2022年6月16日木曜日

鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路④

 公開予定日2022/11/06

[晴れ時々ちょっと横道]第98回 鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路④


前回の忽那諸島巡りから4ヶ月が経った522日、睦月島に行ってみることにしました。三津浜港1010分発の中島汽船東線航路のフェリー「ななしま」に乗船しました。


三津浜港1010分発の中島汽船東線のフェリー「ななしま」で出発です。新型コロナウイルスによる移動制限も緩和されたことと、天気に恵まれた休日ということもあり、この日はそこそこの乗客が乗船しています。

睦月島は、③でも書きましたが、周囲13km、面積3.82平方km。現在、人口は現在280人ほどで、農業(柑橘類)と水産業(タイ、メバル等)の島です。睦月島の島名の由来は、第7代孝霊天皇の皇子の彦狭島命(ひこさしまのみこと:別名・伊予王子)と和気姫の子「むつき」がこの島に流れ着いたという説や、河野家(古代越智氏族)の祖先(彦狭島命の三男の小千王子)がこの島に逃げ落ちた時に月が出ていなかったからという説、また災いが続いたので「無須喜」を改めたとの説など様々な説があるようなのですが、いずれにしても古くからある島名であることは間違いないようです。ちなみに、彦狭島命は伊予郡松前町にある伊予神社に主祭神として祀られています。

で書きましたが25年前に亡くなった私のたった1人の弟は、最初の赴任地である中島中学校のあと、昭和62(1987)4月にこの睦月島にある睦月中学校(中島中学校睦月分校を経て、現在は廃校)に赴任しました。全校生徒20数名の離島の小さな中学校だったので、理科のほかに数学や技術家庭科も教えていたと聞いた記憶があります。そして、その睦月中学校に赴任した昭和6210月に開催された沖縄国体(国民総合体育大会)に陸上競技の成年男子1万メートル競歩の同競技愛媛県初の選手として出場し、12位に入って、愛媛県に貴重な天皇杯のポイント1をもたらしました。 

繰り返しになりますが、中学から大学まで野球部に所属した弟が競歩を始めたのは理科の教師として中島中学校に赴任してからのことです。そこで今は中島トライアスロンのコースになっている中島の周回道路で独学で競歩を練習し、練習開始から3年目に腕試しのつもりで初めて出場した愛媛県の記録会で、いきなり当時の1万メートル競歩の愛媛県記録を更新し、さらには国体の出場標準記録を突破し、沖縄国体出場ということになったわけです。なんと、公式戦2戦目が国体でした。25歳の時のことです。愛媛陸上競技協会からコーチがついたのは国体出場が決まってから。とは言え、コーチが島まで来て指導してるわけでもなく、ほとんど独学での練習で国体に出場したわけです。

全校生徒20数名の離島の中学校の教師が、教師になって始めた競歩で国体に出場し、多くの選手が沖縄の強い陽射しと猛烈な暑さにやられて途中棄権する中、最後はヘロヘロになって倒れ込むようにゴール(完歩)。男子1万メートル競歩はマイナーな競技なのでテレビの実況中継などなかったのですが、その日の夜のスポーツニュースで、「猛暑との闘いとなった沖縄国体」という特集の冒頭で、明らかに焦点が定まっていない虚な目で、フラフラになりながらも、倒れ込むようにゴールする弟の様子が映りました。その時点で既に弟からは「12位になった!」と明るい声で電話をもらっていたので、「12位なんて凄いじゃん」って声をかけていたのですが、まさかこんな過酷な試合の中での12位とは思ってもみませんでした。まさに死力を振り絞って勝ち取った12位でした。

まったくの無名でほとんど期待されてもいなかった選手が公式戦2戦目にしていきなり12位に入って、愛媛県に貴重な天皇杯のポイント1をもたらしたということで、一躍注目を集めました。漫画やテレビのドラマのようなとんでもないことをやっちゃったわけです。明るい話題ということで、愛媛新聞にも大きく紙面を割いて取り上げていただきました。「死力を尽くしたぞ、先生は」とか「やればできるということを生徒達に教えたくて」という見出しの文字が踊っていたのを記憶しています。

その亡き弟が沖縄国体に出場した当時に勤務していた睦月中学校を訪ねるとともに、弟が練習していた睦月島の周回道路をウォーキングしてみようと思ったわけです。現在、仕事の関係もあり、埼玉県の自宅と松山市の実家を毎月のように行ったり来たりする生活を送っている関係もあり、すぐに行くことができず、どうせなら中島汽船のフェリーの船内で何度も案内放送のたびに流れる坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』の歌詞の通りにレモンや伊予柑、ミカンの白い花が咲き誇り、島中を甘い香りが包む5月のこの時期に睦月島を訪れてみることにしたわけです。


この1010分発のフェリーは、途中、松山観光港に寄港します。広島宇品港行きの石崎汽船の高速船スーパージェットが出発を待っています。次の寄港地は睦月港です。

三津浜港を出港した中島汽船東線のフェリーは途中松山観光港に寄港し、1055分に睦月島の睦月港に到着しました。三津浜港を出港してから45分、松山観光港からはわずか25分。近いです。


睦月港が近づいてきました。ここで坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』をバックに、睦月港到着の案内放送が流れてきました。中島汽船と言えば、この坂本冬美さんの『白いかおりの島へ』ですね。忽那諸島のイメージにピッタリです。

船内に、坂本冬美さんが歌う旧中島町のイメージソング『白いかおりの島へ』をバックに、睦月港への入港を知らせる案内放送が流れたので、車両甲板前方にある下船口へ。まもなく接岸。10名ほどの乗客と軽のワゴン車1台が下船しました。


1055分定刻に睦月港に到着しました。三津浜港を出港してから45分、途中の松山観光港からだと25分。近いです。

睦月港の桟橋から見える海は、海水が澄んでいて、とても綺麗です。海岸沿いに民家が建ち並んでいます。

まずは睦月中学校の跡を訪ねることにしました。睦月中学校は島の生徒数の減少により平成13(2001)3月末に廃校になっています。廃校になってから既に20年以上の月日が経っており、校舎も当時のまま残っているのかどうかさえも分からなかったので、睦月港の傍で獲ってきたばかりの魚の売買をしている私より少し歳上と思われる地元のご婦人3人に声をかけて、訊いてみることにしました。


港のそばで獲れたばかりの魚を売り買いしているこの地元の奥さん達に道を聞いたところから、奇跡のような出会いが生まれました。真ん中のスクーターに乗って魚を売りに来ているご婦人が「ご婦人A」です。

私「廃校になった睦月中学校の跡ってどこにあるのですか?」

ご婦人B「そこを曲がってすぐ。まだ建物は残っているから、すんぐに分かるよ」

しかし、廃校になった中学校を訪ねてきた私を不審に思ったのか、

ご婦人B「もしかして、卒業生なん?」

私「いや、私の弟が随分昔にその睦月中学校の教員をやっていたので、どんなところだったのか知りたくて、訪ねてきたんです」

ご婦人B「へぇ〜。で、弟さんのお名前は?」

私「越智哲朗です」

そこに割り込んできたのが魚を売りに来ていた主婦

ご婦人 A「えっ!越智先生!! もしかしてウチの子供の担任だった越智先生のことかもしれん。それって何年のこと?」

私「たぶん、昭和62年から平成元年のことです」

ご婦人 A「やっぱりぃ、あの越智先生のことやわ。ウチの子は昭和63年の3月に卒業したから、確か卒業した時の担任が越智先生やった。若くてほっそかった先生やったよね。あそこの教員住宅に住んでおられたわ」

私「えっ! そうなんですか!」

ご婦人A「越智先生は朝に夕に島の周囲を走っていたのを、よぉ〜く覚えてるわ。確か大きな大会にも出場して…」

私「ええ、沖縄国体!」

ご婦人A「そうそう、睦月中のヒーローだったからねぇ。覚えてない? わっかい先生が朝に夕にこのへんを走っておったろ」

ご婦人 C「ウチの下の子はその2年前に卒業したから、直接教えて貰ってはないけど、よぉ〜このへんを走りよった先生なら覚えとるで」

ご婦人B「おったおった」

奇跡のようなことが起きました。道を尋ねた相手の人の中に、偶然にも弟が受け持ったクラスの生徒さんのお母さんがいらっしゃったのです。しかも他のお二人も弟のことを覚えていてくださいました。ビックリすると同時に嬉しかったです。弟がこの睦月島で頑張っていた痕跡が今も残っていることを知りました。

その後は、弟が睦月中学校に3年間勤務した後、松山市内の椿中学校、そして湯山中学校に異動になったこと、椿中学校時代に結婚して、子供が2人いること。25年前に敗血症による多臓器不全で亡くなったこと、弟が亡くなった時に生後3ヶ月だった下の子(私の甥っ子)が今は青年海外協力隊の一員としてアフリカのガーナ共和国に派遣されて、小学校の先生をやっていることなどをお話ししました。また、過日、25回忌の法事で弟の遺影を見つめているうちに、私が知らない弟の生きていた当時の痕跡を訪ねてみようと思い立ったことなども話させていただきましたが、ご婦人がたは目にうっすらと涙を浮かべておられました。お子さんが弟の教え子だったご婦人Aからは、弟の睦月中学校教諭時代の逸話のようなものもお聞かせいただきました。突然のことだったとは言え、本当にありがたかったです。

そんな弟の思い出話を30分ほどさせていただいた後、睦月中学校跡を訪ねてみました。教えていただいた角を曲がるとすぐに明らかに学校と思える建物が見えました。正門の門柱には「松山市立 睦月小学校」の文字の表札が掲げられています。この睦月小学校と同じ敷地に睦月中学校もありました。その睦月中学校の校舎も取り壊されることもなく、今も残っています。


睦月小学校と睦月中学校の跡地です。子供の数が少なくなって、今は両校とも廃校になってしまっています。

ここが弟が勤務していた睦月中学校(中島中学校睦月分校を経て現在は廃校)です。

「中島町立睦月中学校跡」と刻まれた記念碑が立っています。


生徒数の減少により、睦月中学校は中島中学校睦月分校を経て、平成13(2001)3月末に廃校となりました。弟が睦月中学校を離任したのは平成2(1990)のことですので、それから11年後のことです。現在、睦月島の中学生は、中島にある松山市立中島中学校へ通学しているとのことです。中島汽船東線のフェリーは1日に4往復、睦月港に寄港するのですが、朝の740分に出るフェリーに乗ると中島の大浦港に着くのが815分。この便で登校し、帰りは大浦港1730分のフェリーに乗ると、睦月港到着は1808分。十分に通学はできます。

いっぽう、睦月小学校のほうは睦月中学校が廃校になった後もしばらく存続したようなのですが、平成21(2009)4月以後は休校となっています。廃校ではなく休校ということなので、再開される可能性も僅かながらでもあるということ。したがって、正門の門柱には「松山市立 睦月小学校」の文字の表札が掲げられているのでしょう。校舎も時々松山市の職員が整備をしているようで、休校になってから13年が経過しているというのに、今すぐにでも使えそうなくらいに綺麗です。睦月中学校の校舎のほうも、廃校になって20年以上が経過しているというのに、こちらも今でも使えそうなくらいに綺麗です。狭い運動場も、地元の人達が整備しているのでしょう、雑草が生い茂っているという状態ではなく、今すぐにでも子供達が元気に走り回れる状態が保たれています。まさに、時間が止まっているかのような風景です。ここが弟の勤務した職場だったのですね。中学校の校舎の横に「中島町立 睦月中学校跡」と刻まれた石碑が建っています。

睦月島は、大洲市長浜の沖にある青島と並んで、島のいたるところで自由に猫が暮らす猫好きにはたまらない“猫島”として有名なところなのだそうです。確かに睦月港でフェリーから上陸した瞬間に多くの猫達が出迎えてくれ、私がご婦人がたに道を尋ね、その後、話をさせていただいている間も、人懐っこい数匹の猫が脚にまとわりついてきていました。そんな猫達の格好の遊び場が睦月小学校・睦月中学校跡の運動場で、今は子供達に代わって、猫達が思い思いの場所で昼寝をしたり、元気に運動場を駆け回っていたりしています。そういう猫達と触れ合いたくて、わざわざフェリーに乗って睦月島を訪れる人もいるのだそうで、この日も猫好きの若いカップルが餌や猫と遊ぶ玩具を持って、松山から私と同じフェリーに乗って訪れていました。睦月小学校・睦月中学校跡の運動場は、そういう猫好きのかたと猫達との触れ合いの場になっています。


睦月中学校と睦月小学校はどちらも廃校になっていますが、今は校内に猫がいっぱい暮らしています。睦月島は猫島として有名らしく、私と同じフェリーで松山から猫好きの若いカップルが餌を携えて、猫と戯れにやって来ていました。


睦月中学校を訪れた後は、かつて弟が練習を積んだであろう睦月島の周回道路をウォーキングしてみることにしました。睦月島の周囲は約13km。先ほどお話をさせていただいたご婦人がたによると、睦月島の主要な道路は『睦月スカイライン』と呼ばれる1本の道路だけで、迷いようがないとのことでした。弟が練習を積んだのもこの『睦月スカイライン』で間違いがないようです。


睦月島の案内図です。島には8の字を横に倒したように周回道路があります。主な道路はこの周回道路だけなので、迷うことはありません。その周回道路の愛称が「睦月スカイライン」。行ってみると、ただの農道なのですが

睦月島の地形図です。睦月島は南側の睦月港の周辺にわずかばかりの平野があって、そこに集落がある以外は、ほとんどが山です。睦月スカイラインはその山の中腹、海抜100メートルあたりを通っています。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

案内図によると、ここが睦月小学校中学校跡近くにある「睦月スカイライン」の入口です。


睦月島の集落は睦月港を中心とした1箇所に固まってあります。その集落のはずれに、當田八幡神社(とうだはちまんじんじゃ)という古い神社が建っています。創建約1,100年という歴史ある神社で、祭神としては田心姫(たぎりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)3人の女神、いわゆる「宗像三女神」が祀られているとのことです。この宗像三女神は海上交通の平安を守護する玄界灘の神。この當田八幡神社も海上交通の平安を守護するために創建された神社なのでしょうね。鳥居の横には乃木希典が揮毫した「日露戦役記念碑」があります。かなりの達筆です。もしかして、203高地での戦死者の中に睦月島出身者がいらっしゃったのかもしれませんね。


當田八幡神社(とうだはちまんじんじゃ)です。

當田八幡神社は創建約1100年という歴史ある神社で、田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)の三女神が祀られています。

鳥居の横には乃木希典が揮毫した「日露戦役記念碑」があります。かなりの達筆です。もしかして、203高地での戦死者の中に睦月島出身者がいらっしゃったのかもしれませんね。

集落を出て、地元で『睦月スカイライン』と呼ばれている島の周回道路を歩きます。睦月島には幟立山と高松山という2つの山があり、その2つの山を8の字を横に倒したような形で取り囲むように『睦月スカイライン』と呼ばれている周回道路が延びています。この日はその西側の幟立山の周囲を回る道を歩くことにしました。


典型的な島の漁村の風景です。その中を睦月スカイラインは伸びています。

これが「睦月スカイライン」。ただの農道です。

歩き始めてすぐに気づいたこと。この道路は『睦月スカイライン』というお洒落な名前で呼ばれていますが、実際のところはただの細い農道だってことです。考えてみると、睦月島には睦月港周辺の集落が1箇所あるだけで、ほかの場所には人は暮らしておらず、島のほとんどがミカンや伊予柑、レモンといった柑橘類の畑になっています。なので集落と集落を結ぶ道路は必要とされず、必要な道路はそんな柑橘畑と人が暮らす集落とを結ぶ農道だけというのは当然のことです。

そうした農道ですので、道の両側の急な斜面はずっと一面の柑橘畑になっています。ちょっと終わりかけてはいましたが、この時期の柑橘畑にはミカンやレモンの白い花が咲き誇り、その花が放つ甘い香りが周囲を包んでいます。中島汽船のフェリーの船内で頻繁に流れる坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』、まさにその歌の通りの世界でした。なんとも幸せな気分になります。


周囲は一面の柑橘畑です。中島汽船のフェリーの船内で頻繁に流れる坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』、今日の睦月島は、まさにその歌の通りでした。ちょっと終わりかけていましたが、ミカンやレモンの白い花が咲いて、島中を甘い花の香りが漂っていました。

ミカンの花です。

こちらはレモンです。花はちょっと黄色がかっていて、ミカンより大きめです。

睦月スカイラインは幟立山の中腹の海抜100メートル前後の高いところをアップダウンを何度も繰り返しながら進んでいきます。スカイラインは一般的に標高が高いところを通る山岳道路に使われる名称なので、まさに『睦月スカイライン』は言い得て妙と言える愛称です。弟はこのキツい道路で練習を積んだことで、1万メートル競歩の当時の愛媛県記録を塗り替え、この種目の愛媛県最初の選手として国体に出場し、12位に入ったというわけですね。


睦月スカイラインです。まだまだ登り坂です。こんなアップダウンの激しい道で、弟はトレーニングを積んでいたのですね。そりゃあ陸上のトラックでは速く歩けるわ。

睦月スカイラインはかなり標高が高くなってきました。

睦月島では民家は睦月港の周囲にひと塊りに固まっていて、他に集落はありません。あるのは柑橘畑ばかりです。

手前に見える島は興居島(ごごしま)。その向こうは松山市の高浜あたりです。

ちなみに、弟が公式戦2試合目に関わらず、全国からトップアスリート達が集まる沖縄国体でいきなり12位に入ったのには訳があると私は思っています。前述のように、沖縄国体は強い直射日光と猛烈な暑さとの闘いになりました。成年男子1万メートル競歩では、有力選手の多くが競技途中で脱水症状を起こして次々と途中棄権。そういう中で弟はフラフラになりながらも最後まで歩ききり、12位でゴールしたというわけです。その頑張りの背景には、この起伏の激しい『睦月スカイライン』でのトレーニングが間違いなくあったのではないか…と私は思いました。ここで毎日走っていたら、そりゃあちょっとやそっとのことでは、へこたれません。根性もつきます。沖縄国体12位は、明らかにこの睦月スカイラインで練習を積んだ成果ですね。


今日も穏やかな瀬戸内海です。海水が澄んでいるのがよく分かります。綺麗な風景です。興居島の小富士がはっきり見えます。

忽那諸島の島々が綺麗に見えます。気温が高いので、ちょこっと靄っています。

向こうに見える島は忽那諸島の主島である中島です。

中島との間の海峡を漁船が進んでいます。瀬戸内海らしい風景です。

綺麗な入り江がありますが、そこに下りる道はなさそうです。島の周囲はずっとこんな感じで、海岸線に平地はほとんどありません。

起伏の激しいキツいコースではありますが、標高が少し高いぶん、景色は抜群にいいです。景色の良さでは以前に歩いた中島以上かもしれません。きっと弟もこの美しい瀬戸内海の景色を眺めながらトレーニングを積んだものと思われます。5月にはこうして柑橘の白い花と甘い香りに包まれて。兄としても感慨深いものがあります。それにしても美しい風景です。

5月のこの時期、『睦月スカイライン』の沿道には柑橘だけでなく、さまざまな花が咲いています。まさに花盛りです。その幾つかをご紹介します。


センダン(栴檀)の花です。このセンダンの葉は強い除虫効果を持ち、かつては虫除けに利用されていました。木材は弱い芳香があり、建築や家具、数珠に使われます。

ノイバラ(野茨)です。


ショウジョウカ(猩猩花)です。

ゴールドキウイの雄花です。雌花の畑はまた別にあるようです。

ビワの実がなっています。

2時間弱ウォーキングをして睦月港周辺にある集落に戻ってきました。前述のように睦月島の集落はここだけで、島の集落は、港近くに寄り集まるように家が立ち、細く長い路地の多い独特の景観を形作っています。


集落を流れる川ですが、海水が逆流しているので、泳いでいる魚は海の魚ばかりです。30cm近いボラが幾つもの群れで泳いでいるのが見えます。10㎝ほどのフグはウジャウジャいます。

常夜燈です。昔の港の灯台ですね。

島の集落は、港近くに寄り集まるように家が立ち、路地の多い独特の景観を形作っています。歩くと、古めかしい窓や細工をほどこした玄関を持つ家に出会います。

歩くと、古めかしい窓や細工をほどこした玄関を持つ家に出会います。集落には、焼いた木の板を壁に貼った家々が数多く並んでいることに気づきます。島の風景の中で黒っぽい外壁の家屋が建ち並ぶ姿はどこか郷愁を覚えてしまいます。この外壁材は「焼杉(やきすぎ)」と呼ばれるもので、その名の通り、杉板の表面を焼き、炭化させたものです。この炭化させるというのがポイントで、炭化層があることで、通常の杉板にはない耐久性がプラスされます。通常の杉板を外壁に使用すれば、木目の柔らかい部分(夏目)が風雨に曝されることで痩せてしまったり、日に当たりにくい部分から腐ってしまうことがあります。焼杉の場合、表面の炭化層は腐ることはありませんので、腐食のリスクはぐっと下がります。この焼杉という手法は西日本の一部の地域で古くから伝わる手法で、全国的なものではないようです。他の地域でも外壁を黒く塗った古い建物を見かけることがありますが、これは「黒塀」。「黒塀」の黒い塗装は渋墨(しぶずみ)塗といって、これも日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもので、防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられています。


集落には、焼いた木の板を壁に貼った家々が数多く並んでいることに気づきます。この外壁材は「焼杉(やきすぎ)」と呼ばれるもので、その名の通り、杉板の表面を焼き、炭化させたものです。


明治から昭和の中頃まで、睦月島では「縞売り」という伊予かすりの行商が全国各地へ赴き、集落には繁栄した人の豪邸が立ち並んでいたといわれています。東海岸には今も「長屋門」と呼ばれる立派な門がまえの家屋が並び、その面影を留めています。長屋門は台風や高波から家を守るとともに、蔵や居室の役割も果たしています。門をくぐると「ヒノリワ」と呼ばれる中庭があり、その奥に母屋があります。


明治から昭和の中頃まで、睦月島では「縞売り」という伊予かすりの行商が全国各地へ赴き、集落には繁栄した人の豪邸が立ち並んでいたといわれています。東海岸には「長屋門」と呼ばれる立派な門がまえの家屋が並び、その面影を留めています。

長屋門は台風や高波から家を守るとともに、蔵や居室の役割も果たしています。門をくぐると「ヒノリワ」と呼ばれる中庭があり、その奥に母屋があります。


ウォーキングを終えて睦月港に戻ってきてみると、前述のご婦人Aが待ってくれていました。(睦月港に寄港するフェリーは14便で、午後は2便しかありませんから)「やっぱりこの便だ」と言って出迎えてくれたご婦人Aがわざわざ自宅から持ってきてくれたのは、お子さんの卒業アルバム。そこにはしっかり担任教諭として弟が写っていました。話しているうちにご婦人Aの目にうっすらと涙が。「スマホで撮影して、越智先生の奥さんとお子さんに、是非見せてあげてください。特に、アフリカのガーナで小学校の先生として頑張っている越智先生の息子さんに」と…。さらには「越智先生の墓前にでも…」と、でっかい夏柑を5個もお土産にいただきました。歩き疲れた身体にはいくぶん重かったですけれど、その重みがメチャメチャ嬉しかったです。それにしても、学校の先生って羨ましくなるくらいに素晴らしい職業だと思っちゃいました。


弟の教え子のお母さんであるご婦人A が、なんと、お子さんの卒業アルバムを持って、港の前で待っていてくれました。ありがたいです。

私とご婦人Aが卒業アルバムを見ながら話していると、地元の人が集まってきて、話の輪に入ってくれました。この男性2人も弟が毎日トレーニングで走って(歩いて)いたのをよぉ〜く覚えていてくれて、そりゃあメチャメチャ速かったよ…などと言ってくれました。ありがたいです。

卒業アルバムに弟が写っていました。担任教諭なので、真ん中に写っています。昭和62年度卒業ということは沖縄国体に出場した時に受け持っていた生徒さん達なのですね。この時、弟は26歳でした。


お土産にいただいた夏柑です。かなりデッカいです。

そういうとんでもなく素晴らしい出会いが、今日はありました。全校生徒20数名の離島の中学校の教師が、教師になって独学で始めた競歩で国体に出場し12位になったことといい、今回の出会いといい、弟はなんともドラマチックなことを残してくれたものです。弟の凄さというものを実感しました。こういう出会いがあったので、一気に親近感が湧き、初めて訪れた島ではあるのですが、亡き弟のおかげで、「第二の故郷と呼んでもいいくらいの島」ができたような気分になっています。景色は興居島や中島以上に綺麗だし。港の桟橋から眺めても、綺麗に澄んだ海の中に魚がウジャウジャ泳いでいるのが確認できますし。また季節を変えて必ず訪れようと思っています。弟が毎日練習を積んだであろう周回道路「睦月スカイライン」の東半分を歩くのをまだ残していますし


睦月港1448分発の三津浜港行きのフェリーが定刻通りにやってきました。睦月港に寄港するフェリーは14便。次の船は1808分。なので、ちょっと早いですが、このフェリーで松山に帰ることにしました。

睦月島が小さくなっていきます。また、絶対に来ますね。

さぁて、次の鉄分補給はどこに行こうかな?

 

【追記】

中島汽船のフェリーの船内で案内放送のつど流れる坂本冬美さんが歌う旧中島町イメージソング『白いかおりの島へ』です。忽那諸島の島々は、まさにその歌のとおりのところでした。

『白いかおりの島へ』YouTube 坂本冬美+中島汽船プロモーションビデオ







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