天正元年(1573年)、遠江国三方ヶ原の戦いの最中に病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田家の当主となった四男の武田勝頼は、天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍の前に大敗したのを機に武田氏は弱体化。その後失地回復に努めたのですが、天正9年(1581年)、徳川家康に高天神城(静岡県掛川市)を奪還された際、武田勝頼が味方に援軍を出さなかったことがきっかけとなり、堰を切ったように武田家は家臣の造反が続出します。そして天正10年(1582年)、武田勝頼の義弟(信玄の娘婿)・木曽義昌が織田方に寝返ると、好機とばかりに織田信長・徳川家康連合軍に北条氏政軍も加わった大軍が総攻撃を開始。武田勝頼の実弟・仁科盛信が守る高遠城(長野県伊那市)が落城すると、ついに武田勝頼は四面楚歌の状態に陥りました。
織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に対して武田軍では家臣の離反が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。この時、武田氏は信玄の父・信虎の代から躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:山梨県甲府市)を居城としていましたが、武田勝頼は織田信長の襲来に備え、より戦闘力の高い新府城(山梨県韮崎市)を真田昌幸に命じて築き、そこに移っていました。しかし、当時、新府城はまだ城塞としては完成していなかったため、このままでは織田信長の大軍勢に太刀打ちできないと判断した武田勝頼は、できあがりつつあった新府城を焼き払って逃亡することを決意しました。この時、「我が岩櫃城(いわびつじょう:群馬県東吾妻町)へ退き、再起を」という真田昌幸の進言を断り、武田勝頼は小山田信茂を頼って、岩殿山城へ入ることを決断します。この判断が、結果的に勝頼の命取りになってしまいました。
武田勝頼は未完成の本拠地・新府城に放火して逃亡。家族を連れて笹子峠を越えて岩殿山城主・小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城に逃げ込み、そこに篭城しようとしました。しかし、小山田信茂は主君である武田勝頼を裏切り、織田方に投降することに方針を転換。岩殿山城に向けて敗走中の武田勝頼はこの小山田信茂離反の知らせを笹子峠の手前(麓)にある駒飼宿の地で受けて(当時は笹子峠を含め駒飼宿の江戸方(東の出入口)までが小山田領でした)、「長年仕えた主君を裏切るとはなんてひどい男だ!」と武田勝頼は憤りを覚えますが、当時は小山田氏に限らず、地方豪族(国衆)が主従関係よりも家名存続の道を選ぶのは珍しいことではありませんでした。名門・武田氏であればそう簡単に離反するはずもなく、つまりは武田氏の威信はそれほどまで失墜していたということだったのでしょう。
武田勝頼はそれ以上笹子峠への峠道を進むこと諦め、駒飼の山中に逃げ込みます。勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃。逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田家は滅亡しました。
2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』は、武田家中の国衆であった真田家の真田昌幸、信幸、信繁(幸村)兄弟がこの主家・甲斐武田家の滅亡によって乱世の大海原に放り出されるところから始まりました。武田氏の滅亡は、真田氏にとっても一大転機となりました。主君を失い織田・徳川・北条・上杉という強大勢力に囲まれた真田氏は、生き残りをかけて戦国という大海原へと漕こぎ出すことになる……、これがNHK大河ドラマ『真田丸』の冒頭のシーンでした。
小山田信茂は武田勝頼滅亡後に織田軍の総大将・織田信忠の前に意気揚々と出仕したのですが、逆に「主君を裏切る輩は信用ならん!」と織田信忠の逆鱗に触れ、「不忠者」として誹りを受けたのち、葛山信貞、武田信堯、小菅五郎兵衛などとともに甲斐善光寺において処刑され、郡内小山田氏は滅亡しました。享年44歳でした。小山田信茂の遺体は、甲斐善光寺の北に葬られましたが、小山田信茂の従者が首を持ち帰り、詳雲山瑞龍庵(随龍庵)の住職が、ここに葬ったとされています。その瑞龍庵も、明治40年(1907年)にこのあたりを鉄砲水が襲い、流されてしまったそうで、それ以降、再建されておらず、平坦な土地だけが残されているのだそうです。このあたりが瑞龍庵の境内跡です。このあたりのどこかに小山田左兵衛尉信茂の首が埋められたままになっているのですが、まだ発見されておりません。私の足の下かも……。
では、なぜ小山田信茂は最終的に主君・武田勝頼を裏切ることになったのかについて、前述と繰り返しになる部分も多いかと思いますが、私なりに考察してみようと思います。
信茂が生まれた小山田氏は、武田氏の配下でありながら「国衆」でもあるという性質を持っていました。この「国衆」という立場が、後の小山田信茂による裏切りに大きく関わってくることになります。国衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度を整えていくなど、権力構造を形成していきました。従って、表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。それでは戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国衆とは戦国大名に従属する存在としてのみ存在し続けることができたという点です。その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃をうければ国衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。従って、国衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分達を庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。 (このあたりを武士道が確立された江戸時代以降の感覚で読み解くと、誤った解釈がなされる危険性があります。)
ちなみに、小山田氏ですが、小山田氏の出自ははっきりとしておらず、院政期の名門であった秩父小山田氏の名を、甲斐の新興勢力が騙ったことによって成立したという説が有力なようです。さらに注目すべき点は、室町時代の明和期には国衆として武田家と敵対関係にあったという事実があります。実際に、信茂の祖父にあたる小山田弥太郎という人物は、永正6年(1509年)、武田信玄の父である武田信虎との戦闘で討ち死にしています。その後も武田信虎との小競り合いがありましたが、やがて信茂の父である小山田信有の代に武田信虎と和睦し、領国であった都留郡を武田信虎が庇護する形で小山田氏も力を伸ばし、信茂が家督を継ぐころには武田氏の家臣と見做されるようになりました。従って、信茂は国衆と武田氏家臣という両方の側面をもち合わせていた武将であったといえます。しかも、甲斐武田氏との主従関係は父の代からと短く、それ以前は敵対関係にありました。
小山田信茂は、天文9年(1540年)に、小山田信有(契山)の次男として生まれました。兄に家督を継ぐことになる信有(桃隠)がいます。天文21年(1552年)に父が病死し兄が家督を継ぎますが、その兄も永禄8年(1565年)に病死し、次男ながら信茂が家督を継ぐことになりました。信茂は譜代家老衆に属す「御小姓衆」として、騎馬250騎を率いたとされています。この時期には既に小山田家は甲斐武田家の譜代家老として数えられていたことから、信茂はこの当時の主君・武田信玄の信任を得ていたことが窺えます。
また、小山田信茂は、武田信玄の治世下で文武に活躍していた様子が確認できます。その文武両道ぶりは自他ともに認めるものであったようで、教養人としても名が知られていました。『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで先陣を切ったという記録や、駿河での合戦に参加したという記録があります。永禄12年(1569年)の小田原城包囲戦では後北条氏方の武蔵国御嶽城(現・埼玉県上川町)や鉢形城(現・埼玉県奇居町)など数か所に攻撃を加え、滝山城(現・東京都八王子市)に攻撃を加えたことが確認されています。元亀3年(1572年)には、主君・武田信玄に同行する形で、いわゆる「西上作戦」に従軍し、三方ヶ原の戦いでは先陣を務めたという記録が残されています。戦さに参加する際に先陣を務めることは武士の名誉とされ、それゆえに武勇に優れた武将がその任をうけるのが一般的でした。つまり、小山田信茂は戦国時代最強と言われた甲斐武田家においても屈指の戦さ上手であったことが分かります。
戦さ上手でもあった彼は、教養人としても様々な点で能力を発揮しました。まず、臨在寺の僧侶・鉄山宗純とは優れた漢詩による詩の交換をしていたという記録が『仏眼禅師語録』にて確認されています。漢詩の交換は、当時における教養人のたしなみとして認知されていました。また、元亀元年(1570年)には焼失した上吉田西念寺の再興に乗り出しました。さらに、西念寺寺領仕置日記』を作成させることで、伽藍再興の負担者を明文化するとともに、今でいうところの決算報告をも義務としました。さらに、富士参詣道者の減少を憂いた信茂は、関銭の半減を指示し、やがてこれは常態化していきました。この政策は地元では「小山田の半関」と呼ばれています。このように、戦さに強かっただけでなく、文化面や領地の運営にもマルチな才能を発揮していた、極めて優秀な武将であったと言えるでしょう。
ここまでは順調な生涯を送っていた小山田信茂ですが、ご存知のように元亀3年(1572年)に三方ヶ原の戦いの最中に主君・武田信玄が急逝して以降、国と運命を共にするように信茂の人生を暗い影が覆うようになります。
天正3年(1575年)に勃発した長篠の戦いでは、敗北後に武田勝頼の護衛として退却に貢献しました。しかし、小山田信茂自身は討ち死にせずに退却したことを終生恥じており、この時点では武田家と運命を共にする覚悟であったことが窺えます。その後は、かつて後北条氏との間の取次を務めていたことから、房総里見氏や上杉氏の取次として、和睦の道を探ることになりました。
その一環として、御館の乱では上杉景勝を支持し、武田勝頼の妹である菊姫の輿入れにも関与したとされています。しかし、このことは北条氏政との関係を悪化させ、武田信玄時代から続いていた甲相同盟の決裂を招くことになってしまいます。その影響もあり、小山田信茂の領内には頻繁に後北条氏が侵入を試みるようになってしまいました。
天正9年(1581年)になると、後北条氏の侵攻を防ぎきれなくなった信茂は、主君・武田勝頼に支援を要請。そして翌年には織田軍の侵攻が開始されて、いよいよ甲斐武田氏は存亡の危機を迎えます。小山田信茂も武田勝頼に従って着陣しましたが、同じ取次という立場の人達が、小山田信茂が上杉景勝側へと離反したことを知ると、それを嘆き、強く非難したと言われています。この時点で、小山田信茂は武田勝頼の側近をはじめ家中から疎んじられ、被害者意識を強く持っていたことも確認されています。
しかし、結局のところ防戦すらもままならなくなった武田軍は、勝頼の居城・新府城で軍議を執り行ない、笹子峠を越えて小山田信茂の領内に退避した後に、難攻不落と言われた小山田信茂の居城・岩殿山城で籠城戦を行なうことが決定されます。この事態に、武田氏と自らの共倒れを確信した小山田信茂は、自身の国衆としての在り方を優先し、主君・武田勝頼を裏切ることを最終的に決断しました。その際、人質として新府城に囚われていた老母を力ずくで奪い去ったとのことですので、その時点で謀反の意思を明確に表明していたと思われます。
その後は前述のとおりで、武田勝頼の自刃後、織田軍の総大将・織田信忠のもとを訪ねた信茂は、「不忠者」として誹りを受けたのち、処刑されるという憂き目に遭いました。その際、老母・妻・男子・女子と、血縁者もろとも処刑されたとされています。しかし、一見残酷にも映る織田信忠の決断ですが、信忠からすれば当然の処置をしたに過ぎないと私は思います。確かに、国衆としての背景や武田家に忠誠を誓っているわけではないというのは事実です。しかしながら、信忠からしてみれば、「武田家の譜代家老」としての姿だけが彼にとっての事実だったのでしょう。つまり、不忠者であったというよりは、敵の重臣として処刑されたと見るべきではないでしょうか。
世間一般で言われているように、小山田信茂は本当に「不忠者」だったのでしょうか?
彼の生涯を振り返ってみると、一貫して自身の領国である都留郡、つまり国衆としての自分自身に忠を尽くしているようにも見えます。確かに、「武士道精神」という点からだけ考えれば、小山田信茂は不忠者だったのかもしれません。しかし、その一方で為政者として冷静に状況を分析し、安易な自己犠牲に走らなかった点を評価する声があってもいいと私は思います。実際に、武田勝頼に尽くし続けても、小山田信茂の読み通り共倒れになっていたでしょう。恐らくあの局面では最善の選択をしたのだと思いますが、結果的に生きながらえることはできなかった…とも言えます。 (穴山梅雪がその典型ですが、裏切るのならもっと早くに裏切っていればどうなっていたか分かりません。勝敗の結果が誰の目にもハッキリと見えてきたギリギリの土壇場での裏切りは、相手方ばかりでなく、世間の受けもよくありません。その意味で、「旗幟鮮明」は出来るだけ早くすべし!!…といういい教訓を後世に残したとも言えます。)
もちろん、結果的に武田勝頼を裏切り、甲斐武田氏の命運を決定づけたという事実が消えることはありません。
ただ、武田信玄・勝頼を忠臣として支え続け、文武両道に才能を発揮し、さらに国衆のトップとして大きな決断を下した小山田信茂という人物は、もう少し歴史的再評価がなされてもいい人物なのかもしれません。今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、本能寺の変で主君・織田信長を討った逆臣・明智光秀の生涯が描かれますしね。
(ちなみに、武田勝頼は籠城のための退避先として小山田信茂の居城・岩殿山城か、同じく難攻不落とされた真田昌幸の居城・岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)のどちらかの選択を迫られ、最終的に岩殿山城を選択したわけですが、もしも岩櫃城のほうを選択していたとしたら、その後、歴史はどうなっていたのでしょうね。真田昌幸も小山田信茂と同じ国衆。もしかすると武田勝頼を最後の最後に裏切ったかもしれません。そうすると、その後の真田幸村(信繁)による大坂城真田丸での大活躍もなかったかもしれません。また、甲斐武田氏が滅亡した後、ほどなくして本能寺の変が起きて織田信長が自刃するわけで、岩殿山城にしろ岩櫃城にしろ、その後しばらく武田勝頼が持ち堪えていれば、歴史はどうなっていたのだろう…などと考えてしまいます。)
余談が長くなっちゃいました。甲州街道、甲斐路を歩くと、甲斐武田氏に関する痕跡が今もそこここに残っていて、メチャメチャ楽しいです。甲州街道を歩くにあたっては、武田信玄をはじめとした甲斐武田氏のことを事前に少し勉強してから歩かれることをお勧めします。断然面白くなりますから。さぁ〜、この先、笹子峠を越えると、いよいよ甲斐武田氏の本領内に入っていきます。
……(その5)に続きます。
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