2018年10月27日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その6)

半蔵濠は江戸時代には千鳥ヶ淵と繋がっていたということを書きましたが、なぜここが“淵”ではなく“濠”と呼ばれているのかですが、この半蔵濠の部分を眺めてみると、その直線的な形や両岸の地形から類推するに、明らかに人の手によって掘り込んだ人工の濠だということが窺えます。なので“濠”なのでしょう。


半蔵濠を挟んだ反対側の岸には土塁の上に石垣が築かれています。土塁は地面を掘って、その土を台形状に盛り、つき固めて造った塁壁のことです。土塁は古くは土居(どい)と呼ばれ、塁は小さな砦を意味していました。戦国時代の城の多くは土塁によって囲まれていました。やがて戦国末期から江戸時代の城には土塁を石で覆った石垣が多用されるようになります。土塁の補強と石垣を節約するために、土塁と石垣を併用した例は多く見られ、江戸城においても随所に見られます。土塁の上部に築いた石垣を「鉢巻石垣」、下部に築いた石垣を「腰巻石垣」と言うそうで、これは鉢巻石垣です。

この半蔵濠の対岸、土塁の向こう側が皇居吹上御苑、旧江戸城西の丸です。


半蔵門が見えてきました。現在、半蔵門と言えば「エイティー・ポイント・ラヴ (周波数80.0MHz)」、エフエム東京(Tokyo FM)です。そしてエフエム東京と言えば『JET STREAM(ジェット・ストリーム)です。広島の大学を卒業して東京に出てきた昭和53(1978)、ラジオから流れてきたオープニング曲『ミスター・ロンリー』(フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラ)をバックに「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、たゆみない 宇宙の営みを告げています…」で始まる城達也さんのオープニングナレーションに大きな衝撃を受けました。勤務を終えて帰宅した後、寝る前にくつろいで聴けるお洒落なイージーリスニングの楽曲の数々に、「あぁ〜東京に出てきたんだなぁ〜」って思ったものです。エンディング曲『夢幻飛行』をバックにして流れる「夜間飛行の、ジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ、次第に星のまたたきと区別がつかなくなります…」というエンディングナレーションも大好きでした。この城達也さんのナレーション、今でも覚えています。

広島での大学時代は東京が憧れの地のようなところがありましたが、東京に出てきてこの『JET STREAM』を聴き、海外への憧れを持つようになりました。今でも時々YouTubeで懐かしい城達也さんバージョンの『JET STREAM』を聴き、当時の思いを蘇らせたりしています。

現在、エフエム東京の1階にはランナーをターゲットにした番組『JOGLIS』とタイアップとした「半蔵門ランナーズサテライト"JOGLIS"」が設けられ、皇居の周りを走るランナー達の1つの拠点となっています。


半蔵御門です。半蔵御門は、江戸城(皇居)にある城門の1つで、西端に位置する門です。大手門とは正反対の位置にあります。この門を出ると、まっすぐ甲州街道(国道20号:通称・新宿通り)に通じています。この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇陛下のお住まい)、宮中三殿、天皇がお田植えをする水田などがあり、天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの半蔵門が用いられています (他の皇族は乾門を使用することが多いのだそうです)。そのため警護は厳重で、一般人の通行は認められておりません。太平洋戦争時の空襲で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものなのだそうです。





半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来 服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するという説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するという説があります。定説は前者であり、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200)がこの門外に組屋敷を構えていました。また、甲州街道はここからほぼまっすぐ西に延びているのですが、街道沿いの麹町一帯には旗本屋敷が建ち並び、完全な警備体制が敷かれていました。これは一説によると、幕府初期の仮想敵国は仙台藩伊達家であり、北東から攻め込まれた場合、将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させるためと言われています。この時、半蔵御門を脱出経路と考えており、その退路を半蔵門、麹町周辺に屋敷を構えている旗本達が塞ぐという計略であったというわけです。その意味で、半蔵御門は江戸城の搦手門にあたると言えます。


内堀通りをさらに先に進みます。半蔵御門は土橋があり、ここまでの内濠は半蔵濠(千鳥ヶ淵)でしたが、ここからは桜田濠に変わります。だけに人工で掘られた池です。千鳥ヶ淵と桜田濠で水面の水位が大きく異なることがよく分かります。両者の水面の水位の差は1520メートルはあろうかと思われます。半蔵門交差点の海抜はおよそ30メートルで、桜田門交差点の海抜およそ8メートル。半蔵濠(千鳥ヶ淵)と桜田濠の間にこれほどまでの水位の差が出るのも分かります。なるほどぉ〜。

内濠に沿った歩道を多くのランナーが走っています。内堀通りは濠側の歩道を走ると一度も信号待ちをすることなく皇居の周りを1周することができます。その皇居1周の距離は約5km。ランニングコースとして約5kmも取れて、さらに途中に信号がまったくないコースとなると、日本全国探してもなかなかありません。これが大きな魅力の1つで、今や市民ランナーの聖地のようになっています。


実は今でこそその片鱗のカケラも感じられないでしょうが、私は若い頃中長距離走が得意で、数年間、職場の代表として会社(電電公社)の社内駅伝大会を走っていました。そのコースがこの皇居の周回コースでした。なので、ここは練習も含め何度も走ったことがあります。実はこの皇居の周りの周回コース、意外とアップダウンのあるコースなんです。特に半蔵門から桜田門までのこの区間。緩く長い下り坂が続き、前方の見通しがいいので、前を走っているランナーの姿がしっかり確認できることから、まさに勝負どころでした。二重橋付近に中継ポイントがあったので、ちょうどこのあたりは半分を過ぎたところでしたし。考えていることは他のランナーの皆さんも同じだったようで、この区間は下り坂に任せて一気にスプリント競争を仕掛ける絶好のポイントでした。

私は下り坂の区間は前のランナーとの差を詰めることだけを考えて我慢。桜田門が近くなって平坦な区間になってから一気に勝負を仕掛ける作戦でした。後半ですので疲れも出てきて、仕掛けることができるのは1回だけ。早めに仕掛けてもその後抜き返されたら、そこでジ・エンドですからね。ちなみに、下り坂だし見通しがいいので近くにあるようにも見えるのですが、半蔵門から桜田門までは約1.2kmもあります。意外と長く、早めに仕掛けたら途中で息切れしちゃいますから。この区間でいったい何人を追い抜き、何人に追い抜かれたことか。追い抜きの収支は、う〜〜ん、トントンって言いたいところですが、ちょっと負け越していたように記憶しています()

ちなみに、この内堀通りの濠側の歩道は、安全確保のため、ランナーは反時計回りの一方向で走る決まりになっているようです。


国立劇場です。この日も歌舞伎の公演があるようです。役者をやっている知人が時々この国立劇場の舞台にも歌舞伎の役者として立っているそうなので、いつか観に行きたいと思っています。


国立劇場の隣奥に見えるのが最高裁判所の建物です。


「特別史跡 江戸城跡」という石碑が立っています。意外なことなのですが、「特別史跡 江戸城跡」という“石碑”は唯一この場所にあるこの石碑だけなのだそうです。


……(その7)に続きます。

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