2018年12月8日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その12)

天守台のすぐ北に位置する北桔橋御門(きたはねばしもん)です。太田道灌が最初に江戸城を築城した時には、この北桔橋御門が大手門だったといわれています。北桔橋御門はその名の通り、江戸時代は目の前の平川濠に跳ね橋が架けられていた門です。江戸城91門といって江戸城には91の城門があったのですが、その中で唯一の跳ね橋が架けられていた門でした。天守や本丸御殿に近い門なので、防御性を高めていたのでしょう。こちらからは見えませんが、濠からの石垣もかなりの高さになっています。


北桔橋御門から先の濠添いには「五十三間櫓」と呼ばれる入側・武者走(いりかわ・むしゃばしり)を廻らしており、濠からの敵の侵入に備えていました。


この北桔橋御門もかつては枡形門でしたが、現在は枡形石垣と渡櫓門は撤去されて、高麗門だけが残っています。現在では大手御門や平川御門と同様に皇居東御苑の入口になっています。


サザンカ(山茶花)の花が咲いています。


宮内庁の内部部局の1つで、皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また陵墓の管理を行う書陵部の建物です。この書陵部を過ぎたところから標高差約30メートルを下る長い坂になります。ここが皇居東御苑の梅の名所といわれる「梅林坂」です。梅の開花期である2月上旬頃には石垣と梅の花という絶景スポットになっています。


梅林坂は、もともと太田道灌が文明10(1478)に江戸平河城(現在の江戸城)を築城した際に、領地である川越の三芳野神社から祭神である菅原道真公の分霊を勧請して天満社を創建し、梅の木100本をここに植えたのが始まりという歴史のある梅林です。現在も梅林坂の下から本丸方面にかけて50本ほどの梅が植栽されていますが、この梅は皇居東御苑の開園に先駆けて、昭和42年に植えられたもので、50年を経て立派な梅に育っています。早咲きの品種は12月の冬至のころから咲き始め、例年2月中旬に見頃を迎えます。


かつてこのあたりには幾つかの神社が祀られていたのですが、太田道灌が創建した前述の天満社は、現在の平河天満宮で、徳川家康の江戸城築城、2代将軍徳川秀忠の江戸城拡張の際に麹町の平河町に遷座しています。同様に、古くは梅林坂にあったといわれる山王権現神社も遷座させられて、永田町にある山王日枝神社になっています。さらには、太田家の守護神、そして江戸城の鎮守だった築土神社(つくどじんじゃ)も北の丸の日本武道館そばに遷座しています。


この梅林坂にも上梅林御門と下梅林御門という2つの門が設けられ、厳重な警戒態勢が敷かれていました。


この梅林坂は大奥へ向かう通用道という側面があり、ここを通っていたのは主に大奥に御用の人達で、当然のこととして女性が主体でした。昔も今も変わらないことですが、家族同士の付き合いの中心は奥様でした。

将軍の御台所の主要な役割の1つに、全国約300の藩の大名や主な直参旗本の奥方達との交流がありました。その中心は贈物の交換。大奥のあまりにも多い進物贈物交換の記録が今も残されています。御台所から大名の奥方に贈物があり、その返礼として大名の奥方から御台所に贈物がある。その繰り返しが1年に何度もありました。現在も我が国にはお中元やお歳暮に贈り物をする習慣が根強くありますが、もしかするとそれは、徳川将軍家を中心とする江戸城のこうした贈物交換儀式の歴史が根底にあるのかもしれません。なので、贈物の返礼に贈物を携えた各藩の大名や主な直参旗本の奥方達が毎日のようにこの梅林坂を登って、大奥に“登城”していました。内助の功ってやつですね。

また、大奥と御用の(お取り引きのある)江戸の町の大店(おおだな)の商家のお内儀さん(おかみさん)も、進物を持ってこの梅林坂を登って、大奥に登城していました。さらには、大奥に暮らす約1,000人ほどの女性達の家族(もちろん母親や姉妹等の女性に限りますが)も面会のためにこの梅林坂を登って、大奥に登城していました。


梅林坂を下り終え、下梅林御門を潜ると濠が見えてきます。平川濠です。


写真では分かりにくいのですが対岸の石垣の上に帯曲輪があります。曲輪(くるわ:廓とも書く)は、防御力強化の目的で城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域のことで、帯曲輪とは、1つの曲輪の外側に帯状に設ける曲輪のことです。ここの帯曲輪はこれから訪れる平川御門と竹橋御門の間を連結する細長い渡り堤の構造を持った帯曲輪です。この帯曲輪により平川濠は2つに分断されていました。


この日の最後に訪れたのは「平川御門」です。平川御門は15世紀に太田道灌が最初に江戸城を築城した時代からある門で、その当時、江戸湾に面した門の周辺には、上平川村、下平川村という2つの集落があったのが平川門の名の由来です。第3代将軍徳川家光の治世である寛永12(1635)、高麗門と渡櫓門から構成される強固な枡形門のスタイルとなりました。また、江戸城の城郭枡形門の中で、内側の渡櫓門を通って場外への出口である高麗門が左右2箇所にあるのは平川御門だけです。

江戸時代には江戸城三の丸の正門、さらには本丸から最も近い通用門という位置から、大奥女中達の出入りする通用門「お局御門」としても機能し、北の丸に暮らす御三卿(清水家・一橋家・田安家)の登城口にもなっていました。現在では大手御門、北桔橋御門と並んで、皇居東御苑(本丸・二の丸・三の丸)の入苑口の1つになっています。


渡櫓門を通ります。


平川御門には枡形に左右2箇所の高麗門(外側の門)があると書きましたが、左側の高麗門は「不浄門」と呼ばれていました。不浄門とは罪人や遺体など不浄のものはここから出すという意味で、ここはそうした目的を持った門でした。不浄門を通って城外に出された罪人や遺体は260年間にも及ぶ江戸幕府の治世の時代を通して9人だけです。

たとえば、元禄14(1701)、本丸御殿松の大廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩は重罪人ですから、城内の座敷牢に一時留め置かれた後、この平川御門の不浄門から帯曲輪、そして竹橋御門を通って奏者番を勤めていた陸奥国一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった上屋敷(現在、新橋4丁目交差点脇に「浅野内匠頭終焉之地」碑が建っています)へと移され、そこで即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しの沙汰を受けました。

さらに、正徳4(1714)、御台所の名代として上野寛永寺と芝増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及び、宴会に夢中になり過ぎたことで大奥の門限に遅れてしまったことが引き金となり、関係者総勢約1,400名が処罰された綱紀粛正事件「絵島生島事件」の中心人物・大奥御年寄の江島(絵島)もこの門から、帯曲輪、竹橋御門を通って城外に出され、信濃国高遠藩に流罪となりました。

この不浄門を生きたまま出たのはこの2人だけで、それ以外は死体となってこの不浄門から城外に出されました。天明4(1784)、父である老中・田沼意次が推し進めた急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、嫡男の若年寄・田沼意知が本丸御殿中ノ間から桔梗ノ間に移る途中、新番組の旗本・佐野善左衛門政言から切りつけられ2日後に死亡した際も、この門から出されています。また、第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院篤姫を幼児から育てた老女・菊本が、安政3(1856)、「高貴な出でない自分が養育係を務めたことで、輝かしい将来に迷惑がかかる」と大奥で自害した際にも、遺骸はこの門から出されています。NHK大河ドラマ『篤姫』で菊本を演じた佐々木すみ江さんが、自害の直前、篤姫に言い残した「女の道は一本道にございます。さだめに背き、引き返すは恥にございます」というセリフは名セリフでした。

不浄門ではありませんが、平川御門に関わるユニークな事件としては、第3代将軍徳川家光の乳母で、当時大奥で権勢をふるっていた春日局が門限に遅れ、門衛(旗本・小栗又一郎)が掟の例外を認めず門(高麗門)を開けなかったため、寒い一夜をこの平川御門の門前で過ごしたという事件があります。幕府は門衛の小栗又一郎をお咎めなしとし、逆にお褒めの言葉と500石の加増を行いました。江戸時代末期に勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行として辣腕を振るった小栗上野介忠順はその小栗又一郎の末裔です。


枡形を右手に曲がったこちらが正規の高麗門です。


平川御門の右手の石垣の最上段に石狭間(石に穴を空けて銃眼としたもの)がありますが、慶長18(1613)に築城の名手・藤堂高虎が石垣普請を命じられた時、藤堂高虎が考案したと伝えられる江戸城の貴重な遺構です。


平川御門の門前橋は、美しい反りを持つ太鼓型の木橋ですが、これは景観面に加え、お濠の管理上、橋の下を舟で往来する必要性からというのが大きな理由だと考えられています。木橋が往時のような形で今も残されているのは江戸城でもここだけです。


現在の木橋(全長29.7メートル、幅7.82メートル)は台湾産のヒノキ材を使って昭和63(1988)に再建されたもので、橋台は石造り、脚桁には鉄骨が使われていますが、親柱の擬宝珠(ぎぼし)には、寛永や慶長などの銘が彫られており、往時のものが使われていることが分かります。


今回【第8回】のゴールはこの平川御門でした。今回は江戸城外壕内濠ウォークのメインとも言うべき江戸城本丸への登城ルートを歩きました。さすがに江戸城の本丸です。江戸幕府260年間の歴史の表舞台にあったところだけに数々の逸話が詰まっていて、なかなか書ききれません。私は歩きながら大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんの説明からお聞きした気になるキーワードを書き留めて、それを後で調べて文章にまとめるというスタイルでこのブログを書いているのですが、調べれば調べるほど興味が湧いてきて、尽きることがありません。それまで知っていたことでも、実際にその現場の跡を歩くことでそれらが1つに繋がったり、おぼろげながらでも情景が見えてきたりして、面白くて仕方ありません。

今回のブログも気がつけば『江戸城外壕内濠ウォーク』シリーズで過去最高の5万字を超える大作になってしまいました。興奮が冷めやらぬ間にと勢いのままに書いたので、まとまりのないままあちこちトッチラかして書いている感は否めませんが、それくらい書きとめておく内容があった回だったとご理解ください。専門に研究をなさっている方からすると、まだまだごくごく表面的なことばかりで、内容に深みはありませんが、入門編としたらそこそこのことは盛り込めたかなと思っています。

それにしても、学校で習ってきたことがなんと表面的で薄っぺらいものだったことか。例えば「明暦の大火」。江戸という町の構造と文化、さらには江戸幕府による執政を語る上において一大転機となったこの出来事が、あまり大きく取り上げられることがないのが気になります。“江戸”を語るにおいて、明暦3(1657)に起きた「明暦の大火」は最大のキーワードです。この前と後とでは江戸の町も江戸幕府の執政もまったくと言っていいくらい異なるわけですから。そこを触れずして江戸時代を語るなかれ!ってもんです。

「明暦の大火」も、長く続いた少雨による乾燥と、折から吹いた強い季節風の影響で死者が10万人を超えるといわれるほどの大災害となりました。火事とは言っても、自然災害と言ってもいいくらいです。日本の歴史は、このような自然との戦いの歴史と言っても過言ではありません。大火事、冷害や干ばつによる大飢饉、火山の噴火、大地震、毎年のようにやってくる台風……、その中で多くの人々が犠牲になり、時には血で血を洗うような戦いが繰り広げられたりもしましたが、そのような圧倒的破壊力を持つ自然の脅威の来襲による大災害を乗り越えることによって社会基盤はより強く安定したものになっていき、今の時代の繁栄へと繋がっていったのだと思います。まさに竹村公太郎さん(元国土交通省河川局長)の『日本史の謎は地形で解ける』、さらには田家康さん(農林中央金庫、日本気象予報士会東京支部長)の『気候で読み解く日本の歴史 〜異常気象との攻防1400年〜』に書かれているとおりです。世の中の最底辺のインフラは“地形”と“気象(気象、地象、海象)”であり、この地形気象からの考察なくして、日本史も世界史も語ることはできない!という思いを、改めて強く思いました。歴史の大きな流れ、特に時代の転換点においては、必ずと言っていいほど“地形”と“気象”が大きく影響していますから。

それとTVドラマの時代劇や歴史小説を通して、私達が江戸という時代に対する間違ったイメージを植え付けられてきたかということに気づきます。それらの多くは現代人の勝手な妄想によるフィクション、単なる大衆娯楽作品に過ぎないということを理解した上で観たり読んだりしないといけないということです。

今年4月にJR両国駅を出発して、外壕、内濠に沿って歩いてきたこの『江戸城外壕内濠ウォーク』も、江戸城内に入り、いよいよ次回【第9回】が最終回です。今回【第8回】で江戸城本丸御殿跡を訪れたので、残るはもしかして…………。これは今から楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――


2018年12月7日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その11)


このタチバナの木の前が歴代徳川将軍家の「御台所(みだいどころ:将軍の正妻)」の居室があったところ、すなわちこのあたりが皆さんよくご存知の「大奥」があったところです。

「大奥」は、言い方は悪いですが、徳川将軍家の世襲制を存続させるために作られた施設でした。「大奥」は将軍の私邸で、御台所を中心に、将軍の側室や子供達といった家族や、それをお世話する奥女中達の生活の場でした。「中奥」とは仕切られており、御鈴廊下で結ばれていました。

前述のように、本丸御殿の建て坪は約11,000(36,000平方メートル)と広大なものがあったのですが、そのうち「表」と「中奥」が約4,700(15,000平方メートル)なのに対して、「大奥」は約6,300(21,000平方メートル)と、本丸御殿の中で「大奥」が最大の割合を占めていました。なぜ「大奥」だけがそんなに広いのかと言うと、大勢の人が常時そこに住んでいたからです。主に日中に実務や行事が行われる「表」や、将軍個人が執務や居住に使う「中奥」に対し、「大奥」は大別すると御台所をはじめ将軍の生母や子供達、さらには側室の居室といった建物が建ち並ぶ「大奥御殿向(おおおくごてんむき)」、役所機能があった「御広敷(おひろしき)」、「長局向(ながつぼねむき)」と呼ばれる奥女中達の生活する長屋などが何棟も立ち並び、部屋数は軽く100を超えていたといわれています。

27.新座敷=将軍の母の住居です。
28.御殿=多くの部屋が置かれている部分です。
29.対面所=大奥に外部からやってくる客を接待する場所です。
30.御座之間=将軍と御台所が対面するための部屋です。
31.御休息之間・御化粧之間=御台所の生活する部屋です。
32.長局(ながつぼね)=奥女中達が生活する部屋です。

「大奥三千人」といわれていますが、実際には、大奥には仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の異母妹にあたる皇女和宮が第14代将軍徳川家茂の御台所(正室)になった幕末の最も多い時で、約1,000人ほどの女性達が暮らしていたと言われています。それ以前の時期においても、引退した前将軍や御台所に仕えた女性達も含め、幕府から正規に給与を得ていたのが約300人ほどで、これに加えて、彼女らが自らのサポート要員として雇い入れた私設の女性達がさらに約300400人おり、全部合わせると600700人の女性達が大奥で生活していたようです。前述のように、将軍と一部の役人以外の男性は足を踏み入れることができませんでした。働く女性達は一生奉公が原則で、身分の高い者ほど宿下がり(実家への帰省)が難しかったといわれています。


この大奥は皆さんTVドラマや時代小説等を通してよくご存知のように、大奥は、将軍以外は男子禁制で、勝手に男が入れば死罪となる完全な女の園でした。そのため、大奥へのアクセスは、本丸御殿中奥にある「御錠口(おじょうぐち)」という将軍専用の出入り口が1ヶ所あるのみでした(後に防災上の観点からもう1ヶ所増設されたようですが…)。ただし、御台所が城外へ外出するときに使う玄関や、大奥の女性達が城の出入りに使う通用口は別途設けられており、将軍以外の訪問者はこちらの出入り口を利用しました。

TVドラマや時代小説等では大奥は将軍はハーレムのような場所として描かれ、そこで将軍の御寵愛を受けるために女性達のドロドロとした権力争いが繰り広げられていたかのような描かれ方がされていますが、あくまでもこれは現代人の勝手な妄想によるフィクションに過ぎず、史実では大奥は将軍の正室である御台所を頂点として整然とした秩序が保たれた空間でした。秩序を乱すような者がいると、即刻、将軍や御台所から罷免されていました。幕府の秩序を乱すようなことを企んだら、男性の大名や直参旗本では即切腹という時代でしたからね。

大奥で働く女性達は、「御目見(おめみえ)以上」「御目見以下」「部屋方(へやかた)」の3つに大きく分類されます。職掌によって将軍に接触できるのが「御目見以上」、そうでないのが「御目見以下」で、彼女達は幕府から直接給料が支払われていた女性達でした (なので、将軍や御台所の意に沿わない場合は、即刻罷免されたわけです)。さらにこれらの女性達が自らのサポート役として私的に雇っている女性が「部屋方」です。「御目見以上」と「御目見以下」は、それぞれの中でもさらに細かく分類され、明確に定員も設けられていました。

まず御目見以上ですが、計18職種84人と定員が定められていました。上臈御年寄(じょうろうおとしより:1)は大奥の最高位で将軍・御台所の相談役ですが、たいていは公家の娘で、儀礼典礼の秘書として大奥入りしているので、あくまでも名誉職で実権はなかったといわれています。大奥全体を取り締まる実質的なトップは御年寄(おとしより)と呼ばれ、4人が定員でした。さらにその下に将軍と御台所の身辺の世話係である御中臈(おちゅうろう:定員7)がいました。通常はこの将軍付中臈の中から側室が出ました。これらを加えて、前述のように計18職種84人が将軍と接触できる女性達でした。御目見以下は95人の定員で、仲居(おなかい)、御火之番(おひのばん)、御末(おすえ)など計6職種に分かれていました。御目見以上が総合職、御目見以下が一般職ってところでしょうか。御目見以上や御目見以下の奥女中が、私的に雇ったサポート役が部屋方で、派遣社員・契約社員ってところでした。役職も仕事も多岐に渡っていました。力仕事用の女性や大奥で出た罪人を処罰する女性、警備員などもすべて女性が行っており、女性だけですべての事柄が賄える仕組みになっていました。

将軍は日々の公務に加えて、徳川歴代将軍の月命日の墓参りがあり、極めて多忙でした。加えて徳川歴代将軍の月命日の墓参りの前日は身を清める意味で大奥での宿泊は禁止されていました。このため、江戸後期の将軍は代が進むほど日程が窮屈となり、どんなに頑張っても大奥へは月のうち半分ほどしか泊まれなかったようです。


また、将軍は、相手の女性を自由に「選り好み」できたのかというと、実際はほぼ不可能なことでした。広大な敷地に1,000人近い女性達がいた大奥ですが、将軍が行き来できる範囲は限られていました。将軍と日ごろ接触することができる女性も、若い者は将軍付の御中臈くらいしかおらず、「添い寝役」も大抵はその御中臈の中から選ばれるのが一般的でした。夜の時間2人きりを満喫できたのかというと、そんな時にも将軍に自由はありませんでした。大奥での将軍専用の部屋である「御小座敷」には常時、隣室に夜勤の女性が複数控えていました。当日「御添寝」を担当する女性が部屋に入ると、さらにもうひとり別の女性が彼女のすぐ隣に敷かれた布団に背を向けて横になります。将軍があとから部屋を訪れて“夜の時間”が始まっても、横の女性はそこを離れずじっと聞き耳を立てていました。隣室からも気配を感じたままですから、ムードもへったくれもありませんでした。

ちなみに、将軍の“お手”がついた女性は「御手付中臈(おてつきちゅうろう)」と呼ばれ、側室として扱われました。さらに、将軍の子どもを懐妊すると専用の個室が与えられ、その後、男子を出産すると「御部屋様(おへやさま)」、女子を出産すると「御腹様(おはらさま)」と呼ばれて、正式に「側室」と認められました。そして、子供の有無に関わらず一生大奥からは出られませんでした。また、たとえ将軍がどれだけその女性を気に入っていたとしても、当時は御台所も側室も、30歳を区切りに「御褥御断り(おしとねおことわり)」といって、将軍と夜を共にすることを辞退するのが一般的な習わしでした。このように、はた目には恵まれた境遇に見える将軍であっても、日々の生活での制約は多く、思ったほど享楽に浸る生活を送ってはいなかったというのが現実でした。歴代将軍の中には、こうした面倒から大奥通いを苦痛に感じ、むしろ中奥で1人気ままに過ごすのを好んだ将軍も1人や2人ではなかったようです。

大奥の項の最後に、御台所のトイレ事情についてご紹介します。御台所のトイレは「万年」と呼ばれるもので、4畳ほどの畳敷きのお部屋でした。「万年」はいわゆるぼっとん式便所で、地中深くに穴が掘られており大小便はここに落ちました。その深さは一説によると18メートルほどもあったそうです。御台所一代で同じ穴を使い続けたので、臭いは相当なものだったと思われます。そのため、常に匂い消しのためお香が焚かれていました。そして、御台所が代わると古い穴は埋められ、また新しい穴が掘られました。御台所はトイレの時にも御台所の身辺の世話係である御中臈が付いてきて、用を足した後とお尻を拭くこともやってもらっていたそうです。日常生活において、御台所が手を動かすことと言えば食事の時くらいで、トイレをはじめ、その他の爪切り、お召し替えなどは全て御中臈たちが代わりに手を動かしてくれていました。高貴なお方は庶民と感覚が違います。通常はこの御中臈の中から将軍の側室が出たわけで、TVドラマ等で見られるような御台所と側室の間でのドロドロとした争いが起きるはずもありません。厳然とした身分の違いがありました。

このように、私達がTVの時代劇や歴史小説で目にする「ドラマの中の歴史」は、「史実としての歴史」とは大きく異なっていることが多々あります。何も知らずにドラマの世界を史実と鵜呑みにして人前で話すと、思わぬ恥をかいてしまうこともあります。注意が必要です。あくまでもフィクション、ドラマの中の歴史、娯楽だと思って楽しんでいただけたらと思います。


「天守台」です。現在残る江戸城の天守台は高さ11メートル、東西約41メートル、南北約45メートルの大きさを誇り、すべてが瀬戸内海の小豆島(香川県)から切り出され、船で遠路はるばる運ばれてきた御影石(花崗岩)でできています。

この天守台は慶長11(1606)に筑前国福岡藩初代藩主の黒田長政によって築造された天守台から数えると、4代目の天守台で、明暦の大火によって寛永天守閣が焼失したことを受け、ただちに再建が計画され、加賀国金沢藩第4代藩主・前田綱紀によって築かれたものです。

もとの寛永天守閣の天守台は13メートルほどの高さあったので、再建時に高さは約11メートルと少し低くなっています。また、前述のように、使用する石も伊豆半島から運ばれてきた黒っぽい安山岩から、瀬戸内海の小豆島からはるばる運ばれてきた黄色がかった御影石(花崗岩)に変えて、より精緻な切石で積まれました。もとの寛永天守閣の天守台で使われていた伊豆半島から運ばれてきた安山岩の石材のうち、再利用できるものは御書院御門(中雀御門)前の石垣に転用されたそうです。なお、天守台の手前にある小天守台に使われている黒っぽい石材は伊豆半島から運ばれてきた安山岩ですが、これは寛永天守台の石材が転用されているのだそうです。


天守閣の基礎となる天守台は完成したのですが、前述のように、天守閣そのものの再建は当時の第4代将軍徳川家綱の後見役で、徳川家光の異母弟である陸奥国会津藩初代藩主の保科正之が「今は天守閣の再建よりも被災した人たちの救済と江戸の街の復興が先であろう」と主張したため、天守再建はとりやめられました。そして、これ以降は本丸東南隅に位置する富士見櫓を実質の天守と見なされるようになりました。


天守台の石垣の東南側には焼けたあとが残っていますが、これは幕末の文久3(1863)の大火によるものです。前述のように、この火災では焼失した本丸御殿は再建されず、幕府の政務機能を西の丸御殿に移しています。


現在、天守台はスロープで上がれるようになっており、展望台になっています。


この天守台横には明治17(1885)から大正12(1923)まで中央気象台 (設置当初は東京気象台。明治20年に中央気象台に改称し、昭和31年気象庁と改称) が置かれていました。東京気象台は、それまでは赤坂区溜池葵町(現在のホテルオークラ近く)にあったのですが、明治17(1885)に江戸城本丸御殿跡に移設。大正12(1923)に麹町区元衛町(現在のKKRホテル東京の場所)に移るまで、本丸御殿跡には中央気象台が置かれていました。さらに、天守台には、天体観測と緯度経度計測のための天測塔と気象観測の風力塔を兼ねたレンガ(煉瓦)造りの建物(東京観測点)が建設されていました。明治1761日から東京気象台で毎日3回全国の天気予報の発表が始まったのですが、天守台の堅牢な石垣は天文観測などにも絶好だったからです。本丸御殿跡には昭和30年代まで気象庁の官舎も建っていました。

城、石垣、香川県…と来ると、忘れてはならない城があります。それが丸亀城です。歴代の藩主となった生駒親正と山崎家治、そして京極高和が築いた丸亀城は「石垣の名城」と言われるほどで、「扇の勾配」と呼ばれる高く美しい曲線が描かれた石垣が有名な城です。江戸時代初期の城郭石垣を築く技術が最高水準に達したときに作られたもので、優れた技術で積まれた石垣を見ることができます。万治3(1660)に完成した天守閣は全国に現存する12の天守閣の1つで国の史跡に指定され、四国に残る木造天守閣では一番古い天守閣です。私は中学高校時代の6年間を香川県丸亀市で過ごしました。なので、丸亀城は毎日のように眺めていた思い入れの強い城なのです。

その丸亀城の石垣が今年108日から9日にかけて、広範囲にわたって崩落しました。崩落したのは「帯曲輪(おびぐるわ)石垣」と、その上部に造られた「三の丸坤櫓(ひつじさるやぐら)跡石垣」で、帯曲輪石垣は西面が幅約18メートル、高さ約16メートルにわたって崩れ、三の丸坤櫓跡石垣は東西約25メートル、南北約30メートル、高さ約17メートルと広い範囲で崩落しました。帯曲輪石垣の老朽化などで周囲は以前から立ち入り禁止となっており、老朽化や930日に来襲した台風24号の大雨が原因になったとみられています。丸亀城では7月の西日本豪雨でも、この場所とは別の石垣が崩落しており、「石垣の名城」と言われた見事な石垣が見るも無残な状況になっているようです。

石垣の修復には30年はかかると言われているようですが、死ぬまでにもう一度あの美しい石垣を見たいと思っていますので、それまでは「ふるさと納税」で少しでも復旧資金のお手伝いをさせていただきたいと思っています。


……(その12)に続きます。

2018年12月6日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その10)

ここからちょっと本丸御殿跡を離れます。


「富士見櫓」です。富士見櫓は江戸城のほぼ中央、江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓です。明暦3(1657)の明暦の大火で天守が焼失した後に、天守閣の代わりとして使用された三重櫓です。繰り返しになりますが、 「櫓(やぐら)」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っているだけです。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。前述のように、明暦の大火で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。江戸城本丸では現存する随一の櫓ですが、残念ながら柵があって近づくことができません。


初代のものは慶長11(1606)、本丸造営工事の際に建てられました。現存する三重櫓は、明暦3(1657)の明暦の大火での焼失後、万治2(1659)に再建されたものです。どの角度から見ても同じような形に見えることから、「八方正面の櫓」の別名がありました。天守閣焼失後には天守の役目を果たしたことから、「代用天守の櫓」ともいわれています。

富士見櫓の上からは、その名の通り富士山をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾(品川沖など=現在の東京港)が見え、さらには将軍は両国の花火などをこの富士見櫓から眺望したと言われています。富士見櫓が建つ場所は、天守台(標高30メートルほど)についで高い場所(標高23メートルほど)に位置し、眺望的には江戸城のなかでも一等地で、徳川家康の江戸城築城以前、太田道潅の築城した望楼式の「静勝軒」があったのは、この富士見櫓の場所ではないかと推定されています。
「わが庵は 松原つづき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」

という歌を太田道灌が残しているからです。まさにその歌にぴったりのところです。


富士見櫓の石垣は主に伊豆半島から運ばれてきた安山岩を野面積み(のづらづみ=自然石をそのまま積み上げた石垣)の手法で積み上げたもので、シンプルながら関東大震災でも崩れなかった堅牢さを誇り、城造りの名手と謳われた加藤清正による普請と推測されています。石垣上には、石落し仕掛けが設けられています。その南側の櫓の屋根が描く曲線はとても優美で、見られることを強く意識したデザインになっています。石垣の高さは14.5メートル、櫓の高さは15.5メートル。櫓は大正12(1923)の関東大震災で損壊しましたが、大正14(1925)に主要部材に旧材を用いて補修されています。

江戸時代中期以降、お茶壺道中(幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運んだ行事)で運ばれてきた宇治茶はこの富士見櫓に収められました。また、幕末の慶応4(1868)、幕府軍(上野彰義隊)との戦いで新政府軍の指揮官・大村益次郎は、この富士見櫓から上野寛永寺の堂塔が炎上するのを見て勝利を確信したといわれています。

明治4(1872)、明治新政府は本初子午線の基準を京の改暦から東京の富士見櫓に移し(その後、明治19年に国際基準のグリニッジ子午線を採用)、明治5(1873)、工部省測量司が開始した三角測量の三角点を東京府内13ヶ所の最初にこの富士見櫓に設置しました。

立派なクロマツ(黒松)とケヤキ()の並木の中を本丸御殿跡に戻ります。


センリョウの木が赤い実を付けています。


ここが『忠臣蔵』の冒頭で播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が幕府高家の吉良上野介義央に対して差していた脇差で切りかかるという刃傷事件を起こしたことで有名な「松の大廊下(松の廊下)」があった場所です。元禄14(1701)のことです。


「松の大廊下」は江戸城本丸御殿内にあった大廊下の1つで、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50メートル、幅4メートルほどの畳敷の廊下でした。江戸城中で2番目に長い廊下で、廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから、この名前がつけられたといわれています。「松ノ御廊下(まつのおんろうか)」とも呼ばれます。

うっかりして写真を撮るのを忘れていましたが、松の大廊下跡近くに、少し高台になっている場所があります。その上に建てられているのが「富士見多聞」と呼ばれる多聞櫓です。多聞(多門とも)とは長屋状の建物構造をした櫓のことで、かつて江戸城本丸には15棟の多聞櫓がありましたが、富士見多聞はその中の唯一の現存遺構です。この反対側には蓮池濠があり、こちらからは分かりませんが、水面から富士見多門までの石垣は、高さが約20メートルにもなる長大な石垣となっています。富士見多聞の中には鉄砲や弓矢が納められていました。戦時においては、ここから蓮池濠側の敵を狙い撃てるようになっていました。

またここには「御休息所前多聞」と刻まれた石標もあるのだそうです。御休憩所とは「本丸中奥にある将軍の私的な居間のことで、中奥は将軍が政務を執ったり、日常生活をする場」と説明されています。本丸御殿中奥の御休憩所の前にあった多聞櫓ということなのでしょうね。なお、このあたりの石垣が周囲よりも一段高くなっているのは、徳川家康が築いた慶長天守閣が築かれていた頃に天守曲輪があったからだそうです。


これも皇室の茶畑です。あくまでも観賞用で、この葉を摘んで煎じてお茶にすることはないのだそうです。


明治時代の本丸御殿跡はかなりの部分が焼け跡のまま残っていたのですが、明治4(1872)、正確な時間を知らせるために、この本丸御殿跡に午砲台(通称:ドン)が設置され、昭和4(1929)に廃止されるまで、50年以上も「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。週休2日制が一般的になる以前、半日勤務の土曜日のことを「半ドン」と言っていたのは、この午砲台の大砲が正午の号砲を鳴らすと勤務終了だったことにちなむものです。


これは立派な枝ぶりの桜(ソメイヨシノ)並木です。桜の開花シーズンには見事な光景になるとこの枝ぶりを見るだけで想像できます。


「石室 」があります。この石室は、江戸城の抜け穴とか、金蔵という説もあるそうですが、実際は火災や地震などの非常時に備えて大奥の調度品や文書類など、貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられています。また、この石室には富士山の氷が切り出されて保存されていました。江戸時代、将軍や御台所は「カキ氷」こそなかったものの、「カチ割り氷」で真夏の暑い時期も涼を取っていたそうです。

今は一面の芝生の広場になっていますが、このあたりが「本丸中奥(なかおく)」と呼ばれていたエリアでした。「中奥」は将軍の官邸、すなわち、現在の首相官邸的な場所で、将軍の住居で、ここで歴代の将軍が書類に目を通すなどしていました。本丸中奥は主に次のような建物から成っていました。

19.地震之間(じなえのま)=ここだけは堅牢な耐震建築が施された建物で、地震発生時等、いざという時の将軍の避難場所でした。
20.御休息=将軍の寝室です。
21.湯殿=将軍の風呂です。
22.井呂裏之間(いろりのま)=将軍が従者と憩う場所でした。応接間ってことですね。
23.御座之間=将軍の日常生活の部屋、すなわちリビングルームのようなところでした。
24.奥能舞台=将軍が上覧する能の舞台があったところです。
25.側用人の部屋=将軍の身のまわりの世話をする側用人の控え部屋です。
26.奥坊主部屋=将軍に茶をいれたり、大名の接待役の坊主の控え部屋です。


皇室の竹林です。珍しい種類の竹が植えられています。


これはキッコウダケ(亀甲竹)です。名前の通り、節が亀の甲羅のような模様になっています。


こちらはキンメイモウソウチク(金明孟宗竹)です。中国の江南地方から渡来した「モウソウチク(孟宗竹)の突然変異種です。桿は黄金色で、鮮やかな緑色と黄色の縦縞が交互に節を彩ります。昭和45年頃に自生しているのが確認され、その後雑木の伐採などの環境整備を行った結果、昭和52年頃には約700本にまで増え、現在でもその数を増やしているのだそうです。現在、キンメイモウソウが確認されているのは福岡県、高知県、宮崎県など西日本の数ヶ所で、このうち宮崎県北川町の祝子(ほうり)川竹林や、福岡県久留米市の高良(こうら)竹林のキンメイモウソウチク(金明孟宗竹)が国の天然記念物に指定されています。近年、京都府京田辺市の佐牙(さぎ)神社近くの竹藪でも、自生しているのが見つかったそうです。大変に珍しい竹です。初めて見ました。


タチバナ()です。日本に古くから野生していた日本固有の柑橘(カンキツ)類で、実より花や常緑の葉が注目され、マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれたと言われています。皇室をはじめ、日本文化と深く関係した樹木で、その実や葉、花は井伊家や黒田家の家紋のデザインや各種文様に数多く用いられ、近代では文化勲章のデザインに採用されてもいます。一年に一度の女児のための祭事、「雛祭り」。女の子の健やかな成長を願って飾る雛人形を飾る際に欠かせないのが「桜」と「橘」の木花です。お内裏様とお雛様の2体の雛人形に向かって右側に桜を、東側に橘を飾ることが一般的とされ、「左近の桜」「右近の橘」と称されることでも知られています。


……(その11)に続きます。