2019年1月18日金曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その12)

国宝・松江城を訪れます。大手門を入って出迎えてくれるのは松江城を築城した堀尾吉晴の銅像です。


堀尾吉晴は天文12(1543)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町)の土豪である堀尾康晴の長男として生まれました。父は岩倉城主・織田信安の重臣で、永禄2(1559)16歳の堀尾吉晴は岩倉城の戦いで初陣を果たし、一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が織田信長に敗れ滅亡したため、父とともに浪人となります。織田信長が尾張を統一すると堀尾吉晴は召し抱えられ、同じく岩倉城主・織田信安の重臣であった山内盛豊の子・山内一豊(後の土佐藩初代藩主)とともに木下秀吉(羽柴秀吉、豊臣秀吉)の家臣に加えられました。

以後、羽柴秀吉の忠実な家臣として、各地を転戦。羽柴秀吉が長浜城主となると、近江国長浜に100石を与えられました。その後も戦功をあげ、堀尾吉晴は播磨国姫路にて1,500石、のち丹波国黒江で3,500石と出世していきました。天正10(1582)の備中高松城の水攻めでは、敵将・清水宗治の検死役も務めました。本能寺の変となり、明智光秀との山崎の戦いでは、堀秀政や中村一氏(嫡男の中村一忠が伯耆国米子藩初代藩主)とともに鉄砲頭を務め、敵将を討ち取り、6,284石にて丹波国黒石城の城主となりました。さらに翌年には大名となって17,000石で若狭国高浜城主、天正12(1584)には2万石となり、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、近江国佐和山城主となると4万石の禄高になっています。

天正18(1590)の小田原征伐では、豊臣秀次のもとで山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡男・金助が戦傷死しています。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主12万石に封じられ、豊臣姓を名乗ることも許されました。堀尾吉晴は武勇ある勇猛な武将ですが、温和で誠実な一面もあり「仏の茂助」と呼ばれて人望を集めました。また、豊臣秀吉の重臣では最古参の部類であり、発言力も強かったようです。その後、豊臣政権においては中村一氏や生駒親正(初代高松藩主)らと共に三中老に任命されたようですが、慶長3(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、井伊直政を通じて徳川家康に接近しました。そのため、前田利家や石田三成の反発を受けたのか、慶長4(1599)に堀尾吉晴は隠居して、家督を次男・堀尾忠氏に譲りました。この時、徳川家からは5万石の隠居領を授けられています。

慶長5(1600)、関ケ原の戦いの直前、堀尾吉晴は三河国刈谷城主の水野忠重と、美濃国加賀野井城主である加賀井重望と宴会の席を持ちます。このとき、加賀井重望と口論となり、水野忠重が殺害され、堀尾吉晴も17箇所の傷を負いますが、なんとか加賀井重望を返り討ちしています。そのため、関ケ原の本戦には、子の堀尾忠氏が代わりに東軍に参戦して武功をあげ、戦後、堀尾家は出雲国月山富田城にて24万石に加増されました。

この時、前述のように新たな城として松江城の築城を開始しますが、初代松江藩主となった堀尾忠氏が28歳の若さで死去します。そのため、堀尾吉晴は第2代藩主となった6歳の孫の堀尾忠晴を後見し、国政を補佐しました。同年、隣国伯耆国米子藩の中村家におけるお家騒動(米子騒動)においては、幼い藩主・中村一忠(かつての盟友・中村一氏の嫡男)の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧したりもしています。慶長16(1611)、現在国宝にも指定されている本拠・松江城が完成するのを見届けて、堀尾吉晴は死去しました。享年67歳。堀尾吉晴の墓は月山富田城の近くにある巌倉寺にあります。

その堀尾吉晴が築城した城がこの松江城です。


 大手門(正門)を入ります。かつて、この大手門には大手柵門が築かれていましたが、現在は土台となった石垣のみを残して取り壊されています。



大手門の中は桝形の構造をしていて、門内で直角に右折します。この右折した先には屋根に鯱(しゃちほこ)を付けた壮大な大手門(御門)がありましたが、今は取り壊されて、土台となった石垣だけが残されています。ここが二の丸です。かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見(つきみ)櫓という5つの櫓がありました。これらの櫓は後述の廃城令により明治8(1875)にことごとく取り壊されたのですが、このうち、太鼓を打って時刻を知らせる太鼓櫓と御貝足蔵と呼ばれた中櫓、南東方面を監視するための2階建の南櫓の3基の櫓は、平成13(2001)に約125年ぶりに復元されました。桝形の両端にはその3つの櫓のうち太鼓櫓と中櫓が見え、その2つの櫓の間を繋ぐ細長い渡櫓が設けられ、防御を固めています。桝形の中は馬溜(うまだまり)と呼ばれる一辺46メートルほどのほぼ正方形の平地になっています。出撃の際にはこの馬溜に城兵を待機させ、隊形を整える機能を果たしていたようです。



大手門の桝形を過ぎると、二の丸下の段です。この二の丸下の段一帯には、江戸時代、米蔵や屋敷などが建ち並んでいました。米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていましたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようにしていたのだそうです。

目の前に天守が見えてきます。松江城は標高29メートルの亀田山の山頂に築かれた平山城です。緩い石段を登り、二の丸に向かいます。


二の丸は、本丸の南側に位置する南北72(141.8メートル)、東西62(122.1メートル)の曲輪(くるわ)です。江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務を司る「御広間(おひろま)」や、生活をしたり私的な接客や面会などを行った「御書院(ごしょいん)」をはじめ、「御臺所(おだいどころ)」、「御式臺(おんしきだい)」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた太鼓櫓や、城下の監視や倉庫に使われた南櫓、中櫓をはじめとする5つの櫓などがありました。これらの櫓、御殿などの建物は、明治維新とともに無用の施設となり、廃城令により明治8(1875)にすべて取り壊されました。


 

現在、櫓、御殿などの建物がすべて取り壊された二の丸には松江神社が鎮座しています。この松江神社は、もともとは明治10(1877)に、旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)の楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建された神社です。寛永5(1628)、堀尾忠晴が朝酌村(現松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を明治31(1898)に合祀し、翌年の明治32(1899)に、現在地のこの二の丸に遷座して、神社名称を松江神社と改めました。さらに昭和6(1931)に、松江藩中興の盟主として仰がれた第7代藩主松平治郷と、松江開府の祖・堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、今日に至っています。

三の門を過ぎて本丸に向かいます。かつてはこの三の門にも櫓が築かれていたのですが、現在は取り壊されて土台の石垣だけが残されています。松江城の石垣は基本的に野面積み(のづらづみ)と打ち込み接(うちこみはぎ)と呼ばれる石積み手法で築かれています。野面積みは自然石や割石をそのまま積む方法で、打ち込み接は石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方のことです。石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山石が大量に使用され、堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められるのだそうです。

松江城の築城工事にあたっては、この石垣積みが全体の半分以上の労力を要したと云われています。松江城は着工から約5年で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしたと言われています。この石垣積み工事には大阪から穴太衆(あのうしゅう)を石工として招かれました。ちなみに穴太衆の“穴太”とは地名で、現在の滋賀県大津市坂本町穴太のこと。この地には中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持つ達人集団がいて、穴太衆と呼ばれていました。現代にも穴太衆は残っていて、今は地震により崩れた熊本城の石垣の修復にあたっているのだそうです。私達が卒業した丸亀高校のある香川県丸亀市の丸亀城も7月豪雨とそれに続く台風の影響で、昨年(2018)9月に石垣が大きく崩壊したのですが、1日も早く穴太衆の皆さんが熊本城の石垣の修復を終え、丸亀城の石垣の修復に取り掛かっていただけることを祈るばかりです。


二の門跡を過ぎて、一の門をくぐります。この一の門ももともとの門は明治8(1875)に取り壊され、現在の門は昭和35(1960)に復元されたものです。


  

さぁ、一の門をくぐると天守のある本丸です。


……(その13)に続きます。

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