2019年5月13日月曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その13)

日川の堤防に上ります。旧甲州街道は日川に沿って土手沿いを西に伸びていました。しかし、この道は途中で消滅しているそうなので、進めません。仕方なく、いったん右折して国道411号線の下栗原交差点へ戻ります。すぐに下栗原交差点で国道411号線に合流します。再び国道411号線を歩きます。旧甲州街道は進行方向すぐ左手を並行して伸びていました。
旧甲州街道の道標が立っています。ここにこの道標があるということは、ここで国道411号線が旧甲州街道と合流していたということなのかもしれません。だとすると、ここからは旧甲州街道です。ラグビーの強豪校として有名な山梨県立日川高校の横を通ります。
旧甲州街道である証しが立っていました。明治13年の明治天皇による山梨・三重・京都御巡幸の際、明治天皇がお立ち寄りになり、小休止を取られたことを記念した「明治天皇御日川小休所趾碑」と「駐蹕碑」とが立っています。明治13616日、29歳の明治天皇は伏見宮貞愛親王殿下をはじめ太政大臣三条実美、参議伊藤博文らを供奉とした総勢約400人の陣容により、山梨・三重・京都御巡幸に出発されました。619日の午前7時に笹子行在所を発せられ、午後140分にこの東山梨郡日川村歌田二番地(現在の山梨市歌田)の志村勘兵衛宅御小休所にご到着されました。明治天皇がお立ち寄りになられた建物は、その後も志村家により守られていましたが、明治40824日、未曾有の大水害を被り、家屋、家財の悉くを流失してしまいました「駐蹕碑」は、この明治136月の明治天皇巡幸の際における志村家への駐蹕(お立ち寄り)を記念するため、志村勘兵衛が晩年の昭和4年に明治40年に流失した同家屋敷跡に建立した石碑です。その「駐蹕碑」のところで、しばしの休憩です。
しばしの休憩の後、旧甲州街道歩きを再開しました。養蚕農家でしょうか、屋根上に高窓の立つ古い農家が建っています。
旧甲州街道(国道411号線)を西に進みます。
これは立派な鯉のぼりです。もうそういう季節ですね。この日は朝から風が強く、鯉のぼりは元気にはためいています。
「田安陣屋敷跡」です。田安陣屋敷は徳川御三卿の1つ田安家が、甲斐国内の領地を統治するために置いた陣屋です。田安家は江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の次男宗武を家祖として、徳川将軍家に後嗣がない時は御三卿の他の2(清水家、一橋家)とともに後嗣を出す資格を有した家柄の名門でした。家格は御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷、田安邸は江戸城田安門内で清水邸の西、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあり、同地が田安明神(現・築土神社)の旧地であったことからこの名が付けられました。
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の次男田安宗武が延亨3(1746)に田安家を興した時、領地として甲斐国、武蔵国、下総国、和泉国、摂津国、播磨国の6ヶ国に渡って計10万石を与えられました。そのうち甲斐国では山梨郡28ヶ村、八代郡35ヶ村の計63ヶ村、341石にのぼりました。田安宗武はこの地に陣屋を築き、甲斐の田安領統治の拠点としました。その後、天保3(1832)には武蔵国内の領地17千石の領地との交換で、山梨郡・八代郡・巨摩郡の340ヶ村、17千石が領地に加えられました。甲斐国では、伝統的に金納による年貢納付が行われていました。そのため、甲斐国東部では特に養蚕や煙草栽培が盛んに行われてきた経緯があります。
ちなみに、田安家は徳川将軍家に後嗣がない時は御三卿の他の2(清水家、一橋家)とともに後嗣を出す資格を有した家柄でしたが、結果として、田安家からは将軍となる者がありませんでした。しかしながら、江戸幕府最後となる第15代将軍徳川慶喜(一橋家出身)の次に徳川宗家当主となった徳川家達は、田安家の出身でした。
現在、田安陣屋敷跡には陣屋敷を囲んで濠の一部が遺っています。

旧甲州街道(国道411号線)沿いには時折ビックリするくらい立派な門構えと塀囲いの旧家が建っていたりします。田安陣屋敷跡に近いので、元々このあたりの村の庄屋を勤めていた家柄のお宅でしょうか。
このあたりのぶどう畑でも今年のぶどう栽培に向けた準備が行われています。
旧甲州街道はこの先で日川を対岸に渡っていました。日川を渡るといっても当時は橋が架かっていたわけでも、渡し船があったわけでもなく、旅人は自分で歩いて日川を渡っていたそうです。当時、日川を流れる水量は今ほど多くなく、平時は歩いて渡れるくらいの水深でしかなかったようです。
しかし、今は歩いて川を渡るというわけにもいきません。私達も国道411号線の日川橋を使って渡ります。
日川橋を渡ってすぐのところで国道411号線から右折し、日川沿いの細い道を歩きます。この細い道が旧甲州街道です。
このあたりもぶどう畑とモモ畑が広がっています。
やがて日川の河川敷の堤防に出るので、堤防の土手に沿って道なりに進みます。
進行方向右手に白壁の土蔵があり、「宮下翁頌徳碑」と書かれた立派な石碑が立っています。このあたりに江戸の日本橋を出てから31里目の「南田中の一里塚」があったと推定されるのですが、塚の跡も案内標柱のようなものも残っていません。
しばらく歩くと築堤の上に出ます。右を流れる川は笛吹川です。笛吹川は日本三大急流の1つ富士川水系の一級河川で、山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を源流に持ちます。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で釜無川に合流して富士川と名を変え、JR身延線に沿って南下。富士市と静岡市清水区との境付近で駿河湾に注ぎます。日本三大急流の1つと呼ばれるだけあって、流域に扇状地を多く形成しており、その地形を活かし、灌漑用水を整備した果樹園ではブドウなどの果実栽培が盛んなところです。また、笛吹川は江戸時代から鮎の産地として知られていました。笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」と呼ばれる民話に語られており、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえることから、誰とはなしに笛吹川と呼ぶようになったと伝えられています。
これまで右手を流れていた日川は、このすぐ上流で北東から流れてきた笛吹川と合流しました。

ここで先ほど日川橋を渡ったところで分かれた国道411号線と再び合流します。
朝から風が強いとは感じていたのですが、川筋は風の通り道なので、この笛吹川の築堤の上を進む道路はさらに風が強い。朝から被っていたキャップでは風で飛ばされそうになったので、リュックから顎紐付きのハットタイプの帽子を取り出して、被り直しました。

笛吹橋で笛吹川を渡ります。江戸時代、旧甲州街道を行く旅人達も、このあたりで笛吹川を渡っていました。ただ、当時は橋も架かっておらず、渡し船もなかったので、岩伝いに歩いて渡ったのだそうです。当時は笛吹川を流れる水量は平時は大したことがなく、深くもなかったので、歩いて渡ったのだそうです。


……(その14)に続きます。

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