2023年6月24日土曜日

四国遍路を世界遺産に(その4)

 公開予定日2023/09/09

[晴れ時々ちょっと横道]第108回 四国遍路を世界遺産に(その4)


【札所の位置と地形との関係】

四国八十八ヶ所霊場札所の位置と断層帯(四国八十八ヶ所霊場会公式HPの図を加工)


四国遍路のそもそもの興りを考察しようとする時には、まずは、「四国遍路はなぜ四国にあるのか?」という単純かつ根源的な疑問の答えを見つけるところから始めないといけない…と私は思っています。その答えはこれまで述べてきた四国の地形と地質の中にあると私は思っています。前述のように、日本列島は約5億年前から現在まで、海洋プレートであるフィリピン海プレートが、大陸プレートであるユーラシアプレートの下に沈み込む沈み込み帯の上で発達してきました。プレートの沈み込み境界の浅部には付加体と呼ばれる海洋プレート上の堆積物や岩石が陸側へ押し付けられた地質帯が形成され、深く引きずり込まれた岩石は高圧と熱により様々な種類の変成岩に変成しています。四国には古生代の石炭紀(36千万年前〜3億年前)から中世代のジュラ紀(2億年前~15千万年前頃)にかけて形成された秩父帯、中生代のジュラ紀(2億年前〜約15千万年前)から白亜紀(15千万年前〜約6,500万年前)にかけて形成された三波川変成帯と領家変成帯、中生代の白亜紀(15千万年前〜約6,500万年前)と新生代の古第三紀(6,500万年前〜約2,300万年前)にかけて形成された四万十帯と、形成年代が異なる4つの地質帯が、東西にきれいに帯状に並んで分布しており、日本列島、特に西南日本の地質の成り立ちの解明や、プレート沈み込み帯での地質現象の理解など学術的にも極めて重要なところです。近年、日本だけでなく世界の地質学者の間からも注目を集めているようです。その地質帯の境界には、中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、さらには安芸宿毛構造線という東西の延びる4本の断層帯(構造線)が走っています。すなわち、パワースポットとされる断層帯(構造線)が集中してほぼ平行に走っているわけです。日本中探してもこういうところは他にはありません。山岳信仰の行者達は、そこに注目したのではないでしょうか。なので、四国遍路は四国にあるんです。必然のようなものです。それを立証するためには、四国八十八ヶ所霊場の札所の立地を、この断層帯(構造線)に着目して眺めてみる必要があると思います。

四国八十八ヶ所霊場の中には、どうしてこんな高い山の山中に札所があるの?と不思議に思われる札所が幾つかあります。そうした秘境のようなところにある札所のほとんどは、断層帯(構造線)と関係しているように思います。例えば愛媛県とその近傍だけを見ても、第60番横峰寺から第61番香園寺、第62番宝寿寺(いずれも西条市小松町)、第63番吉祥寺(西条市氷見)、第64番前神寺(西条市洲之内)や第65番三角寺(四国中央市金田町)、第66番雲辺寺(徳島県三好市池田町)などはモロに中央構造線に沿ったところにありますし、松山市近郊の第46番浄瑠璃寺と第47番八坂寺、第48番西林寺も中央構造線に近いところに位置しています。第43番明石寺(西予市宇和町)と第44番大寶寺、45番岩屋寺(どちらも上浮穴郡久万高原町)は御荷鉾構造線、第41番龍光寺と第42番佛木寺(どちらも宇和島市三間町)は仏像構造線沿いにあります。また、第40番観自在寺(愛媛県愛南町)のすぐ南側には安芸宿毛構造線が通っています。

御荷鉾構造線沿いにある第43番札所の明石寺(西予市宇和町)の本堂です。明石寺の標高は約310メートル。秩父帯の台地の上にあります。明石寺の境内は国の史跡に選定されています。

大寶寺道です。この遍路道の先に第44番札所の大寶寺(久万高原町)があります。明石寺から大寶寺まで約67.3kmのうち、明石寺から約0.8kmの峠越え(御荷鉾構造線越え?)の区間が遍路道として国の史跡に選定されています。

ここで注目すべきは第45番札所の岩屋寺です。標高約700メートル。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である岩屋寺の山号は海岸山。こんな山の中の寺院の山号がなぜ海岸山なのかについてですが、通説では、かつてこの地を巡錫していた弘法大師が「山高き 谷の朝霧海に似て 松ふく風を波にたとえむ」と詠み、谷間に朝霧が立ちこめている有様がまるで海原のようだということで山号を“海岸山”と名付けたということになっています。しかし、もしかしたら弘法大師(あるいは山岳信仰の修行者達)はこの地が秩父帯という地質帯が三波川変成帯と接する御荷鉾構造線の上(すなわち秩父帯の縁)にあり、その秩父帯はかつて温かい南の海で形成され、フィリピン海プレートの移動により日本列島まで運ばれてきた付加体が地表に露呈してきたものであるということをなんらかの方法で知っていて、秩父帯の縁であることから海岸山という山号を名付けたのかもしれません。前述のように、愛媛県と高知県の県境付近に広がる四国カルスト高原はこの秩父帯に属し、1,500メートル近い高地からサンゴや石灰藻などの化石が出てくることは当時も山岳信仰の修行者達の間では分かっていたことでしょうから。

45番札所の海岸山岩屋寺です。横峰寺とは異なり、ここを通っている断層帯は御荷鉾構造線。ここの地層は秩父帯で、石灰岩を多く含む地層です。横峰寺付近で見られる三波川変成帯の緑色片岩をはじめとする結晶片岩とはまったく異なる岩石です。

岩屋寺付近は断層帯である御荷鉾構造線が通っているので、かなり急峻な岩場になっています。

さらにこれは断層帯(構造線)というわけではないのですが、愛媛県の北に突き出る高縄半島に確認できる領家変成帯と新期領家(花崗岩)帯の境界線には、第49番浄土寺から第50番繁多寺、第51番石手寺、第52番太山寺、第53番円明寺(いずれも松山市)、第54番延命寺、第55番南光坊、第56番泰山寺、第57番栄福寺、第58番仙遊寺、第59番国分寺(いずれも今治市)と、計11ヶ所の札所が四国の他の地域と比較しても特に密集して点在しています。これはそれら11ヶ所の札所に囲まれた一帯が、新期領家(花崗岩)と呼ばれる比較的新しい後期白亜紀(1億年前~約6,500万年前)にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩質の深成岩主体の地質帯で構成されていることと関係しているように私は捉えています。前述のように、この新期領家(花崗岩)帯は活発な火山活動があった跡で、山岳信仰の行者達が口から火を吹く八岐大蛇(火山)が再び活動するのを封じ込めるために、グルッと取り囲んで結界を張ったものではないか…という仮説も立てられようかと思います。また、このあたりの主たる土壌は真砂土(まさど、まさつち)。真砂土は花崗岩が風化してできた砂状の土壌で、斜面での安定性が他の土質に比べて著しく劣り、大雨が降ったりすると人的被害に及ぶ土砂災害が発生しやすい土壌です。新期領家(花崗岩)帯は、その名が示すように花崗岩が主体の地質帯で、領家変成帯との境界面では強い力が働いて花崗岩が細かく破砕され、その破砕された花崗岩が風化して真砂土が生成されたと考えられています。したがって、この領家変成帯と新期領家(花崗岩)帯との境界も、自然災害が発生しやすいところと言えようかと思います。


58番札所の仙遊寺(今治市玉川町)です。

仙遊寺は標高312メートルの作礼山の8合目あたりにあり、境内からは今治市街から瀬戸内海まで見渡せます。下の今治市街は領家変成帯、この仙遊寺が立地している作礼山は新規領家(花崗岩)帯にあります。

仙遊寺の山門(仁王門)です。仙遊寺の山号は作礼山ですが、山門に掛かっている山号はなぜか補陀落山です。山門の背後の山の斜面の土壌は花崗岩が風化してできた真砂土ですね。

しかもこれら断層帯(構造線)や地層の境界線にある札所はどこもポツンと単独で存在するのではなく、極近傍に複数の札所が存在するという特徴があります。これは地震をもたらす原因と考えられた地底に潜む超巨大な龍の頭と尾の両方を複数の要石(あるいはそれに類するもの。もしかすると、観音菩薩、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、不動明王等)で押さえて、地震をはじめとした自然災害の鎮静を祈ったと考えてもよろしいんじゃあないでしょうか。これって、とても偶然とは思えないですね。札所がそこに置かれているのには、ある明確な宗教上の意味があると私は思っているので、この断層帯(構造線)との位置関係を見て、納得しちゃったようなところがあります。少なくとも、愛媛県にある札所のほとんどは、異なる地質帯の境界線上の自然災害の発生しやすい場所に立地していることが分かります。すなわち、自然災害の発生を封じ込めるために結界を張っていたってことのようです。


41番札所の龍光寺です。第42番札所の佛木寺へ向かう遍路道は、境内にある稲荷神社の背後に見える山の尾根を越えていきます。ということは、龍光寺のある場所は四万十帯でしょうか。稲荷神社境内及び第41番龍光寺境内は国の史跡に指定されています。寺院と神社が同じ境内に共存するって、明治元年(1868年)に明治新政府が「神仏分離令」を出す以前の姿なんでしょうね。

佛木寺道です。第41番札所の龍光寺から次の第42番札所の佛木寺までの遍路道のうち、龍光寺西側の低い山の尾根を行く約0.5kmの区間(仏像構造線越え?)が国の史跡に指定されています。

42番札所の佛木寺です。背後の見える山を越えてきたので、こちらは秩父帯でしょうか。

ちなみに、徳島県の札所のほとんども中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線という3つの主要な断層帯(構造線)に沿って立地している感じが見て取れます。第1番霊山寺から第2番極楽寺(どちらも鳴門市)、第3番金泉寺、第4番大日寺、第5番地蔵寺(いずれも板野郡板野町)、第6番安楽寺(板野郡上板町)、第7番十楽寺、第8番熊谷寺、第9番法輪寺、第10番切幡寺(いずれも阿波市)までの吉野川沿いの区間は中央構造線、第11番藤井寺(吉野川市)から第12番焼山寺(名西郡神山町)、第13番大日寺(徳島市一宮町)、第14番常楽寺、第15番国分寺、第16番観音寺、第17番井戸寺(いずれも徳島市国府町)、第18番恩山寺、19番立江寺(どちらも小松島市)までの区間は御荷鉾構造線、第20番鶴林寺(勝浦郡勝浦町)から第21番太龍寺、第22番平等寺(どちらも阿南市)までの区間は仏像構造線に沿って札所が立地しているように読み取れます。ここも自然災害の発生を封じ込めるために何重もの“結界”を張っていたのかもしれません。

高知県の札所は太平洋の海岸線沿いに位置しているところが多く、海洋信仰の影響を感じますが、そういう中でも第28番大日寺(香南郡野市町)、第29番国分寺(南国市)、第30番善楽寺(高知市一宮)、第31番竹林寺(高知市五色台)、第32番禅師峰寺(南国市)、第33番雪蹊寺(高知市長浜)、第34番種間寺(高知市春野町)、第35番青瀧寺(土佐市)などの高知市近傍の札所は仏像構造線沿いに所在していると見て取れますし、第27番神峯寺(安芸郡安田町)と第39番延光寺(宿毛市)の2つの札所は明らかに安芸宿毛構造線上に所在しています。その第39番延光寺(宿毛市)から第40番観自在寺(愛媛県愛南町)への遍路道(観自在寺道)は安芸宿毛構造線を横断する(越える)ルートとなります。なので、ここはこの2つの札所で災いのもと(龍?)を封じ込めていたのかもしれません。その他の札所の多くは太平洋の海岸線沿いに所在しています。これは前述の海洋信仰によるものと推察できますが、もしかすると高知県のすぐ沖の太平洋の海底にあるフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む南海トラフが関係しているとも考えられます。この南海トラフは時に超巨大地震の震源域になることがあり、その超巨大地震の発生による津波により有史以来多くの尊い命を奪ってきたところですから、圧倒的破壊力を持つ自然の脅威の来襲を鎮めるためという意味合いがあったのかもしれません。南海トラフは太平洋の海底にあって、その上に要石(あるいはそれに類するもの)を直接置くわけにいかなかったので、海岸線に近いところに設置したのでしょう。ちなみにその太平洋沿いの東西両端の札所、室戸岬近くにある第26番札所の金剛頂寺(室戸市)の山号は龍頭山” (室戸岬の突端に位置するのは第24番札所の最御崎寺。かつてその最御崎寺は東寺、金剛頂寺は西寺と呼ばれ、一対の寺院でした)、足摺岬に近い第38番札所の金剛福寺(土佐清水市)の院号は海洋信仰との深い関係を窺わせる補陀落院です。この山号と院号、なにか答えを暗示しているように思いませんか? また、このどちらの寺院にも、最も硬い金属を表す金剛2文字が入るのも興味深いところです。四国八十八ヶ所の札所のうち金剛の文字が入る札所は、この2ヶ所の札所のみ。そして、弘法大師が和歌山県北部の周囲を1,000メートル級の高い山々に囲まれた標高約800メートルの高野山中の中央構造線上に開創した高野山真言宗の総本山で真言密教の聖地とされる寺院の名称は金剛峯寺。なので、金剛頂寺も金剛福寺も何か特別な意味を持つ寺院なのかもしれません。その意味で言うと、第36番青龍寺(土佐市)と第37番岩本寺(高岡郡四万十町)は南海トラフを震源とする超巨大地震が発生した時に、津波の被害をモロに受ける場所の高台にあります。もしかしたら、これらの寺院は避難所の役割を果たしていたところなのかもしれません。

また、香川県は県域のほとんどが領家変成帯にあり、ところどころで愛媛県の高縄半島のような新期領家(花崗岩)帯が顔を覗かせている感じの地質構造になっています。この新期領家(花崗岩)帯は活発な火山活動があった跡だということは前述のとおりですが、香川県の讃岐平野にポコッポコッとテレビアニメ『日本昔ばなし』に出てくるようなお椀を伏せたような形の山が点在しているのはその新期領家(花崗岩)帯が顔を覗かせている部分です。そういうことから、香川県の札所のほとんども高縄半島と同様に、この地質が関係しているように思います。また、調べてみると、香川県にも讃岐山脈の北側を長尾断層帯という比較的規模の小さな活断層帯がさぬき市から高松市南部、綾川町にかけて東西約24kmにわたって延びており、この長尾断層帯の上にも、第80番国分寺、第83番一宮寺(どちらも高松市)、第87番長尾寺(さぬき市)といった札所が所在しています。この長尾断層帯は比較的規模が小さいと言っても23万年に1度、マグニチュード68クラスの地震が発生する可能性のある活断層帯です。ここも領家変成帯と新期領家(花崗岩)帯の境界ですね。八十八ヶ所結願寺である第88番大窪寺(さぬき市)も徳島県との県境に近い中央構造線沿いにあるということもできようかと思います。すなわち、四国遍路は日本最大の断層帯である中央構造線沿いを歩くところから始まって、最後はその中央構造線を越えて終わるという解釈です。

そういえば、(その2)でご紹介した現在国の史跡に指定されている26ヶ所の遍路道の区間のほとんどが、中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの主要な断層帯(構造線)のいずれかを通っています。これも偶然でしょうか。まぁ~、基本的に断層崖を往く断層越えの道なので、山の中の岩場を進む“遍路ころがし”と呼ばれるようなかなり勾配のキツイ険しい難所の道が多く、自動車が通れるように拡幅することも難しいので、昔ながらの遍路道が今も残っているということなのでしょうが…。


12番札所の焼山寺の境内から麓の方向を見た周囲の風景です。この深い谷の底の部分を御荷鉾構造線が通っていると推定されます。


焼山寺の裏にある、その名も「竜王窟」です。御荷鉾構造線の南側にある秩父帯の地層は四国で最も古い地層で、古生代の石炭紀(36千万年前〜3億年前)から中世代のジュラ紀(2億年前~15千万年前頃)にかけて形成されたものです。ミルフィーユ状になった頁岩(けつがん)の地層がよく分かります。「竜王窟」の“竜”とは、ここまでお読みいただくと説明する必要はありませんよね。


竜王窟の上に被さる岩盤の巨大さが分からないと思いますので、人が写っている写真を載せます。一番下の洞窟になっている部分の高さだけで3メートル以上あります。それから類推するに、高さ約30メートル。かなり巨大な岩盤であることがお分かりいただけるかと思います。このあたりはこういう巨大な岩の壁が東西方向に長く続きます。私の仮説はこの巨大な岩の壁を見た時から始まりました。


【四国遍路の世界遺産登録に向けての提言】

山や海といった自然は、圧倒的破壊力を持つ脅威の側面と、代えがたい豊かな恵みの側面から、日本人にとっては有史以来、人智を超えた存在として、宗教や宗派を超えて敬われ崇拝され続けてきた対象でした。そうした山や海への信仰はその後の日本人の普遍的な価値観や文化をも形成する重要な要素となった…と、私は思っています。その文化の現れが江戸時代中期以降に盛んに行われた富士講や御嶽講、大山講、石鎚講といった「登拝」です。これは信仰対象の山に一般の人が直接詣でる信仰登山のことで、お伊勢参りや金毘羅参りなどと並んで、一般庶民の間で大流行しました。もしかすると、四国遍路もその流れの中で生まれたものということなのかもしれません。登拝(信仰登山)は明治以降全国的に徐々に衰退していってしまいましたが、四国遍路だけは今もなお盛んに行われています。おそらく、これは四国全島という聖地の壮大さと風光明媚な景色の魅力、「お接待」に見られる巡拝者をあたたかくもてなす地域の人々の思いやりや心遣いなどの「心の文化」によるものなのでしょう。

以上のことから、この四国に古くからあった海洋信仰と山岳信仰とが弘法大師信仰により結合して、弘法大師の旧跡を巡る巡礼の旅という形になったのが四国遍路なのではないかと私は捉えています。札所の配置を眺めてみても、現在の遍路道は基本的に「辺路(へじ)」と呼ばれる海沿いの行者路なのですが、そのところどころから深い山々の中にある札所に入っていく道があります。特に愛媛県内でそれが顕著です。そういうところに海洋信仰と山岳信仰との結合というのが読み取れます。札所はその置かれている場所にこそ意味があるのではないでしょうか。

役小角が創始されたとされる修験道ですが、この修験道は、仏教伝来以前の日本古来の山岳信仰や海洋信仰と仏教の一派である密教(真言宗・天台宗)で行われていた山中での修行とが結びついた「神仏習合」の日本独自の信仰であると解釈されます。そして四国遍路も修験道の修行の一つと位置付けられたものだったと私は思います。もしかすると、四国遍路は修行であることに加えて、四国各地に点在する災害多発地域の定点観測、言ってみれば定期パトロールのような意味合いをも含んでいたのかもしれません。そう捉えてみると、四国全島を自分達の生命と財産を守るため、自分達になり代わって定期パトロールをしてくれている行者や修行僧(お遍路さん)に対し、地域住民がその返礼として様々なおもてなしをしたことから、お接待の文化が自然発生的に生まれたと解釈することも可能かと思われます。また、(その1)で触れた弘法大師が四国での修行の末に発心した自分も他人も両方が幸福になる道を歩むという「自他兼利済」の菩薩心とは、防災における「自助・共助・公助」の自助共助に通じるところがあります。また、宗教とは、つまるところ生命倫理と死生観。全人類共通の強敵である圧倒的破壊力を持つ自然の脅威の来襲から、いかにして人々の生命を守るかが宗教における最重要事項ではないでしょうか。その意味で、自然災害、そして防災の側面から四国遍路を考察することは、なにもおかしなことではなくて、むしろ“王道”と呼んでもいいことなのではないかと思っています。

ちなみに、修験道は鎌倉時代には発展を遂げて独自の立場を確立し、幾つもの宗派が乱立したのですが、江戸時代に入った慶長18(1613)に幕府は修験道法度を定めて、修験者は真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととして、両派を競わせました。そのように隆盛を誇った修験道が一気に衰退していく転機になったのは明治時代に入ってすぐのこと。明治元年(1868)に明治新政府が発した「神仏分離令」に続き、明治5(1872)には「修験禁止令」が出されて修験道は解体され、廃仏毀釈によって修験道の信仰に関わるほとんどのものが破壊されてしまいました。こうした危機的状況の中で、修験道の寺院や行者達の中には真言宗や天台宗に帰入(きにゅう)し、宗教家としてしぶとく生き延びる道を選ぶ人達が出てきました。現在、四国八十八ヶ所霊場の88の札所のうち、真言宗と天台宗の札所が約95%84寺と圧倒的大多数を占めているのはそのためと思われます(真言宗80、天台宗4。残りは臨済宗2ヶ寺、時宗 1ヶ寺、曹洞宗1ヶ寺)。この真言宗や天台宗の僧侶の中には山伏(修験僧)の格好をして山の中に籠り、修行をなさる方が今も多いのですが、そのことが影響しているのかもしれないと思われます。くわえて、修験道の行者達がしぶとく残したものが「四国遍路」の文化だったのではないでしょうか。四国遍路は江戸時代には一般大衆の間にも一つの文化として定着していたと思われますから。その時に、修験道色を極力消して、それまで以上に弘法大師信仰を前面に押し出すことで、四国遍路という修験道の伝統儀式を残すようにしたのではないか…と私は推察しています。なので、四国遍路は真言宗というよりも修験道の文化と捉えたほうが正しいのではないか…と私は解釈しています。

そういう意味で捉えると、四国という島全体が“聖地”ということになるので、札所という寺院を次々と巡ることを主目的とした巡拝(順拝)”ではなく、巡礼、正しくは四国巡礼こそが四国遍路の正しい姿ではないかと私は思っています。多様な地形的・地質的な特徴から島全体が霊的な聖地(霊場)とも言えるジオパーク「四国」をゆっくりと自分の足で歩き、弘法大師をはじめ海洋信仰と山岳信仰の行者達が感じたであろう様々な思いを、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感に加えて、肉体的さらには精神的疲労感や筋肉痛など自分の全身の隅から隅までで感じること、それこそが真の意味での聖地巡礼だと思いますから。それだけの魅力と価値が四国というところにはあると思っています。

このように、日本列島の誕生にまで遡る壮大な歴史遺産の側面や、地形的・地質的多様性から来る雄大な自然遺産の側面、さらには、その地形的・地質的特徴と気象的特徴から有史以来繰り返し何度も何度も襲ってきたであろう巨大地震や豪雨災害という自然災害に真正面から向き合って暮らしてきたそこに住む人々が独自に創り出してきた海洋信仰や山岳信仰、さらにはそれらを結合した弘法大師信仰により、「神も仏も敬う」という日本人独特の宗教観を生み出してきた文化遺産としての側面を加えることにより、四国というところは島全体で“霊場(聖地)”としての意義や価値を見出すことができ、「四国遍路」は十分に「世界遺産」に登録し得る価値を有しているところである…と私は思っています。前述の素戔嗚命(すさのをのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話と非常によく似た物語が、世界の神話に幾つも登場します。例えば、ギリシャ神話に登場する勇者ヘラクレスによる怪物ヒュドラ退治。ヒュドラは巨大な胴体に9つの首を持つ大蛇の姿をしていました。さらにはゲルマン神話に登場する戦士ジークフリートによる竜殺しも、非常によく似たストーリーです。おそらくどれも圧倒的破壊力を持つ自然の脅威との闘いを描いたものなのでしょう。すなわち、圧倒的破壊力を持つ自然の脅威の来襲への対応は、人種や国籍、宗教・宗派を超えた全世界人類共通の課題ってことです。そして、それって新海誠監督のアニメーション映画『すずめの戸締り』がアジア圏を中心に世界的ヒットとなり、全世界で500億円を超える興行収入を叩き出し、日本映画の海外興行収入歴代1位を達成したことでも証明されていようかと思います。

くわえて、巡拝(順拝)”という弘法大師信仰に偏った感が否めない国内(ローカル)特殊文化ではなく、グローバルスタンダードとも言える聖地巡礼を前面に押し出すことで、外国人からの理解は間違いなく増すと思われますし。誤解のないように申し添えておきますと、私は弘法大師を否定しているわけではありません。我が家は先祖代々真言宗醍醐派の家ですし、我が家の菩提寺は武田徳右衛門の墓のある今治市朝倉の無量寺ですから。あくまでも四国遍路を世界遺産に登録するという目標を達成するためのアプローチについて、一つの案を提案しているだけのことです。

それにしても、今から千数百年も昔に、最新の地球物理学理論であるプレートテクトニクスに朧げながらにでも気がついていたのだとすると、役小角をはじめとした行者達はいったい何者だったんだ!?…と思ってしまいます。信じがたいような科学知識を持っていたというわけですから。また、それを全て理解したうえで、四国遍路を含む真言密教の概念にまとめあげ、四国という島全体を巨大な曼荼羅にみたてて、それまでの四国土着の海洋信仰や山岳信仰を取り入れて霊場(札所)を配置していったのだとすると、その弘法大師の宗教観やプロデュース力は神がかっていると言える偉大なものであると私は思っています。

そして、四国遍路を世界遺産に登録するためには、四国4県の中でも、特に愛媛県の県民が主体となって動かないといけないと私は思っています。なんと言っても、愛媛県は衛門三郎や武田徳右衛門、そして伊予鉄道という四国遍路に関わる重要な人物(企業)を産んだところですし、中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線という3つの断層帯(構造線)によって四国4県の中でも最も風景に変化があるジオパークと呼ぶに相応しいところですから。実際、現在、四国遍路関連で国の史跡に指定されている42ヶ所のうち、17ヶ所(遍路道26ヶ所のうち10ヶ所。境内16ヶ寺のうち7ヶ寺)が愛媛県内にあり、四国4県中で最多です。特に安芸宿毛構造線も加えて4本の断層帯(構造線)を超える遍路道が多いので、遍路道の史跡が多いという特徴があります。くわえて、愛媛大学法文学部付属「四国遍路・世界の巡礼研究センター」もありますし。なので、愛媛県民が主体的に動かないと、四国遍路の世界遺産登録は実現できません。

四国遍路の世界遺産登録に向けて文化庁から出された課題「札所や遍路道を文化財として保護すること(資産の保護措値)」に関しては、既に国の史跡に指定されている遍路道や境内が42ヶ所になり、今後も随時追加指定がされるようなので、順調のようです。残る課題の「世界遺産にふさわしい価値の学術的証明(普遍的価値の証明)」ですが、今回ご紹介した私の仮説がその四国遍路の普遍的価値の証明に少しでもお役に立つことができれば、四国人、愛媛人としてこんなに嬉しいことはありません。四国遍路の世界遺産登録は愛媛県民の手でという思いでいます。

偉そうに四国遍路について語っていますが、実は私はこれまで愛媛県を中心に幾つかの札所を訪れただけで、四国八十八ヶ所の霊場を全て参拝する結願(けちがん)”には程遠い状況です。ですが、時間ができたら是非とも巡礼を行ってみたいと思っています。私のこの仮説を現地調査により実証するために、もちろん歩き遍路で。歩いて巡ることで、特に四国が持つ魅力的な“地形”の面で、いろいろな新たな発見があると思っていますから。


【おまけ:別の仮説】

四国遍路の起源に関しては、本文で述べた仮説以外に、地下資源という側面からの仮説もあります。実は中央構造線と御荷鉾構造線の間にある三波川変成帯は地下資源の宝庫でした。例えば、足尾銅山、日立鉱山と並ぶ日本三大銅山の1つである愛媛県新居浜市の別子銅山は、江戸時代末期には世界有数の産銅量を誇る銅山で、輸出により日本の経済と近代化を、そしてコインに形を変えることにより世界経済を大きく支えるような鉱山でした。この日本三大銅山はいずれも中央構造線のすぐ南側にあります。別子銅山だけでなく四国の三波川変成帯にはかつては大小無数の鉱山があり、銅のほか、金、銀、鉄、鉛、亜鉛、水銀、アンチモン、マンガン、クロム鉄、チタン鉄など各種の鉱石を産出する地下資源の宝庫でした。残念ながら、それらの鉱山は既に堀り尽くされたり、安価な輸入鉱に押されて、すべて閉山してしまっています。現代人の感覚では、日本は地下資源に乏しい国という印象がありますが、実は古代から中世、近世にかけて、日本は豊富な地下資源を輸出していた資源大国でした。学校では教えてくれないことですが、日宋貿易でも南蛮貿易でも日本からの輸出品の大部分が、実は各種の鉱石、すなわち地下資源でした。

なかでも、古代から顔料(朱色)や薬、防腐剤、金の採掘や精錬、金メッキ等に用いられて珍重されてきた金属が水銀です。日本の水銀鉱床は、西南日本の中央構造線付近に集中しています。水銀鉱床は1,400万年~1,200万年前頃に地底深くのマグマ活動によってできた鉱床で、紀伊半島の和歌山県や奈良県から四国にかけての領家変成帯と三波川変成帯の境界である中央構造線のすぐ北側の領家変成帯で多く見られます。本文でも述べさせていただいたように、領家変成帯はマグマの上昇に伴い発生した高温低圧の条件で変成を受けた変成岩主体の地層であるということで、領家変成帯の地中深くにあった水銀鉱床が三波川変成帯とのせめぎ合い、すなわち中央構造線の断層活動でさらに上昇され、地表に露呈してきたものと推定されます。

これは知る人ぞ知るって感じですが、弘法大師と水銀との関係も昔から都市伝説のように語られてきた話です。弘法大師の俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)。宝亀5(774)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で生まれたとされています。佐伯氏は鉱山師の一族で、特に水銀の採掘で財をなしていたと伝えられています。佐伯眞魚君は四国の山中での山岳修行を経て出家し、延暦23(803)、のちに天台宗を開き伝教大師として広く知られることになる最澄、俗名:三津首広野(みつのおびとひろの)とともに第18次遣唐使の長期留学僧として唐に渡るのですが、三津首広野君が国費留学生であるのに対して、佐伯眞魚君は私費留学生。その膨大な留学資金をどこから出していたのかは不明ですが、もしかしたら佐伯一族が水銀採掘で得た中から資金提供してのかもしれません。弘法大師となった佐伯眞魚君が和歌山県北部の標高約800メートルの高野山中に開創した高野山真言宗の総本山で真言密教の聖地とされる金剛峯寺も中央構造線上にあります。 康保5(968)に編纂されたとされる『金剛峯寺建立修行縁起』によると、弘法大師が高野山に金剛峯寺を開山したきっかけは、弘仁7(816)に弘法大師が高野山に登って、高野の地主神である丹生明神の化身の山人に会い、高野の領地を譲渡されたことから始まります。すなわち、高野山の元々の地主神は丹生明神だったことになります。丹(たん)とは硫化水銀のこと。水銀は硫黄と化合した硫化水銀(辰砂)の形で存在する場合が多く、この辰砂は朱色の顔料であるとなります。すなわち、丹生明神は水銀と深く関わる神ということです。ここに、「高野山=丹生明神=水銀 ⇒ 中央構造線」という構図が見えてきます。実際、高野山には水銀の鉱脈があり、盛んに採掘が行われていました。ここで 採れた水銀(辰砂)が、昔の高野山における真言宗信徒の活動資金になったのではないかという説もあるくらいです。

ちなみに、四国八十八ケ所霊場の88の札所のうち、約1/421ヶ寺が中央構造線沿いにあります。また、徳島県阿南市に若杉山辰砂採掘遺跡があります。ここは弥生時代後期~古墳時代前期の水銀(辰砂)鉱山の遺跡なのですが、ここは中央構造線ではなく、秩父帯と四万十帯の境界である仏像構造線直近の秩父帯内にあります。ここの水銀鉱床の形成メカニズムについてはよく分かりませんが、大きな断層帯(構造線)が水銀鉱床の形成と関係していることだけは確かなようです。このことを弘法大師をはじめとした山岳信仰(のちの修験道)の行者達は分かっていて、水銀をはじめとした鉱物資源の鉱脈を求めて四国の山中の断層帯(構造線)周辺をあちこち探索していたのではないかという仮説も立てられようかと思います。すなわち、札所の中には鉱物資源探索のための現場事務所や作業員宿舎として建てられたものもあるのではないかという仮説です。くわえて、あれだけの数の寺院を建設し、それを維持運営していくためには相当な資金投資も毎年のように必要となるわけで、その資金をいったいどこから捻り出していたのかという現実的な経営面で考えると、この地下資源探索という側面からの仮説も十分にあり得ることなのではないかと私は思っています。

そう言えば、弘法大師が右手に持っている錫杖(しゃくじょう)って、どう見ても、山登りの際に使うピッケルですよね。いや、もしかするとダウジングと言って地下水や貴金属の鉱脈など地下に隠れた物を発見する時に使う道具なのかもしれません。

 いずれにしても、四国八十八ヶ所霊場が四国の地形と地質、特に中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という断層帯(構造線)と深く関係しているということは、どうも間違いないことのように思えます。そう考えると、高野山金剛峯寺と同じ中央構造線上にあって、金剛峯寺に一番近い徳島県の霊山寺(鳴門市)が1番札所で、同じく中央構造線沿いにある大窪寺が第88番札所、すなわち結願寺であることも、必然のような気がします。

 

【追記1】

「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されている熊野古道ですが、熊野信仰の中核で熊野三社と称される熊野那智大社(那智勝浦町)、熊野速玉大社(新宮市)、熊野本宮大社(田辺市本宮町)3つの神社も大きな地殻変動の痕跡の上に立地されています。紀伊半島は中央部を中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線という主要な3本の断層帯(構造線)が東西に走り、四国と同様に三波川変成帯、秩父帯、四万十帯という地層が四国から連続して伸びているのですが、紀伊半島の南東部が他と大きく異なっており、大きな火成岩帯になっています。ここは約1,500万年前、超大規模な火山噴火があった跡なのです。約1,500万年という長い年月の風化によって、火山噴火の痕跡は今ではうっすらとしか残っておりませんが、ここには熊野カルデラと呼ばれる火山の活動によってできた円形をした大きな凹地があります。熊野三社と称される熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮大社の3つの神社の立地している場所は、その熊野カルデラと完全に重なっています。そして、熊野信仰の背景となっている紀伊山地の美しい風景は、太古の火山活動に由来するものなのです。その代表的な風景が那智の滝です。那智の滝の背景となっている岩は、ほぼ垂直に133メートルの高さで切り立って断崖絶壁となっていて、何本もの石の柱が並んでいるように見えます。これはいわゆる柱状節理と呼べるもので、大昔に火山だった場所の風景を代表する自然の造形です。滝の背景の岩は火山の地下に蓄えられたマグマが冷え固まった巨岩なのですが、冷却する時の収縮で縦に柱状の筋目ができたものなのです。このように、高野山金剛峯寺や伊勢神宮、諏訪大社、鹿島神宮が中央構造線上に立地するということに加えて、熊野三社も熊野カルデラに立地するわけで、どうも古くからある有名な神社仏閣は、どれも大きな地殻変動の痕跡の上に立地されていると見て間違いなさそうです。 

野三社を代表する絶景「那智の滝」です。滝が落ちる高さ133メートルの断崖絶壁の岩には“柱状節理”が見られ、大昔にここが火山だったことを示す痕跡になっています。

【追記2】

伝承には後世の人の創作が多分に加えられていることが多々あり、それをそのまま事実として信じることはできません。しかし、地形や地質、気象、そしてそれらによって引き起こされた自然災害の跡や記録はすべて疑いようのない事実であり、十分に信用に足るものです。そうした信用できる事実の積み重ねから論理的に検証して真実に迫ろうとする『理系の歴史学』、いかがですか? この『理系の歴史学』は、十分に世界で通用する論理展開だと私は思っています。それにしても、私のこの仮説が正しいかどうかは横に置いておいても、私の郷里四国というところは、実にミステリアスなところだと思います。面白い!!


2023年6月4日日曜日

四国遍路を世界遺産に(その3)

公開予定日2023/09/09

 

[晴れ時々ちょっと横道]第108 四国遍路を世界遺産に(その3) 


四国遍路は、キリスト教やイスラム教の巡礼、さらには熊野古道にみられるような最終目的地を目指す「往復型」の巡礼路と異なり、四国一円に展開する「回遊型」の長距離巡礼路であるという特徴も無視できません。すなわち、明確に“聖地”と呼べるある特定の場所を目指している道ではなくて、歩いて巡礼する四国全体が“修行の場”、“聖地(霊場)”であるという解釈もできようかと思います。ならば、この他に例をほとんど見ない『回遊型長距離巡礼路』という角度からアピールするアプローチが、世界遺産登録に向けての近道のような気がします。

 

【四国の地形の特徴】

四国の地形です。地形図を3D加工して少し斜め上から眺めてみると、四国のいろいろなことが見えてくる感じです。国土地理院が公開している「電子国土Web」の地図を加工してみました。

それには、まず四国という場所の特徴を正しく知るところから始める必要があります。四国は四方を海で囲まれた島、それも太平洋、瀬戸内海、紀伊水道、豊後水道という性格が全く異なる4つの海で囲まれた独立した島で、しかもその島の約80%が山という特殊なところです。地形的には、中央部に標高1,8002,000メートル級の山々が連なる四国山地と呼ばれる山岳地域があり、その山岳地域からわずか20~50kmの距離で標高0メートルの海に達するという極めて急竣な地形となっています。さらに、北から中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん:Median Tectonic Line)、御荷鉾構造線(みかぶこうぞうせん)、仏像構造線(ぶつぞうこうぞうせん)、さらには安芸宿毛構造線(あきすくもこうぞうせん)と呼ばれる大きな断層帯(構造線)が東西に並行して走っています。この並行する4本の大きな断層帯とその支流のような断層帯の存在により、四国山地は何枚もの屏風を並べたような地形になっています。このほぼ平行に位置する断層帯によって区切られた地帯は峡谷の形状をなす地溝帯と呼ばれる地形を形成することが多く、河川はこの地溝帯に沿って流れるため、四国随一の大河である吉野川などは四国山地に降った大量の雨水を集めて東に進み、紀伊水道に注いでいます。瀬戸内海に注ぐ河川も幾つかあるのですが、基本的に中央構造線の北側に降った雨水を運ぶだけなので、流量はさほど多くはありません。このように、この東西方向に縞々状になって存在する複数の断層帯と地溝帯により四国の地形は決定づけられています。

この四国の地形ですが、これは四国という島の成り立ちと大きく関係しています。産業技術総合研究所(産総研)が、国内の地質情報をWebで閲覧できるサイト「地質図Navi」を公開しています。それを見ると、四国を東西に横切る4本の並行する大きな断層帯の間の地質がまったく異なる性質を持ったものであるということが分かります。並行する4本の大きな断層帯のうち、中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた地質帯を三波川変成帯と呼び、 御荷鉾構造線と仏像構造線に挟まれた地質帯を秩父帯、仏像構造線の南側の地質帯を四万十帯と呼びます。この四万十帯はその付加体の形成時期から北側の白亜紀付加コンプレックスと、南側の古第三紀付加コンプレックスとに分かれ、その境界に安芸宿毛構造線という大規模な断層帯(構造線)が走っています。また中央構造線の北側の地質帯を領家変成帯と呼びます。

(注:地殻変動の原因になる大きな力の向きや大きさが変わると、断層のずれ方も変わります。そのため、中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)は、何回もずれ方を変えてきました。したがって、地質境界としての構造線と、活断層としての構造線は必ずしも一致しません。)

四国の地質図です。産業技術総合研究所(産総研)が公開している「地質図Navi」の図を加工しました。

地球の表面は10数枚のプレートと呼ばれる、固い岩盤(地殻)で覆われています。それらが動くことで、その上にある大陸も動き続けてきました(これを“プレートテクトニクス”と言います)。日本列島周辺は陸地を形成する大陸プレートであるユーラシアプレートと北アメリカプレート、海底を形成する海洋プレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートという4枚のプレートの上にあり、四国はユーラシアプレートと呼ばれる大陸プレートの上にあります。このユーラシアプレートの端に「南海トラフ」という深い海溝があり、その南海トラフにおいて陸側の大陸プレートであるユーラシアプレートの下に海側の海洋プレートであるフィリピン海プレートが沈み込んでいます。この時、「付加体」と言って海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の砂や泥といった堆積物が剥ぎ取られ、陸側プレートの中に付加していきます。そして、異なる生成時期や性質を持つ堆積物から成る付加体が1億年を超える長い時間の経過の中で地球の表面を覆うプレートが動くプレートテクトニクスによる強大な力によって圧縮され、上昇して、互いに接するようになります。その接している部分が断層帯(構造線)を形成しているというわけです。日本列島の多くの部分はこの付加体によって形成されたものであると地質学者の間では言われていますが、その付加体が最も顕著に現れているところが四国というわけなんです。三波川変成帯や秩父帯、四万十帯といった地質帯はその付加体が地表面まで露呈したもののことで、それぞれ形成された時代と形成された過程が異なるので、同じ四国と言ってもまったく異なる地質なんです。


プレートテクトニクス(気象庁HP 地震発生のしくみより)

日本付近のプレートの模式図(気象庁HP 地震発生のしくみより)

日本列島は海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込むことによって成長してきた生い立ちを持っており、そのため、過去から現在まで、幾つもの時代の付加体が集積し、その一部が再配置されたつくりになっています。日本列島の基盤は一般に大陸側ほど古く、太平洋側ほど新しい構造となっています。そこに地中深くのマグマの活動があり、さまざまな時代の火成岩が残されています。また、特に堆積岩・変成岩では、ある程度まとまった時代に形成された岩石が帯状に連続して分布する特徴があります。それぞれの境界は断層で接することが多く、その一部は断層帯(構造線)と呼ばれています。そんな日本列島の中でも、四国はすぐ南側に南海トラフと呼ばれるフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む海溝があることから、中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの構造線が東西にほぼ平行に走り、北から領家変成帯、三波川変成帯、秩父帯、四万十帯という異なる時代の付加体により形成された地質帯が縞状に存在するという極めて特徴的な地質構造を持っており、それが四国の素晴らしい景観を形作ってきました。それもさほど大きくない島の中で。こういう特徴を持ったところは日本列島に他にはなく、おそらく世界中探してもほとんどないのではないか…と思われます。

日本列島の構造区分。産業技術総合研究所(産総研)地質調査総合センターHPより


まず、中央構造線の南側、御荷鉾構造線との間に分布する三波川変成帯の基盤岩は中生代のジュラ紀(2億年前〜約15千万年前)から白亜紀(15千万年前〜約6,500万年前)にかけて、低温高圧型の変成作用を受けた結晶片岩からなります。三波川変成帯を形成する付加体は、陸地プレート(ユーラシアプレート)の下に沈み込む海洋プレート(フィリピン海プレート)に引きずられるように深さ15km30kmまで引きずり込まれ、深いわりに低い温度という低温高圧型の変成作用を受けた変成岩で、薄い板を重ねたような結晶片岩になっているのが特徴です。代表的な岩石は緑色片岩で、緑色岩(変質した玄武岩やその破片)を原岩とする結晶片岩です。ちなみに、変成岩とは、岩石がもともと出来た時とは異なる温度や圧力を受け固体のまま化学反応が進み、もとの岩石とは異なる鉱物の組み合わせになった岩石のことです。

四国の真ん中を東西に走る御荷鉾構造線と仏像構造線の間の高地に分布する秩父帯は四国で最も古い地質帯で、古生代の石炭紀(36千万年前〜3億年前)から中生代のジュラ紀(2億年前~15千万年前頃)にかけて形成されたものです。秩父帯は古生代の岩石が中心ですが、地質構造は非常に複雑であり、珪岩(けいがん:チャートや珪質砂岩が熱による変成を受けた変成岩)や砂岩のほか、石灰岩やチャート、蛇紋岩、頁岩(けつがん:水中で水平に堆積したものが脱水・固結してできた岩石。シェールとも言います)など種々の岩石からなっています。秩父帯の代表的な岩石は石灰岩とチャートです。石灰岩もチャートも炭酸カルシウムを主成分とする堆積岩の一種で、主として方解石からなり、一般的に細粒・塊状の岩石で、化石をよく含んでいます。石灰岩とチャートの違いは、石灰岩はサンゴの死骸が固まってできたもの、チャートはホウサンチュウの死骸が固まってできたものです。色は白色または灰色がほとんどですが、含まれる不純物によって黄色、赤褐色、暗灰色などもあります。愛媛県と高知県の県境付近に広がる四国カルスト高原の石灰岩は温かい南の海で形成され、フィリピン海プレートの移動により日本列島まで運ばれてきたもので、1,500メートル近い高地からサンゴや石灰藻などの化石が出てくるのはそのためです。

愛媛県と高知県の県境に沿った標高約1,0001,400メートルの山地の尾根づたいに東西約25kmにわたって断続的に広がる石灰岩の台地、「四国カルスト高原」です。

西予市宇和町と宇和島市吉田町の境にある旧宇和島街道の法華津(ほけつ)峠です。高森山(635メートル)の中腹にある標高436メートルの峠で、足摺宇和海国立公園に指定されています。眼下には、段々畑と紺碧の宇和海が織りなす雄大なパノラマが広がります。ここの地質は秩父帯で、法華津峠の南側には仏像構造線の露出部があります。石碑の下の岩はチャートでしょうか。

仏像構造線の南側にある四万十帯は中生代の白亜紀(15千万年前〜約6,500万年前)と新生代の古第三紀(6,500万年前〜約2,300万年前)にかけて形成された比較的新しい地質帯です。四万十帯は主として堆積岩である砂岩、泥岩、チャート、深成岩である玄武岩、斑糲(れい)岩などが複雑に重なり合った地層からなり、各所に海底地すべりの痕跡を残す地層や変成作用を受けた地層が挟み込まれているという特徴があります。前述のように、付加体の形成時期の違いから北側の白亜紀付加コンプレックスと、南側の古第三紀付加コンプレックスとに分かれ、それぞれに含まれる岩石の割合が違っています。

中央構造線の北側にある領家変成帯は三波川変成帯と同じく中生代のジュラ紀(2億年前〜約15千万年前)から白亜紀(15千万年前〜約6,500万年前)にかけて形成された地質帯ですが、三波川変成帯が海洋プレートの沈み込みによる低温高圧の条件で変成を受けた変成岩主体の地層であるのに対して、領家変成帯はもともとジュラ紀の付加体があったところに、白亜紀に大量のマグマが上昇し、付加体が引きずり込まれた深度が10km15kmと比較的浅いわりに高い温度で変成作用を受けたことで、高温低圧型の変成岩になっていることが特徴です。領家変成帯の代表的な岩石は白っぽい部分と黒っぽい部分が縞々になった片麻(へんま)岩で、砂岩や泥岩が高温低圧型の広域変成を受けたものです。黒雲母(くろうんも)片岩や黒雲母片麻岩など、黒雲母が多量に含まれており、光が当たるとキラキラと金色に光る特徴があります。また領家変成帯の北側の瀬戸内海沿岸に桃色で示された地質帯がありますが、ここは新期領家(花崗岩)帯と呼ばれ、後期白亜紀(1億年前~約6,500万年前)にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩質の深成岩が主体の地質帯で、活発な火山活動があった跡です。新規領家(花崗岩)帯の名称のとおり、新規領家(花崗岩)帯を代表する岩石である花崗岩は石英と長石とを主成分とする比較的粒の粗い岩石で、少量の黒雲母や角閃石を含みます。そのために白や淡灰あるいは淡紅の基質に、黒の斑点が散在して見えるという特徴があります。このように、この領家変成帯と新期領家(花崗岩)帯の境界付近ではマグマの働きが大きいことから、愛媛県の道後温泉や奥道後温泉、鷹ノ子温泉(いずれも松山市)や鈍川温泉、湯ノ浦温泉(どちらも今治市)、香川県の塩江温泉(高松市)といった温泉が古くから湧きだしています。このように四国を形成する各断層帯(構造線)の間の地質(岩質)はまるで異なっていて、その気になって眺めてみると、違いはすぐに分かります。

この地質図Naviの画像と国土地理院の地図を3D加工した四国の地形図を見ると、四国という島は様々な時代の地層が中央構造線や御荷鉾構造線、仏像構造線といった断層帯(構造線)の断層活動によって長い年月をかけて折り重なるように形成されたものであるということがよく分かります。このようにして形成された四国の地形は非常に変化に富んだものであり、その地形の中で川が流れ、植生が生まれました。そのため、少し場所を変えただけで様々な表情の景色を見せてくれますし、その景色は四季折々変わります。また、人々の生活にも大きく影響を与え、石積みなど石の文化が生まれたり、土壌と気象の違いから地域ごとに異なる多様な農耕文化が作り出されてきたわけです。言ってみれば四国という島全体が地球科学的な価値を持つ自然遺産、すなわち巨大な“ジオパーク”と言えようかと思います。ちなみに、愛媛県西部の西予市は市のほぼ全域が御荷鉾構造線と仏像構造線に挟まれた秩父帯に位置しており、市の全域が平成25(2013)に「四国西予ジオパーク」に認定されています。前述のように、秩父帯は日本列島で見られる最も古い地質帯の1つで、古生代の石炭紀(36千万年前〜3億年前)から中生代のジュラ紀(2億年前~15千万年前頃)にかけて形成されたもので、世界に誇れるほどのとても貴重な自然遺産です。石炭紀に形成された縦縞の地層が観察され、奇岩が立ち並ぶ須崎海岸や、四国カルスト高原の一部である大野ヶ原が有名で、地質の研究者や専門家が数多く訪れています。秩父帯が主体のこの西予市だけでなく、その気になって眺めてみると、四国は異なる時代に形成された地層が露呈しているところが幾つもあり、全島でジオパークと呼んでもいいくらいのところだと私は思っています。

私は15年間気象情報会社の代表取締役社長を務めさせていただいた経験から、「世の中の最底辺のインフラは地形気象」という考え方を持っていて、訪れた地方の景色や歴史、文化等をその地形気象の観点から分析することを趣味にしているようなところがあります。そういう私の観点から眺めた時、郷里である四国はメチャメチャ面白く魅力的なところであるということに気づきました。こんなにも変化に富んだ魅力的な風景や特色が狭い島の中にギュッと凝縮されているようなところ、私は国内で、いや、世界中で他には知りません。で、この四国という島の地形と地質の特徴に最初に気づいたのが役小角(えんのおづぬ:役行者(えんのぎょうじゃ)とも)をはじめとした山岳信仰の行者や修行者の人達だったのではないでしょうか。

 

【四国遍路の信仰起源…山岳信仰と海洋信仰】

(その1)で四国遍路の開祖は衛門三郎という話を書かせていただきましたが、これはあくまでも後世の人が生み出した伝承に過ぎず、四国遍路や弘法大師の研究で知られる宮崎忍勝さんが著書『四国遍路 歴史とこころ』の中で「四国遍路の信仰起源には、山岳信仰と海洋信仰があるといってよい」と指摘しているように、山岳信仰と海洋信仰が四国遍路の信仰起源に何らかの関わりがあったと私も思っています。

四国八十八ヶ所の霊場を巡る巡礼を「遍路」と言うようになったのは中世末から江戸時代初めのことで、それ以前は「辺路(へじ)」と呼ばれていたようです。この「辺路(へじ)」とは、「辺地(へち)」のことであり、陸路の「縁(ふち)」すなわち海岸線を意味するものと思われるのだそうです。12世紀に書かれた『今昔(こんじゃく)物語集』や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』でも「四国辺路」文字が出てくるのだそうです。この時の四国辺路とは四国の海沿いの路(みち)を指していたようで、今昔物語集には四国の「海辺ノ廻(めぐり)」の修行のことが書かれているのだそうです。この海洋信仰について、宮崎忍勝さんは著書『四国遍路 歴史とこころ』の中で、「祖神を祭るいくつかの神社が海のほとりに立てられていることでもわかるように、遥(はる)か水平線の彼方に、我々日本民族の妣(ひ:母の意味)なる国、そこから来てまた帰ってゆく、憧れの常世(とこよ)の国、根の国があり、海岸の洞窟は山岳の洞窟と同じく、根の国への入口とされ、あるいは妣なる胎内そのものと考えられてきた。これが中世の補陀落(ふだらく)渡海の信仰へと繋がってゆくのである」と述べておられます。この海洋信仰を始めたのは、死者を水葬で見送ったとされる“海の民”であり、水葬などの死者儀礼を行う時や、海の民が「龍神」に海上安全や大漁を祈願する際の指南役であった“行者”と呼ばれる人達ではなかったかと思われます。そんな行者と呼ばれる人達が、自らを拓き、日々修行の道として往来した「海沿いの行者路」のことを「辺路(へじ)」、彼ら行者自身のことを「辺路(へんろ)」と呼ぶようになったという解釈です。


宮崎忍勝著『四国遍路 歴史とこころ』(1985年、朱鷺書房)

いっぽうの山岳信仰に関しては、民俗学者の谷口廣之さんが「山岳崇拝はかつて日本人が抱いた特有の観念であった。春になると山の神が降り来たって田の神となり、収穫を終えると再び山へ帰って行く。山は神霊のいますところであり、また死霊の行くところでもあった」とその著書『伝承の碑』に書かれておられるように、古来、農耕、特に稲作を生活の基本に据えた日本人の暮らしの中に深くしっかりと根づいた信仰であったと考えられています。山を宗教的な場所として崇拝し、そこを巡る行為は、既に奈良時代以前から始まっていたと言われています。縄文時代に山で暮らす人々が、狩猟の成果と、日々の安全を山神に祈ったであろう行為を想像するならば、山を崇拝する自然宗教は、既に原始の時代から始まっていたとも考えられています。

その中からやがて修験道の開祖とされる役小角によって、険しい山岳に篭って苦修練行(くしゅうれんぎょう)して、特異な霊験を得ることを目的とする修験道が生まれたとされ、奈良時代には、役小角を修験道の祖と仰いだ僧侶などが高い山々に入って修行することが大流行しました。四国における山岳信仰の代表的な霊山としては、古くから多くの人々の信仰を集めてきた石鎚山があります。この石鎚山も古くは俗人の登山を許さず、ただ修行の者のみがそこに登り、そこに住むことが許された神聖な山でした。役小角(役行者)も石鎚山に篭って修行をしたと伝えられていて、その役小角が修行した場所というのが星ヶ森、そして星ヶ森の近くに創建した寺院が第60番札所の石鎚山横峰寺とされています。若き日の弘法大師が著わしたとされる出家宣言書(自伝)『三教指帰(さんごうしいき)』には、「阿国大瀧嶽(あこくたいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀()ぢ、土州室戸崎(としゅうむろとのさき)に勤念(ごんねん)す。谷響(たにひびき)を惜しまず、明星來影(みょうじょうらいえい)す。…(中略)… 或るときは金巖(きんがん)に登って雪に遇うて坎壈(かんらん)たり。或時(あるとき)は石峯(せきほう)に跨(また)がって粮(かて)を絶つて轗軻(かんか)たり」(原典漢文)…とあり、弘法大師も四国の地で海岸沿いの道を往く辺地修行とともに山岳修行を行っていたことが推測される一文が書かれています。その弘法大師の『三教指帰』の一文の「或時は石峯(石鎚山)に跨って粮を絶ち(断食し) 轗軻(苦行練行)たり」とは、この石鎚山の山中(星ヶ森、横峰寺)で修行した時の様子を記したものです。

空海著『三教指帰』(加藤純隆・加藤精一訳)ビギナーズ日本の思想(2007年、角川ソフィア文庫)

この弘法大師をはじめ四国における山岳信仰の修行者達は、修行の過程で、ある重大なことに気がついたのではないかと私は思っています。それは「四国には霊的なパワースポットが幾つもある」ってことです。そのパワースポットというのは四国を東西に横切るように延びる中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの主要な断層帯(構造線)のことだったのではないでしょうか。

前述のように、地球の表面は10数枚のプレート(地殻)と呼ばれる岩盤で覆われています。それらのプレートは地球の誕生以来、何億年、何十億年と動いて、大陸移動や隆起、沈降、火山活動、地震などのあらゆる地質現象(地象)を引き起こしてきました。これが「プレートテクトニクス」という働きです。規模の大きな地震の震源地は、プレートとプレートの境界に集中しています。中でも太平洋を取り巻く地域は「環太平洋地震帯」と呼ばれ、世界有数の地震多発地帯として広く知られています。特に、日本列島周辺には地球の表面を覆う10数枚のプレートのうち、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートという4枚のプレートの接合面があり、世界最大の地震国と呼ばれています。日本列島の総面積は、地球表面のわずか1,400分の1に過ぎないのですが、有感/無感を合わせた地震の総数は、世界で起こる地震の10パーセントにも及んでいます。これは、日本列島の周辺で4枚ものプレートが力と力でせめぎ合っているためで、そのプレート間の力のせめぎ合いによりプレート境界地震、断層型地震、火山性地震など、様々なタイプの地震を多発させているためです。

「天災は忘れたころにやってくる」という有名な言葉は、関東大震災の災厄を見た高知県出身の地球物理学者・寺田寅彦先生の言葉です。その寺田寅彦先生が書かれた『寺田寅彦随筆集』の中に「神話と地球物理学」という一文があり、そこで寺田寅彦先生は日本神話や伝説は日本の自然現象を象徴的に描写していると述べておられます。たとえば、気性の烈しい素戔嗚命(すさのをのみこと)の神話には火山現象を彷彿とさせるものが多く、八岐大蛇(やまたのおろち)の神話も火口から流れだす溶岩流を連想させると書かれています。また、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天岩戸(あまのいわと)にお隠れになって天地が真っ暗になったという神話のくだりは、おそらく火山の噴煙や降灰による天地晦冥(てんちかいめい)の状態のことだろうと説明をなさっています。「世の中の最底辺のインフラは地形気象」という考え方を持ち、その地形気象から歴史を論理的に読み解こうという「理系の歴史学」を提唱している私は、この寺田寅彦先生の解釈に100%賛同しています。

「プレートテクトニクス」などという地球物理学的な理論が確立されていなかった古代、地震をもたらす原因は地底に潜む超巨大な龍だと考えられていました (巨大なナマズという伝承もあります)。その超巨大な龍が地面の割れ目から這い出し、大暴れすることで起きる事象が地震だと。その地面の割れ目というのが断層帯(構造線)という解釈です。その断層帯の中で、日本列島で最も規模が大きい断層帯が中央構造線です。実際、この中央構造線沿いには神話発祥の地といわれる九州の幣立神宮(へいたてじんぐう:熊本県山都町)、四国を代表する山岳信仰の霊山である石鎚山、弘法大師が開創した高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)、日本国民の総氏神とされる伊勢神宮(三重県伊勢市)、年間500万人が参拝する豊川稲荷(愛知県豊川町)、御柱祭で有名な信濃国一之宮の諏訪大社上社(長野県諏訪市)、東国三社の一社で下野国一之宮の香取神宮(千葉県香取市)、同じく東国三社の一社で常陸国一之宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)など名だたる神社仏閣が、九州から関東にかけて中央構造線をなぞるように並んでいます。そして、それらの神社の幾つかには要石と呼ばれる大きな石が置かれ、地震をもたらす原因と考えられた地底に潜む超巨大な龍の頭部と尾部をその要石で押さえて地震の鎮静を祈っています。このあたり、2022年に公開されて大ヒットした新海誠監督のアニメーション映画『すずめの戸締り』のモチーフになっています。この『すずめの戸締り』は日本各地の廃墟に点在する災いの出口であるを閉じていく少女の物語でしたが、その映画の中でも災いは龍の姿をした巨大地震で、扉を閉じる鍵は要石でした。その『すずめの戸締り』のストーリーの前半部分の主要な舞台となったところが愛媛県。そして最初に閉じた災いの出口であるは確か西条市にありました。まさに中央構造線ですね。

前述のように、四国にはその中央構造線だけでなく、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの主要な断層帯(構造線)が東西に並行して走っています。まさに、四国は圧倒的破壊力を持つ地球の巨大なパワー(エネルギー)が漏れ出す地面の裂け目、パワースポットの集合体のようなところであると言えますね。しかも断層帯であるということは、斜面が通常の山と比べて急で、しかも断層付近は両側の岩盤から猛烈な力がかかっているので著しく破砕された箇所もあり、山肌は脆くなっていて、豪雨時には地すべり等の地盤災害が発生しやすいところでもありますしね。すなわち自然災害多発地域だと言うことです。おそらく、四国の高い山々の山中に入った山岳信仰の修行者達はそれらのことに気がついたのではないでしょうか。専門的な科学的知識がなくとも、足元の地盤(土壌)や岩盤(岩石)の不連続な違いから、そこに何らかの大地の裂目(地質の境界)があるということは、明確に分かったでしょうからね。奈良時代以前に創建された伊勢神宮や諏訪大社、香取神宮、鹿島神宮といった名だたる有名な神社が幾つも中央構造線沿いに鎮座していることを考えても、当時の人達の中には、既にこのあたりの科学的知識をある程度持ち合わせた特殊な技能の持ち主がいた…と、十分に考えられますし。中央構造線上の長野県伊那市に分杭峠(ぶんくいとおげ)というゼロ磁場で全国的に有名な場所があります。ゼロ磁場とは、電磁誘導でいう2つの磁界(NS)の方向が向き合って、ゼロになっている場所のことです。中央構造線上には、この分杭峠のほか、伊勢神宮や諏訪大社などでもゼロ磁場が発見されているそうで、ゼロ磁場と中央構造線をはじめとした巨大な断層帯とはなんらかの関係がありそうです。この断層帯とゼロ磁場との関係については科学的な根拠の説明はまだ行われていないので軽はずみなことは言えませんが、気功師と呼ばれるスピリチュアル(霊的)能力の強い人の中には、によってゼロ磁場が分かる人がいらっしゃるようで、現在パワースポットと呼ばれている場所の多くはそういう方々が発見したゼロ磁場であると言われています。もしかすると山岳信仰の行者の中にもそうしたスピリチュアルの能力の高い人がいらっしゃって、中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)上にゼロ磁場を見つけて、そこに寺院を創建したのではないかという推察もできようかと思います。これに関しては方位磁石を持って現地調査を行ってみないと、なんとも言えません。いずれにしても、このあたりの自然と真正面から向き合う能力、私達現代人はむしろ退化してしまっているのかもしれません。 

 

……(その4)に続きます。


『四国遍路を世界遺産に(その4)

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