甲州街道歩き【第15回】蔦木宿→茅野の2日目。今日(7月15日)は前日のゴールだった富士見公園(標高965メートル)を出発して、JR茅野駅の先にある頼岳寺まで歩きます。
気になる梅雨前線のとの戦いですが、昨夜は一晩中ドシャ降りの雨でした。しかし、その雨も午前6時頃にはあがり、午前8時にホテルを出発する頃にはほんの霧雨程度にまで弱くなり、空も明るくなってきています。天気図を見ると、梅雨前線は相変わらず日本列島の南に停滞しているものの、昨日より少し南に南下しているようなので、これから徐々に回復に向かっていくだろうと期待されます。念のためポンチョタイプのレインコートをリュックに入れての出発です。
気になる梅雨前線のとの戦いですが、昨夜は一晩中ドシャ降りの雨でした。しかし、その雨も午前6時頃にはあがり、午前8時にホテルを出発する頃にはほんの霧雨程度にまで弱くなり、空も明るくなってきています。天気図を見ると、梅雨前線は相変わらず日本列島の南に停滞しているものの、昨日より少し南に南下しているようなので、これから徐々に回復に向かっていくだろうと期待されます。念のためポンチョタイプのレインコートをリュックに入れての出発です。
午前8時半、ストレッチ体操を終えて富士見公園前の駐車場を出発しました。雨はほぼやんでいます。昨日は10kmほどの登り坂を登ってきましたが、今日は下り坂。富士見峠の最大標高は961メートル、諏訪湖の湖面標高は759メートルなので、標高差は約200メートル。そこを20km弱の距離をかけて下っていくことになります。街道歩きに際して私は自分の目で見た第一印象を重要視したいので、基本的に事前の勉強や調査は一切せずに臨むのですが、スタート地点とゴール地点、それと峠等の途中の最高地点の標高だけは調べるようにしています。甲州街道や中山道といった幾つもの峠を越える山岳地帯の街道では、その標高差を知ることで、ある程度、その日の街道歩きのイメージが掴めますのでね。
富士見公園を出発してすぐ、右手に「明治天皇金沢驛之處」碑が立っています。明治13年(1880年)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際、明治天皇がここにあった名取家で休憩を取られたということを記念しての石碑のようです。中山道を歩くと、随所で幕末の皇女和宮の降嫁の行列に関する記録が残されているのに出逢うのですが、甲州街道では明治13年(1880年)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際の記録に随所で出くわします。それほど大々的な出来事だったってことなのですね。
また、ここには明治から大正の時代にかけて、伊藤左千夫や竹久夢二、斎藤茂吉、田山花袋など多くの歌人や文人が訪れて、文学サロンのような役割を果たしていた「旅館桔梗屋」がありました。
明治の時代に入るとここの近隣の御射山神戸出身の代議士
小川平吉が明治44年にこの地に別荘を建てたことにより、昭和7年(1932年)5月15日に起きたいわゆる五一五事件で青年将校により暗殺された第29代内閣総理大臣だった犬養毅の別荘をはじめ、昭和初期までに各界名士の別荘が建設されました。今日でもこのあたり一帯は「富士見ヶ丘」と呼ばれる別荘地域となっており、林の中に別荘が点在する避暑保養地となっています。甲州街道は明治38年(1905年)に国鉄中央本線の新宿〜下諏訪間が開通したことによりその使命を終え、多くは国道20号線をはじめとした新しい幹線道路に組み込まれて現在に至っているのですが、この原の茶屋付近はすぐ東に開通したバイパスのおかげで、今も旧甲州街道の面影を色濃く残しています。
「明治天皇金沢驛之處」碑が立っているところの隣に「明治天皇御膳水」の碑が立っていて、その横に樋を伝って湧き水が流れ落ちています。ここは名取家の庭だったところで、巡幸で休憩に立ち寄った明治天皇はこの湧き水を召し上がられたということなのでしょう。私も手をさらしてみましたが、ヒンヤリと冷たい湧き水で、こりゃあ明治天皇も喜ばれたと思います。
富士見峠のサミット(頂上)を過ぎたので、ここからは下り坂になります。往時の原の茶屋の賑わいを感じさせる常夜燈が歴史を感じさせる古い民家の軒下にひっそりと佇んでいます。
進行方向左手に「スズメオドリ(雀踊り)」と呼ばれる棟飾りが付いた屋根の本棟造りの立派な民家があります。このお宅も100年以上の歴史がありそうです。本棟造りとは、大きな板葺き切妻造りをした民家建築のことで、信州南部に多く見られます。板葺きの石置き屋根なので屋根の勾配は自ずと緩くなり、そのため基本的に正方形の平面構造をした非常に大きな民家が主体です。江戸時代、この本棟造りは、庄屋クラスのみに許されていた造りであったのですが、明治の時代になり街道沿いの旅籠や養蚕農家にも取り入れられていったようです。「スズメオドリ」はその本棟造りの屋根の棟端に取り付けられた棟飾りで、これも信州の松本平を中心に見られる特徴的なものです。「スズメオドシ」と呼ばれることもあります。中山道を歩いていた時にも、諏訪平(諏訪盆地)や松本平周辺でよく見かけました。様々な意匠の「スズメオドリ」があり、家柄や家格を表すための意匠だったようです。
お馴染みの石塔石仏群です。
一番左に仲睦まじく夫婦が並ぶ「双体道祖神」です。信濃国の道祖神と言えば、この双体道祖神ですね。
これは甲州街道では珍しい!
「如意輪観世音菩薩」です。如意輪観世音観音は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身の1つで、六観音の一尊に数えられています。梵語で如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意としています。このため、如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものとされています。
「百番供養塔」が立っています。この百番供養塔は「日本百観音」と呼ばれる西国三十三箇所、秩父三十四箇所、坂東三十三箇所とを併せた百箇所の観音霊場をすべて巡り終え(結願し)た後、長野市の善光寺に参ったことの証しとして立てられたものです。
旧甲州街道の痕跡です。本当は一段下を並行するこちらの道のほうを歩きたいのですが、この先で行き止まりになっているので (田圃の中に消滅しているので)、仕方なくこの道を進むこととします。
これはソバ(蕎麦)の畑でしょうか。さすがに信濃国です。
先ほどから前方に白い巨大なハウス(温室プラント)が見えていましたが、その正体がこれでした。ケチャップでお馴染みのカゴメ株式会社様の主力工場の1つ富士見工場のトマト農場です。
この道の右手の台上にトマトケチャップやトマトジュースなどを作る加工工場があり、左手の道路下は直営農場となっています。
道端に念仏供養塔が立っています。かつてここで行き倒れになった無縁仏でもあったのでしょうか。昔は旅をするのも命懸けだったでしょうからね。この念仏供養塔の前まで進んできた時にポツポツと雨が頬にあたってきたので、全員雨具を着用しました。無縁仏の涙雨でしょうか……まさか。
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