2022年5月6日金曜日

鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線①

 公開日2022/09/01

 

[晴れ時々ちょっと横道]第96回 鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線①

 

愛媛県の県都・松山市の中心部にある松山市駅を拠点に郊外電車や市内電車を運行する伊予鉄道。このうち郊外電車は松山市駅を起点に北西方向に高浜線、南西方向に郡中線、東方向に横河原線といういずれも約10km3路線が放射状に延びており、(その1)(その2)ではこのうちの高浜線と横河原線について書かせていただきました。今回は残った郡中線について書かせていただきます。


【伊予鉄道郡中線】

郡中線(ぐんちゅうせん)は松山市街の中心部に位置する松山市駅を起点に、松山市に隣接する伊予市の郡中港駅までを結ぶ総延長約11.3kmの鉄道路線です。この郡中線の歴史も古く、開業したのは明治29(1896)のことです。ただ、この郡中線、開業させたのは伊予鉄道ではなく、南予鉄道という別の会社でした。明治29(1896)に藤原駅(現在の松山市駅)〜郡中駅間を一気に開業。この時、車両及び線路などの設備は伊予鉄道と共通規格になっていました。

この南予鉄道はさらに西の八幡浜方面への意欲的な延伸構想もあったのですが、資金難から郡中駅までの開業にとどまり、開業から4年後の明治33(1900)に早くも伊予鉄道に吸収統合され、伊予鉄道郡中線となりました。その際、起点の藤原駅も外側駅(現在の松山市駅)に統合されています。その後、国鉄(現在のJR四国)の予讃線が昭和5(1930)に南郡中駅(現在の伊予市駅)まで延伸されると、それに対抗して郡中線も郡中港駅まで延伸を行い、現在の形になっています。昭和12(1937)に線路幅が軽便鉄道規格の762mmから他路線と共通の1,067mmへと改軌され、昭和25(1950)には電化が完了しています。

郡中線は高浜線とともに、伊予鉄道の経営を支えてきた主力路線ですが、当初のその輸送の主体は旅客輸送というよりも、むしろ貨物輸送でした。高浜線の途中の三津駅近くに三津浜港、終点の高浜駅の近くに高浜港があるように、郡中線の終点・郡中港駅には同名の港・郡中港があります。どちらも松山市の玄関港ですが、かつては高浜港が主として京阪神方面の海の玄関、郡中港が主として九州方面との海の玄関といった使い分けがなされていたようです。で、郡中港に陸揚げされた貨物を松山市街に運ぶために敷設された鉄道が郡中線ということでした。

郡中線路線図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

 【松山市駅】

郡中線で最初にご紹介するのは松山市駅です。この松山市駅は郡中線だけでなく、高浜線、横河原線という伊予鉄道の郊外電車3線の起点駅であり、駅前広場には、道後温泉方面へ向かう伊予鉄道の市内電車線(軌道)の松山市駅停留場、バスターミナル、タクシープールなどがあります。愛媛県の県都・松山市の実質的な中心駅であり、1日平均の乗降人員数は約27,000(2015年調査)JRを含め、四国地方で最多の乗降人員数を誇る駅です。また、駅ビルには四国最大の百貨店であるいよてつ高島屋が入居しており、周辺には繁華街やオフィス街が広がっています。また、駅ビル(いよてつ高島屋)の屋上には「大観覧車くるりん」が乗っていて、松山市街のどこからもその姿が分かるランドマークになっています。

開業は高浜線が開通した明治21(1888)、三津駅、古町駅とともに、四国最初の鉄道駅として開業しました。松山市に国鉄(現在のJR四国)の松山駅が開業する前からほぼ現在の場所にあり、開業当時は単純に松山駅という駅名でしたが、その翌年にいったん外側(とがわ)駅と改称しました。明治29(1896)にその外側駅に隣接して南予鉄道(現在の郡中線)の藤原駅が開業しましたが、明治33(1900)の伊予鉄道による南予鉄道の吸収合併により外側駅に統合され、明治35(1902)、再び松山駅と改称されました。

現在の“松山市駅”に改称したのは昭和2(1927)。香川県の高松駅から西進してきた国鉄の予讃線(当時の呼称は讃予線)が松山にも到達し、松山駅を開業したことによる措置でした。もともと松山駅を名乗っていた伊予鉄道は当初強く反発していたのですが、最終的には国(日本国有鉄道)の圧力に負けて松山市駅に改称しました。全国の県庁所在地の都市にある駅で“◯◯市駅と名乗っている駅はこの伊予鉄道の松山市駅と和歌山県和歌山市にある南海電鉄の和歌山市駅のみです。現存する日本の私鉄で最も古い歴史を有するのは南海電鉄、2番目は伊予鉄道。国鉄の線路がその都市まで延びてくる以前からあった鉄道路線ならではの名誉ある呼称と言えます。地元ではJR四国の松山駅と区別するため「市駅(しえき)」と略して呼ばれ、道路標識にもその表記が見られるなど、市駅の呼称は松山市民の間で広く使われています。

 

伊予鉄道の松山市駅です。駅前広場には、道後温泉方面へ向かう伊予鉄道の市内電車線(軌道)の松山市駅停留場、バスターミナル、タクシープールなどがあります。

駅ビルには四国最大の百貨店であるいよてつ高島屋が入居しており、周辺には繁華街やオフィス街が広がっています。駅ビル(いよてつ高島屋)の屋上には「大観覧車くるりん」が乗っていて、松山市街のどこからもその姿が分かるランドマークになっています。

松山市駅前にある坊っちゃん広場に伊予鉄道の創設者で初代社長を務めた小林信近翁の銅像が建っています。建立されたのは平成28(2016)10月のことで、松山市で一番新しい銅像なのだそうです。

松山市駅の所在地は湊町5丁目。すぐ近くには千舟町という地名の町があります。市内中心部の街中に湊()や舟の字のつく地名があることを不思議の思われた人も多いかと思います。実は伊予鉄道が開業するまでここに港があり、ここから中ノ川という水路を利用し、三津まで商品や米を小船で輸送していました。これが地名の由来であり、ここに伊予鉄道の起点駅である松山市駅が設けられた最大の理由であるとも考えられます。千舟町周辺にはその名の通り中ノ川の水運を担っていた運送業者が数多く集まっていましたから。おそらく、そのような運送業者が創立当初の伊予鉄道の主要な株主だったと容易に推定されます。そういう運送業者が集まって、輸送手段を水運から鉄道に切り替えたのが、伊予鉄道創設の主たる目的だったのでしょう。現在、中ノ川は一部暗渠を残して、ほとんどの区間で埋め立てられて、中ノ川通りに生まれ変わっています。

ちなみに、愛媛県の県都である松山市の都市としての歴史はさほど古いものではありません。前回第95回伊予鉄道横河原線の項で述べたように、松山市の都市としての歴史は関ヶ原の戦いにおける功績により20万石の石高に加増された伊予松前(正木)城城主の加藤嘉明が、松山平野にポツンと立つ勝山の山頂に新しい城を築城したことに始まります。加藤嘉明はまだ築城途中の慶長8(1603)に本拠地をこの勝山山頂の新しい城に移し、この城を松山城と呼ぶこととしたので、「松山」という地名が公式に誕生しました。

加藤嘉明は松山城の築城と並行して城下町の整備を進めていきました。彼は前任地の伊予郡松前町から豪商達を呼び寄せて西堀端の1箇所に住わせ、そこを松前町としました。次に道後湯月城周辺の商人を移動させ、そこに道後町、今市町、一万町を作りました。また文禄・慶長の役(朝鮮征伐)で連れ帰った捕虜を1箇所に住まわせ唐人町としました。今の三番町1丁目、2丁目にあたります。

ところが、松山城の築城完成を目前とした寛永4(1627)、会津藩主だった蒲生忠郷が嫡子がいない状態で亡くなったことで蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで加藤嘉明が会津藩へ移封され、同時に435500石に大幅加増されました。石高2倍以上という破格の条件ではあったものの、四半世紀の時をかけて築城していた松山城とその城下町の完成を目前にして移封を命じられた加藤嘉明はさぞや無念の思いで松山を後にしました。

続いて松山藩24万石の藩主として松山城に入った蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)ですが、寛永11(1634)8月、参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶しました。翌寛永12(1635)7月、徳川家康の異母弟の久松定勝の子で伊勢国桑名藩主だった久松定行が藩主となり、15万石の石高で松山城に入城しました。この時、久松家は徳川一門として松平の姓を名乗ることを将軍家より許され、同時に中・四国の探題として勤めることを求められました。徳川家康は外様大名の配置に苦慮しながら、将来徳川家の脅威は薩摩など西国大名であると見切っており、瀬戸内沿岸に睨みを利かせることに腐心していました。そのため、松山藩松平家は徳川幕府にとって最も西に位置する親藩大名となりました。

松山市中心部の地図(国土地理院ウェブサイトの地図を引用) ところどころに城下町時代の地名が残されています。城山を中心に都市が計画的に整備されたのが、よくわかります。

49歳で松山藩主となった松平定行は、城を中心にして城下町の整備や道後温泉の整備、拡張に精力的に取り組みました。もともと氾濫を繰り返す伊予川(現在の重信川)と湯山川(現在の石手川)が作り出した何もない荒地だったところなので、都市計画は城下町として理想的なものを追い求めた感じがします。城の北郭には1万石の蒲生家、東郭(現在の松山東雲中学校・高校のあるあたり)には4,200石の稲田家、南郭の県庁のあたりには4,500石の本山家という家老の屋敷を配置し、武家屋敷は主に城の西側・北側・東側に配置しました。1,0002,000石の重臣は主として堀の内の二の丸や三の丸に居住させていました。現在二の丸跡は日本庭園として整備され、三の丸跡は県立図書館や美術館、市民会館など市民憩いの場となっています。

1,000石未満の中堅家臣は城の東南側に代官町を設け、そこに集めて住まわせました。この代官町の町名は武家組織である大番組からとり、一番町(500石以上)、二番町(300400)、三・四番町(100)と命名しました。100石以下の下級家臣は、徒士(かち)を歩行町に、足軽・中間を八坂町・唐人町周辺に住まわせました。また、城の北側に伊予鉄道の松山市内線(城北線)の鉄砲町電停があり、この現在愛媛大学城北キャンパスや松山大学、松山赤十字病院、松山北高校のあるあたりの町名が鉄砲町です。この「鉄砲町」という地名は、城下町の地名として全国各地に見られますが、鉄砲鍛冶などの職人を集めた町の意味と、城下の家中屋敷町として鉄砲足軽が居住した城下地名としての二つの意味があります。松山の場合、明治時代以降、ここに大日本帝国陸軍の大規模な城北練兵場が置かれたことから、おそらく後者だったのではないかと推察されます。いずれにしろ、江戸時代初期から大名が鉄砲を進歩した武器として重んじていた有様が今に伝わってくる歴史的な地名なのです。ちなみに、日露戦争時にはここに城北バラックといわれるロシア兵の捕虜収容所が設置されていました。城の北側の市内中心部に広大な土地があったことから、現在は大学や高校が立地する文教地区に生まれ変わっています。

さらに配下の武士の生活を支えるため、前任地・伊勢国桑名から腕のいい商人や職人を呼んで城の西側に集めて住まわせ古町(こまち)をつくり、地租免除の特権を与えました。ここには呉服町、萱町(茅屋町)、魚屋町、米屋町、紙屋町などの商人街と、鍛冶屋町、畳屋町、紺屋町、桧物屋町、研屋町、傘屋町などの職人町が幾つもでき、「古町三十町」と呼ばれました。現在ではその多くは本町や平和通りなどと町名が変更されていますが、萱町や木屋町等、今も当時の地名が残っているところもあります。

これに対し、城の南側は城主からさほど注目されていなかった地域だったようです。ここは免税の特権がない代わりに大きな規制もなく、たまたま中級~下級家臣の屋敷がそばにあったことと、松山城下と松山藩の外港である三津浜港を結ぶ水路である中ノ川の港があったため、予想外の発展を遂げました。これが今に至る県下随一の商店街、大街道と銀天街誕生の由来です。大街道の周辺はかつて、加藤嘉明が文禄・慶長の役(朝鮮征伐)で捕虜として連れ帰ってきた人々が住んだことから小唐人町(ことうじんまち)と呼ばれていました。そこへ古町から呉服商が移って来て、賑やかな町に変わっていきました。その後相次いで商店や旅館などが軒を連ね、大正時代には通りに沿って流れる用水路を埋め立てて、文字どおり大街道となりました。商店街の東の一帯は中国人が住んだところから北京町(きたきょうまち)と呼ばれ、現在は松山市で最も賑やかな飲食街となっています。銀天街は昭和29(1954)にアーケードができ、ジュラルミン製の天井が銀色に光って見えるところから銀天街と命名されましたが、それまでは湊町、それ以前は港町と呼ばれていました。また、四番町には中ノ川水運の運送業者が数多く集まっていたことから、千舟町と呼ばれるようになりました。前述のように、松山市の市内中心部に港や舟の名付く町があるのは、松山の城下町の商業が活性化した結果、ここから中ノ川という水路を利用し、三津まで商品や米を小船で輸送したことが命名の由来となっています。

ちなみにこの中ノ川、近くを流れる人工の河川・石手川から分岐するこれまた人工の河川(水路)でした。そうそう、大街道商店街の路上に昔の松山の中心市街地の様子を描いたタイル絵が敷かれているのですが、その1つに西予市の愛媛県歴史文化博物館に所蔵されている松山城下町図屏風の原寸大の写真を印刷したものがあります。そこには江戸時代の松山の城下町の様子が描かれていて、その絵の中に現在の松山市駅の南側付近を流れる中ノ川と湊町や千舟町の町並みも描かれています。

このように町名を意識しながら松山市の市街地を歩いてみると、松山がいかに計画的に整備された城下町であったのかがよく判り、楽しいです(最近は町名が変更になっているところが多いので、昔の町名を探る必要がありますが…)

大街道商店街の路上に昔の松山の中心市街地の様子を描いたタイル絵が敷かれているのですが、その1つに松山城下町図屏風の原寸大の写真があります。そこには江戸時代の松山の城下町の様子が描かれていて、その中の現在の松山市駅の南側を流れる中ノ川と湊町や千舟町の町並みも描かれています。

横河原線の電車は起点の松山市駅を出るとすぐに“市駅南踏切”で中ノ川通りを斜めに横切ります。かつてこの中ノ川通りは中ノ川と呼ばれる水路になっていて、この水路を利用して港のある三津まで商品や米を小船で輸送していました。

線路の両側は軽便鉄道時代の細い線路を活用した鉄柵がズラァ~っと並んでいます。

伊予鉄道の郊外電車は各線日中15分間隔で運行されていて、毎時00分、15分、30分、45分には郡中線の電車と高浜線の電車の同時発車が見られます。高浜線と横河原線が直通運転するようになる前は、ここで3線同時発車という賑やかなシーンが見られました。


横河原線の改札口です。松山市駅は四国初の自動改札機設置駅で、2014年からはICい~カードの普及に伴って、タッチセンサー式の簡易改札機に置き換わっています。

こちらは高浜線と郡中線用の改札口。高浜線と郡中線の改札口は地下にあります。

松山市駅は高浜線、横河原線、郡中線という伊予鉄道の郊外電車3線の起点駅です。写真右手に延びているのが高浜線の線路で、右手奥にカーブして延びているのが郡中線の線路です。横河原線は写真左手に向かって延びています。郡中線の電車が入線してきました。ホームは23線の構造で、一番手前の1番線ホームが横河原線用。真ん中の2番線ホームが高浜線用、一番奥の3番線ホームが郡中線用のホームになっています。

2番線ホーム(写真左側)に高浜行きの電車が、3番線ホームに郡中港行きの電車が停車中で、出発時間を待っています。伊予鉄道の郊外電車は各線日中15分間隔で運行されていて、毎時00分、15分、30分、45分には郡中線の電車と高浜線の電車の同時発車が見られます。

郡中線の電車は起点の松山市駅を出るとすぐに“中の川踏切”で中ノ川通りを斜めに横切ります。この“中の川踏切”では高浜線と郡中線の同時発車の様子が見えます。駅ビルの建物の中から出てくる電車の光景はちょっと都会的なのですが、すぐに車窓は住宅街の中を走る光景に変わります。

郡中線の電車は起点の松山市駅を出るとすぐに“中の川踏切”で中ノ川通りを斜めに横切ります。当然のこととして郡中線開業当初はここに橋が架かっていました。。

次の土橋駅を過ぎると、JR予讃線の線路が高架で郡中線の線路の上を跨いでいきます。JRの線路が上を跨ぐということは、JR(国鉄)よりも先にこの伊予鉄道のほうが開通していたということを意味しています。ちなみに、伊予鉄道では高浜線でも西衣山駅と山西駅の間でJR予讃線の線路が高浜線の線路の上を高架で跨いでいきます。鉄道ファンとしては、こういうところに伊予鉄道の歴史の古さを感じます。


郡中線の土橋駅~土居田駅間で、JR予讃線の線路が高架で上を跨いでいきます。


続いて、鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線②を掲載します。

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