公開予定日2022/05/05
[晴れ時々ちょっと横道]第92回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その7)
【芹澤玄蕃】
戦国時代、駿河国(静岡県)の東部、御厨(みくりや)地方と呼ばれる現在の御殿場市の周辺は、駿河国・甲斐国・相模国の境界地帯として幾多の争奪戦の舞台になったところです。ここは昔から日本の大動脈であった旧東海道(矢倉沢往還)や甲斐国の国中地方と相模国西部の小田原を結ぶ甲斐路(御坂路・鎌倉街道)が通り、甲斐路を少し北へ進めば都留や大月といった甲斐国郡内地方への街道(富士道)も分岐するという交通の一大要衝でもありました。元亀2年(1571年)、武田信玄が北条氏が守る深沢城(静岡県御殿場市)を攻撃し攻め落とすと、御厨地方は武田氏の支配するところとなったのですが、天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康連合軍による甲州征伐が始まると、それに呼応するように相模国の北条氏政が小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河国東部に攻め入り、2月28日には駿河国に残された武田側の拠点の1つである戸倉城・三枚橋城(ともに現在の静岡県沼津市)を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を次々と陥落させていきました。その中で、深沢城も武田勢が戦わずして放棄したために、後北条氏によって占領されていました。その駿河国東部地方をどうやって突破するかが武田勝頼一行の脱出劇の最後の鍵を握っていたのではないか…と思われます。
そういう状況の中で、武田勝頼一行の脱出の手助けをしたのではないか…と思われる1人の人物の名が浮上してきます。それが芹澤玄蕃です。
芹澤玄蕃は駿河国の守護大名・今川氏の重臣で駿河国駿東郡の国人衆・葛山氏元(かつらやまうじもと)から甲斐国や相模国、駿河国等に通ずる交通の一大要衝である茱萸沢(ぐみざわ:静岡県御殿場市)宿の代官の地位を認められた土豪です。しかし同時期には葛山氏元と敵対する甲斐国郡内地方の国人衆・小山田信茂からも葛山氏元から受けてきたのとほぼ同様の特権を認められると、いち早く葛山氏元から離れ、小山田信茂と誼を強めていきました。元亀2年(1571年)、武田信玄が北条氏が守る深沢城(静岡県御殿場市)を攻撃し攻め落とすと、御殿場を中心とする御厨地方は甲斐武田氏の支配するところとなり、天正4年(1576年)に芹澤玄蕃は小山田信茂の推挙により武田勝頼から棠沢(茱萸沢)郷宿の伝馬掟の命令を受けています。さらに、天正7年(1579年)には「対馬守」の受領名を許され、より高い地位と栄誉を与えられています。このように芹澤玄蕃は小山田信茂、さらには武田勝頼と深い誼があったということで、もし武田勝頼がこの脱出ルートを辿って駿河湾に面するどこかの港に出て、土佐国まで海路を使って落ち延びたとするならば、芹沢玄蕃がこの脱出ルートのうちの駿河国内の区間の案内役を務めたのではないか…と私は推察しています。
ちなみに、御殿場という地名の由来は、徳川家康の最晩年である元和2年(1616年)4月に、沼津代官の長野九左衛門清定が御厨地方の有力者であった芹澤将監(しょうげん)に対し徳川家康の隠居所となる御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じたことに由来します。徳川家康はその直後の元和2年4月17日に亡くなっているので、徳川家康が実際にその隠居所を使用することはありませんでしたが、御殿を中心に御殿新町が生まれました。「御殿場」という地名はこの芹澤将監によって構築された「御殿」に由来していいます。御殿場市のホームページによると、沼津代官の長野九左衛門清定が芹澤将監に対して徳川家康の死後も御殿新町御屋敷の造営を継続するよう命じた書状の写しが今も残されているのだそうです。将監も玄蕃も武家の官位を示す名称で、御厨地方の有力者(土豪)であったということから、芹沢玄蕃と芹澤将監はおそらく同一人物ではないかと思われます。
また武田勝頼が土佐国に落ち延びて名乗った名前が大崎玄蕃。「武田勝頼土佐の会」の方によると、武田勝頼の身代わりとなって天目山の戦いで自害した影武者の名前が玄蕃だったので、大崎玄蕃と名乗ったと思われるとのことですが、もしかするとこの芹澤玄蕃と関係があるのかもしれません。
余談ですが、天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康連合軍による甲州征伐が始まると、それに呼応するように相模国の北条氏政が小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河国東部に攻め入ったとされています。ですが、私に言わせると、この時の後北条氏の動きはどう考えても武田勝頼の脱出をアシストしているとしか思えません。小仏峠は武蔵国と相模国を遮る甲州街道の峠で、御坂峠は甲斐国の国中地方とも郡内地方を遮る鎌倉街道の峠です。本当なら駿河国東部に攻め入ったのなら、小山田信茂の領地である郡内地方に一気に攻め込んでもいいように思えるのですが、不思議なことにそうしていないのですよね。特に鎌倉街道の御坂峠など、甲府から鎌倉街道を使って郡内地方に入ってくるかもしれない織田信長・徳川家康連合軍を牽制するために進出したとしか思えません。
後述の武田信玄の五女・松姫の脱出でも、落ち延びた先は武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市) の金照庵(八王子市上恩方町)。これも謎です。当時、武蔵国多摩郡(現在の東京都八王子市)一帯を治めていたのは武蔵国守護代で滝山城(東京都八王子市高月町)城主であった北条氏照でした。この北条氏照は後北条氏当主である小田原城主・北条氏政の実弟(北条氏康の三男)。一説によると、北条氏政には武田信玄の長女(すなわち松姫の異母姉)である黄梅院(実名不明)が正室として嫁いでいて、その姉を頼って後北条氏領である武蔵国八王子まで落ち延びたと言われており、この説が有力視されています。しかし、永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻により甲相駿三国同盟が破綻し、武田信玄の駿河侵攻に激怒した相模国の北条氏康は嫡男・氏政の正室の黄梅院を甲斐国に送り返したと伝えられています。別の説では、離縁はさせられたものの、同盟破綻後も小田原城に留め置かれてそのまま死去したとする説もあります。いずれにせよ、松姫の姉である黄梅院は北条氏政と離縁させられていたわけで、「御館の乱」で武田勝頼の同盟破棄により北条氏政、氏照兄弟の弟である上杉景虎が自害に追い込まれた直後でもあり、松姫が姉である黄梅院を頼って後北条氏領である武蔵国八王子まで落ち延びた…というのはいささか無理がある分析のように思えます。さらに北条氏照は松姫以外にも武蔵国に落ち延びてきた甲斐武田氏の旧家臣を数多く庇護するなど、この時の後北条氏って甲斐武田氏に対しどこか寛大なところが見受けられるのですよね。おそらく、(その6)の小山田信茂の項で書かせていただいたように、武田勝頼の継室である北条夫人(桂林院:北条氏康の6女、北条氏政の妹)を後北条氏に無事に返すことを条件に、武田勝頼一行の駿河国内での通行を見逃してくれるように、小山田信茂が北条氏政に働きかけを行なっていたのかもしれません。そして、そこでも芹澤玄蕃がいろいろと活躍したのではないか…と考えられます。もちろん天目山の戦いで自害した北条夫人は身代わりになった影武者。そして、土佐国に落ち延びた武田勝頼一行の中に北条夫人と思われる女性は含まれておりませんから。
【土佐国への航海:小浜景隆】
いずれにせよ、武田勝頼一行は笹子峠を越え、岩殿山城には立ち寄らず、岩殿山城の手前の大月から古富士道に入り現在の富士急行線に沿って桂川を遡って富士吉田に出て、富士吉田で左折して甲斐路に。山中湖の横を通って茱萸沢(御殿場)、そして黄瀬川に沿って旧東海道を下って駿河湾に面する沼津あたりに出たと私は推定しています。このルートなら当時の状況でも比較的安全に駿河湾まで辿り着けたのではないか…と推察します。そして後は、武田水軍のおそらく小浜景隆率いる安宅船(あたけぶね)に乗って、海路土佐国へと脱出したのではないでしょうか。もし小浜景隆率いる安宅船に乗ったのだとしたら、出港した港は小浜景隆が拠点としていた江尻港か清水港(ともに静岡市清水区)だったはずです。
江尻港(清水港)を出港したところです。富士山が美しい姿を見せてくれています。あの富士山の向こう側に甲斐国がある…武田勝頼はそういう風に思いながら、甲板から富士山を眺めていたのではないでしょうか。 |
地図はクリックすると拡大されます |
途中、他国の水軍が待ち構えていて、海戦になったのではないかと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、土佐国までの航路の途上で気にしないといけない強力な水軍は、唯一、九鬼嘉隆率いる伊勢国を拠点とした九鬼水軍のみ。小浜景隆にとっては伊勢・志摩の地を奪った宿敵とも言える人物とその水軍なのですが、その九鬼水軍の主力は、この時、伊勢国にいない状態でした。九鬼水軍は天正6年(1578年)に行われた第二次木津川口の戦いに秘密兵器とも言える6隻の大型の鉄甲船のほか艦隊のほぼすべてを率いて織田水軍の主力として参戦。石山本願寺の抵抗をモノともせず大坂・堺の港に入り、その後の海戦でも燃えない鉄甲船の威力により石山本願寺に物資輸送をしようとした毛利水軍・村上水軍の軍船600隻を破ることに成功しました。この海戦の勝利により石山本願寺の孤立と織田信長軍の優位が決定的になったといわれています。以後も九鬼水軍は本拠地の伊勢国に戻らず、堺にそのまま駐留し、瀬戸内海の制海権確保にあたっていました。天正10年(1582年)の天目山の戦いが起きた時は、ちょうど織田信長に命じられた羽柴秀吉が中国攻めを行なっている真っ最中で、九鬼水軍も圧倒的水軍力で瀬戸内海の覇権を握っていた毛利水軍・村上水軍と真っ正面から対峙していた時期にあたります。そのため、土佐国への航路上には行く先を遮る脅威となる他国の水軍がほぼいなかった状況だったのではないか…と推測されます。しかも、当時伊勢国を領地として治めていたのは滝川一益。皮肉なことに滝川一益は織田信忠率いる甲州征伐軍の主力部隊を率いていて、まさに天目山の戦いで武田勝頼(の影武者)を追い詰めて自害に追い込んだ人物です。このように伊勢国の軍勢はほぼ全軍が駆り出されて甲斐国や瀬戸内海に遠征していたと思われますので、完全な手薄の状態だったのではないでしょうか。まぁ、不審に思われたとしても、織田軍の援軍のために瀬戸内海に向かう北条水軍の軍船だと偽れば、すぐには確認のとりようがなかったので、なんとか欺けたのではないか…と思われます。また、その九鬼水軍と毛利水軍・村上水軍等の軍船がウジャウジャいて、極度の緊張状態にあった瀬戸内海に入ることができなかったため、直接伊予国ではなく、土佐国を目指したという見方もできようかと思います。おそらくそのような西国の情勢、及び迫り来る敵方の主力が伊勢国領主の滝川一益だということを河野通重は知り、それらを十分に考慮に入れた上で海路により土佐国へ落ち延びる策を武田勝頼に献策したのではないか…と私は思っています。その策の成功の可能性を武田勝頼はじめその時点で残っていた武田家家臣団の大部分が納得できたので、一度は決まっていた岩櫃城での籠城策が土壇場になってひっくり返ったのではないか…と、私は推察しています。
当時の安宅船や関船の速力はせいぜい3ノット(時速約5㎞)程度で、順風帆走や沿岸航法しかできず、各地で風待ちを繰り返しながらの航海だったと思われます。しかも駿河国の港から土佐国のどこかの港までは黒潮に逆らって西に向かう航海なので、2~3週間はかかったのではないか…と思われます。そして到着した土佐国の港とは、私の推測ではおそらく土佐国(高知県)最東部にある甲浦港(かんのうら:高知県安芸郡東洋町)ではなかったかと思われます。この甲浦港だと紀伊半島最南端の潮岬を過ぎて、紀伊水道を横断すればすぐに着くことができ、黒潮に逆らって室戸岬を大きく回り込んで土佐湾に入るという危険な航海をする必要がありませんから。しかも、甲浦港からは現在の国道493号線と国道55号線のルートを使えば、土佐国で頼ろうとした香宗我部氏の拠点があった香美郡に歩いても2日で行くことができますし。いずれにしても、この土佐国へ逃避行する武田勝頼一行を乗せた航海は、遠江、三河、尾張、伊勢といった織田信長勢力圏の各国の沖合を堂々と通っていくということで、東海地方随一と謳われた武田水軍にとっては最後を飾るに相応しい痛快な“意地の大航海”になったのではないでしょうか。また、おそらく生まれて初めて船に乗り大海原を航海したことで、武田勝頼の中でも考え方、そして今後の生き方に対して大きな変化が生じたことは想像に難くありません。まぁ〜、船酔いが激しくて、それどころじゃあなかったのではないか…とも思いますが(笑)
静岡市清水区にあるフェルケール博物館に展示されている武田水軍の安宅船と関船です。武田勝頼はこの船に乗って土佐国へ落ち延びたのでしょうか。 |
小浜景隆をはじめとした武田水軍は天正10年(1582年)の甲斐武田氏滅亡後、徳川家康配下で三河三奉行の1人であった本多重次の仲介で、常設の水軍が欲しくてたまらなかった徳川家康に従って徳川水軍となり、やがてそのまま江戸幕府の常設水軍へと改組されました。伊予水軍の出身ではないか…との説もある小浜景隆も徳川家康に水軍大将として仕え、駿河国内で1,500石(現在の貨幣価値に換算すると約4億円)を与えられました。その後は向井正綱・間宮高則らとともに本多重次の指揮下にあって水陸両戦に活躍し、特に天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間で行われた小牧・長久手の戦いでは、海上封鎖により羽柴秀吉を大いに苦しめました。天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封後は相模国・上総国で3,000石を与えられるとともに、江戸湾(東京湾)への入口である相模国三浦郡三崎村(現在の神奈川県三浦市三崎町三崎)に駐屯し、三崎四人衆の筆頭として、向井氏・間宮氏・千賀氏とともに活躍しました。慶長2年(1597年)に死去。享年58歳でした。
繰り返しになりますが、平安時代中期の藤原純友の例を出すまでもなく、領地というものに特にこだわらない“海の民”である“海賊”を、陸の武将(領主)達と同じように捉えてはいけません。優れた造船技術や航海術、操船技術を持つ専門家集団である“海賊”は、現代風の言い方をさせていただくと“フリーランス”であったと言えようかと思います。それも優秀な者なら引くて数多(あまた)の…。しかも、多くの陸の武将がそうであったように戦場だけが戦いの場ではなく、「板子一枚下は地獄」という言葉があるように、彼等は日々の仕事そのものが戦場です。強大な織田信長軍や羽柴秀吉軍をも圧倒するような破壊力を有する自然が相手なので、日々命がけの仕事なのです。なので、戦いに対する考え方が陸の武将達とは根本的に違っていたと思います。これは後世の歴史学者の先生方に対しても言えることで、日本の歴史を捉えるにしても、四方を海に囲まれた私達日本人は、もっと“海”、さらには“海賊(水軍)”という集団の存在という側面から捉えてみる必要があるのではないかと…と私は思っています。そこが西洋史や中国史、東洋史の研究と日本史の研究との大きな違いなのではないでしょうか。そして、そうすることで、歴史の見え方も少し変わってくるように、私は思っています。
余談ですが、2021年4月10日、国道138号線・須走道路の須走口南IC~水土野IC間と、それに続く御殿場バイパスの水土野IC~ぐみ沢IC間、さらには新東名高速道路の新御殿場IC〜御殿場JCT間が開通し、中央自動車道の大月JCTから中央自動車道富士吉田線〜東富士五湖道路~須走道路~御殿場バイパス~新東名高速道路までが自動車専用道路で繋がりました。このルートは私が推定した武田勝頼一行の逃避ルートとほぼ一致します。今なら新府城に近い中央自動車道の韮崎ICから駿河湾に面した東名高速道路の清水ICまで、富士山と富士五湖の絶景を間近に見ながらの2時間ほどの快適なドライブで着く距離なのですが、当時の武田勝頼一行は常に敵の追跡に気を配りながら、笹子峠(標高1,096メートル)、鳥居地峠(標高1,002メートル)、そして籠坂峠(標高1,104メートル)という3つの峠を越えていく大変な旅だったろうと推察されます。
土佐国のおそらく甲浦港に上陸した武田勝頼一行は最初に頼ろうとした甲斐武田氏とも深い繋がりのある香美郡の香宗我部氏の館を訪ね、歓迎を受け、そこにしばらく滞在したものと思われます。ただ、(その1)にも書きましたように、当時の香宗我部氏はかなり勢力が衰退しており、長宗我部国親の三男・親泰(すなわち長宗我部元親の弟)を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入る道を選択していたくらいなので、その様子をしばらく見ていた武田勝頼は香宗我部氏を頼っての甲斐武田氏の再興は不可能と判断して、最後の望みである伊予武田氏を頼って伊予国越智郡の龍門山城を目指したのだと私は推察しています。そして、その途中で龍門山城の落城と伊予武田氏宗家の滅亡の知らせを聞き、吾川郡大崎村川井(現在の高知県吾川郡仁淀川町大崎)にとどまった…というのが私の勝手な推測です。
その高知県吾川郡仁淀川町に残る伝承「武田勝頼生存説」では、吾川郡大崎村川井に落ち着いた武田勝頼は、その後、名前を大崎玄蕃と変名し、この地で27年ほど暮し、慶長14年(1609年)8月25日に64歳で逝去。鳴玉神社(現大崎八幡宮)に葬られた…というのは(その1)で書かせていただいた通りです。仁淀川町役場からほど近いところに武田勝頼(大崎玄蕃)とその夫人が埋葬されたとされる墓があります。その武田勝頼ご夫婦の墓の前には鳴玉神社が建立されています。
高知県吾川郡仁淀川町大崎にある武田勝頼(大崎玄蕃)の墓の前に建立された鳴玉神社です。 |
武田勝頼(大崎玄蕃)とその妻の墓です。 |
その武田勝頼(大崎玄播)の墓の近くに大崎八幡宮があります。この大崎八幡宮は天正14年(1586年)に武田勝頼(大崎玄蕃)により建立されたとされ、地元では「武田八幡宮」という別名で呼ばれています。この大崎八幡宮のある地形と建立時期が非常に興味深いですね。大崎八幡宮は国道33号線と国道439号線、国道494号線の合流地点のすぐ近く、すなわち交通の要衝に位置し、清流・仁淀川の流れを見下ろせる小高い高台の上にあります。北側の背後には仁淀川の急流による侵食で形成された急峻な山が迫り、東側から南側にかけては蛇行する仁淀川の峡谷、西側には仁淀川支流の土居川…と周囲を自然に断たれた“天然の要害”って感じのところです。神社の周囲の風景を眺める限り、ここはどう考えてみてもただの神社ではなくて“城(砦)”ですね。ここに城がなかったことのほうがおかしく思えるほどの好立地なところです(これは実際に現地に来てみないと分からないことですが…)。
地図はクリックすると拡大されます |
仁淀川町役場です。この仁淀川町役場のすぐ裏に武田勝頼(大崎玄蕃)の墓があり、手前の国道33号線を挟んで斜めはす向かいに大崎八幡宮があります。かつて国鉄(日本国有鉄道:現在のJR四国)が松山市と高知市を四国山地を越えて国道33号線経由でバスで短絡する松山高知急行線を運行していた頃、仁淀川町役場前には「土佐大崎駅」という“自動車駅”が設けられ、ここから支線も出ていました。 |
仁淀川町は武田勝頼が落ち延びたという伝承で町おこしをしているようです。 |
加えて、新府城がそうだったように武田勝頼は築城好き。甲斐国のように断崖絶壁に囲まれた険しい山がなく、なだらかな山がほとんどの土佐国なので、岩櫃城や岩殿山城のような難攻不落の城ってわけにはいきませんが、ここなら工夫次第でそこそこ堅固な城は築けそうです。武田勝頼(大崎玄蕃)はこの地に「大崎城(仮称)」を築き、地元で強い兵を育成するとともに、散り散りになったかつての家臣団を呼び寄せ、長宗我部元親の下で武門の名門・甲斐武田氏の再興を本気で果たそうとしていたのかもしれません。その際に、伊予武田氏“宗家”は残念ながら滅亡していましたが、金子元宅や黒川通貫、正岡経政といった伊予国(愛媛県)東部の国人衆達とも深い交流があったことは、その位置関係から十分に考えられます。そういう中に伊予武田氏の第6代当主であった文台城の武田信重やその子・武田信戻、信明なども含まれていたかもしれません。
武田勝頼(大崎玄蕃)が創建したとされる大崎八幡宮です。 |
大崎八幡宮は小高い丘の上にあり、この長い石段を登っていった先にあります。 |
大崎八幡宮は仁淀川の急流で侵食された小高い河岸段丘の上にあり、頂上は平らな空き地になっています。 |
大崎八幡宮の周囲はいたるところに石垣が築かれています。こりゃあどう見ても神社ではなく城郭(砦)にしようと建設しかけたところですね。 |
石段の途中から見た仁淀川町中心部(大崎郷)の風景です。大きな建物はないものの、このあたりの中心部らしく民家が密集して建っています。山々の感じなど、甲斐国(山梨県)の風景とどことなく似ています。 |
それが天正13年(1585年)に行われた羽柴秀吉による四国征伐で長宗我部元親だけでなく、同志とも言える存在であったであろう金子元宅をはじめとした伊予国東部の国人衆達もすべて羽柴秀吉の前に屈し、長宗我部元親は土佐一国の領有を安堵された代わりに豊臣政権に繰り込まれることになります。それにより、大崎城(仮称)を拠点とした武田勝頼(大崎玄播)による甲斐武田氏の再興計画は完全に頓挫。武田勝頼(大崎玄播)は築城途中だった大崎城(仮称)を大崎八幡宮という神社として残すことで、いつのことになるか分からないものの、来るべき“時期”がきっとやってくることを信じて待つことにしたのではないか…と私は推察しています。それが大崎八幡宮が建立されたとされる天正14年(1586年)のことで、残念ながらそれは争い(あらがい)ようもない“時代の流れ”というものであったと言えます。そして、武田勝頼(大崎玄播)は父・武田信玄に命じられた通り嫡男・信勝に家督を譲り、あとは帰農してこのあたりの土地の開拓に励み、慶長14年(1609年)8月25日に64歳で逝去したのではないかと思われます。もしかすると、その後、武田勝頼(大崎玄播)の子孫達は、伊予国越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』となった伊予武田氏第8代・武田真三郎信吉の子孫達等ともなんらかの交流があったのではないでしょうか。
武田勝頼(大崎玄蕃)は由緒ある“武田”という姓を名乗れなかっただけでなく、家紋も武田家本来の武田菱と呼ばれる割菱紋から変形とも言える花菱紋に変更しています。こういうところ、招かれて来た者(伊予武田氏)と落ち延びて来た者の違いでしょうね。 |
ちなみに、大崎八幡宮(鳴玉神社)の由緒書きによると、大崎八幡宮(鳴玉神社)に祀られている御祭神は「玄蕃頭比古神」と「美津岐大神」の2体の夫婦神となっています。「玄蕃頭比古神」はもちろん武田勝頼(大崎玄蕃)のことなのですが、謎なのがもう1体の「美津岐大神」です。この「玄蕃頭比古神」、すなわち武田勝頼の夫人(継室)ですが、『甲陽軍鑑』の記述も含め通説では北条氏康の娘である北条夫人ということになっているのですが、大崎八幡宮(鳴玉神社)の由緒書きによると三枝夫人(美津岐夫人)ということになっています。『甲陽軍鑑』によれば、武田信勝の生母である龍勝院は奥美濃の国人衆の苗木遠山氏の出自で、織田信長の養女として永禄8年(1565年)に武田勝頼のもとへ嫁ぎ、永禄10年(1567年)の武田信勝を出産した際に死去したとされています。武田勝頼には信勝以外にも何人も子供がいたようですので、この正室・龍勝院以外にも多くの側室がいたと考えられます(北条夫人が産んだとされる子供は、記録上はいないことになっています)。三枝夫人(美津岐夫人)はおそらくその側室の1人だったのではないでしょうか。調べてみると、甲斐武田氏の家臣で武田二十四将の1人に数えられる足軽大将に三枝昌貞という人物がいますので、三枝夫人(美津岐夫人)はおそらくその三枝昌貞か親族の娘なのではないか…と思われます。すなわち、私の推察のとおりなら、北条夫人は甲斐国からの逃避行の途中で、離縁のうえ、兄である北条氏政のもとに無事に送り返されたのではないか…ということです。
地図はクリックすると拡大されます |
武田勝頼の嫡男・信勝は仁淀川町に隣接する現在の高岡郡津野町に移り、「大崎五郎」と名乗り、町内の葉山地区を流れる川を“甲斐の川”と名付け(現在の“貝ノ川”)、玄蕃踊りを広め大崎神社を勧請したといわれています。この大崎五郎という名前、もしかしたら父・武田勝頼のかつての名前「諏訪四郎勝頼」に関係しているのかもしれません。天正13年(1585年)に長宗我部元親が秀吉の四国征伐に敗れて土佐国一国のみの領有を許された際、長宗我部元親の三男で津野の姫野々城城主であった津野親忠が人質として豊臣秀吉のもとに差し出されたのですが、その時に大崎五郎(武田信勝)はこの津野の地での恩義からか津野親忠に御家人として付き従ったとされています。慶長5年(1600年)、その津野親忠が長宗我部元親亡き後の家督を継いだ弟の長宗我部盛親に殺害されたのですが、それを機に大崎五郎(武田信勝)も帰農したようで、その後の消息ははっきりしていません。ですが、今度はその長宗我部盛親が豊臣側からの誘いに乗って大坂城に入った大坂夏の陣の際には、大崎玄播・五郎の一族が大坂城に馳せ参じたとの話も地元には伝わっているのだそうです。この中には武田勝頼に従って土佐国に落ち延びたと推定される武闘派の土屋昌恒などが混じっていた可能性もあります。もしそうだとすると、天目山の戦いで「片手千人斬り」の異名を残す土屋昌恒と真田信繁(幸村)が大坂城に籠っていたわけで、そりゃあ強かったはずです。でもまぁ~、このあたりはお伽話のようで、私にはよく分かりません。地元高知県の皆さんに是非とも調査をお願いしたいと思います。
ちなみに、「武田勝頼土佐の会」のホームページには会員の方々が調べられた武田勝頼から始まる土佐武田氏の系図が掲載されています。
この系図には武田勝頼の兄弟と思われる葛山三郎信仲の名前が見えますが、武田信玄の三男(武田勝頼の兄)で三郎と呼ばれたのは西保三郎信之(武田信之)。この武田信之は天文22年(1553年)に11歳で夭折しています。また、武田信玄の六男(武田勝頼の弟)は葛山六郎信貞。この葛山信貞は天目山の戦いの後、甲斐善光寺において小山田信茂とともに自害したことになっています。この系図はおそらく歴史書を基にして作成された年代記や雑録といった編纂物ということで、言ってみれば「三次史料」とも言うべきジャンルに分類されるものです。歴史学では基本的に一次史料を使用しますが、一次史料が現存しない場合には二次史料を使用します。三次史料は歴史学では参考程度に用いられ、事象を検証する基本史料として使用されることはまずありません。今回の一連のコラムでは、甲斐武田氏の滅亡に関して今や通説のようになっている『甲陽軍鑑』の記述に怪しいところがあるという指摘を行なっているわけですが、この『甲陽軍鑑』も二次史料であって一次史料ではありません。なので、この系図に関してはこれ以上のコメントは避けたいと思います。
実は武田勝頼が新府城を放棄し、郡内地方の岩殿山城を目指して脱出を図った際、その武田勝頼の一行とは別行動を取り、うまく脱出に成功したある1人の女性を中心とした集団がいました。そして、その女性の存在が、武田勝頼の土佐国落ち延び説に関する私の謎解きの、そもそものきっかけとなりました。次回「武田勝頼は落ち延びていた!?」の最終回となる(その8)では、そのあたりのことを書かせていただきます。
【余談】
私が“越智”という苗字である以上、仁淀川町まで来るとやはりここに立ち寄らないわけにはいきません。高知県吾川郡仁淀川町の隣町、高岡郡“越知町”役場前にある「おち駅」です。ここはかつての国鉄バス松山高知急行線の自動車駅である“越知駅”があったところで、現在は越知町の観光物産館になっています。この高知県の越知町には伊予国(愛媛県)から古代越智氏族がやって来て開拓したところだという伝承が残っています。
高知県高岡郡越知町にある観光物産館「おち駅」です。ここはかつての国鉄バス松山高知急行線の“越知駅”があったところで、現在も国鉄バスの路線を引き継いだ黒岩観光バスと仁淀川町コミュニティバスの停留所になっています。自動車駅と呼ばれていましたが、構造が鉄道の駅そのものです。 |
観光物産館「おち駅」の玄関前で出迎えてくれるのは、絶滅種に指定されているニホンカワウソ君の置物です。二ホンカワウソは、かつては日本全国に広く棲息していたようなのですが、現在の分布域は、四国の愛媛県および高知県のみ。当然国の特別天然記念物に指定されているほか、愛媛県の県獣にも指定されています。生きている姿を見てみたいものです。 |
……(その8)に続きます。(その8)は来月6月2日に第93回として掲載します。
0 件のコメント:
コメントを投稿