2018年12月1日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その6)


 江戸時代、ここには濠があって、木橋を渡ってその先に行っていました。



「大手三ノ御門」の跡です。この「大手三ノ御門」は「下乗門」とも呼ばれていました。この先の二の丸に駕籠に乗って入城できるのは、尾張藩、紀州藩、水戸藩の徳川御三家の藩主に限られていたからです。それ以外の藩の大名や直参旗本は、いくら加賀国100万石の大大名だった前田家の殿様といえども駕籠から降りて、自分の足(徒歩)で、二の丸、そして本丸に向かわないといけませんでした。



大手三ノ御門に隣接するように「同心番所」があります。同心番所は同心達の詰所です。ここは本丸大手御門(大手三ノ御門)を警備する番所で、今でいう検問所にあたります。現在、江戸城には百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。 城の奥にある番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心(幕府の下級武士)が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当っていました。江戸時代後期のものと思われる建物が修理復元されて残っています。かつてはこの番所の前に高麗門と橋がありました。ちなみにこの同心番所の鬼瓦には徳川家の家紋である葵の紋が残っています。



同心番所の前を通り、大手三ノ御門の渡櫓門跡の石垣の間を抜けると、長さ50メートルを超える大きな「百人番所」が見えてきます。この建物は数少ない江戸時代からそのままの形で残る江戸城の貴重な遺構です。



ここは本丸の入口にあたることから、江戸城最大の検問所でした。百人番所には「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたそうです。同心が100人ずつで警護していたので、百人番所と呼ばれていました。

根来組、伊賀組、甲賀組…と言えば、言わずと知れた戦国時代に活躍した忍者集団ですね。

まず、伊賀組。伊賀組は伊賀上野(現在の三重県上野市)を本拠にした服部半蔵が率いた伊賀武士の集団です。徳川家康により召抱えられ、徳川幕府のために諸大名の内情を探ったり、江戸城下の治安を警護したりしました。江戸城の半蔵門は、伊賀者が警護しており、服部半蔵の名にちなんでその名がつけられました。

次に甲賀組。甲賀組は滋賀県の南東部(現在の滋賀県甲賀市周辺)を本拠にした甲賀武士の集団で、伊賀組同様、関ヶ原の戦い以降徳川家康に召抱えられ、江戸城の警護にあたっていました。

根来組。根来組は紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵を中心とした紀州の鉄炮軍団です。根来衆とも呼ばれていました。織田信長の時代から活躍していたのですが、豊臣秀吉の根来攻めにより敗北しました。その後、徳川家康により召抱えられたようです。

そして二十五騎組(廿五騎組)。二十五騎組は黒田家家臣によって構成された武闘集団です。「黒田二十五騎」というのは後藤又兵衛(後藤基次)や母里太兵衛(母里友信)など、黒田官兵衛が家臣の中から選んだ精鋭の武闘軍団のことです。一般には「黒田二十四騎」と呼ばれることが多いですが、嫡男の長政を含めて「二十五騎」とも呼ばれました。なお、ここに登場する後藤又兵衛(後藤基次)は慶長19(1614)、大坂の陣が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城し、歴戦の将として真田信繁(幸村)とともに大坂城五人衆の1人に数えられました。また、母里太兵衛(母里友信)は槍術に優れた剛力の勇将として知られ、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られています。

このように徳川家康は忍者や鉄砲軍団、精鋭の武闘集団を活用することに非常に長けたリーダーでした。それがたとえかつて敵対した側にいた忍者や鉄砲軍団、武闘集団であってもうまく取り込んで、彼らの優れた技能を発揮させていました。戦国時代が終わり、活躍の場がなくなった彼ら忍者や鉄砲軍団、精鋭武闘集団にとっても自分達の技能が活かせる新たな職場が与えられて、幸せだったのかもしれません。

ちなみに、百人組は将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際には山門前を警備するなど、幕府直轄(若年寄支配)の独立部隊として編成されていました。

百人組の組屋敷は、それぞれ伊賀組は大久保に、甲賀組は青山に、根来組は市ヶ谷に、二十五騎組は内藤新宿にありました。現在も新宿区百人町など、都内の地名や区割りに同心組屋敷の名残りをとどめています。これらの組屋敷は、すべて甲州街道沿いにありました。徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合の備えとして、将軍は江戸城半蔵御門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていました (八王子には大久保長安が統括した八王子千人同心と呼ばれる幕臣集団がいました。この八王子千人同心も元々は武田家の遺臣でした)。百人組にはこうした有事の際の護衛の任務もありました。


大手三ノ御門を抜け、百人番所の前を通ると、いよいよ本丸へと近づいていくのですが、本丸へ入るには「中ノ御門」を通らなければなりません。



この「中ノ御門」の石垣は江戸城の中でも最大級となる約36トンの巨石で築かれています。高さ6メートルにも及ぶ巨大な石垣は見た目にも美しい、丁寧に加工された隙間のない見事な「切込接ぎ・布積み」の技法で積まれています。 



この中ノ御門の石垣は寛永15(1638)にその原形が普請され、元禄16(1703)に起きた地震により大きな被害を受けましたが、翌年に鳥取藩第3代藩主・池田吉明によって修復されました。その後、関東大震災で高麗門と渡櫓門は大破。いまだその再建はされず、現在は石垣のみが残っています。そしてその石垣も約300年の間に、石材の移動による目地の開きやはらみ、荷重や風化による破損や剥離などが発生していたため、平成17(2005)8月から平成19(2007)3月まで20ヶ月間かけて解体・修復工事が行われました。パネルで修復工事の様子が解説されています。御門の横にあるスペースでは、前述の中ノ御門の石垣の修復時に交換した石材が展示されています。



それにしても見事な石垣です。中ノ御門の石垣には黒い石とやや黄色がかった石の2種類の石が使われています。このうち黒い石は伊豆半島産の安山岩です。そしてやや黄色がかった石は瀬戸内海の小豆島(しょうどしま:香川県)産の御影石(花崗岩)です。香川県丸亀市で中学高校時代を過ごして、四国香川県を強い思いで故郷の1つとしている私としては嬉しい限りです。



この右手の大きな石が江戸城の中でも最大級となる約36トンの巨石です。やや黄色がかった石なので、瀬戸内海の小豆島産の御影石です。それにしても、よくぞこんなに巨大な石を瀬戸内海の小豆島から江戸まで運んできたものです。輸送にあたったのは福岡藩黒田家、長州藩毛利家、広島藩浅野家、岡山藩池田家といった西国の有力外様大名達で、小豆島産の巨大御影石の輸送には、安全保障上、そうした有力外様大名の財力を削ぐといった意味合いもあったようです。

江戸城内に残る石垣の大部分は、天下普請の時に伊豆半島から切り出され船で送られてきた安山岩ですが、登城ルートの巨岩などは、このように瀬戸内海の小豆島からはるばる船で運ばれてきた御影石(花崗岩)が使われています。大名の登城ルートには、特に隙間なく美しく積まれた巨岩が配されていますが、これも登城する大名の目を意識してのことなのだそうです。中には江戸城普請の総指揮を執った築城の名手・藤堂高虎が陣頭指揮を執った石垣もあるのだそうです。あまりに綺麗に積まれた石垣から、近年の再建ではないかと思う人も多いのですが、ところどころ修復されてはいるものの、基本は江戸時代の石積み、あるいはその復元ということだそうです。凄い技術です。


中ノ御門を通ります。この大きな敷石も小豆島産の巨大御影石で、江戸時代からのものです。デカイ!! この石の上を歴代の徳川将軍も、徳川御三家も、加賀国金沢藩100石前田家の殿様をはじめ、全国各地の歴代大名も、大岡越前守忠相や遠山左衛門尉(金四郎)景元といったお奉行様も間違いなく歩いたわけです。感慨深いものがあります。


……(その7)に続きます。

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