2020年8月25日火曜日

嗚呼!、丸亀城

公開日2019/3/07

 [晴れ時々ちょっと横道]番外編:

嗚呼!、丸亀城



四国うどん県香川、特に丸亀に所縁(ゆかり)の深い皆様、大変長らくお待たせいたしました。私の次のペーパークラフト作品は、私が中学高校時代を過ごしたうどん県(香川県)”丸亀市のシンボル『丸亀城』です。

中学高校時代、見慣れた丸亀城のペーパークラフト(縮尺1/300)です。それにしても、現存12天守の1つとは言え、よくもまぁ〜、こんなマイナーな城をキット化していただいたものです。ありがたい!!

丸亀城は丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、亀山の廻りを内濠で囲んだ輪郭式(本丸を取り囲むように二の丸、三の丸が造られている方式)の平山城です。丸亀城の特徴は、なんと言っても日本一との呼び声も高い美しい石垣。亀山の周囲を取り囲むように4重に重ねられた高石垣の姿は「壮観‼️」のひと言です。

 「石垣の城」として知られ、石垣は緩やかであるが荒々しい印象を受ける野面積みと端整な表情を見せる算木積みを組み合わせた造りの土台から、次第に勾配が急になり、本丸のある頂き付近の上部ではほぼ垂直になる独特の石垣の“反り”は「扇の勾配」と呼ばれ、美しさと防御性を兼ね備えたものになっています。山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣の高さは合わせると約60メートルにもなり、総高としては文句なしに日本一高く、三の丸の石垣だけでも一番高い部分は約22メートルの高さがあります。

ちょうどJR予讃線の丸亀駅付近から眺めると、こういう感じに見えますよね。石垣ばかりではあまりにも殺風景なので、模型ではオプションで付いていた樹木を植えてみました。それらしくなったでしょ。これからのシーズン、城山は満開のサクラで覆いつくされ、それはそれは美しくなります。もう間もなくですね。

築城は、慶長2(1597)に戦国武将の生駒親正がその子一正とともに5年の歳月をかけて完成させたといわれています。元和元年(1615)、一国一城令により丸亀城は一旦は廃城となったのですが、寛永18(1641)、山﨑家治が53千石で西讃岐の領主となり丸亀城に入封。丸亀城を再建しました。現在の石垣は、この山﨑家治が入封した時に造られたものが多いと言われています。万治元年(1658)、山﨑氏が3代で無嗣断絶して改易となった後、山﨑氏に代わり播磨国龍野藩より京極高和が藩主となり入封。その後、7212年間、明治維新を迎えるまで京極氏の居城となりました。

この丸亀城のペーパークラフトはペーパークラフトの企画・設計・販売を行うファセット社(岐阜県各務原市)の「日本名城シリーズ」の中の『丸亀城』を購入し、組み立てたものです。縮尺は1/300。表紙には丸亀市と丸亀市観光協会の企画・協力と書かれていますから、丸亀市オフィシャルのペーパークラフトキットのようです。丸亀城の実測図面を設計参考資料として用いたとのことですから、かなりリアルな模型です。キットは三の丸より上を再現しているので、石垣は3重で、勾配がかなり急になった上の部分だけです。しかも、大手門のある北側半分のみ(東側も切り取られています)

 実際の丸亀城の姿は以下をご覧ください。

丸亀市・丸亀市観光協会HP 

また、キットは丸亀城の現在の姿を再現しているので、高く立派な石垣の上の本丸に独立式層塔型33(高さ約15メートル)の可愛らしい天守がチョコンと1つ載っているだけです。この建物、唐破風や千鳥破風が施され、漆喰が塗られているので、たとえ小さくても間違いなく天守です。完成した模型のサイズは横36.0cm×奥行き27.3cm×高さ19.3㎝。体積としてはこれまで私が作ってきたペーパークラフトの中では、とにかく一番デカイ‼️ これは城のペーパークラフトと言うよりも城山のペーパークラフトですね。主役はあくまでも石垣で、天守は立派で美しい“石垣で覆われた城山”の1つのアクセントに過ぎないって感じさえします。

全国『現存12天守』の1つ、丸亀城の天守です。『現存12天守』の中では最も小規模なものですが、周囲には櫓や城門があった跡の石垣が幾つも残っていて、かつてはそれなりに立派な城郭であったことが偲ばれます。

ただし、この可愛らしく上にチョコンと載っている天守、現在全国で江戸時代のものが現存する12の天守(『現存12天守』と呼ばれています)のうちの1つで、国の重要文化財に指定されています。(丸亀城では天守のほかに大手一の門と大手二の門が現存していて、どちらも国の重要文化財に指定されています。)


丸亀城の現在の
33階の天守(正しくは御三階櫓と呼ばれています)が完成したのは万治3(1660)のこと。山﨑氏が3代で無嗣断絶して改易となった後、代わって万治元年(1658)に播磨国龍野城より6万石で入封した京極高和が築いたものです。丸亀城の天守が小さく可愛らしいのは、このタイミングが大きく関係しているようです。

江戸城の天守(寛永天守)が明暦3(1657)の「明暦の大火」で焼失して以降、江戸城では天守閣が再建されず、時の第4代将軍 徳川家綱が万治2(1659)に「今後は本丸にある(33階の)富士見櫓を江戸城の天守とみなす」と発したことから、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても、徳川将軍家に遠慮して(謀反の疑いをかけられないように)、「御三階櫓」と称するなど、富士見櫓を越えないように高さ制限を自主的に設けるようになりました。『現存12天守』では弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守がそれにあたり、禄高のわりには天守がイマイチ小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。『現存12天守』のうち国宝に指定されている松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城の5つの城は全て「明暦の大火」以前の慶長年間に建てられた天守が残る城であり、それ以外の丸岡城と高知城の2つの城の天守も万治2(1659)より前に建てられたものなので、その限りではありません。 そして、丸亀城の天守は現存12天守の中では最も小規模なものです。

 (近年になってコンクリート製で復元された城の天守は、どうしても一番大きかった時代のもので復元する傾向にあり、それらと比較してもあまり参考にはなりません。また、現存12天守は刻まれた歴史の長さがあるので、たとえ小さくても威厳があります。)

それにしても見事な石垣です。実測図面を設計参考資料として用いているということなので、決して誇張ではなく、リアルに「扇の勾配」と呼ばれる丸亀城の石垣を再現しています。この石垣の微妙な曲面を上手く作り出すのが、この丸亀城のペーパークラフト製作のポイントでした。

石垣で覆われた城山(亀山)の頂上にチョコンと可愛らしい天守が載っているだけなので、もうほとんど城山の模型ですね。なので、天守の可愛らしさに反して、模型全体はデカイ!! 背景用に用意した空色のプラ板ではまにあわないくらいにデカイ‼️ さて、どこに飾ろうって思うほどです。

現在はその天守だけが表面を石垣で覆われた亀山の頂きにある本丸にポツンと1つ建っているだけですが、かつては本丸、二の丸、三の丸に多くの櫓や城門が建っていました。ペーパークラフトを作っていると、それら櫓や城門の土台となっていた石垣が数多く残っていることに気づきます。明治維新後の明治10(1877)より現存している建物以外のこれら櫓・城壁等は明治政府が発布した廃城令によりすべて解体されました。松山城の天守閣内に城郭模型作家の岐部博さんが製作した現存12天守を持つ城のジオラマ模型が展示されているのですが、これらは江戸時代の姿を古図面等を参考に復元したものです。この岐部博さんが製作した丸亀城のジオラマ模型によると、現存する天守以外にも多くの櫓や城門が本丸、二の丸、三の丸に建っていたことが分かります。そうでしょ、そうでしょ、これならば誰が見ても立派な城です。 

松山城の天守閣内に展示されている城郭模型作家・岐部博さんが製作した復元丸亀城のジオラマ模型です。江戸時代の姿を古図面等を参考に復元したもので、現存する天守以外にも多くの櫓や城門が本丸、二の丸、三の丸に建っていたことが分かります。

前述のように私が組み立てたファセット社の『丸亀城』のペーパークラフトキットは現在の丸亀城の姿を再現しているので、城のペーパークラフトと言っても建物は可愛らしい本丸を1つ作るだけで、あとはひたすら石垣で覆われた城山を作るだけです。キットはA411枚の展開図で構成されているのですが、建物(本丸)は僅かに1枚だけで、残りの10枚は石垣と土台の部分です。まぁ〜石垣の美しさで知られる城ですからねぇ〜。なので、ただひたすら石垣(で覆われた城山)を組み上げていく作業になります。ですが、この石垣、美しいだけあって構造が思いのほか複雑で、なかなかに根気のいる作業でした。

 部品の総数は100弱。A418枚、部品の総数200弱だった松山城ほどではないにしても、なかなかの大作です。例によって夜な夜なちょっとずつ作っていったので、延べ製作日数は8日間。総製作時間は30時間弱といったところでしょうか。根気の要る作業でした。ただ、作っているうちに「なるほどなぁ〜」と思うことが多く、いろいろと気づかされることがありました。こりゃあ難攻不落の城だわ。美しいのには訳があるってことですね。

 ファセット社のHPには次のような文言が書かれています。

「製作の対象年齢は中学生以上と設定していますが、細かな作業が苦手な方、集中力のない方には困難です。ご自身の技量や性格を考慮の上で挑戦してください。」

なので、かなりの上級編ということのようです。「製作には慣れの要素も大きいので2つ、3つと築城していくことで技量は格段に上がります」とも書かれているので、ご自分でも製作してみようと思われた方は、初心者向けのモノを幾つか作られてからチャレンジすることをお勧めします。 

模型は丸亀城の北半分だけで、昨年の10月に大きく崩落した南西部分はバッサリ大崩壊、いや省略されています。このように、石垣が全て崩壊したわけではなく、模型のように北半分(大手門側)は日本一と言われる見事な石垣がまったくの無傷で、築城当時の姿のままで残っていますので、皆さん、是非観光で訪れてみてください。

ちなみに、丸亀城の石垣は昨年平成30(2018)10月に、平成307月豪雨や台風24号の影響などにより、南西部に位置する帯曲輪石垣と三の丸坤櫓跡石垣の一部が大きく崩落してしまいました。このペーパークラフトは丸亀城の北半分を模型化したものなので、残念ながらその崩落した南西部分は再現されていません。

丸亀市役所HP「丸亀城 石垣修復情報」……動画もあります

私の母校、香川県立丸亀高校はその丸亀城の南西部、崩落した帯曲輪石垣と三の丸坤櫓跡石垣のすぐ目の前にあります。なので、高校時代、教室の窓からは美しい丸亀城の石垣の姿が常に見えていました。高校時代に見慣れたあの石垣が1日も早く、再び美しい姿を見せてくれる日が来ることを願ってやみません。

 皆さんも「ふるさと納税」などでご協力いただければ嬉しいです。ちなみに、丸亀市では「ふるさと納税」の返礼品として、名物の讃岐うどんや骨付鳥をご用意しています。私は平成307月豪雨で甚大な被害を出した愛媛県南予の某自治体と丸亀市に対して、少額ではありますが「ふるさと納税」で復興に向けたご協力をさせていただいています。

なんとっ‼️、『丸亀城主証』です。丸亀城の石垣修復のためにふるさと納税をした人は、もれなくこれが貰えるようです。


【追記

松山城、丸亀城と作ってきて、城郭作りがペーパークラフトの王道だってことがよく分かりました。これはハマる人が多いのが分かります。単に実物を眺めるだけでは分からないいろいろなことも作っているうちに分かりますし、とにかく面白いです。さぁて、次は何を作ろう?? この丸亀城に加えて、松山城、宇和島城、高知城と、四国には『現存12天守』のうち1/34つの城があります。そのほか、もともとの天守は残っていませんが、日本三大水城のうちの2(高松城、今治城)もあり、城好きの方々にとっては聖地のようなところです。少なくとも、同じくファセット社から販売されている「日本名城シリーズ」のうち、四国にある現存12天守の残り2つ、宇和島城と高知城は今後の製作予定リストに入れておきました。そして、いつかは現存12天守の中の頂点に立ち、複雑な連立式天守の構造から日本の城郭建築の最高傑作と言われる「国宝 姫路城」の建造にも挑戦したいと思っています。

ですが、このところ「戦艦三笠」「坊っちゃん列車」、「松山城」、そして「丸亀城」と上級者向けの大作の製作ばかりが続いたので、しばらく根気の要る大作の製作はお休みにして、目先を変えて比較的簡単なものを次々と製作しようかな…と思っています。最近ハマっている別の私の趣味、「旧街道歩き」と「家庭菜園」も春から再開しますし。意欲が戻って来たら、再び大作の建造に挑戦します。



2020年8月24日月曜日

『坂の上の雲』3部作(その3)

 

公開日2019/3/07

[晴れ時々ちょっと横道]第54回:

『坂の上の雲』3部作(その3)


ついに完成しました。縮尺1/300の松山城のペーパークラフトです。以降、本物の写真と併載しますが、ほとんど違和感を感じさせないほどリアルに出来上がっているでしょ。

四国愛媛、特に松山市に所縁(ゆかり)の深い皆様、お待たせいたしました。私の次のペーパークラフト作品は『松山城』の天守(天守閣)です。標高132メートルの城山(勝山)の山頂に建つ松山城は、建物の陰でない限り松山市内(松山平野)のほぼどこからでも見ることができ、江戸時代から今日に至るまで松山城天守は圧倒的な存在感を放つランドマークとして、松山市のシンボルと言ってもいいような存在です。私の実家は市内中心部から東へ3kmほど離れた畑寺・三町地区にあるのですが、もちろんそのあたりからでも遠くに松山城の姿を見ることができます。時折帰省した時に実家の近くから子供の頃から見慣れた松山城の姿を目にすると、「あぁ、松山に帰ってきたんだな…」って実感し、安堵感を覚えちゃいます。このように、松山城は松山市民、そして松山に所縁のある人々にとっての心の拠り所のような存在でもあります。そして、この『松山城』のペーパークラフト作品は、『戦艦三笠』、『坊ちゃん列車』に次ぐ、私の『坂の上の雲』シリーズ3部作の最終・第3弾でもあります。

標高132メートルの城山(勝山)の山頂に建つ松山城は、松山平野のほぼどこからでも見ることができ、江戸時代から今日に至るまで圧倒的な存在感を放つランドマークとして、松山市のシンボルと言ってもいいような存在です。

ペーパークラフトの王道と言えば建物。これまで船や鉄道車両、バスといった乗り物ばかり製作してきましたが、ついに建物の建築に乗り出しました。この松山城天守のペーパークラフトキットは
CanonさんのHPから無料ダウンロードしたものです。さすがにプリンターメーカー大手のCanonさん、インクや用紙の販売促進用()なのか、様々なペーパークラフトを無料でダウンロードできるようにしてくれています。このCanonさんのペーパークラフトは上級者向けで、なかなか本格的なものが多いのが特徴です。この松山城のキットなんか、なんと展開図の枚数がA4版用紙で18枚!! 部品の総数が200弱。面倒くさい曲面の加工部分はほとんどないものの、部品の点数がやたらと多く、部品の形も複雑なものばかりで切り出しに細心の注意と時間がかかり、半端なく根気の要る作業でした。ちなみに我が家のプリンターもCanon製です。

松山城を南東から見たところです。一番町や三番町といった市内中心部から見上げる方角です。

大天守です。この大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年に落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。

松山城は松山市の中心部に聳える勝山の山頂(海抜132メートル)に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城です。姫路城、和歌山城と並んで日本三大平山城にも数えられる名城です。山頂の本丸・本壇にある天守は、日本の12箇所に現存する天守 (『現存12天守』と呼ばれています) 1つです。築城したのは豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人の加藤嘉明。慶長7(1602)、伊予国正木城(現伊予郡松前町)城主で10万石の大名であった加藤嘉明は関ヶ原の戦いで東軍(徳川軍)に味方し、石田三成の本隊と戦って武功をあげ、その戦功により20万石に加増。それを機に家臣・足立重信を普請奉行に任じ、まず石手川の流れを変えて、これをそれまで伊予川と呼ばれていた氾濫の多い暴れ川(現在の重信川)と合流させるという大規模な河川改修工事を行い、地歩を固めました (その偉業を讃え、足立重信は現在の一級河川・重信川にその名を残しています)

次に、慶長6(1601)、道後平野(松山平野)の中にポツンと立つ勝山の山頂(海抜132メートル)に城を建造する許可を徳川家康より得て、築城に着手。同時に城下町の整備も着手しました。慶長8(1603)、加藤嘉明は本拠地を正木から勝山に移すことを決定し、その勝山に築城中の城のことを「松山城」と命名しました。そして、これを機にその周辺の地名も勝山から「松山」と改名し、松山という地名が公式に誕生しました。すなわち、松山の原点がこの松山城というわけです。

しかしながら、寛永4(1627)、加藤嘉明は松山城が完成する前に435,500石に加増されて陸奥国会津藩へ転封となり、代わりにそれまで会津藩主だった蒲生忠知(戦国武将・蒲生氏郷の孫)24万石の松山藩主になりました。寛永11(1634)、蒲生忠知が参勤交代の途中に死去し蒲生家が断絶すると、隣接する大洲藩主の加藤泰興が松山城を一時的に預かり(松山城在番)、その翌年の寛永12(1635)に徳川家康の異父弟・松平定勝を宗家初代とする久松松平家の宗家2代目である伊勢国桑名藩主だった松平定行が15万石の松山藩主に転封となり、松山城に入りました。その後、幕末まで松山城は久松松平家の居城となりました。

その際の寛永19(1642)、創建当初5重であったという天守を、松平定行が3年の年月をかけて3重に改築しました。これにはあまりに立派な天守だったので江戸幕府に配慮したためという説がありましたが、近年では本丸・本壇の地盤の弱さに起因する天守の安全確保のためというのが正しい説ではないかとされています。

本丸・本壇の入り口付近です。一ノ門、二ノ門、三ノ門と狭い門が次々と続きます。
小天守です。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二の丸・三の丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。
一ノ門はこの坂を登りきったところで枡形を右に曲がったところに設けられています。
一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。形式は建物上からの攻撃が容易な高麗門です。

9代藩主・松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4(1784)に天守を含む本丸・本壇の主な建物が落雷により焼失したのですが、第11代藩主の松平定通が焼失後37年を経た文政3(1820)に城郭の再建に着手。作業場の火災で頓挫するなどの幾多の苦難を乗り越え、34年後の安政元年(1854年:黒船来航の翌年)、次の第12代藩主・松平勝善の時に悲願の天守を含城郭の復興工事が完成しました。

二ノ門と三ノ門の間は枡形という方形空間となっていて、そこに入り込んできた敵を小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できるようになっています。また、二ノ門と右奥にある仕切門の間は大天守と右手前の天神櫓で守る構造です。

筋鉄門です。筋鉄門は櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する重要な門です。この門の櫓は小天守と大天守を繋ぎ、三ノ門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。

現存する大天守はその安政元年(1854)に竣工した建物で、33階地下1階の「層塔型天守」です。大天守の1階は260平方メートル、2階は174平方メートル、3階は105平方メートル、大天守の高さは約21メートル。欅(ケヤキ)、栂(ツガ)、樟(クスノキ)材を用いて建てられています。その大天守を護るように小天守が築かれています。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。大天守、小天守、隅櫓を渡櫓で空から見ると四角になるように環状に互いに結び、防御に徹したこの天守建造物群は、我が国の代表的な「連立式天守」を備えた城郭、さらには慶長期の様式を引き継ぐ江戸時代最後の完全な城郭建築と言われています。さすがに城づくりの名手と言われた加藤嘉明が築城した城です。鉄壁の防御態勢です。

大天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓を3つの渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、我が国の代表的な連立式天守を備えた城郭といわれています。
大天守です。右は筋鉄門、左の門が内門で、天守広場に入るにはこの2つの門しかありません。現在は天守の入り口として使用されていますが、大天守の内門脇にある小さな入り口は穴蔵で、地下1階にあたり、穀倉や米蔵として使われていました。

空に向かって聳える城郭のシンボル・天守(天守閣)。多くの方が、天守で城をイメージされるのではないかと思います。しかし一口に天守と言っても、全国には様々な形や色の天守があり、その外観は似ることはあっても全く同じものは存在しません。

まず、天守の形は大きく「望楼型(ぼうろうがた)」と「層塔型(そうとうがた)」の2種類に分けられます。

 「望楼型」は初期の天守によく見られた形で、1階もしくは2階建ての入母屋(いりもや)造りの建物の上に物見の建物(望楼)を載せていく構造です。上層の望楼は下層階や石垣の底面に関係なく好きな形にできるため、層塔型に比べて豪華な印象になります。織田信長によって初めて高層の天守閣が築かれた安土城(滋賀県)も望楼型で、八角形の望楼を極彩色や金で飾った豪華なものだったといわれています。また、多くの望楼型天守では1階と2階の間取りが同じになり下層の柱の位置が同じ場所になるため、豪華な見た目に反して頑丈な構造となっています。現存12天守の中では、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(彦根城)、姫路城(兵庫県)、松江城(島根県)、高知城(高知県)6天守が望楼型天守に該当します。

 一方の「層塔型」天守は、関ヶ原の戦い後に登場した形で、築城技術に長け宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城、二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正、加藤嘉明とともに築城名人として知られる藤堂高虎が考案したものとされています。第1層から同じ形の建物を規則的に小さくしながら積み上げていくので、望楼型に比べてスッキリとしたシルエットになります。層塔型の天守は同じ形の構造物を積み上げていくので、工期が短縮できる上に建築コストが抑えられるため、短期間で多数の城を築くことが求められた慶長年間の築城ラッシュで一気に全国に広まりました。現存12天守の中では弘前城(青森県)、松本城(長野県)、高梁城(備中松山城:岡山県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)6天守が層塔型天守となります。

 また、天守の形は天守自体の形の他に、天守に附属する建物によっても、基本的に「独立式」「複合式」「連結式」「連立式」の4種に大別されます。

 まず、最も単純なものが「独立式」。附属建物がなく天守のみが単独で建つ形式で、天守の地階や1階などから直接入ることができます。この形式は敵に本丸を占拠されると容易に天守への侵入を許してしまうため、戦国時代にはほとんど採用されることはなく、戦がなくなった江戸時代以降に建てられるようになりました。現存12天守では、弘前城、丸岡城、丸亀城、宇和島城、高知城の5天守が独立式にあたります。

 次に天守に附櫓や小天守と呼ばれる附属建物が直接接続するのが「複合式」です。初期の天守によく見られた形式で、附属建物を経由しなければ天守に入ることはできず、附属建物に侵入されても天守内から敵を迎え撃つことができました。松江城には大天守から附櫓に向かって開く狭間が残っており、天守が最後の砦だったことを教えてくれます。現存12天守では、松江城以外には彦根城、犬山城、高梁城(備中松山城)のあわせて4天守が複合式天守です。

 複合式では直接天守に接続していた附属建物を、渡櫓で間接的に連結させたものを「連結式」と呼びます。複合式と同様、附属建物を通らないと天守に入ることはできません。現存12天守では、この形式に該当する城としては松本城が挙げられます。ただし、松本城は乾小天守と大天守が渡櫓で連結された連結式であると同時に、辰巳櫓が直接大天守と接続する複合式でもあります。

 もう1つの「連立式」は大天守と2基以上の附属建物を、空から見ると四角になるように環状に渡櫓や多聞櫓で繋いだ構造のものです。内側に中庭のような空間ができるのが特徴で、この中庭に敵を誘い込めば、周囲の櫓群から一斉射撃を仕掛けることができます。このように連立式天守はそれだけで独立した曲輪を形成することが多く、天守曲輪内に入る門を枡形にするなど複雑な構造をしています。このため、あらゆる天守構造の中でも最も厳重な防御態勢を敷くことが可能で、籠城戦を意識した「戦う城」の雰囲気が色濃く出ています。現存12天守では姫路城と松山城の2天守がこの連立式天守に該当します。

左上から右上に並んで立っているのが南隅櫓・十間廊下・北隅櫓です。一ノ門、二ノ門、三ノ門という玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、大小2つの天守に次ぐ格式をもつ櫓でした。
十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓でもあります。桁行が10(18.2メートル)あることから、この名がつけられています。北隅櫓と大天守を連結する渡櫓が玄関多門櫓で、ここが玄関でした。

ちなみに、江戸城の天守(寛永天守)が明暦3(1657)の「明暦の大火」で焼失して以降、江戸城では天守閣が再建されず、時の第4代将軍 徳川家綱が万治2(1659)に「今後は本丸にある(33階の)富士見櫓を江戸城の天守とみなす」と発したことから、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても、徳川将軍家に遠慮して(謀反の疑いをかけられないように)、「御三階櫓」と称するなど、富士見櫓を越えないように高さ制限を自主的に設けるようになりました。『現存12天守』では弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守がそれにあたり、禄高のわりには天守がイマイチ小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。『現存12天守』のうち国宝に指定されている松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城の5つの城は全て「明暦の大火」以前の慶長年間に建てられた天守が残る城であり、それ以外の丸岡城と高知城の2つの城の天守も万治2(1659)より前に建てられたものなので、その限りではありません。 (近年になって復元された城の天守は、どうしても一番大きかった時代のもので復元する傾向にあり、あまり参考にはなりません)

北側から見たところです。こちらからは遮るものがほとんどないので、層塔型をした大天守の構造がよく分かります。

私も大好きな司馬遼太郎先生の代表作『坂の上の雲』の主人公の3人のうち正岡子規はその伊予国松山藩・久松松平家の藩士の子息、秋山好古・真之の兄弟も同じく松山藩の徒士身分の下級武士の子息でした。NHK特別大河ドラマ『坂の上の雲』の番宣ポスターでも、本木雅弘さん演じる秋山真之、阿部寛さん演じる秋山好古、香川照之さん演じる正岡子規の3人が並ぶバックにしばしばこの松山城が登場しましたし、実際、松山城で撮影されたシーンも幾つかありました。

松山城は山の特徴を活かし、急な坂の多い城です。小説『坂の上の雲』を描いた絵や写真でよく使われる構図は、ロープウェイ乗り場から本丸に向かうこの坂を下から上へ大天守を見上げた構図ではないでしょうか。この坂を登り切ったその先に青い空が広がり、その青い空の中に真っ白い“一朶の雲”がポツリと浮かんでいる構図です。坂の上の“一朶の雲”を目指し登って行きます。

ちなみに、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』は次の一文から始まっています。

「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高き十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、そのように厳くはみえない。

この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。……(以下略)

西側から見たところです。左手奥の櫓は天神櫓です。卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれ具足櫓でしたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称が付きました。全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓となっています。現在、修復工事中です。

前述のように松山城は日本三大連立式平山城の1つにも数えられる城で、昭和8(1933)まで本丸部分には40棟の建造物が存在していたのですが、19棟が放火や第二次世界大戦における空襲による火災により失われ、現存する建物は21棟にまで減少しています。もちろん現存する21棟の建物は全てが貴重な歴史遺産であり、いずれも国の重要文化財に指定されています。また、平成21(2009)、ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」にも選定されました。さらに、トリップアドバイザーによる最新の「旅好きが選ぶ! 日本の城ランキング2018」では、松本城、松江城などの名だたる名城を抑えて、堂々の第3位になっています (ちなみに、第1位は姫路城、第2位は二条城です)

南西側から見たところです。ペーパークラフトでは本壇の下にある紫竹門と続塀の一部も再現しています。
本壇に接して紫竹門および続塀があります。乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀・西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の搦手()を防衛する重要な構えです。

このCanonさんのペーパークラフトのキットは勝山の山頂部分にある現在の松山城の本丸の中心部分、本壇の部分を模型化したものですが、連立式天守を持つ平山城ということで、天守がドォーン!と1つだけ聳えるというわけではなく、本壇と呼ばれる天守曲輪、すなわち多くの建物群の集合体になっているのが特徴です。層塔型の大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下状の櫓)で連結した連立式天守閣を構成しています。ペーパークラフトを作っていると、松山城がその層塔型の連立式天守の構造を持った鉄壁な防御態勢を敷く難攻不落の城郭であったことがよく分かります。それも、実物を眺める以上に。

城を眺める時は、自分が“敵”となって攻め込む時をイメージしてみるというのは城郭マニアの鉄則のようなのですが、そういう目で見てみると、何重にも防御のための仕組みが用意されていて、容易には最後の砦である大天守まで近づけないような構造になっていることに気づきます。しかも、建物の11つはどれも城としては小規模で平凡なもので、華美な装飾もほとんど施されていないのですが、総体として美しい!! 機能美とでも言うべきでしょうか。工学の世界では「性能のいいモノは美しい」とよく言われますが、まさにそれです。いっさいの無駄を省き、城本来の機能である防御に徹した「戦う城」としての美しさって感じです。

城山(勝山)の山頂は標高約132メートルで、天守は更に約30メートル高く聳え立っているため、大天守の3階からは松山平野を360度見渡すことができます。

天気に恵まれれば、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)や瀬戸内海に浮かぶ島々なども見ることができ、その眺めはまさに絶景です。

このように、連立式天守は厳重な防御態勢を敷くために複雑な構造をしているというのは前述のとおりですが、このため松山城はペーパークラフトでも規模のわりには部品の点数がやたらと多いことが特徴で、Canonさんのペーパークラフトで提供されている幾つかの日本の城の中でも、展開図の枚数がA4版用紙で18枚、部品の総数が200弱というのは、同じく連立式天守構造の姫路城と並んで最多クラスです。とは言え、完成した模型の寸法は横26cm、奥行き23cm、高さ14cmほど。縮尺1300といったところでしょうか。飾るのにちょうどいいサイズです。

なので、やたらと細かい作業が多く、組み立てにあたっては見かけ以上に苦労しました。夜な夜なちょっとずつ作っていったこともありますが、延べ製作日数は16日、50時間以上の時間がかかりました。ただただ根気のいる作業でした。土台の石垣の部分から建物群を1つずつ作っていくのですが、構造が複雑で、当初、展開図を見ただけではこの部品がどの部品とどのように接続していくのか皆目見当もつかないのですが、組み上げていくうちに徐々にその謎が解けて、松山城がその美しい姿を現していくので、後半になるとその根気のいる作業が楽しく思えるようになっちゃいました。大変よくできたペーパークラフトキットです。そして、出来上がってみると層塔型の連立式天守閣という松山城の特徴と美しさを見事に再現したものになっていて、大変に満足しています。それにしても眺めれば眺めるほど美しい城です。松山の誇りですね。

展開図の枚数がA4版用紙で18枚、部品の総数が200弱という大作を作り上げたので、ちょっと自信もついてきました。さぁ〜、次は何を作ろうかな?

ちなみに、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』の3人の主人公の1人でもある俳人・正岡子規は、松山城を詠んだ多くの俳句を残しています。

松山や 秋より高き 天主閣 子規

松山の 城を載せたり 稲筵 子規

春や昔 十五万石の 城下かな 子規

松山市は城下町。まさに平山城である松山城の下に広がった街です。「城下町」という言葉がこれほどピッタリと似合う街は、日本中探しても他にはないのではないでしょうか。

2月に訪れた際には梅の花が綺麗に咲いていました。梅の花越しに見える松山城天守閣。正岡子規ならどんな句を詠むのでしょうか。これから桜のシーズン、松山城が最も華やかな時を迎えます。


【追記】

「戦艦三笠」、「坊ちゃん列車」、そして「松山城」、『坂の上の雲』シリーズの3部作はどれも手間と時間のかかる、とっても作りごたえのあるものばかりでした。ですが出来あがったこれら3つの作品を並べて飾ってみると、『坂の上の雲』の世界を見事に表現したもののように思え、大いに満足しています。皆さんも是非製作にチャレンジしてみてはいかがですか? 必要な道具はカッティングマット以外は100円ショップで容易に手に入るものばかりです。ですが、これらを3つとも作るのは、よっぽど司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』や郷里松山への思い入れが強くないと、とてもじゃないけど根気が続きませんので、まずは初心者向けの簡単なものから始められることをお勧めします。私もそうしましたから。

2020年8月23日日曜日

『坂の上の雲』3部作(その2)

 

公開日2019/2/07

[晴れ時々ちょっと横道]第53回:

『坂の上の雲』3部作(その2)


私が昨年夏から始めた新しい趣味、ペーパークラフトの次の作品は伊予鉄道の看板列車『坊っちゃん列車』です。正しくは伊予鉄道甲11号機関車とハ124輪客車と言います。これは戦艦三笠に次ぐ「坂の上の雲」シリーズの第2弾でもあります。

このペーパークラフトのキットは松山空港の売店で購入しました。発売元を見ると「伊予鉄道株式会社」。すなわち、伊予鉄道オフィシャルのペーパークラフトキットのようです。小説「坊っちゃん」の登場人物である坊っちゃんやマドンナをはじめ、野だいこや赤シャッツ、さらには正岡子規や夏目漱石などのオールキャストのキャラクターが付いていて、「坊っちゃん列車」の前に勢揃いして飾ることができます。

松山空港の売店で購入した時には観光土産のコーナーで販売されていたこともあり、すぐに完成するような初心者向けの比較的簡単なキットを想像していたのですが、作り始めてみるとなかなかどうして。機関車や客車の内部までも造り込まなくてはならないような、ちょっと本格的なキットでした。展開図は機関車と客車を合わせてA4版で9枚。円筒加工等の曲面の加工部分も多く、難易度はいささか高いのですが、説明図がしっかりしているので、それに従えば初心者でもなんとかなります。これで540(税込)は絶対にお買い得です。

平日の夜にちょこちょこ少しずつ作っていったので、製作日数は延べ7日間。完成までにかかった時間は20時間弱ってところでしょうか。細かい部品も多く、気分にムラっ気があることから、意外と時間がかかりました。それでも、前作『戦艦三笠』を作って以降、公私ともにちょっと忙しい日々が続き、ペーパークラフト製作に少しブランクが空いていたので、その再開第1弾としては難易度的に勘を取り戻す上でちょうどいいレベルのキットではありました。

完成してみると坊っちゃん列車の特徴をよく捉えたリアルさが感じられます。しかも、 なんとも可愛らしい。デフォルメによる可愛らしさと言うよりも、「坊っちゃん列車」という素材そのものが可愛らしいですものね。機関車や客車の内部まで作り込んでいるため、ペーパークラフトとしてはちょっと重量感もあり、いい感じです。連結器は特徴的なセンターバッファー方式で、リンクで連結されています。このペーパークラフトでは、マニアックにも、ここまで再現しています。

四国の松山市近郊を走る伊予鉄道は、明治20(1887)に創立された、民営鉄道としては日本で2番目に古い歴史を持つ老舗の鉄道会社です (ちなみに、一番古いのは伊予鉄道の2年前の明治18(1885)に設立された阪堺鉄道を母体とする南海電鉄です)。松山市の外港である三津港と松山市中心部を結ぶ三津街道の道路事情が劣悪だったため、これを改善しようと鉄道の建設を決意したのが創業者の小林信近氏で、小林氏はイギリス人技師から教えを受け、少ない資本でも建設できる鉄道として軌間762mmの軽便鉄道を採用。明治20(1887)に伊予鉄道を設立し、日本で初めての軽便鉄道、および中国四国地方で初めての鉄道として、松山市駅〜三津駅間を翌明治21(1888)に開業させました。

この伊予鉄道開業時に導入された蒸気機関車がこの伊予鉄道甲11号機関車です。明治21(1888)、ドイツのクラウス社製で、実車は全長4,760mm、全幅1,650mm、全高2,810mm、運転整備重量7.80トン。動輪径685mm、車軸配置0-4-0(先輪0・動輪左右2対の4・従輪0)のいわゆるB(2軸動輪)の単式2気筒ウェルタンク式蒸気機関車です。軌間762mmの軽便鉄道用に作られた動輪周馬力40PS(公称:代表的な蒸気機関車であるD51形蒸気機関車の最大出力は1,400 PS)という現代の軽自動車以下の馬力しか出せない小型機関車ながら、昭和6(1931)に現在の1,067mmに軌間が改軌された以降も足回りの大改造を施されて使われ、昭和29(1954)までの67年間にわたり松山平野を走り続けました。また、その蒸気機関車の後ろに連結されている客車は、これも開業当時にドイツから輸入されたハ124輪客車です。実車の定員は乗客18+乗員1(うち座席定員12)、客室面積4.73平方メートル、全長5,010mm、全幅2,130mm、全高2,845mm、自重3.2トン。軽便鉄道の車両ということで、機関車も客車も現代の鉄道の基準から言うと、かなりの小型です。

文豪・夏目漱石の小説『坊っちゃん』の中に、この伊予鉄道の列車が登場します。『坊っちゃん』は夏目漱石が明治28(1895)から明治29(1896)の間に松山中学の英語教師として赴任した時の経験をもとにして執筆された小説で、作品の冒頭に「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。」という一文があり、伊予鉄道の客車列車のことをマッチ箱のような汽車という表現で描いています。このことから、この小型の蒸気機関車で牽引される伊予鉄道の客車列車は、その後、「坊っちゃん列車」の愛称で親しまれてきました。平成13(2001)にはこの作品が書かれた当時の様子を再現する試みとして、ディーゼルエンジンでの駆動ではありますが観光列車「坊っちゃん列車」も市内線(路面電車区間)で運行が開始されました。伊予鉄道のこの発想は凄いです。この現代に再現された「坊っちゃん列車」、今では伊予鉄道の看板列車になって、鉄道マニアだけでなく、松山を訪れる多くの観光客の皆さんに楽しんでいただいているようです。

ちなみに、夏目漱石は東大予備門の同期生で俳句を通じて深い交友関係を持っていた親友の正岡子規の誘いで、正岡子規の母校・松山中学(現在の松山東高校)の英語教師として赴任したのでした。そしてその正岡子規は、私の大好きな司馬遼太郎先生の代表作『坂の上の雲』の3人の主人公のうちの1人で、もう1人の主人公である日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃ち破った大日本帝国海軍 聨合艦隊の作戦参謀・秋山真之とは、松山中学の同級生であり幼馴染みで親友と言える間柄でした。なので、『坂の上の雲」の3人の主人公である秋山真之も、その兄の秋山好古も、正岡子規も松山に帰省した折には、間違いなくこの「坊っちゃん列車」に乗ったはずです。

高浜線の梅津寺駅前にある梅津寺公園には伊予鉄道の甲1形機関車の実車が静態保存されています。残念ながら、この機関車はペーパークラフトのモデルになった1号機関車ではなく、道後公園等に保存されていた同形の3号機関車に、昭和40(1965)、軌間を1,067mmから762mmに戻すなどの大改修を施したものですが、それでも3号機関車は明治24(1891)製。この伊予鉄道甲13号機関車は我が国に現存する最古の軽便鉄道の機関車として、昭和42(1967)に日本国有鉄道(現在のJR)から鉄道記念物に指定され、さらに愛媛県の県指定民俗資料にも指定されています。(梅津寺公園に展示されている客車は復元されたレプリカです。)

さらに、松山市駅の隣にある伊予鉄グループ本社ビル1(スターバックスコーヒー店の奥)に「坊っちゃん列車ミュージアム」があります。そこに伊予鉄道甲11号機関車の原寸大模型(レプリカ)が展示されています。歴史を感じさせる「1888年、ドイツのクラウス社製」を示す銅製の輝くエンブレムが誇らしげに付けられています。渋い!!

松山市駅から徒歩数分の正宗寺の境内にある正岡子規が17歳まで暮らした家を復元した「子規堂」には、坊っちゃん列車に使用されたハ124輪客車とされる客車が、夏目漱石の胸像とともに静態保存されています。「ハ1」と標記があるこの客車、車内には「この客車は現在たゞ一つ残っているその当時のものである(1888年独逸製)」と記載されていますが、その来歴には謎の部分があり、一説には現在梅津寺公園に静態保存されている1号機関車(ベースは3号機関車)とともに、かつて道後公園に保存されていたものではないかとされています。子規堂のハ12軸客車が伊予鉄道から寄贈されたのも梅津寺公園に静態保存されている甲13号機関車と同じ昭和40(1965)のことですから、もしかしたら開業当時に使われていた本物なのかもしれません。いずれにしても貴重な松山の歴史遺産です。

ちなみに、高浜線、横河原線、森松線(昭和40年に廃止)は昭和6(1931)に現在の1,067mmに軌間を改軌 (高浜線は改軌と同時に電化)。郡中線も昭和12(1937)1,067mmに軌間を改軌しました。郡中線が電化されたのは昭和25(1950)、横河原線が電化されたのは昭和42(1967)のことです。なので、昭和31年生まれの私が子供の頃は、まだ横河原線などは電化されておらず、蒸気機関車こそありませんでしたが、その後継の小型のディーゼル機関車が牽引する客車列車が現役で活躍していました。

「坊っちゃん列車」を作ったことで、再びペーパークラフトの創作意欲が湧いてきました。いよいよ次は展開図がなんとなんとのA4版用紙18枚という、上級編・大作のペーパークラフトに挑戦することとします。果たして根気が続き、完成まで漕ぎ着けることができるのかどうか……A4版用紙18枚ということなので、部品の点数もこれまで以上に多く、完成までに相当の時間だけはかかりそうです。何を作るかのヒントは……、いよいよ『戦艦三笠』、『坊っちゃん列車』に次ぐ「坂の上の雲」シリーズの第3弾、完結編です。