2019年5月9日木曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その9)

柏尾古戦場です。ここは慶応4(1868)3月、甲府城の占拠を目指して江戸を発した近藤勇(大久保大和と改名)率いる新選組と会津藩兵を中心に編成された幕府軍の甲陽鎮撫隊と、先に甲府城を押さえていた土佐藩士・板垣退助率いる新政府軍とが衝突した勝沼・柏尾戦争(甲州勝沼の戦い)の舞台になったところです。戦闘は新政府軍の圧倒的勝利で僅か約2時間で決着がつき、あえなく壊滅した近藤勇ら甲陽鎮撫隊は山中を隠れながら笹子峠を越え、八王子方面を指して敗走しました。
「深沢入口」交差点のところに近藤勇の像が立っています。これが近藤勇?? 随分と可愛らしくデフォルメされた近藤勇です。
石像の台座にも、戦いの概要が書かれています。
他にもいろいろな史料や説明板が設置されています。
勝沼・柏尾戦争といえば、近藤勇を描いたこちらの錦絵が有名ですが、奥に描かれているのが隣接する大善寺の山門です。現在の国道20号線の「深沢入口」交差点のあたりには、かつては大善寺境内の東の境界を示す東神願鳥居が建っていました。勝沼宿まで進んでいた近藤は、宿場から甲州道中沿いにいくつかの関門を築かせつつ、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であったこの大善寺の東神願鳥居前に本陣を構え、大砲2門を据えて新政府軍と対峙したと伝わっています。近藤勇達甲陽鎮撫隊は旧甲州街道に沿って布陣していましたが、数に優る新政府軍に左右の山々を押さえられ、甲州街道を東進して来る正面軍と合わせた三方から攻撃を加えられたと云います。周囲の景色を眺めながら、その時の状況を推察するに、こりゃあ勝負になりません。この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えました。町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が3個伝えられているのだそうです。
柏尾の戦いの説明書きには、戦闘の様子が次のように記されています。

『慶応4年(1868)35日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰め、鳥居の前に本陣を据え、大砲を2門据えつけ、宿内2箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。35日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。36日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍2人を狙って官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が1人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南ダイホウシンの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。』

「深沢入口」交差点で右に折れ、深沢川に沿ってなだらかに下っていく柏尾坂。その途中に柏尾坂の馬頭観音が立っています。
説明書きには次のようなことが書かれています。

『明治36(1903)、中央本線が開通するまで「甲斐駒や江戸へ江戸へと柿葡萄」(基角)が伝えるように甲州街道の物流を担っていたのは馬である。街道に沿って配置された宿場には、高札で次の宿までの馬での運送賃が駄賃として掲げられていた。しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、供養のため馬頭観音が数多く建立された。柏尾坂の馬頭観音は、ころび石とも呼ばれた急坂に、天保7(1836)8月に勝沼宿の脇本陣家が中心となり惣伝馬の講中が、信州高遠北原村の石工太蔵を招いて建立したもので、三面に馬頭観音を含む彫像が刻まれ、勝沼宿の管内では柏尾の袖切観音とならび優れた造形を有したものである。』

なるほどぉ~。

この柏尾坂が旧甲州街道になります。その柏尾坂を下っていくと明治期の柏尾橋の跡があり、右隣りには大正期の柏尾橋の跡も見えています。ちょっと樹木が邪魔で見えづらいですが、これは大正柏尾橋を斜め横から撮影した写真です。「深沢」というだけあって、かなり切り立った地形であることは見て取れるかと思います。今は藪に囲まれていて分かりづらいですが、立派な石垣が組まれています。
柏尾坂を更に下っていき、突当りに江戸期の柏尾橋跡がありました。つまりこの橋を渡るルートが、柏尾戦争時における甲州街道ということになります。
往時の柏尾橋は残っていないので、国道20号線の柏尾橋で深沢川(日川の支流)を渡ります。

柏尾橋を渡ったところにあるのが、先ほど勝沼・柏尾戦争の錦絵のところで奮闘する近藤勇の奥に描かれている山門がある大善寺です。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山。徳治2(1306)頃に竣工した本堂は山梨県下に現存する最古の建築であるとともに、建立時期が明らかな中世密教仏堂の典型として、また大仏様の影響がみられる建築の東限に位置するものとして貴重で、国宝に指定されています。またこの大善寺の別名は「ぶどう寺」。寺伝では養老2(718)、行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされています。甲州葡萄の始まりは行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるともいわれています (甲州葡萄は近代になって西洋からもたらされたものではなく、意外なことに少なくとも奈良時代からこの地で栽培されていた果物のようです)。本尊の薬師如来像の持物は長く失われていたのですが、元は葡萄を持っていたという伝承があり、現在は左手に一房の葡萄を載せた姿に復元されています。こうした由来と、現在は寺内でワインを醸造して参拝客に振舞っていることから、「ぶどう寺」とも呼ばれます。この本尊の薬師如来像は国の重要文化財に指定されています。
立派な山門です。国宝の本殿はこの山門の奥にあります。大善寺では宿坊を経営しており、宿泊することも可能です。寛永末期に造られた江戸時代の日本三名園と言われる池泉鑑賞式庭園を見ながら食事ができます。2016年に放映されたTVドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』でロケ地となったことから、逃げ恥詣でと呼ばれる観光客が一気に増えたといわれています。
また、この大善寺は「武田勝頼滅亡記」を著した理慶尼が眠る五輪塔があります。この理慶尼、父は甲斐武田家の一族・勝沼信友とされ、武田晴信(信玄)の従妹に当たります。俗名は松の葉。雨宮織部正良晴(のちに景尚)に嫁いだのですが、『甲陽軍鑑』によれば、永禄3(1560)に越後国の上杉謙信の関東侵攻の際に兄の勝沼信元(かつぬま五郎殿)が謙信の調略により謀反を企て、のち謀反の証拠となる文章が発見され、武田信玄の命を受けた山県昌景に誅殺されました。前述のように、松の葉は雨宮織部正良晴に嫁いでいたのですが、雨宮家に累が及ぶことを懸念して離縁したといわれています。織田信長の甲州征伐が勃発すると、天正10(1582)33日、新府城から落ち延びた武田勝頼一行が大善寺に立寄りました。勝頼は、兄の仇(武田信玄)の子息ではあるが快く迎えて(雨宮織部正良晴に嫁した後、勝頼の乳母となっていたとも伝えられています)、同寺薬師堂に勝頼、勝頼夫人、武田信勝を迎えて理慶尼と4名で寝所を供にしました。勝頼はここで小山田信茂の裏切りを知り、天目山に向かったとも伝えられています。その後、武田家のことを物語調に理慶尼記(武田滅亡記、大善寺蔵)として記し、高野山引導院へ納めました。理慶尼は慶長16(1611)817日、大善寺で82歳で没しました。子孫は代々大善寺の近くで暮らしていたのですが、享保年間に絶えているのだそうです。

国道20号線の進行方向左側に「御御影石」と書かれた標柱が立っています。どれが御影石で、どういう謂れがある石なのかは不明です。
その「御御影石」の標柱のすぐ先にある「柏尾」交差点で国道20号線は、勝沼・甲府バイパスとなって左へカーブしていくのですが、旧甲州街道は国道と別れて真直ぐ進みます。旧道に入ると、道路沿いには、ぶどう園のお店がたくさん並んでいます。さすがにブドウの産地・甲州市勝沼です。


……(その10)に続きます。

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