2023年7月5日水曜日

伊予八藩紀行【伊予小松藩】①

公開日2023/07/06

 

[晴れ時々ちょっと横道]第106 伊予八藩紀行【伊予小松藩】 


伊予小松藩の陣屋があった場所には、現在、「小松藩陣屋跡」の石碑が建つのみで、広い庭園をはじめ大部分の土地は宅地や農地となっています。

『晴れ時々ちょっと横道』の第65回で、「伊予八藩」と題して、愛媛県が持つ魅力的な多様性の源泉であろうと私が勝手に分析(推察)している江戸時代の伊予国(現在の愛媛県)の幕藩体制について書かせていただきました。そこでも書かせていただきましたが、「伊予八藩」という言葉が残っているように、愛媛県(旧伊予国)には、江戸時代、主として次の8つの藩が置かれていました。

伊予松山藩 (親藩15万石。城は松山市)

宇和島藩 (外様7万石。城は宇和島市)

大洲藩 (外様6万石。城は大洲市)

今治藩 (譜代35千石。城は今治市)

西条藩 (親藩御連枝(ごれんし)・紀州徳川家分家3万石。陣屋が西条市)

伊予吉田藩(宇和島藩の支藩3万石。陣屋が宇和島市吉田町)

伊予小松藩 (外様1万石。陣屋が西条市小松町)

新谷藩 (大洲藩の支藩1万石。陣屋が大洲市新谷)

このほかに寛永13(1636)から寛永19(1642)までの6年間、西条藩の支藩として川之江藩(外様23千石)があったのですが、廃藩後、天領(江戸幕府直轄領)となっています。また、松山藩の支藩として、桑村郡・越智郡の一部を領地とする松山新田藩(まつやましんでんはん)1万石が享保5(1720)から明和2(1765)まであったのですが、廃藩後、こちらも天領となっています。

私は地形の複雑さと歴史から来る多様性こそが愛媛県の本当の魅力なのではないか…と思っています。この「伊予八藩」を念頭に入れ、改めて愛媛県内各地を訪ねてみようと思い立ち始めたのが『伊予八藩紀行』。第66回・第67回にその第1弾として大洲藩を取り上げたのですが、その後、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で取材が行うことが難しくなって(「鉄分補給シリーズも開始したので、主として気分的な問題ですが…)、シリーズとしてはそれっきりになっていました。長い中断期間を破ってとり上げる第2弾は『伊予小松藩』です。

地元小松の方以外「えっ!?  伊予小松藩なんて藩が愛媛にあったの?」と思われる方がほとんどではないかと思われますが、愛媛県の東部(東予地方)、現在は西条市の一部となっていますが、平成16(2004)の平成の大合併の際に西条市、東予市、周桑郡丹原町とともに22町の新設合併により新しい西条市となった自治体に周桑郡小松町がありました。主にその旧周桑郡小松町を藩領としていた石高1万石の小藩が伊予小松藩です。

西条市立小松温芳(おんぽう)図書館です。ここは元・明勝寺があった場所で、歴代の住職の中には詩歌を嗜むものが多く、藩主もよくこの寺を訪れたとのことです。

西条市立小松温芳図書館の館内です。小松温芳図書館の郷土資料室には旧小松町の歴史や文化財に関する展示がされていて、古代から近代までの小松町を知ることができます。

【大名とは】

大名という名跡は、平安時代末頃に私有田の一種の“名田”の所有者を指す言葉として使用されるようになり、名田の大小によって大名・小名に区別されました。鎌倉時代になると大きな所領をもち多数の家子や郎党を従えている有力武士のことを大名と称するようになりました。江戸時代には主に石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主を指す言葉となりました(1万石未満の武士のうち幕府直属の武士のことを直参といいます)

この江戸時代の幕藩体制の基盤となっていた“石高”という単位ですが、1石とは、大人が1年間に消費する米の量のことです。1食に米1合を食べるとすると、13食で3合を消費します。それが365日だと3×365日で1,095合となるわけで、この概算から、1,000合をひとつの単位として“1と定められました。つまり、「大人が1年間に消費する米の量」1,000合」=「1石」というわけです。これを現代の貨幣価値に換算してみたいと思います。農林水産省が公表している米の相対取引価格によると、2021年産の米の通年平均・主食用1等玄米60kg当たりの買取価格は13,144円。すなわち1kgあたり219円。1石は約150kgですので、単純計算で1石は32,860円ということになります。この基準でいくと、1万石の大名は3億2.860万円ということになり、社員数100人規模の中小企業クラス、100万石と言われる加賀藩前田家なんて、年商328億円の東証1部上場企業並みだったというイメージとなります。実際には様々な基準による試算があり、私のこの試算の3倍程度の1万石≒10億円と換算されるのが一般的なようです。

江戸時代の政治体制というのは、将軍を最高権力者とする徳川幕府が、地方の領主であるたくさんの大名家()を統括して治めるという形態、いわゆる「幕藩体制」を敷いており、約260年間続いた江戸時代においては約300近くの藩(すなわち大名)が全国各地に存在していました。大名家といっても、その歴史的な成り立ちによって幕府との関係は様々で、幕府との関係によって親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)という3つの種類に分類されていました。

親藩: 徳川家康の直系の子孫を中心とした、将軍家にごく近しい親類の大名家で、“一門大名”とも呼ばれていました。そのなかでも徳川家康の子が当主となった尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家は御三家といって、特に重要な家とされ、もし将軍家に跡継ぎができない時には、この御三家の中から将軍を出すこととなっていました。愛媛の大名では松山藩松平家がこれにあたり、全国で最も西に配置された親藩でした。また、西条藩も親藩御連枝・紀州徳川家分家なので、これに準じます。

譜代: 親藩が将軍家の親族であるのに対して、譜代とは“代々つかえてきた”という意味で、将軍の“家来”の大名家のことです。戦国時代を戦い抜いてきた徳川家康には、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)と呼ばれるスゴ腕の武将達をはじめ、多くの有能で忠誠心の強い家臣がついていました。こうした家臣、家来の多くは、戦国期には旗本として大将である家康のまわりを守り固めていたのですが、やがて徳川家の支配地が全国へと広がってくると、有力な旗本たちは1万石以上の大名に格上げされて地方の要所を治めるようになりました。これが譜代大名です。愛媛の大名では今治藩松平家が譜代大名です。(いっぽう、その他大勢の家来たちは幕藩体制下で、あらためて「旗本」「御家人」として将軍に仕えることになります。こうした武士は将軍直属の軍隊を構成し、原則として江戸に住み直参 (じきさん)” と呼ばれました)

外様: 譜代大名の多くは、もともと家康の家来だったのを大名にして各地に配置したものですが、いっぽう、そうではなく最初から大名だったもの、つまり戦国時代に徳川家以外の“○○家(○○)”と呼ばれていた独立した戦国大名は基本的に全て外様大名と呼ばれています。教科書の中には「関ヶ原の戦い以前から徳川氏に臣従していたのが譜代大名、関ヶ原以後に臣従したのが外様大名」と書かれているものがありますが、これは誤解を招きやすい表現です。関ヶ原の戦いで徳川氏に味方し東軍として戦った姫路藩池田氏、仙台藩伊達氏、熊本藩細川氏、福岡藩黒田氏は外様大名ですし、西軍として戦った長州藩毛利氏、薩摩藩島津氏も外様大名です。愛媛の大名では大洲藩・新谷藩の加藤氏、宇和島藩・吉田藩の伊達氏、そして伊予小松藩の一柳氏が外様大名です。親藩が徳川将軍家にとっての親戚、譜代が代々の家来であるのに対して、外様はあくまでも“客分”に過ぎず、あまり厚遇はされなかったようです。そればかりか、ことあるごとに些細なことで領地没収の改易や減地を言い渡されました。とりわけ江戸時代初期には、頻繁に移封や改易が行われました。

また、藩には石高によって5階級の家格があり、階級によって城が持てるかどうかも決められていました。その階級は上から順番に下記のとおりです。

国主(国持大名): 1国以上を領有する大名家のこと。加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家など20家程度で、石高は10万石以上。いわゆる大大名と呼ばれる藩のことです。

准国主: 国主に準じる大名家のことで、3家がこれにあたり、宇和島藩伊達家そのうちの1家でした。

城主(城持大名): おおむね3万石以上の石高を持ち、城を持つことが許された大名家のこと。130家程度があり、大洲藩加藤家はこれにあたります。

ここまでは城を持てる大名格ですが、ここから下は城を持てない大名格です。

城主格: 大藩から特別に独立した大名や、陣屋から城主の格式に昇格した大名のこと。約20家程度。西条藩は親藩御連枝・紀州徳川家分家なので、これにあたります。

無城(陣屋大名): 1万石ほどの規模の小藩の大名で、藩庁として陣屋しか持てませんでした。約100家程度。石高1万石の伊予小松藩はこれにあたります。

ちなみに、一般的に、この国主・国持という大名格は外様の大名が中心の家格で、大きな石高の領地を有する徳川御三家や会津藩松平家や高松藩松平家、伊予松山藩松平(久松)家、桑名藩松平(久松)家といった親藩大名、彦根藩井伊家という徳川将軍家に近い有力譜代大名は別格扱いで、この国主・国持という大名格の扱いには加えられていませんでした。

伊予小松藩の置かれた立場を語るうえでは、この石高と幕府との関係を意識しておく必要があります。加えて、他藩との位置関係。伊予小松藩は親藩である松山藩、譜代である今治藩、そして親藩御連枝・紀州徳川家分家である西条藩、さらには江戸幕府直轄領であった天領に周囲をグルッと囲まれていました。なので、この石高1万石で小藩が、江戸時代の幕藩体制下にあって江戸時代初期の寛永13(1636)から廃藩置県まで、外様大名の一柳家の統治の下で9代約230年間にわたって改易や移封されることなく存続し続けたということは、ただただそれだけで凄いことだと思います。


【伊予小松藩の歴史】

小松藩のあった旧周桑郡は明治30(1897)の郡制の施行により、周敷郡(しゅうふぐん:10)と桑村郡(くわむらぐん:7)が合併することでできた郡で、小松藩の領地はそのうちの周敷郡にありました。[晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)に書かせていただきましたが、戦国時代末期、この周敷郡一帯の旗頭となったのが現在の松山自動車道・いよ小松JCTのすぐ南側にある標高245メートルの山塊の上に築かれた剣山城を居城とした黒川氏でした。

http://ocyame.blogspot.com/2021/05/blog-post_21.html?m=1 [晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

85回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その5)で書かせていただいたように、天正13(1585)7月、小早川隆景に率いられた3万人とも4万人とも言われる羽柴秀吉の四国討伐軍の大軍を、金子城(現在の新居浜市滝の宮公園)城主・金子元宅率いる約2千人の東予地域の国人(豪族)衆が迎え撃った「天正の陣」。この戦国時代における四国最大の決戦と言われた戦いは、現在の西条市氷見にある野々市ヶ原で行われた両軍の激突で東予軍が壊滅したことにより決着がついたのですが、この野々市ヶ原の戦いの際、周敷郡の旗頭である黒川通貫は東予軍の後詰めとして剣山城に籠っていました。勢いに乗る四国討伐軍はその剣山城に襲いかかり、黒川勢は大いに奮戦したものの圧倒的な兵力で襲いかかってくる四国討伐軍の勢いを止められず、剣山城は落城。黒川通貫をはじめとする黒川勢は河野氏宗家当主・河野通直が立て籠る道後湯築城に向けて桜三里を越え讃岐街道を西に向けて敗走しました。その後も四国討伐軍の勢いは止まらず、8月末には河野通直が籠る湯築城が攻囲されます。その間の86日に四国軍の総大将である長宗我部元親が四国討伐軍の総大将・羽柴秀長に降伏したこともあって、小早川隆景の薦めにより湯築城は開城。河野通直は大名として残る道を絶たれ、新たな伊予国35万石の支配者となった小早川隆景の元に庇護されました。

 http://ocyame.blogspot.com/2021/05/blog-post_49.html?m=1 [晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その5) 

小早川隆景の後、周敷郡を含む伊予国の統治は福島正則、藤堂高虎、加藤嘉明、蒲生忠知と引き継がれていくのですが、寛永11(1634)、伊予松山藩24万石の藩主だった蒲生忠知が継嗣なく没したために改易され、その所領は分割されることになりました。このうち旧松山藩領東部に当たる西条藩68,600石は、伊勢国神戸藩主であった一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)に与えられたのですが、直盛は新しく領地となった西条に赴く途中の大坂の地で没してしまいました。ちなみに、一柳(ひとつやなぎ)家は河野氏の庶流との伝承もある美濃国出身の氏族で、一柳直盛が豊臣秀吉に仕えて尾張黒田35,000石を領する大名に出世し、慶長5(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属して活躍したことで、その翌年に伊勢国神戸藩5万石に加増され、長くそこを統治していました。

直盛の遺領となった旧松山藩領東部は男子3人によって分割されることになりました。西条藩主を継いだのは長男直重(なおしげ)で、西条周辺の3万石を領しました。次男直家(なおいえ)は伊予国最東部の川之江一帯の18,600石に播磨国小野の飛び地領1万石を加え、都合28,600石を領することになりました(伊予川之江藩、のち陣屋を播磨に移し小野藩)。そして三男の直頼(なおより)には1万石が分与されました。直頼は西条の西に位置する周敷郡新屋敷村に陣屋(小松陣屋)を構え、ここに小松藩が立藩することになりました。

こうして伊予国東部には、西から伊予小松藩・西条藩・川之江藩(小野藩)と一柳家の兄弟の所領が連なることとなったのですが、寛永19(1642)に川之江藩(小野藩)の直家が継嗣なく没すると、伊予国内の所領18600石が没収されて天領(幕府直轄領)となります(なお、直家の系統は播磨国小野藩1万石の藩主として廃藩置県まで続きます)。また、寛文5(1665)には西条藩の一柳直興(なおおき:直重の子)が勤仕怠慢を理由に改易され、西条領はこののち徳島藩・松山藩の預かり地、公儀御料(代官支配地)を経て、寛文10(1670)、徳川御三家の1つ紀州和歌山藩主徳川頼宣の三男の松平頼純(よりずみ)が3万石で入封し、再び西条藩が立藩されることになります。こうして、一柳家の狩猟は、伊予国には伊予小松藩1万石のみが残ることとなりました。

幕末の伊予藩領図です。伊予小松藩は愛媛県東部の黄緑色の極小さい部分で、親藩である松山藩、譜代である今治藩、そして親藩御連枝・紀州徳川家分家である西条藩、さらには江戸幕府直轄領であった天領に周囲をグルッと囲まれていたことがお分かりいただけるかと思います。(出典:愛媛県史)

【伊予小松藩の概要】

1万石の大名と言っても、前述の私の試算により現代の貨幣価値に換算してみると、年間売上高32,860万円から10億円ということになり、社員数100人規模の中小企業クラスの組織でした。実際、当時の伊予小松藩は小さな小さな藩でした。藩領は周敷郡の11(新屋敷村、北条村、広江村、川無村、大頭村(おおとむら)、妙口村、大郷村、千足山村、今在家、吉田村、周布村)、それに加えて東隣の西条藩領を挟み、新居郡(にいぐん)内に飛び地4(上嶋山村、半田村、大生院村、萩生村)の計15村。新居郡内の飛び地4村は合計して石高を大名と呼ばれる1万石にするため無理矢理に採られた措置と思われます。

藩内には町と呼べるほどの人口の密集地はなく、まばらに民家が点在するだけのところでした。陣屋は新屋敷村小松の原野の中の高台に設けられたのですが、この新屋敷村は元々は塚村と呼ばれ、約30メートルの台地の斜面で、塚村という地名もそこにあった弥生時代の古墳群に因むとされています。で、立藩にあたり新屋敷村に名称変更し、小松の地名も、その高台一帯に背の低い松が群生していたことに由来するといわれています。伊予小松藩の陣屋は西条藩の氷見と直接境を接しています。他藩との境に直ちに接して藩の中枢である陣屋を構えるというのは防御の観点から極めて異例のことではあるのですが、これは一柳家の本家であった旧西条藩との近親感からなされたものであると推察されます。伊予小松藩の陣屋は小松藩公館とか御殿とか呼ばれており、藩主の居館のみを指し、東西63(115メートル)、南北100(182メートル)、面積は21(21,000平方メートル)の広さであったと言われています。また、その南に接してほぼ同面積で台地斜面を利用した逍遥園と呼ぶ山荘庭園が造成されており、山水、木石の整った名園で、小藩に過ぎたるものとも言われました。

陣屋には藩主の居宅となる木造平屋建ての御殿が建てられ、その陣屋を中心に家臣の屋敷が作られ、佛心寺、本善寺、明勝寺 という3つの寺院もこの区域に置かれました。陣屋の周囲は丸の内と呼ばれ上士22人の屋敷があり、陣屋正面に大木戸があって、今の東町に出、それより西側の丸の外(現在旧藩と呼ぶ)には中広道(ほぼ現在の駅前通りにあたる)、上横町・下横町に50戸に近い中・下士分の屋敷があり、その中を通って藩主・一柳家の菩提寺である佛心寺や墓地のお霊屋に至る道が陣屋より続いていました。

天明2(1782)の伊予小松藩の陣屋・武家屋敷図です (出典:愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』)

石高1万石の小藩だった伊予小松藩には城はなく、陣屋敷が藩主・一柳家の居館&藩の立法・行政・司法といった全ての藩政の執務場所でした。東西63(115メートル)、南北100(182メートル)というので、相当広い神屋敷だったようです。この案内看板の立っている場所にあった太鼓櫓は近くの明勝寺に移築されています。

大木戸があった跡には、「杖掛松」と刻まれた石碑が建てられています。江戸時代にはここから参勤交代に出発していました。初代藩主の一柳直範が松の苗を四国八十八箇所霊場第60番札所の横峰寺から杖の先に掛けて持って帰ったものと言われています。伊予小松藩陣屋の象徴で、後に大松となり、昭和15(1940)までその雄姿を見ることができたそうです。

陣屋の門の1つ、竹下門の跡です。こうした石柱がところどころにあります。

新屋敷村は元々は塚村と呼ばれ、約30メートルの台地の斜面で、塚村という地名もそこにあった弥生時代の古墳群に因むとされています。陣屋はその台地の中でも少し高い高台の上に立地していました。


「旧藩集会所」の建物表示が出ています。陣屋のあったあたりは“旧藩”という字名になって残っています。

陣屋のあったあたりの南側です。ここにも「旧藩」の地名表示が出ています。

武家屋敷の区域のそばに藩内を東西に横切る金毘羅街道(旧国道11号線)が通っていて、その金毘羅街道に沿って商人の家々が建てられたのですが、地形による制約からか街道の片側一列に並んで建てられていました。商人の家は東西約2kmにわたって並んでいたのですが、建物は軒を接してというわけではなく、まばらに並んでいるだけでした。天保9(1838)の調査でも家数207軒、総人口は908人。この商人街は藩が藩内唯一の「町(小松陣屋町)」と称した繁華街ではあったのですが、とてもとても城下町とは言い難いところでした。藩内全域の領民の総数も1万人を少し超える程度で、立藩時から明治維新まで特に際だった増減はありませんでした。


金毘羅街道(旧国道11号線)で小松川に架かる小松橋です。この小松橋は旧陣屋町の西端に位置しています。大正15年に架けられたRC(鉄筋コンクリート)橋で、大正期に架けられた橋らしいクラシックな様式が美しい橋です。

小松橋から続く金毘羅街道(旧国道11号線)です。この金毘羅街道に沿って商人の家々が建てられていました。

天保9(1838)創業の老舗の和菓子屋「よしの餅本舗めしや」さんです。めしやの屋号は伊予小松藩第8代藩主・一柳頼紹より拝領したものです。

伊予小松藩には城がなく陣屋があるだけでした。しかし、陣屋とは言え、大名が居城とする立派な“城”で、新しく陣屋町を作るにあたっては、町も城の防備の一貫として考えるようになりました。城の場合、土塁や濠により敵の攻撃を直接防ぐことが可能ですが、陣屋の場合はそれができないため、伊予小松藩では土塁や濠に代わる工夫が施されています。敵が大人数で列をなして侵攻してこないように道幅を狭くしたり、“枡形”と言って道路を屈曲させるカギ型(クランク状)の道路にしたり、丁字路をつくって行き止まりにしたり、道路を直交させるのではなく、意図的にずらして食い違いを設けたりと、敵の侵攻を少しでも遅らせるような防備の工夫がそこここに施されていました。

小松の町内には江戸時代の古道が幾つか残っています。

金毘羅街道(旧国道11号線)沿いにはこのような白壁の蔵のある旧家が建っています。伊予小松藩の豪商の跡ですね。

陣屋跡のすぐ近くに「是より東 西条領」の石柱が立っています。他藩との境に直ちに接して藩の中枢である陣屋を構えるというのは防御の観点から極めて異例のことではあるのですが、これは一柳家の本家であった旧西条藩との親近感からなされたものであると推察されます。

藩士の数も1万石の小藩らしい小規模なものでした。初代藩主・一柳直頼が小松の新屋敷村に設けられた陣屋に入封した時、伊勢国神戸から連れてきた家臣団から伊予小松藩に割り当てられた家臣の数は僅か21名。この直属の家臣の子孫や、現地で家臣に取り立てられた元周敷郡の旗頭であった黒川家の家臣、他藩の出身者で仕官を申し出た者を採用するなどして家臣の数を増やしてはいったのですが、それでも家中士分の者は幕末に近い文久3(1863)の記録によると137名。このほかに最下層の足軽や小者を合わせると197名だったそうです。小松藩の場合、足軽や小者はたいてい農家の次男や三男で、1年ごとの臨時雇いで本来の武士ではありませんでした(ただし、任期中は苗字と帯刀が許されていたようです)。江戸時代の大名と言えば隔年ごとの参勤交代ですが、加賀藩前田家や仙台藩伊達家と言った大藩の参勤交代の大名行列が3,5004,000名の大人数であったのに対して、伊予小松藩はせいぜい100名程度。それでも石高比や藩士の数的には頑張っているほうでした。中途採用が大多数を占める社員数が137名、契約社員数が60人。石高(売上高)もそうですが、藩士の数や構成から言っても、まさに現代の中小企業そのものですね。

小松藩のあった周桑平野(道前平野)は石鎚山系の断層崖や高縄山地の山麓から流れ出る加茂川や中山川、新川、大明神川という河川やその支流による沖積平野です。これらの河川は何度も氾濫を繰り返す暴れ川で、肥沃な土壌ではあったものの、大きな岩がいたるところに残る荒れた土地でした。そこで、第2代藩主・一柳直治(なおはる)の治世、寛文年間から元禄年間(1661年〜1704)にかけて300町歩(300ヘクタール)の新田開発を行いました。また、藩の飛び地であった大生院村にあった市之川鉱山(現在の西条市市之川)からは日本刀のように大型で美麗な希少金属の輝安鉱(アンチモン)の結晶が産出したことで世界的に知られ、特産品になっていました。この市之川鉱山も、実は伊予小松藩により経営されていました。

明勝寺の前から見た小松の街並みです。街並みの向こうに瀬戸内海と芸予諸島の島々が見えます。遠くには“しまなみ海道”の来島海峡大橋も見えます。伊予小松藩はこの周桑平野(道前平野)の緩やかな緩斜面の上にありました。

市之川鉱山です。現在は閉山していますが、かつてここは世界最大級規模のアンチモン(輝安鉱)の鉱山でした。

市之川鉱山産の輝安鉱は他に比べて大きく、日本刀のような美しい結晶であることからロンドンの大英博物館やワシントンD.C.のスミソニアン博物館をはじめ世界各国の有名な博物館や大学で展示されており、オーストラリアのタスマニア産紅鉛鉱とともに世界随一の美しい結晶体の鉱石であると崇められています。私も大英博物館で市之川鉱山産の輝安鉱を見て、その美しさに息を呑みました。これは市之川鉱山資料館に展示されているアンチモンの結晶です。

さらには、第2代藩主・一柳直治の時代には大洲藩領から小西伝兵衛を招き、製紙業を興しました。小松藩の和紙は厚くて糊けがなく、質の良い奉書紙が有名で、藩の御用紙として使われたほか、幕府にも納められていました。生産量は文政年間(1818年〜1830)頃に最盛期を迎え、藩の専売品として主として大坂に出荷されていました。この伊予小松藩の和紙ですが、原材料となるコウゾ()は領内の千足山村(現在の西条市小松町石鎚)や、松山藩領の千原・鞍瀬(現在の西条市丹原町千原・鞍瀬)方面の山中から調達していたようです。

余談ですが、ここに出てくる松山藩領の鞍瀬は私の母方の祖父の先祖代々の家があったところです。[晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その5)にも書かせていただきましたように、私の母の旧姓は佐伯。母方の祖父は西条市丹原町鞍瀬から愛媛県道153号落合久万線で中山川に沿って久万高原町や高知県方向に入っていった山深い山中の西条市丹原町明河の保井野集落の出身で、元々は多くの山林を所有して和紙の原料となるコウゾ()やミツマタ(三椏)の栽培を行っていたのですが、若い頃に新居浜市に出てきて別子銅山に勤めていた人でした。母は新居浜市の生まれですが、祖父の生家に何度か訪れたことがあり、そこは深い山中にあるとは思えない古くて大きな家で、愛媛県の方が文化財調査にも来たことがあるような立派な古民家だったそうです(祖父はそこの長男です)。で、その丹原町明河の保井野集落の近くにあるのが赤滝城趾。戦国時代末期の黒川通博の時代、赤滝城や鞍瀬大熊城といった愛媛県道153号落合久万線沿いの城の城主を務めたのが黒川氏の重臣(総大官)だった佐伯雄之。佐伯雄之は天正13(1585)の天正の陣で小早川隆景率いる四国討伐軍により剣山城が落城し、主君黒川氏による周敷郡支配が終わったことで帰農し、この明河周辺の集落の長(おさ)として、和紙の原料となるコウゾ()やミツマタ(三椏)の栽培を行っていたのではないかと推定されます。祖父の家の山林は赤滝城趾を囲むように広がっていますから、まず間違いないと思われます。江戸時代、伊予小松藩の財政を支える重要な産品だった和紙は、旧黒川氏コネクションで、明河の佐伯氏と伊予小松藩に残り製紙業に就いた旧黒川氏の家臣との間での藩境を越えての取り引きにより作られていたのではないかと推察されます。

 

……②に続きます。②は明日77日に掲載します。

 


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