2018年12月8日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その12)

天守台のすぐ北に位置する北桔橋御門(きたはねばしもん)です。太田道灌が最初に江戸城を築城した時には、この北桔橋御門が大手門だったといわれています。北桔橋御門はその名の通り、江戸時代は目の前の平川濠に跳ね橋が架けられていた門です。江戸城91門といって江戸城には91の城門があったのですが、その中で唯一の跳ね橋が架けられていた門でした。天守や本丸御殿に近い門なので、防御性を高めていたのでしょう。こちらからは見えませんが、濠からの石垣もかなりの高さになっています。


北桔橋御門から先の濠添いには「五十三間櫓」と呼ばれる入側・武者走(いりかわ・むしゃばしり)を廻らしており、濠からの敵の侵入に備えていました。


この北桔橋御門もかつては枡形門でしたが、現在は枡形石垣と渡櫓門は撤去されて、高麗門だけが残っています。現在では大手御門や平川御門と同様に皇居東御苑の入口になっています。


サザンカ(山茶花)の花が咲いています。


宮内庁の内部部局の1つで、皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また陵墓の管理を行う書陵部の建物です。この書陵部を過ぎたところから標高差約30メートルを下る長い坂になります。ここが皇居東御苑の梅の名所といわれる「梅林坂」です。梅の開花期である2月上旬頃には石垣と梅の花という絶景スポットになっています。


梅林坂は、もともと太田道灌が文明10(1478)に江戸平河城(現在の江戸城)を築城した際に、領地である川越の三芳野神社から祭神である菅原道真公の分霊を勧請して天満社を創建し、梅の木100本をここに植えたのが始まりという歴史のある梅林です。現在も梅林坂の下から本丸方面にかけて50本ほどの梅が植栽されていますが、この梅は皇居東御苑の開園に先駆けて、昭和42年に植えられたもので、50年を経て立派な梅に育っています。早咲きの品種は12月の冬至のころから咲き始め、例年2月中旬に見頃を迎えます。


かつてこのあたりには幾つかの神社が祀られていたのですが、太田道灌が創建した前述の天満社は、現在の平河天満宮で、徳川家康の江戸城築城、2代将軍徳川秀忠の江戸城拡張の際に麹町の平河町に遷座しています。同様に、古くは梅林坂にあったといわれる山王権現神社も遷座させられて、永田町にある山王日枝神社になっています。さらには、太田家の守護神、そして江戸城の鎮守だった築土神社(つくどじんじゃ)も北の丸の日本武道館そばに遷座しています。


この梅林坂にも上梅林御門と下梅林御門という2つの門が設けられ、厳重な警戒態勢が敷かれていました。


この梅林坂は大奥へ向かう通用道という側面があり、ここを通っていたのは主に大奥に御用の人達で、当然のこととして女性が主体でした。昔も今も変わらないことですが、家族同士の付き合いの中心は奥様でした。

将軍の御台所の主要な役割の1つに、全国約300の藩の大名や主な直参旗本の奥方達との交流がありました。その中心は贈物の交換。大奥のあまりにも多い進物贈物交換の記録が今も残されています。御台所から大名の奥方に贈物があり、その返礼として大名の奥方から御台所に贈物がある。その繰り返しが1年に何度もありました。現在も我が国にはお中元やお歳暮に贈り物をする習慣が根強くありますが、もしかするとそれは、徳川将軍家を中心とする江戸城のこうした贈物交換儀式の歴史が根底にあるのかもしれません。なので、贈物の返礼に贈物を携えた各藩の大名や主な直参旗本の奥方達が毎日のようにこの梅林坂を登って、大奥に“登城”していました。内助の功ってやつですね。

また、大奥と御用の(お取り引きのある)江戸の町の大店(おおだな)の商家のお内儀さん(おかみさん)も、進物を持ってこの梅林坂を登って、大奥に登城していました。さらには、大奥に暮らす約1,000人ほどの女性達の家族(もちろん母親や姉妹等の女性に限りますが)も面会のためにこの梅林坂を登って、大奥に登城していました。


梅林坂を下り終え、下梅林御門を潜ると濠が見えてきます。平川濠です。


写真では分かりにくいのですが対岸の石垣の上に帯曲輪があります。曲輪(くるわ:廓とも書く)は、防御力強化の目的で城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域のことで、帯曲輪とは、1つの曲輪の外側に帯状に設ける曲輪のことです。ここの帯曲輪はこれから訪れる平川御門と竹橋御門の間を連結する細長い渡り堤の構造を持った帯曲輪です。この帯曲輪により平川濠は2つに分断されていました。


この日の最後に訪れたのは「平川御門」です。平川御門は15世紀に太田道灌が最初に江戸城を築城した時代からある門で、その当時、江戸湾に面した門の周辺には、上平川村、下平川村という2つの集落があったのが平川門の名の由来です。第3代将軍徳川家光の治世である寛永12(1635)、高麗門と渡櫓門から構成される強固な枡形門のスタイルとなりました。また、江戸城の城郭枡形門の中で、内側の渡櫓門を通って場外への出口である高麗門が左右2箇所にあるのは平川御門だけです。

江戸時代には江戸城三の丸の正門、さらには本丸から最も近い通用門という位置から、大奥女中達の出入りする通用門「お局御門」としても機能し、北の丸に暮らす御三卿(清水家・一橋家・田安家)の登城口にもなっていました。現在では大手御門、北桔橋御門と並んで、皇居東御苑(本丸・二の丸・三の丸)の入苑口の1つになっています。


渡櫓門を通ります。


平川御門には枡形に左右2箇所の高麗門(外側の門)があると書きましたが、左側の高麗門は「不浄門」と呼ばれていました。不浄門とは罪人や遺体など不浄のものはここから出すという意味で、ここはそうした目的を持った門でした。不浄門を通って城外に出された罪人や遺体は260年間にも及ぶ江戸幕府の治世の時代を通して9人だけです。

たとえば、元禄14(1701)、本丸御殿松の大廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩は重罪人ですから、城内の座敷牢に一時留め置かれた後、この平川御門の不浄門から帯曲輪、そして竹橋御門を通って奏者番を勤めていた陸奥国一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった上屋敷(現在、新橋4丁目交差点脇に「浅野内匠頭終焉之地」碑が建っています)へと移され、そこで即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しの沙汰を受けました。

さらに、正徳4(1714)、御台所の名代として上野寛永寺と芝増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及び、宴会に夢中になり過ぎたことで大奥の門限に遅れてしまったことが引き金となり、関係者総勢約1,400名が処罰された綱紀粛正事件「絵島生島事件」の中心人物・大奥御年寄の江島(絵島)もこの門から、帯曲輪、竹橋御門を通って城外に出され、信濃国高遠藩に流罪となりました。

この不浄門を生きたまま出たのはこの2人だけで、それ以外は死体となってこの不浄門から城外に出されました。天明4(1784)、父である老中・田沼意次が推し進めた急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、嫡男の若年寄・田沼意知が本丸御殿中ノ間から桔梗ノ間に移る途中、新番組の旗本・佐野善左衛門政言から切りつけられ2日後に死亡した際も、この門から出されています。また、第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院篤姫を幼児から育てた老女・菊本が、安政3(1856)、「高貴な出でない自分が養育係を務めたことで、輝かしい将来に迷惑がかかる」と大奥で自害した際にも、遺骸はこの門から出されています。NHK大河ドラマ『篤姫』で菊本を演じた佐々木すみ江さんが、自害の直前、篤姫に言い残した「女の道は一本道にございます。さだめに背き、引き返すは恥にございます」というセリフは名セリフでした。

不浄門ではありませんが、平川御門に関わるユニークな事件としては、第3代将軍徳川家光の乳母で、当時大奥で権勢をふるっていた春日局が門限に遅れ、門衛(旗本・小栗又一郎)が掟の例外を認めず門(高麗門)を開けなかったため、寒い一夜をこの平川御門の門前で過ごしたという事件があります。幕府は門衛の小栗又一郎をお咎めなしとし、逆にお褒めの言葉と500石の加増を行いました。江戸時代末期に勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行として辣腕を振るった小栗上野介忠順はその小栗又一郎の末裔です。


枡形を右手に曲がったこちらが正規の高麗門です。


平川御門の右手の石垣の最上段に石狭間(石に穴を空けて銃眼としたもの)がありますが、慶長18(1613)に築城の名手・藤堂高虎が石垣普請を命じられた時、藤堂高虎が考案したと伝えられる江戸城の貴重な遺構です。


平川御門の門前橋は、美しい反りを持つ太鼓型の木橋ですが、これは景観面に加え、お濠の管理上、橋の下を舟で往来する必要性からというのが大きな理由だと考えられています。木橋が往時のような形で今も残されているのは江戸城でもここだけです。


現在の木橋(全長29.7メートル、幅7.82メートル)は台湾産のヒノキ材を使って昭和63(1988)に再建されたもので、橋台は石造り、脚桁には鉄骨が使われていますが、親柱の擬宝珠(ぎぼし)には、寛永や慶長などの銘が彫られており、往時のものが使われていることが分かります。


今回【第8回】のゴールはこの平川御門でした。今回は江戸城外壕内濠ウォークのメインとも言うべき江戸城本丸への登城ルートを歩きました。さすがに江戸城の本丸です。江戸幕府260年間の歴史の表舞台にあったところだけに数々の逸話が詰まっていて、なかなか書ききれません。私は歩きながら大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんの説明からお聞きした気になるキーワードを書き留めて、それを後で調べて文章にまとめるというスタイルでこのブログを書いているのですが、調べれば調べるほど興味が湧いてきて、尽きることがありません。それまで知っていたことでも、実際にその現場の跡を歩くことでそれらが1つに繋がったり、おぼろげながらでも情景が見えてきたりして、面白くて仕方ありません。

今回のブログも気がつけば『江戸城外壕内濠ウォーク』シリーズで過去最高の5万字を超える大作になってしまいました。興奮が冷めやらぬ間にと勢いのままに書いたので、まとまりのないままあちこちトッチラかして書いている感は否めませんが、それくらい書きとめておく内容があった回だったとご理解ください。専門に研究をなさっている方からすると、まだまだごくごく表面的なことばかりで、内容に深みはありませんが、入門編としたらそこそこのことは盛り込めたかなと思っています。

それにしても、学校で習ってきたことがなんと表面的で薄っぺらいものだったことか。例えば「明暦の大火」。江戸という町の構造と文化、さらには江戸幕府による執政を語る上において一大転機となったこの出来事が、あまり大きく取り上げられることがないのが気になります。“江戸”を語るにおいて、明暦3(1657)に起きた「明暦の大火」は最大のキーワードです。この前と後とでは江戸の町も江戸幕府の執政もまったくと言っていいくらい異なるわけですから。そこを触れずして江戸時代を語るなかれ!ってもんです。

「明暦の大火」も、長く続いた少雨による乾燥と、折から吹いた強い季節風の影響で死者が10万人を超えるといわれるほどの大災害となりました。火事とは言っても、自然災害と言ってもいいくらいです。日本の歴史は、このような自然との戦いの歴史と言っても過言ではありません。大火事、冷害や干ばつによる大飢饉、火山の噴火、大地震、毎年のようにやってくる台風……、その中で多くの人々が犠牲になり、時には血で血を洗うような戦いが繰り広げられたりもしましたが、そのような圧倒的破壊力を持つ自然の脅威の来襲による大災害を乗り越えることによって社会基盤はより強く安定したものになっていき、今の時代の繁栄へと繋がっていったのだと思います。まさに竹村公太郎さん(元国土交通省河川局長)の『日本史の謎は地形で解ける』、さらには田家康さん(農林中央金庫、日本気象予報士会東京支部長)の『気候で読み解く日本の歴史 〜異常気象との攻防1400年〜』に書かれているとおりです。世の中の最底辺のインフラは“地形”と“気象(気象、地象、海象)”であり、この地形気象からの考察なくして、日本史も世界史も語ることはできない!という思いを、改めて強く思いました。歴史の大きな流れ、特に時代の転換点においては、必ずと言っていいほど“地形”と“気象”が大きく影響していますから。

それとTVドラマの時代劇や歴史小説を通して、私達が江戸という時代に対する間違ったイメージを植え付けられてきたかということに気づきます。それらの多くは現代人の勝手な妄想によるフィクション、単なる大衆娯楽作品に過ぎないということを理解した上で観たり読んだりしないといけないということです。

今年4月にJR両国駅を出発して、外壕、内濠に沿って歩いてきたこの『江戸城外壕内濠ウォーク』も、江戸城内に入り、いよいよ次回【第9回】が最終回です。今回【第8回】で江戸城本丸御殿跡を訪れたので、残るはもしかして…………。これは今から楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――


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