交通機関全般に拡がっているので、『公共交通機関マニア』と言ったほうがいいかもしれません。

そういう中で、最近静かに勢力を伸ばしているのが、廃線になった鉄道路線を訪れることを楽しむ『廃線鉄』です。今、鉄道の廃線跡を巡る小さな旅が静かなブームになっています。この「廃線跡探訪」という特殊な鉄道趣味は、1990年代半ばに紀行作家の宮脇俊三さんが『失われた鉄道・廃線跡探訪』を出版されたことをきっかけとして最初のブームが巻き起こりました。それまで鉄道マニアですらほとんど興味を示さなかった廃線跡が、なぜ世間でクローズアップされるようになったのか? それには赤字国鉄ローカル線の廃止があります。昭和58(1983)の国鉄白糠線の廃止を皮切り赤字国鉄ローカル線や地方私鉄の廃止が相次ぎました。そうした廃線となった鉄道路線の痕跡が、最初のブームを巻き起こした平成年代の初め頃には、各地で廃墟のように残っていました。そうした背景の中で出版された宮脇俊三さんの『失われた鉄道・廃線跡探訪』はたちまちベストセラーとなり、シリーズ化もされました。また、宮脇俊三さん以外の方からも「廃線跡探訪」に関する本が何冊も出版され、それにより『廃線鉄』が鉄道マニアの間で市民権を得たようなところがあります。私も宮脇俊三さんの『失われた鉄道・廃線跡探訪』シリーズを何冊か持っていました。

その最初の廃線跡探訪ブームから30年近い年月が経ち、廃線跡の様子も大きく変わってきました。赤錆びたレールはほとんどが撤去され、駅舎もほとんどが取り壊されてしまっています。朽ち果てる寸前の鉄橋や危険なトンネルなどは通行禁止となり、時の過ぎゆくままにその存在を残しているに過ぎなくなってしまっています。廃線跡の多くは道路に吸収、転換され、土に戻り、鉄道の面影を感じ取ることはほとんどできなくなっています。しかし、廃線跡のところどころには線路跡が遊歩道やサイクリングロードとして整備され、駅の跡が鉄道資料館や休憩所などに生まれ変わったところもあります。現在の廃線跡探訪マニア(廃線鉄)は、そういうところを訪れることで、懐かしい鉄道を実感し、想像の世界を楽しんでいる感じで、かつての雑草が生い茂る廃線跡を掻き分けて鉄道が走っていた頃の痕跡を探すワイルドな感じから、随分と知的でオシャレな趣味に変貌してきた感じさえ受けます。

前々回「鉄分補給シリーズ(その10)」で住友別子鉱山鉄道下部鉄道線と上部鉄道線の廃線跡を訪れ、私も廃線跡を探訪する面白さに目覚めたようなところがありますので、(その11)ではここを訪れてみました。旧国鉄(日本国有鉄道)の内子線です。そして、今回は私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』のもう1つのシリーズ「伊予八藩紀行」の【新谷藩】編とのコラボ企画になっています。


【国鉄内子線の歴史】

現在の内子線は、大洲市の新谷(にいや)駅から喜多郡内子町の内子駅に至る区間のJR四国の鉄道路線で、予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間の短絡ルートの一部に組み込まれ、特急列車が行き交う幹線路線となっていますが、今回取り上げるのは、かつて予讃線(現在、「愛ある伊予灘線」と呼ばれているほうの海線)の五郎駅から分岐して新谷駅経由で内子駅に至る盲腸線であった旧日本国有鉄道(国鉄)の内子線です。

この旧国鉄の内子線の路線距離は約10.3km。途中、五十崎駅、喜多山駅、新谷駅の3駅があり、1両編成のディーゼルカーがのぉ〜んびりとした速度で走る、鄙びたローカル路線でした。私の手元にある交通公社時刻表復刻版昭和39(1964)10月号によると、内子駅〜五郎駅間は110往復、所要時間は23分でした。

内子線の開業は大正9(1920)のことです。開業したのは私鉄の愛媛鉄道で、当初は軌間762mmの軽便鉄道でした。内子線にあたる路線は、愛媛鉄道の前身である西予電気軌道により明治43(1910)に計画されたものです。この時の計画では起点は伊予鉄道の郡中駅で、犬寄峠を越えた後、中山、内子、大洲等を経て八幡浜に至る予定でした。西予電気軌道は西予軽便鉄道を経て大正元年(1912)に愛媛鉄道に社名を変更。大正5(1916)に計画も難所である犬寄峠を避けて工事が安易な伊予灘沿いに変更し、大正7(1918)に長浜町駅(現在の伊予長浜駅)〜大洲駅間が開業。内子方面への路線は支線として建設され、大正9(1920)に若宮連絡所〜内子駅間が開業しました。その後、国有化され、現在のような1,067mmの軌間に改軌されたのは昭和10(1935)のことです。この愛媛鉄道は大正7(1918)には長浜駅〜大洲駅間も開通させており、明らかに内陸部の大洲・内子と港のある長浜を結ぶことを目的とした鉄道路線でした。

ちなみに、愛媛県における鉄道の歴史は古く、明治21(1888)に三津〜松山(現松山市駅)間に開通した伊予鉄道が、全国で3番目の私鉄(四国で最初の鉄道。現存する私鉄では南海電鉄に次いで2番目に古い私鉄)として開業したのが最初です。東海道本線の東京〜神戸間が全通する前の年だということで、いかに早く愛媛県に鉄道が敷設されていたのかが窺えると思います。その後も、明治26(1893)には別子銅山の鉱石や資材を輸送することを目的として住友別子鉱山鉄道 下部鉄道線、上部鉄道線が開業。続いて、道後鉄道(現在の伊予鉄道の市内線)、南予鉄道(現在の伊予鉄道郡中線)、松山電気軌道(伊予鉄道城南線・本町線の一部として現存)、宇和島鉄道(現在のJR予讃線の宇和島〜吉野生間)、そしてこの愛媛鉄道と、合計7つの鉄道事業者(私鉄)が大正時代の末までに開業していました。

現在のJR予讃線は伊予鉄道が開通した翌年の明治22(1889)に私鉄の讃岐鉄道により丸亀駅〜多度津駅〜琴平駅間が開業したのを皮切りに、明治30(1897)に高松駅〜丸亀駅間が開業。山陽鉄道による買収を経て、明治39(1906)に国有化されました。その後、西に向かって線路を延ばし、大正5(1916)に観音寺駅〜川之江駅間が開業し、愛媛県内にまで線路が延びてきました。伊予北条駅〜松山駅間が開業して、松山市まで線路が延びてきたのは昭和2(1927)のこと。愛媛鉄道を買収して伊予大洲駅まで延びたのが昭和10(1935)のことで、宇和島鉄道を買収し、宇和島まで線路が延びて、現在の予讃線が予算本線として全通したのは、なんと第二次世界大戦終戦間際の昭和20(1945)6月のことです。現在は買収や廃止が進み、愛媛県内で営業を続けている鉄道事業者はJR四国と伊予鉄道の2社だけですが、こういう時代背景を考えると、大正時代に愛媛県内に7つの鉄道事業者が営業していたということは特筆すべきことで、それだけ当時の愛媛県人が先取の気運に満ちて、西洋の新しい技術をどこよりも早く取り入れようとしていたことが窺えます。

五郎駅と内子駅の間に今から100年以上前の大正9(1920)に鉄道を敷設したということは、当時その区間に人や物の大きな流れがあったということを意味します。内子線(当時の愛媛鉄道)の場合は、それは内子で産出される高品質な木蝋(白蠟)と和紙、それと木材でした。内子の木蝋(白蠟)は、明治時代、絹糸と並ぶ日本の代表的な外貨獲得商品で、日本の近代化を支えた極めて重要な産品でした。なので、それらを内子から長浜港まで運び、そこから瀬戸内海を渡って神戸港へ。そして、神戸港から海外へというルートが日本の極めて重要な貿易路だったというわけです。内子が木蝋(白蠟)と和紙の取り引きで大変に栄えたことの証拠が、この内子線だったように思えます。ただ大正期以降は安価なパラフィン蠟や電気の普及により木蝋の需要が激減し、内子では大正13(1924)を最後に全ての製蠟業者が廃業し、製蠟業は終焉を迎えました。なので、大正9(1920)に開通した内子線は、本来の目的を十分に果たすこともなく、ただの鄙びたローカル線として、長く地域住民の皆さんの通勤通学の足としてだけ使われてきました。現在は前述のようにJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線になって、再び開業した意義をある程度取り返しているようにも思えます。

旧国鉄内子線の路線図です。赤色の破線の部分が廃線跡です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

JR内子駅】

JR内子駅です。昭和61(1986)に予讃線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間が開通し、現在はJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線の中間駅になっていますが、かつて予讃線が伊予灘の海岸線を走っていた頃は、予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸のような路線であった内子線の終着駅でした。現在でも、正式にはこの内子駅を境にして伊予市方面が予讃線、伊予大洲方面が内子線と分かれているのですが、運転系統上は一体化されており、列車はすべて相互に直通するため、運用上は途中駅同様の扱いとなっています。昭和61(1986)33日、予讃本線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間の開業により内子線が短絡ルートに組み込まれた際に、新谷駅に交換設備が設けられ、五十崎、内子の両駅は移転、五郎駅〜新谷駅間は廃止になりました。予讃線の短絡ルートに組み込まれた現在の内子駅は高架の駅になっていますが、駅舎は往時を偲ばせるような建物になっています。

現在の内子駅です。昭和61(1986)33日の予讃線新線開通時に開業した駅ですが、駅舎は旧国鉄内子駅当時を偲ばせるような建物になっています。

現在のJR内子駅前には旧国鉄内子線時代に走っていた小型の蒸気機関車C12231号機が静態保存で展示されています。このC12231号蒸気機関車は昭和14(1939)に日本車輌の名古屋工場で製造され、旧国鉄仙台局管内や会津若松区、福島区、小牛田区など主に東北地方で活躍した後、昭和44(1969)に四国の宇和島地区に転属後、旧国鉄内子線でおよそ1年間活躍しました。昭和45(1970)5月に廃車となり、その後地元の小学校に保存されていたのですが、新ルートとなった予讃線の内子駅前に平成9(1997)に移設され、静態保存されています。また、内子駅前には旧国鉄内子線時代に使われていた駅名標が展示されています。「うちこ 〜UCHIKO〜」と書かれた駅名の下には小さく隣の駅の駅名が書かれているのですが、そこには「いかざき 〜IKAZAKI〜」という表示のみ。それが内子駅が終着駅だったことを物語っています。この内子駅の隣駅の「五十崎(いかざき)駅」、この駅は難読駅としてだけではなく、回文駅としても有名です。「いかざき」とひらがな表示では回文とはなっておりませんが、アルファベット表記するとIKAZAKI」、前から読んでも、後ろから読んでも 「IKAZAKI 」です()

現内子駅前には旧国鉄内子線時代に使われていた駅名標が展示されています。終着駅らしく、隣の駅名表示は「いかざき IKAZAKI」だけです。

内子駅前の交差点を南北に走る道路は内子線の旧線路跡地を再整備したもので、北側に向かう道路は愛媛県道54号串内子線で、この先に旧国鉄内子線時代の内子駅がありました。南側に向かう道路は愛媛県道56号内子河辺野村線で、この先で国道56号と合流します。

 

【国鉄旧内子駅跡】

国鉄旧内子駅のあとは内子自治センターや内子文化創造センターなどとして再整備されています。

駅の跡を示すものは道路の脇に立つ小さな「国鉄旧内子駅跡」の石碑だけです。

旧国鉄内子線時代の内子駅の跡は、現在の高架になった内子駅からその愛媛県道54号串内子線を北東方向に500メートルほど行った先の、国の重要文化財に指定されている内子座をはじめ内子町の中心部にほど近いところにあります。

愛媛県喜多郡内子町は県都松山市から南西に約40km。一級河川・肱川の支流である小田川に沿った盆地にある人口15千人ほどの小さな町です。古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町です。江戸時代から明治時代にかけては和紙と木蠟の生産で大いに栄え、特に木蠟は品質の高さで海外でも高く評価されるほど名を馳せ、最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蠟生産は急激に衰退していったのですが、当時の繁栄ぶりを伺わせる漆喰塗りの重厚な商家が数多く建ち並ぶ町並みが、今でも八日市・護国地区に残っています。この歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在でも地元の人々の努力により保存されています。

そういうこともあって、JR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルートの高架線路はその伝統的建造物群の景観を汚すことのないよう配慮したのか、町の中心部から離れたところを通っていて、内子駅も町の中心部からはかなり離れたところに移転されています。旧内子駅の跡地は、現在は内子自治センターや内子文化創造センターなどとして再整備されていて、駅の跡を示すものは道路の脇に立つ小さな「国鉄旧内子駅跡」の石碑だけです。旧内子線は木材の輸送に使われていたので、かつて、この旧内子駅の周辺には材木屋が幾つも軒を並べて建っていたのだそうです。


【内子町中心部】

前述のように、旧内子駅は、国の重要文化財に指定されている内子座をはじめ内子町の中心部にほど近いところにあります。せっかくなので、その内子町中心部を訪ねてみました。

まず最初は旧内子駅の近くにある内子座です。内子座は、大正5(1916)に、大正天皇の即位を祝い、地元の商家の旦那衆が建てた劇場です。木造2階建て瓦葺き入母屋造りで、回り舞台や花道、升席等が整えられました。かつてこの内子が大いに栄えた証しのような建物です。老朽化で取り壊されるところを町並み保存運動に連動して、地元の人達の手で昭和60(1985)に開業当時の姿に修理復元され、劇場として再出発を果たしました。現在でも歌舞伎をはじめ、各種演芸で使われています。平成27(2015)に国の重要文化財に指定されました。

国の重要文化財に指定されている内子座です。

続いて国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されでいる八日市・護国地区です。私は旧街道歩きを趣味の1つとしていて、これまで中山道や甲州街道、日光街道などを歩いてきましたが、これほど歴史的情緒溢れる町並みはほとんど見たことがありません。強いて挙げれば中山道の奈良井宿や妻籠宿ですが、真っ白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ美しさという点では、この内子の八日市・護国地区の町並みが一番です。これは、和紙や木蠟といった非常に燃えやすい商材を扱う商家が多かったことで、各家が漆喰壁や卯建(うだつ)といった防火設備が当初から整っていたことと、田舎だったために第二次世界大戦中に空襲の被害を受けていないことが挙げられます。

国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されでいる八日市・護国地区の町並みです。 

八日市・護国地区には魅力的な建造物が幾つも並んでいるのですが、その中でも一番は国の重要文化財に指定されている上芳我邸です。上芳我邸は、江戸時代から明治時代にかけて木蠟生産で大いに栄えた豪商です。内子の木蠟生産の基礎を築き、その発展の中心となった芳我(はが)家の分家で、文久元年(1861)にこの地に出店を構えました。本家を本芳我家と呼ぶのに対して、上芳我家と通称されています。主屋は内子の木蠟生産が最盛期であった明治27(1894)に上棟された建物で、往時の豪商の暮らしぶりを窺うことができます。邸内には釜場や出店倉、物置などの木蠟生産施設も一体で往時のままで残されており、居住施設と木蠟生産施設合わせて10棟がまるまる国の重要文化財に指定されています。

八日市・護国地区を代表する建物と言えば、国の重要文化財に指定されている上芳我邸ですね。 

この八日市・護国地区の歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されているだけでなく、昭和61年には「八日市道路」として「日本の道100選」にも選定されています。内子は古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町で、宿場の役割も果たしてきました。その証しが残っています。八日市・護国地区の趣きのある町並みの端には、道路が鈎形(クランク状)に曲げられた「枡形」があります。これは宿場町で多く見られる構造です。

八日市・護国地区の趣きのある町並みの端は、道路が鈎形(クランク状)に曲げられた「枡形」になっています。内子は四国遍路の通過地として栄えた町で、宿場の役割も果たしてきました。

【旧五十崎駅】

本当は八日市・護国地区の町並みをゆっくりと観て回りたいところなのですが、この日は先を急ぐので、このあたりで断念。国鉄旧内子駅をスタートポイントにして、国鉄内子線の廃線跡を歩くことにします。内子町の歴史的情緒溢れる町並みに関しては、[晴れ時々ちょっと横道]第67回:伊予八藩紀行【大洲藩】(その3)に書かせていただいておりますので、そちらをお読みください。

愛媛県道54号串内子線のもと来た道を戻り、内子駅前交差点から愛媛県道56号内子河辺野村線に入ります。緩やかな左カーブが、この道路がかつて内子線の線路であったことを偲ばせます。鉄道の場合、急カーブでは曲がれないため、こんな感じの緩やかなカーブになります。日本の鉄道技術基準では、営業線の最小曲線半径の基準は半径400メートル、特例で半径160メートル(ちなみに、路面電車の場合は交差点で右左折する必要があるため、最小曲線半径の基準は半径11メートルです)。最急勾配は新幹線を除く普通鉄道の場合、機関車牽引列車がある区間は25‰(パーミル)、機関車牽引列車がない区間は35‰と決められています。旧内子線は蒸気機関車牽引列車が走っていたので最急勾配は25‰でした。この25‰とは1km進んで25メートル登る勾配のことで、角度に換算すると約1.4度で、そんなにキツい勾配というわけではありません。なので、この緩いカーブと緩い勾配が廃線跡を見極めるポイントになります。道路の勾配については、全国一律に最大120‰と規定されています(100‰を超えると歩きでも相当キツいです)。この基準の違いから、鉄道の廃線跡を利用した道路は、歩いていても勾配をほとんど感じません。高架となった現在の内子線(予讃線新線)はこの先で五十崎トンネルに入ります。

現内子駅の前を西に進みます。右側の高架になった線路が現在の内子線(予讃線新線)。左に緩くカーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

内子駅前交差点から南へ約1km、愛媛県道56号内子河辺野村線は松山自動車道(手前)と国道56号線()の高架下を通るのですが、かつてこの付近に旧五十崎(いかざき)駅がありました。その痕跡は松山自動車道建設の際に内子五十崎IC関連の道路整備において大きく掘り下げられたようで、跡形もなく失われています。ここに駅舎があったことを示すものも皆無で、鉄ヲタとしてはちょっと寂しい光景です。五十崎駅は大正9(1920)に愛媛鉄道の駅として開業しました。昭和61(1986)の予讃線の新線開業とともに、約1.6km西の現五十崎駅に移転しました。

このあたりに旧五十崎駅がありました。その痕跡は松山自動車道建設の際に内子五十崎IC関連の道路整備において大きく掘り下げられたようで、跡形もなく失われています。

五十崎は現在は平成17(2005)に行われた平成の大合併により喜多郡内子町の一部になっていますが、かつては喜多郡五十崎町という独立した自治体で、まわりを緑の山々に囲まれた人口6,000人弱の典型的な中山間地の町です。その中心地は旧五十崎駅の南側の小田川沿いにあります。五十崎は清流小田川と大凧合戦の里として知られ、近年はパラグライダーのフライト基地としても有名になりつつあります。パラグライダーのフライト基地は町の西にある神南山にあり、南側に大登山が横たわっていることから上昇気流が発生しやすく、地理的にも自然条件的にも西日本最高のフライト基地の1つであると言われています。

 

【廃線跡を歩く1

松山自動車道と国道56号線の高架の下を潜り、右に進みます。内子線の線路は、ここから国道56号線のすぐ南側を道路に沿うように延びていました。すぐに国道脇から山の中へと入っていくと、平坦な場所に出ました。線路は撤去されているようですが、この感じは明らかに線路敷ですね。ちょっと興奮したのですが、この先で雑草が腰の高さまで生い茂っていて、この線路敷を歩くのは断念しました。国道56号線に戻って、歩道を大洲方面に歩きます。雑草や木々が生い茂っていますが、旧内子線の築堤の跡らしきものが見えます。

 

旧内子線の廃線跡です。この先で雑草が腰の高さまで生い茂っていて、この線路敷を歩くのは断念しました。

「峠たこ焼き」の手前に下にくだる道があり、下った先に旧内子線の廃線跡が現れました。こちらは線路もしっかり残っています。37年という時を越え、残されていた廃止路線の鉄路。感動です。前述のように、内子線は愛媛鉄道という軽便鉄道(軌間762mm軌間)が前身で、大正9(1920)に開業し、昭和8(1933)に国有化されました。国鉄在来線の標準である1,067mmの軌間に改軌されたのは昭和10(1935)のことです。なので、この線路は90年近く前に敷設された線路ということができます。枕木もしっかり残っています。その廃線跡を歩きます。地元の方が整備をなさっているのでしょう、とても歩きやすいです。ありがたいことです。この旧内子線の残された鉄路。もう二度と列車は走らない線路ですが、大正時代の愛媛鉄道からの歴史のある路線であり、愛媛県の鉄道遺産として、大切に残して欲しいと思います。鉄ヲタの『廃線鉄』でなくても感動すると思います。

旧内子線の廃線跡です。こちらは線路もしっかり残っており、地元の方が整備をなさっているので、とても歩きやすいです。

残されている線路は300メートル弱といったところでしょうか。さすがに奥へ進むと雑草が生い茂っています。この程度雑草が茂っているのも、廃線跡らしく味わいがあっていいですね。

残されている線路は300メートル弱といったところでしょうか。行き止まりは二本松隧道(トンネル)です。二本松隧道のトンネル入口はコンクリートで閉塞されており、中を覗くこともできません。二本松隧道の反対側は大規模な国道工事で谷ごと埋められ、廃線跡は完全に消失しているのだそうです。トンネル内は地下水が溜まっているようで、入口からは水が流れ出し、手前の線路敷も泥濘(ぬかるみ)となっていて、近付くことはできません。

線路の行き止まりは二本松隧道(トンネル)です。二本松隧道のトンネル入口はコンクリートで閉塞されており、中を覗くこともできません。

線路敷跡歩きは残念ながらここまでで、再び線路の上を歩き国道56号線に戻ります。このあたりは両側を山に挟まれた谷のような狭隘地(きょうあいち)になっていて、その狭い窪地を国道56号線と松山自動車道、そして旧内子線の廃線跡が並行して走っています。ただ、現在の内子線(予讃線新線)だけは進行方向右手の山の下を五十崎トンネルで抜けています。前述のように、内子線は大正9(1920)に開業した軽便鉄道の愛媛鉄道(軌間762mm)をベースにしているので、軌間1,067mmに改軌された後も全体的に急勾配、急カーブが連続する低規格な構造でした。特に峠越えとなる旧五十崎駅〜喜多山駅間の二本松隧道(トンネル)の前後は、予讃線新線開通後に幹線として高速運転を実施するのは不可能であったため、新たに延長1,106メートルの五十崎トンネルが掘削され、内子線の終端部分だった五十崎駅と内子駅が五十崎トンネルを抜ける高架となった新線上に移転することになりました。確かに国道56号線を歩いていても、二本松隧道(トンネル)の前後の峠越えのあたりは、明らかに25‰35‰といった現代の鉄道の最急勾配の基準を超える勾配になっているのが分かります。 

国道56号線の左を旧内子線の線路敷が延びています。

峠を少し下ったあたりから旧内子線の廃線跡は国道56号線のすぐ脇を通っているのですが、このあたりの線路敷跡は国道管理事務所の所有になっていて、フェンスで仕切られて立ち入り禁止になっているので、歩くことはできません。横に眺めながらの廃線跡歩きになります。線路敷の上は歩けないものの、それなりにいい感じです。

 

【現在の五十崎駅】

旧内子線の廃線跡は国道56号線に沿って伸びているのですが、その国道56号線の上を現在の内子線(予讃線新線)の線路が通っています。その交差部分の近くに現在の五十崎駅があります。現在の駅は、新線切替に合わせて移設されたもので、旧五十崎駅からは約1.6km西に位置しているので、五十崎駅と言っても、五十崎の中心市街地からはかなり離れたところにあります。

現五十崎駅です。現在の駅は、新線切替に合わせて移設されたもので、旧五十崎駅からは約1.6km西に位置しています。

現在の五十崎駅は単式ホーム11線を有する無人駅で、築堤の上にあります。その五十崎駅のホームから内子駅方向(上り方向)を見ると目の前に五十崎トンネルがあり、ホームの一部はトンネル内に達しています。このトンネルの開通により、内子駅~五十崎駅間の距離は約1.6kmとなりました(ちなみに、旧五十崎駅から現五十崎駅までの距離も同じく約1.6kmです)。ホームは4両編成の特急列車でも十分に停車可能な長さがあるものの、一度も特急の停車駅になったことはありません。

五十崎駅のホームから内子駅方向(上り方向)を見ると目の前に五十崎トンネルがあり、ホームの一部はトンネル内に達しています。

反対にホームから喜多山駅方面(下り方向)を見ると高架下を国道56号線が通っているのですが、内子線の旧線もこの高架下を通っていました。現在の内子線(予讃線新線)は五十崎駅を出ると徐々に高度を下げ、この先で旧内子線の線路跡と現在の内子線(予讃線新線)の線路が合流します。その合流地点より先は、旧内子線の線路跡と現在の内子線(予讃線新線)の線路はしばらく重複します。このあたりの内子線は、おそらく微妙な土地の高低差を補うためでしょう、築堤の上を通っています。その築堤の部分に跨道橋が架かっているのですが、かなり古い跨道橋のようなので、旧内子線時代から使われている跨道橋なのでしょう。ただ、予讃線新線開通時に、幹線として高速運転を実施するための補修はなされているようです。

五十崎駅の喜多山駅方面(下り方向)です。現在の内子線(予讃線新線)は五十崎駅を出ると徐々に高度を下げ、この先で旧内子線の線路跡と現在の内子線(予讃線新線)の線路が合流します。

旧内子線時代から使われている跨道橋なのでしょうか。予讃線新線開通時に、幹線として高速運転を実施するための補修はなされているようです。

【喜多山駅】

喜多山(きたやま)駅です。喜多山駅も単式ホーム11線の無人駅です。経路変更や廃止区間が多い内子線の中では、最も原形に近い区間の駅と言えます。旧内子線が盲腸線として走っていた頃には小さな駅舎が存在していたそうなのですが、現在は解体され、その痕跡はなにも残っていません。ちょうど3両編成の宇和島駅行きの下りの特急「宇和海」(改良型N2000系ディーゼル特急列車)が猛スピードで喜多山駅を通過していきました。おそらく100km/時を超える速度で通過して行ったので、駅の外にいても風圧を感じ、身の危険を感じるほどの迫力があります。今は特急列車が猛スピードで駆け抜ける同じ線路を、旧内子線の時代は蒸気機関車に牽引された客車列車や貨物列車、1両か2両の短い編成のディーゼルカーが、のぉ〜んびりとした速度で走っていたことでしょう。そういうイメージを頭の中でするのも、廃線跡歩きの楽しさです。

喜多山駅です。ちょうど3両編成の宇和島駅行きの下りの特急「宇和海」が猛スピードで通過していきました。

【新谷駅】

新谷(にいや)駅です。予讃線(新線)は厳密には当駅を境に内子方面は内子線、伊予大洲方面は予讃線(新線)と路線名称が分かれるのですが(実際の分岐点である伊予若宮信号所はもう少し先の地点)、運行系統上は分かれておらず全ての列車が相互に直通します。現在の新谷駅は相対式ホーム22線を有する地上駅で、駅舎はなく駅員も配置されていない無人駅です。駅東方の踏切を挟んで上下線の出入口が別々にあり、各ホームへは線路に沿って通路を少し歩く構造になっています。これは予讃線の新線が開通した際に現在の形になる前、ホームが現在の駅の東方の踏切を挟んだ内子側にあったことの名残りと思われます。かつては木造駅舎が線路の北側にあり、12線の島式ホームでホーム上に待合所があったのだそうで、跨線橋はなく、駅舎からホームへは線路を渡りスロープで直接上がるようになっていたとのことです。現在は新谷駅の駅名標の次の駅が「いよおおず(伊予大洲)」になっていますが、旧内子線時代はここが「ごろう(五郎)」でした。旧内子線はこの新谷駅を出てしばらく西に進むと大きく北に向かってカーブし、五郎駅に向かって延びていました。ちょうど2両編成の松山駅行き上り普通列車(キハ54形ディーゼルカー)が軽やかなエンジン音を響かせて発車していきました。

新谷駅です。現在の新谷駅は相対式ホーム22線を有する地上駅で、駅舎はなく駅員も配置されていない無人駅です。

現在は新谷駅の駅名標の次の駅が「いよおおず(伊予大洲)」になっていますが、旧内子線時代はここが「ごろう(五郎)」でした。

……②に続きます。②は明日105日に掲載します。