2019年5月7日火曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その7)

47()、甲州街道歩き【第12回】の2日目も日本列島は太平洋高気圧の勢力に覆われて、よく晴れています。南からの暖かい空気が流れ込んでくる影響で、気温は上昇。周囲を高い山々に囲まれた甲府盆地ではフェーン現象も加わり、天気予報ではこの日の甲府市の日中の最高気温は25℃と初夏のような暑さになると言っています。今日も4月上旬とは思えない暑い1日となりそうです。ただ、南の空を見ると、空が少し霞んで見えます。太平洋高気圧から吹き込んでくる風は暖かいのですが、太平洋上の湿った空気を運んでくるので、ちょっと湿度は高そうです。これで夕方気温が下がると、天気が崩れて雨になるかもしれません。でもまぁ〜、街道を歩く日中は雨の心配もなさそうです。「晴れ男のレジェンド」は今日も健在のようです。
宿泊した山梨市のホテルルートイン山梨の前にはモモ()の果樹園があります。ちょうどモモの花が満開で、濃いピンク色をしたモモの花が綺麗です。青紫をしたムスカリの花との対比が素敵です。
2日目のスタートポイントは初日のゴールポイントだった山梨県道212号日影笹子線と国道20号線との合流地点だった大和橋の西詰。ここを出発して、鶴瀬宿、勝沼宿、栗原宿、日川宿を通り石和宿までの5つの宿場を通る行程で、1日で歩く距離で言うと20km弱と、これまでの甲州街道歩き最長の距離となるようです。この区間の高低差は322メートルもありますが、前日の笹子峠越えと異なり、20km弱の行程で322メートルの高低差をただひたすら緩斜面で下っていくだけということなので、その高低差もさほど問題にはなりません。しかも、ここからの区間、旧甲州街道のルートは基本的に国道20号線と重なるので、基本的に舗装された道路を日川、そして笛吹川に沿って歩くだけです。

観光バスに乗せられて前日のゴールポイントだった大和橋東詰にある駐車場に行き、準備体操の後、2日目の街道歩きをスタートしました。約5ヶ月ぶりの旧街道歩き。それも初日にいきなり甲州街道最大の難所と言われる笹子峠を越えたので、この日は重度の筋肉痛が心配されたのですが、前日、ウォーキングリーダーさんから、温かいお風呂にゆっくり浸かった後で、脚の太腿から脹脛(ふくらはぎ)にかけてシャワーで冷水を1分間ほどかけると筋肉痛になることはないと教わり、それを実践してみたところ、この日は朝から快調。心配された筋肉痛はまったくなく、これなら20km弱の長距離も問題なく歩けそうです。いいことを教わりました。皆さんも試してみたら、いかがでしょう。
前方の横断歩道橋に掲げられた道路表示板に「甲府 21km」の文字が見えます。とうとう甲府市まで21kmのところまでやって来ました。今回は甲府市のすぐ手前まで歩くということですね。甲府市は次回【第13回】ですね。

山梨県道212号日影笹子線と国道20号線との合流地点だった大和橋西詰交差点です。正しくはここから旧甲州街道の続きです。甲府盆地は戦国時代最強と謳われた甲斐武田家の本拠地。ここから先はその甲斐武田家所縁の史跡が数多く残っているということなので、楽しみです。
スタートしてすぐに寄り道。進行方向左側の丘の上に登ります。そこに建つ民家の庭に武田勝頼所縁の石があるというので立ち寄ります。武田勝頼公腰掛石です。韮崎にある新府城から落ちのびて家臣・小山田信茂の居城である岩殿山城へ向かう途中の武田勝頼一行は笹子峠を越える前にこの場に留まり小山田信茂の迎えを7日間待っていたようです。その際に武田勝頼が腰掛けていたと言われる石です。見方によると武田菱が浮いて見えるというので、菱石とも呼ばれています。意外なほど小さくて低い石です。
その武田勝頼公腰掛石のところから駒飼宿の方向を見たところです。この地で家臣・小山田信茂の裏切りを知った武田勝頼は失意の中でこの駒飼の山中に逃げ込み、身を潜めます。勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃し、山を包囲します。徐々に包囲網が狭まり、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、ここから日川の渓谷を上流方向に遡った標高約1,050メートルのところにある武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田家は滅亡しました。そういう悲しい歴史が残る場所です。
ちなみに、武田勝頼が自害したといわれる田野は、この日スタートした大和橋東詰から少し先に行った現在のJR中央本線の甲斐大和駅の近くにあります。

日川に架かる立会橋(たちあいばし)を渡ります。立会橋は新旧2本の橋が架かっていて、新しい橋は国道20号線が通っていて、旧甲州街道は古いほうの橋を通っていました。もちろん古いほうの立会橋を渡ります。昔はここにも橋が架かっておらず、旅人は岩伝いに川を渡ったのだそうです。このあたりが鶴瀬宿の江戸方(東の出入口)でした。
鶴瀬宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠4軒、問屋場1軒、高札場1、宿内戸数58戸という規模の小さな宿場でした。隣の駒飼宿との合宿(あいしゅく)で、問屋業務や人馬の継ぎ立て業務は、毎月1日~20日までは鶴瀬宿が、21日~末日までは駒飼宿が勤めていました。

「古跡 金岡自画地蔵尊碑」の碑が立っています。平安時代、巨勢金岡という大和絵の祖が岩に地蔵尊を描いたところなのだそうです。江戸時代には線が細くなり普段は見えなくなってしまったのですが、水をかけると地蔵尊が浮かび上がったといわれています。明治40年の洪水でその像は流失してしまい、現在は、地蔵岩があったと伝えられる場所を示す碑だけが残っています。
鶴瀬宿の江戸方(東の入り口)には口留番所(関所)が設けられており 、「入り鉄砲に出女」を厳しく監視していました。口留番所は各藩が領域の境界に設け、主に物資の流通を取り締まったものですが、この鶴瀬の口留番所には人改めをする番所も併設されていたようで、この番所は別名「鶴瀬の関所」とも呼ばれていました。甲州街道としては小仏峠の手前にある「小仏関所」に次ぐ関所でした。ということですが、実態は裏山を通って関所抜けをする善からぬ旅人も大勢いたようで、「形式だけの関所だった」と記された資料もあるのだそうです。
ここで国道20号線を横断して脇道に入ります。いかにも旧街道だった面影が残る脇道です。
その脇道の入口に「甲州道中 鶴瀬宿」と書かれた案内標柱とデッカい石碑が立っています。案内標柱には「江戸より第31宿、江戸へ3027丁、甲府へ51丁」と書かれています。ただ、石碑に刻まれた文字は「鶴瀬地区」。う〜〜ん、惜しいなぁ〜。
案内道標の横に掲げられている鶴瀬宿の案内板によると、この案内道標の右側に本陣と脇本陣、問屋場が、左側の今は国道20号線が通っているところにもう1軒の脇本陣があったようなのですが、往時の建物は残っておらず、案内表示もありません。ただ、かつて宿場であった雰囲気だけは残っています。この緩やかなカーブがいいですね。
この雰囲気のいい脇道はほんの50メートルほどで終わり、すぐに国道20号線に合流します。今日のルートは基本的に国道20号線に沿って歩くとのことですが、ところどころこうして旧甲州街道の面影が残るところがあり、そこももれなく訪れてくれるのが嬉しいところです。個人で歩いたのでは、こうはいきません。

国道20号線と合流する手前に大きな石造りの常夜灯が立っています。ここが鶴瀬宿の諏訪方(西の出入口)のあったところです。鶴瀬宿は口留番所のところから始まって、長さが130メートルほどの短い宿場でした。
ここから次の勝沼宿までは国道20号線をしばらく歩きます。進行方向左手には中央自動車道が並行して伸びていますが、すぐに日川の対岸へと消えていきます。


……(その8)に続きます。

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