2019年1月14日月曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その8)

勢溜の鳥居を出て、出雲大社に東隣に隣接する「古代出雲歴史博物館」を訪れました。古代出雲歴史博物館では主に出雲大社を中心とした古代出雲についての展示を行っており、近くの荒神谷遺跡より出土した国宝を含む銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個、加茂岩倉遺跡より出土した国宝の銅鐸39個等が公開されています。


前述のように、出雲大社は今でも神社建築の中では日本一の規模を誇りますが、平安時代には現在の約倍の高さである16(48メートル)、さらに古代にはそのまた2倍の32(96メートル)もの高さがあったといわれています。天禄元年(970)に記されて『口遊(くちづさみ)』には建物の大きさの順を示す「雲太(うんた)、和ニ(わに)、京三(きょうさん)=出雲太郎、大和次郎、京三郎」(1位が出雲大社、2位が東大寺大仏殿、3位が京都御所の太極殿)という表記があり、東大寺大仏殿の高さが約45メートルだったことから、16(48メートル)という超巨大な社殿であった可能性が推察されてきました。入ってすぐの中央ロビーにはこのうち平安時代の出雲大社本殿を再現したという10分の1の模型が展示されています。


 こちらは出雲大社の創建を物語る神話が書かれた現存する日本最古の歴史書『日本書紀』です(展示されているものは江戸時代に発刊された写本)



『日本書紀』には、第39代の斉明天皇(天智天皇、天武天皇の母)が斉明5(659)に出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたという記述があるということは前述の通りです。ここからは余談ですが、斉明天皇は百済からの救援要請を受けて朝鮮半島に出兵を決めるのですが、その第1陣の派遣が斉明7(661)、新羅・唐連合軍の大軍の前に大敗を喫した「白村江の戦い」は天智2(663)の出来事です。この時代背景から考えると、百済への第1陣派遣の2年前の西暦659年に命じられたこの出雲の杵築大社の修造は、間違いなく軍事拠点としての整備だったように私は推察しています。ちなみに、この時期は国際的緊張の高まりの中で、朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威に備えるため、西日本各地の要衝に古代山城と呼ばれる防御陣地が次々と築城されていった時期とも重なります。

日本の人口って、現代の歴史人口学の研究者の推定によると、縄文時代後期では約30万人、弥生時代後期で約60万人。8世紀に入って稲作が全国各地に普及した奈良時代においてもせいぜい450650万人。日本の人口が1,000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられているのだそうです。なので、まだ奈良時代に入る前の7世紀中盤の日本の人口ってせいぜい400万人弱ってところではないでしょうか。人々が暮らしていく上で必要となる食料の確保の仕事(農業、漁業)もありますから、その400万人弱のうち建設業に携わっていたのはせいぜい1万人ってところではないでしょうか。しかも、今のように大型重機をはじめとした建設機材が整っていない時代においては、建設工事は主として人海戦術により行われたものでした。なので、高度な大型の神社建築が行えるような中核技術者はごく僅かなもので、当時の日本社会においてはなけなしの貴重な存在だったように思います。

その貴重な高度建築技術者を当時大和朝廷が置かれたと考えられる畿内地方から離れた日本海に面する山陰の出雲地方の宗教施設の建設に振り向けたとはとても思えません。繰り返しになりますが、朝鮮半島や中国大陸からの脅威の来襲という国家の存亡に関わるような社会的不安がある中で、優先順位が上にあるのは少なくとも宗教施設の建設ではなかった筈ですから。

地図をご覧いただくとお分かりのように、出雲大社は島根県の北東部に突き出た島根半島の西側の付け根付近にあります。島根半島の西端は日御碕(ひのみさき)。出雲大社はその日御碕から海岸線が湾形を描く内側に位置しています。ここは朝鮮半島や中国大陸からやって来るであろう大船団を待ち受ける港湾(軍港)を建設するには絶好の位置です。その先は日本海沿岸では若狭湾まで適当な場所はなく、その若狭湾だと大和朝廷が置かれていたと考えられる畿内地方には近すぎますので、どうしてもその手前で防御陣地を構えて待ち受ける必要があります。そうなると、島根半島の西側の付け根にある出雲大社の位置が絶好の位置となるわけです。

また、出雲大社の本殿は、今でも神社建築の中では日本一の規模を誇りますが、平安時代より前の時代には現在の本殿の約2倍の高さである48メートル、さらに古代にはそのまた2倍の96メートルもの高さがあったといわれているのは前述のとおりです。日本海に面した出雲の地になぜこれほどまでに大きな社殿を必要としたのかの謎も、そこが日本海を航行する船舶に対する見張りのための櫓の役目を果たすところだったのだとしたら、理系の私としては納得するところです。

このように、出雲大社って今でこそ宗教的色彩が濃い施設になっていますが、建設された当初はただの宗教施設として建てられたものではなく、朝鮮半島や中国大陸からの脅威の来襲に備えるための極めて重要な軍事施設として建てられたものだったのではないでしょうか。

この出雲大社が朝鮮半島や中国大陸からの脅威の来襲に備えるための極めて重要な軍事施設、言ってみれば大和朝廷の“最終防衛ライン”として作られた軍事施設だったのではないか…という私の“仮説”に関しては、同じく同時期に建造された瀬戸内海の芸予諸島“しまなみ海道”のほぼ真ん中に位置する大三島の大山祇神社の紹介の中で書かせていただいておりますので、是非そちらをお読みください。

【おちゃめ日記】全国の越智さん大集合!(追記編) 

余談が長くなりました。古代出雲歴史博物館の展示物のほうに話を戻します。


平成12(2000)に本殿八足門前の出雲大社境内遺跡から出土された平安時代に築造された当時のものと推定される宇豆柱が、中央ロビーに展示されています。高さ48メートルとか、そのまた2倍の96メートルもの高さの本殿なんて当時の建築技術でそんなに高いものは作れないのでは??と長い間伝説とされていましたが、平成12(2000)に本殿八足門前の出雲大社境内遺跡から当時のものとされる宇豆柱が発見され、かつての本殿の巨大さを証明するものとして注目されました。これがその本殿八足門前の出雲大社境内遺跡から出土された宇豆柱です。スギの巨木でできた巨大柱で、柱の直径は約130cm。確かに他で見たこともないくらいのぶっとい柱です。高さ48メートルとか、そのまた2倍の96メートルもあったのかどうかは分かりませんが、これだけ太い柱を使っているということは、相当に大きな高層建築の建物(本殿)であったことは間違いありません。それにしても、こういうぶっとい杉の木を山から伐り出して、建物の柱として加工して垂直に建てる、それだけでも相当の技術力を要します。どうやって建てたのだろう?? 古代の土木技術や建築技術には目を見張るものがあります。工学的興味が尽きません。

中央ロビーには巨大な宇豆柱と同時に宇豆柱の周辺から出土した大型の釘や鎹(かすがい)、手斧などの鉄製品が展示されています。


こちらは昔の本殿の平面図と伝えられている図面です。巨木3本を束ねて1本の柱(宇豆柱)とし、階段の長さは1(109メートル)。あの巨大な柱を3本束ねて1本の柱とするわけですから、相当に大きな建物です。その本殿に昇る階段の長さが1(109メートル)ですか。そりゃあ高さ48メートルの本殿というのも真実味が湧いてきます。



こちらは平成25(2013)まで本殿の大屋根にかかっていた千木(せんぎ)と勝男木(かつおぎ)です。この千木(斜めにクロスしている木)と勝男木(横方向の木)は明治14(1881)に行われた遷宮の際の御用材で、昭和28(1953)の遷宮の際に撤下されたものです。千木は杉材でできていて、長さ約8.3メートル、幅約62cm、厚さ24cm1本の重さ約500kg。勝男木も同じく杉材でできていて、長さ約5.45メートル、最大径約67cm、重さ約700kg…。デカイ!!



古代出雲歴史博物館には、出雲大社の近隣にある荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡より出土した古墳時代の様々な土器(須恵器)や農耕具類が展示されています。


  
こちらは昔使われていた漁船でしょうか。魚を獲るのに使ったと思われる網などと一緒に展示されています。




……(その9)に続きます。

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