2021年3月11日木曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)

公開予定日2021/03/04

晴れ時々ちょっと横道]第78回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2) 


前回第77回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」の一番最後に書かせていただきましたが、今では中学校や高校の歴史の教科書にも載っている『承平天慶の乱』の2人の主人公、平将門と藤原純友ですが、その後の扱いは大きく違っているように私には感じられます。私に言わせれば、「平将門の乱」はあくまでも平氏一族内での「私闘」の延長線に過ぎず、しかもわずか2ヶ月で平定されたのに対し、「藤原純友の乱」は朝廷に強い不満を持つようになった下級貴族や没落貴族達が集団に起こした朝廷に対する叛乱で、それまでの公地公民をベースとした律令国家体制の崩壊を象徴するような歴史的に見ても大きな出来事。それも約2年という長期間に及んだにも関わらず、この扱いの差はいったいどこから来ているのか…と不思議に思ってしまいました。

平将門と藤原純友のその後の扱いの差を決定的にしていると思われるのが“怨霊伝説”の存在ではないでしょうか。天皇(朝廷)に叛逆したことから、道鏡、足利尊氏と並んで「日本三悪人」の1人と扱われている平将門には怖い逸話が数多く残されています。そのうち最も有名なのが「将門の首塚伝説」です。

 平貞盛・藤原秀郷の地元鎮圧軍によって討たれたのち、平将門の胴体は現在の茨城県坂東市岩井にある延命院に埋葬されたのですが、その首は平安京へと持って行かれ、京都の七条河原に晒されたと言われています。しかし、平将門の無念の思いはよっぽど強かったのか、平将門の首は何ヶ月経っても腐敗せず、それどころか眼をぐっと見開いては歯ぎしりをし、「俺の身体はどこだ!首を繋いでもう一戦しよう!」という叫び声が夜な夜な響いていたという怖い逸話が残っているのです。そしてある時、晒されていた将門の首が突然、白い光を放ちながら胴体を求めて東の方へと飛び去って行ったのだそうです。関東の地を目指して空高く飛び上がった平将門の首は、途中で力尽きて、幾つかに分かれて地上に落下してしまったとされており、そんな無念やるかたない平将門を偲んだ人々によって、将門の首塚が建てられています。同じような首塚伝承は関東地方の各地に残っているのですが、その中でも最も有名なのが、東京都千代田区大手町1丁目の三井物産本社ビル(Otemachi One)の傍にある「将門塚」です。丁重に祀られたと言っても、それでも平将門の霊は鎮まることがなかったようで、平将門の墳墓の周りでは様々な天変地異が頻発したりすると、それは平将門の怨霊の祟りのせいだと噂されるようになり、いつのまにか平将門は菅原道真・崇徳上皇とともに“日本三大怨霊”の一人と呼ばれるようになりました。

皇居にほど近い東京・大手町のオフィスビル街のど真ん中に「平将門の首塚」があります。「都史跡 将門塚」という碑が立っています。

ガラスケースに覆われた石碑が「平将門の首塚」です。根強い平将門ファンは多いようで、この日も多くの参拝客が訪れていました。そのほとんどが女性。平将門ファンに圧倒的に女性が多いことに驚かされました。

山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている神田祭を執り行う神社として知られる神田明神。この神田明神も平将門所縁の神社です。神田明神は天平2(730)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと:いわゆる大黒様)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町の将門塚周辺)に創建されたとされる神社です。その後、平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威(祟り)として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門の御霊を供養し疫病が沈静化したことから、延慶2(1309)、平将門が祭神として神田明神に祀られました。したがって、神田明神に祀られている祭神は一ノ宮が大己貴命、二ノ宮が少彦名命(スクナヒコナノミコト、いわゆる恵比寿様)で、三ノ宮が平将門命です。このうち少彦名命が二ノ宮として祀られたのは明治7年のことで、明治天皇が行幸する際、天皇が参拝する神社に朝廷に叛旗を翻した逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきことであるとして、いったんは祭神から外されたことによるものです。その後、昭和59年に平将門は三ノ宮として祭神に戻されています。

山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている神田祭を執り行う神社として知られる神田明神。この神田明神も平将門所縁の神社です。

また、慶長5(1600)、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが起きると、徳川家康が合戦に赴く際にこの神田明神で平将門の御霊に必勝の祈祷を行い、見事に勝利し、天下統一を果たしました。それにより、神田明神は江戸幕府の尊崇する神社となり、元和2(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の場所に遷座し、幕府により社殿が造営されました。明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称したのですが、今でも一般的には神田明神と呼ばれていて、東京の守護神となっています。

 また、この将門の首塚がある場所は、江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代に大老職を務めた上野国厩橋藩15万石第4代藩主・酒井雅楽頭忠清の上屋敷があったところです。この酒井雅楽頭忠精の上屋敷は江戸時代前期に陸奥国仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」において評定(裁判)が行われた場所で、その評定の最中、被告であった仙台藩重臣・原田甲斐(原田宗輔)が原告である仙台藩一門で涌谷伊達家2代当主の伊達安芸(伊達宗重)らを斬り殺し、自身も斬られて死亡した場所です。この伊達騒動は山本周五郎先生の歴史小説『樅ノ木は残った』に描かれており、昭和45(1970)には平幹二朗さん主演でNHK大河ドラマにもなっています。その山本周五郎先生の歴史小説『樅ノ木は残った』においては、この伊達騒動の黒幕は仙台藩伊達家取り潰しを画策した酒井雅楽頭忠精だという設定になっています。まぁそういうことで、ここは言ってみれば、呪われた場所でもあります。

これも平将門の御神威(祟り)のなせることなのでしょうか。「平将門の首塚」があるところは、江戸時代前期に陸奥国仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のクライマックスとも言える殺害事件が起きたところです。


現代に至っても平将門の凄まじい怨念は続いていると言われ、第二次世界大戦後、米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止したとか、昭和の高度成長期、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚を見下ろす窓側に座っていた行員が次々に病気になる事態が発生しお祓いしたとか、平将門の呪いのせいであるとされる奇異な出来事が、この将門塚の周辺で度々発生しています。

 また、昭和63(1988)、帝都東京の守護霊をテーマに盛り込んだ荒俣宏さんの小説を原作とした映画『帝都物語』が公開されると、平将門の存在は広く知れ渡るようになり、「東京の守護神」として多くのオカルトファン、都市伝説ファンの注目を集めるようになりました。この『帝都物語』は平将門の怨霊により関東大震災などの大災厄を引き起こし帝都破壊を目論む謎の軍人・加藤保憲と、その野望を阻止すべく立ち向う人々との攻防を描いた作品なのですが、映画で俳優・嶋田久作さんが演じた主人公・加藤保憲(魔人加藤)の非常にインパクトのあるキャラクターは強烈すぎて、私は今も忘れられません。

 ちなみに、もともと主祭神として神田明神に祀られていた平将門が明治7年に明治天皇が参拝するにあたって祭神から外されたのは上述のとおりなのですが、昭和59年に三ノ宮として祭神に戻された背景としては、昭和51(1976)に放送されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』があります。このドラマの影響で時ならぬ平将門ブームが起こり、ファンの後押しがあって主祭神に戻されたという経緯があるようです。

このように怨霊として恐れられた平将門は、東京・大手町にある首塚や神田明神だけでなく、本拠とした下総国豊田・猿島郡地域(現在の茨城県結城郡・猿島郡地域)を中心に日本(主に関東地方)各地に彼に関わる塚や神社、さらには逸話が数多く残っています。

 ところが、藤原純友については平将門ほど研究も進んでおらず、藤原純友に由来する場所もあまり知られていません。まぁ、既に1,000年以上が経過していることもあり、仕方ない部分もありますが、それでもねぇ〜。藤原純友は伊予掾や伊予国警固使の役職として伊予国国府(現在の今治市)を拠点として海賊鎮圧の任務に就き、その後、宇和海に浮かぶ伊予国日振島(宇和島市)を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけで、「藤原純友の乱」はまさに伊予国、愛媛県が舞台の中心でした。しかし、残念なことに、藤原純友は地元民からも忘れ去られているようなところがあります。したがって、藤原純友が平将門ほど有名でないのは、愛媛県人のアピール下手、観光下手以外の何物でもないのではないか…と私は思ってしまうのですが…。

 調べてみると、藤原純友を祭神として祀る神社は全国に3つあります(3つしかない…とも言えますが)。岡山県倉敷市の下津井港の沖に浮かぶ松島という小島にあるその名も「純友神社」。新居浜市種子川にある「中野神社」。そして、松山市古三津5丁目の住宅街の中にある「久枝神社」の3つです。このうち2つの神社が愛媛県にあります。

 まずは岡山県の「純友神社」。この純友神社の社殿の近くには大丸と呼ばれる高台があり、それが藤原純友の居城の1つ大丸城だった場所ではないかと言われています。藤原純友の乱の発端になったのは備前国(現在の岡山県)に土着した海賊衆の1人、藤原文元が備前国の役人(備前介)だった藤原子高を襲撃したことだということは前述のとおりです。この藤原文元の居城であったとも推察されています。

 次に新居浜の「中野神社」です。新居浜市種子川町に新高(にいたか)神社と称される神社があり、中野神社はその境内社として祀られています。この中野神社には和霊神(山家清兵衛公頼)も祭神として祀られているため、近所では和霊さんと呼ばれることもあるとのことです。この新高神社の鎮座地は、生子山(しょうじやま)と呼ばれる標高150メートルを少し越えるほどの丘陵の麓ですが、その生子山と種子川と称される川を挟んでほぼ同じ高さの中野山があり、もともと中野神社はその中野山に祀られていました。中野神社の創健は天慶4(941)の藤原純友の死後まもなくと思われるのですが、時期は不詳とされています。新高神社の境内社として遷されたのは明治2(1869)のことです。

新居浜市種子川町にある新高神社です。現在、中野神社は新高神社の境内社として祀られています。

由緒書きの碑には、「伊予掾として赴任した藤原純友が大いに慕われ、やがて伊予水軍の頭領となって伊予の地で中央に反旗を翻した結果、討伐軍に敗れて中野神社に近い中野山で討たれた」と記されています。博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた藤原純友親子を捕らえて殺害し、その首を朝廷へ進上したとされる伊予国警固使・橘遠保はその恩賞として、それまでの領地である周布一郡(現西条市の橘郷のJR石鎚山駅周辺)に加えて宇和二郡を賜ったとされています。橘遠保の姓のは橘郷の地名に因んだものとも考えられます。その後、橘遠保は美濃介に転任したのですが、天慶7(944)26日、何者かに斬殺されたと言われています。この斬殺に関して、当時は怨みを残して殺された藤原純友の怨霊によるものだと考えられていて、その藤原純友の怨霊を鎮めるために橘郷の人達によって中野神社が創健されたとも伝えられています。

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で取材に行けないため、実はこの写真は生まれも育ちも新居浜市で、新居浜市役所勤務、しかも新高神社のすぐ近所に住む従弟に撮影してきて貰いました。そんな彼でも、ここに藤原純友が祀られていることは初めて知ったのだそうです。


藤原純友とは離れますが、新高神社のある生子山には別子銅山の産業遺産である山根製錬所の大きな煙突があることから、現在は「煙突山」の愛称で新居浜市民から親しまれています。ちなみに、戦国時代の末期までこの生子山には生子山城とうい名の砦があり、中野山にも麓城と呼ばれる砦があって、いずれも新居氏の流れをくむ松木氏が支配していました。天正13(1585)、全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)は四国攻め(四国平定戦)を決意。秀吉の命を受けた毛利氏の小早川隆景率いる総勢約3万人とも言われる大軍勢が瀬戸内海を渡り伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸しました。それを金子城(新居浜市滝の宮町)城主・金子元宅率いる地元勢力約2千人が迎え撃ちました。これが「天正の陣」(金子城の戦いとも)で、この戦いで松木氏を含む新居氏一族は悲劇的な最期を遂げたため、今では砦の存在を示す遺跡はいっさい残っていません。金子城落城後、金子元宅は高尾城(西条市氷見)に拠ってなおも抵抗を続けたのですが、その時残っていた戦力は総勢6百人程度であったとされています。 圧倒的兵力で怒涛のように攻めかかる小早川軍に対し、高尾城は多勢に無勢であえなく落城(高尾城の戦い)。総大将の金子元宅は高峠城(西条市洲之内)に陣を構えていたのですが、最期を悟った金子元宅は自ら高峠城に火を放ち、百人ほどで野々市ヶ原(西条市野々市)に打って出て奮戦。その生涯を終えました(野々市ヶ原の戦い)

 藤原純友所縁の地巡りに戻って、最後は松山市古三津5丁目にある久枝神社です。

松山市古三津5丁目にある久枝神社です。カーナビで検索しても出てこないような小さな神社です。とりあえず古三津5丁目まで行き、近くのコンビニで聞いて、やっと場所がわかったほどでした。


この神社の境内には、駒、すなわち馬に乗った藤原純友がこの岩の上から潮の干満を見たという伝承が残る「藤原純友の駒立岩」があります。天慶4(941)5月、藤原純友率いる海賊衆の船団が博多湾の戦いにおいて朝廷より派遣された小野好古、源経基率いる追捕使軍により壊滅させられ、藤原純友は子・重太丸とともに本拠地である伊予国へ逃れたとされているのですが、その際に上陸したのが現在の松山市古三津のこの地。その際に藤原純友が駒を立てて沖を見たと伝えられる岩がこの岩ということのようです。近くの谷に埋没していたものを掘り出して場所をこの神社境内に移して復元したということです。


久枝神社にある「藤原純友の駒立岩」です。この場所で駒を立てて沖を見たと伝えられている岩です。


また久枝神社の境内には「藤原純友 駒つなぎの松跡」の碑も立っています。藤原純友伝説の一つとして地元に語り継がれている伝承です。

こちらは「藤原純友 駒つなぎの松跡」です。

その久枝神社に隣接する明神丘と呼ばれる小高い丘陵は、現在は常福寺という真言宗の寺院と松山市営の墓地になっているのですが、その頂に「藤原純友館跡」の碑が立っています。ここはまだ藤原純友が伊予掾、さらには伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続けていた頃の館()の跡だと推定されています。松山市の沖は、古来より九州と近畿とを結ぶ海上航路上に位置するため、海上の往来が盛んな地域で、そこに点在する中島をはじめ7つの島からなる忽那(くつな)諸島は、平安時代から忽那氏と呼ばれる有力な海賊集団の根拠地でした。その忽那氏を制圧するためにこの地に館()を築いたことは十分に考えられます。


明神丘の頂に立つ「藤原純友館跡の碑」です。眼下に古三津の街並み、その向こうは瀬戸内海で、忽那諸島の島々が見渡せます。忽那諸島を本拠にする海賊衆に睨みを効かせるには、絶好のロケーションです。

藤原純友は海賊衆の頭領になってからは本拠地を日振島に移すのですが、その後もこの館()はそのまま残っていたと考えられ、博多湾の戦い後、敗走した藤原純友親子がこの地に逃げ帰ったと考えるのもおかしなことではないと私も思います。現在、館の跡は全く残っていませんが、館があった当時使用されたと伝えられる井戸の跡が残っています。大宰府と博多湾の戦いで大敗した藤原純友が北九州から伊予に敗走してこの地に住んでいた当時の名残なのだそうです。その関係から、天慶4(941)に藤原純友が捕まって殺害されたのがこの地だという伝承も残っています。

 私も新居浜市の中野神社と松山市の久枝神社を訪れてみたのですが、『承平天慶の乱』で歴史の教科書に残るほどの有名人・藤原純友を祀っている神社と言われるわりには、申し訳ないけれどショボい神社です。参拝客もほとんど見掛けず、まさに人知れずひっそりと佇んでいるって感じです。平将門を祭神として祀る神田明神の賑わいや華やかさと比べると、あまりにも大きな違いがあります。しかも藤原純友は平将門のように神(怨霊)や英雄として崇められることも少なく、地元にもこれと言った伝説や逸話は残っておりません。ここが平将門との決定的な違いです。

 私は愛媛県の歴史を調べる時、『愛媛県史』を参考にしています。その『愛媛県史 古代・中世(昭和59年3月31日発行)』の「第一編 古代、第三章 律令国家の動揺、第二節 海賊の跳梁」に藤原純友に関する項があります。その中に次のような非常に興味深い記述があります。それを抜粋して示します。

 ・『予章記』によれば、この時、越智好方なる者が純友追討の宣旨を蒙って百余艘の兵船を率いて九州に渡り、これと戦ったとも伝えられ、好方は越智郡押領使、その子好峰は野間郡押領使に任じられている。純友の乱に際して越智氏がその軍事力で純友追討の戦闘に参加、乱後その功績により押領使・追捕使などの地位を獲得していった動きはほぼ事実とみなして差し支えなかろう。

 ・純友追討軍を構成する諸国兵士のなかに、伊予国兵士が当然含まれていたであろうが、その動員形態は越智氏のような古代伊予を代表する伝統的豪族層が、その影響下にある一般兵士を組織、これを統率して参加したのではなかったろうか。

 ・藤原純友の反乱と伊予国との関わりをみていく時、特に注目すべき事実の一つは、この越智氏の場合に典型的にみられるように、純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていないという点である。

 ・純友が本格的な反乱に蜂起していった後、彼の次将と呼ばれるクラスには、前記のように確実な伊予国出身者は史料上見出し得ない。

 ・結局伊予国の在地勢力の主要な部分は、ほとんど国家側にとどまり、越智氏のように伊予国兵士として純友軍に対峙したと考えざるを得ず、そこに純友の限界を考えてみるべきでもあろう。

 なるほどぉ〜。藤原純友は伊予国を拠点に朝廷に対して叛乱を起こしたにも関わらず、愛媛県(伊予国)でまったく人気がないどころか、ほとんど関心さえ示されない理由がここにあるのでしょうね、きっと。首領である藤原純友をはじめ藤原純友軍の主力のほとんどは、中央(京の都)で出世が望めなくなった下級貴族や没落貴族、失業した舎人と呼ばれる役人達で、伊予国とはほとんど関係のない、言ってみればよそ者。そのよそ者達が勝手に伊予国内に拠点を構え、瀬戸内海一帯を暴れ回り、その挙句、朝廷に対して叛乱を起こし、勝手に朝廷の討伐軍に敗れて滅んだわけです。ホントいい迷惑…ってところだったのでしょうね。実際、博多湾の戦いで藤原純友軍の海賊船団を打ち破った朝廷側の討伐軍の船団の主力は、越智氏族をはじめとした古代伊予を代表する伝統的豪族層、すなわち伊予水軍だったと考えられます。瀬戸内海の覇権(制海権)を“よそ者”であった海賊集団から在地勢力の伊予水軍が奪い返したってことなのでしょう、きっと。これが在地勢力を上手く巻き込んで勢力を伸ばしていった平将門との決定的な違いなのではないでしょうか。

 余談ですが、芸予諸島の大三島にある大山祇神社には、藤原純友の乱にあたって勅により錦旗をいただき、藤原純友追捕に大活躍した越智(河野)好方が戦勝の御礼に奉納したと伝えられる沢瀉威(おもだかおどし)の鎧と兜が保管されています。この種の鎧としては日本最古のものであると言われ、国宝に指定されています。

 平将門に関して多くの伝説や逸話が生まれたのは、恵まれた貴族の寄り集まりである朝廷に逆らい、地方の農民や虐げられている者たちのために戦った…そういう印象の強い平将門に同情し、平将門の無念さを、自分のことのように感じる人が多かったからだという説もあるようです。さらに、敗れたとはいえ公家政治に果敢に挑んだ平将門は、徳川家康に至るまで後世の関東武士から敬愛の念を抱かれ続けたと言われています。そのいっぽうで、藤原純友にはまったくと言っていいほどそういう部分が見受けられません。これもそのあたりが影響しているのかもしれません。納得しました。これじゃあ神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのも当たり前です。むしろ、消し去りたい忌まわしい過去、黒歴史…って感じですものね。

 でも、ここで新たな疑問が湧いてきました。何故、藤原純友は宇和海の日振島に拠点を構えたのか?…という疑問です。その疑問を解決するには藤原純友が見たのと同じ景色を見て、藤原純友の気持ちになって考えてみるしかないと思い、実際に日振島に行ってみることにしました。次回第79回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)」では、その「日振島探訪記」を書かせていただきます。

 

 【追記】

それにしても、市内に藤原純友に関連する史跡があることを知らない松山市民のなんと多いことか……。それ以前に、誰とは言いませんが、ある若い松山市民(女性)との会話の中で出てきた「藤原純友? それ誰? 藤原竜也なら知っているけど……」には思わず絶句しちゃいましたが() こりゃあ、絶対に藤原純友のことをもっと発掘しないといけませんね。

 

……(その3)に続きます。

0 件のコメント:

コメントを投稿