2018年10月24日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その3)


清水御門を潜り雁木坂を登ると北の丸公園があります。前述のように、江戸時代中期以降、江戸城の北の丸は御三卿のうち田安家(田安徳川家)と清水家(清水徳川家)の屋敷と蔵地に利用されました。享保15(1730)、第8代将軍徳川吉宗の次男宗武が北の丸の西一帯に屋敷地を拝領して御三卿の田安家を興し、さらに、宝暦9(1759)、第9代将軍徳川家重の次男重好が北の丸の東一帯に屋敷地を拝領して御三卿の清水家を興しました。(御三卿のもう1つ一橋家は元文2(1737)に第8代将軍徳川吉宗の四男宗尹が一橋御門内に屋敷地を拝領して興したものです。)

明治維新後、第二次世界大戦前までは、この江戸城北の丸は近衛歩兵連隊の駐屯地となっていました。


北の丸公園は第二次世界大戦後に多くの建物を取り壊し、新たに造営された芝生地や池、ヤマモミジ、ケヤキ、コナラ、クヌギ等のいわゆる里山の木々や、野鳥が好む実のなる木々、花木等が数多く植えられた落葉樹林や常緑樹林が造成され、皇居と一体となった森林公園となっています。東京都心のど真ん中にこのような閑静で自然豊かな空間があることに驚かされます。


ここに第二次世界大戦後の混乱期に内閣総理大臣を務められた吉田茂氏の銅像が建っています。何故、北の丸公園のこの場所に吉田茂氏の銅像なのかはよく分かりませんが、非常にリアルでよくできた銅像です。


おやおやぁ〜、ここに気象庁のアメダス観測点があります。気象庁のアメダスの「東京」の観測点は長く千代田区大手町の気象庁本庁舎内にあったのですが、平成26(2014)12月から直線距離で約900メートル離れたこの北の丸公園内に移転されました。なので、お天気予報などで登場する「東京」とは、ここのことです。コンクリート製の建物やアスファルトの道路に囲まれた東京において、ここ北の丸公園は自然豊かな別世界のようなところです。気温など明らかに2℃ほど低く観測されるのではないでしょうか。天気予報などを観る時には、この観測点「東京」の特性をよく知っておく必要がありますね。


また、北の丸公園内には日本武道館や科学技術館、国立近代美術館等の文化施設もあります。


そのうちの日本武道館では、この日、弥生慰霊祭が開催されていました。弥生慰霊祭は警視庁及び東京消防庁の殉職者の慰霊を行うための祭典で、毎年、近代日本の警察制度の基礎を築いた川路利良の命日である1013日の前後に行われているものです。どうりで、北の丸公園周辺には制服姿の警察官の姿が多く見受けられたわけです。



実は、警視庁と東京消防庁の殉職者を祀る弥生慰霊堂がこの日本武道館の裏手、と言うか田安御門の隣にあります。

このあたりに徳川家御三卿の1つ、田安徳川家の屋敷がありました。天明7(1787)から寛政5(1793)まで江戸幕府の老中首座・将軍輔佐として「寛政の改革」を主導して行ったことで有名な陸奥国白河藩第3代藩主・松平定信は田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男としてこの江戸城北の丸で生まれました。

また、このあたりには代官屋敷や大奥に仕えた女性達の隠遁所がありました。千姫や春日局、徳川家康の側室で水戸頼房の准母であった英勝院の屋敷などもこのあたりにありました。


ちなみに、田安家、清水家、一橋家という徳川御三卿の石高はそれぞれ10万石でした。10万石というと「なぁ〜んだ」って思われる方もいらっしゃるかと思いますが、この10万石は領地なしの10万石でした。すなわち、領民の統治や年貢の取り立てなどの面倒なことがいっさいない10万石です。何をしなくても御三卿の家には徳川幕府から毎年10万石に相当するお金が支払われていました。いかに御三卿が厚遇されていたのかが分かります。


田安(たやす)御門です。田安御門は、北の丸公園内、江戸城内に造られた城郭門で、寛永6(1629)に越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主・松平伊予守忠昌が築により築かれました。北面する高麗門と西側に直交する渡櫓門からなる桝形門の構造を取っています。高麗門の扉の釣金具には寛永13(1636)の年数とともに職人の銘として清水御門と同じ「九州豊後住人 御石火矢大工(大砲鋳造者) 渡辺石見守康直」の文字が刻まれていて、この寛永13(1636)に大修復工事のあったことが推察できます。



田安御門のあたりは、「田安口」あるいは「飯田口」と呼ばれ、上州方面へ通じる道がここから延びていました。現在の門内のあたり一帯は、当初、田安台といわれていた百姓用地で、そこに田安大明神(現・築土神社)があったことから田安御門と名付けられました。

この築土(つくど)神社の創建時の祭神はあの平将門。その平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、北の丸公園にある日本武道館の氏神でもあり、また先ほどの弥生慰霊祭が行われる弥生慰霊堂(弥生神社)がこの江戸城北の丸にあるのも、かつてこの地に築土神社があったからだとされています。


この田安御門も宮内庁所管以外のものであり(所有は文部科学省)、高麗門と櫓門には三つ葉葵の紋章が刻まれています。


この田安御門は江戸城創建当時に遡ることができる現存する唯一の枡形城門であり、高い価値と風格を有しています。警備には、鉄砲10挺、弓5張、長柄10、持筒2、持弓1で、1万石級の譜代大名が勤務し、羽織袴の番士4名が交替で24時間365日常駐していました。


この田安御門も昭和36(1961)に「旧江戸城田安門」として国の重要文化財(建造物)に指定されています。


田安御門に向かう田安御門橋です。この田安御門橋も堰き止めダムの役目を果たす土橋で、向かって右側が清水御門から続く牛ヶ淵、左側が半蔵御門まで続く千鳥ヶ淵です。この牛ヶ淵と千鳥ヶ淵も水位に大きな違いがあるのが分かります。千鳥ヶ淵は牛ヶ淵よりも10メートル以上も水面の水位が高く、牛ヶ淵側には「落とし」と呼ばれる水位調整用の取水口の出口が見え、その「落とし」からは滝のように水が流れ落ちています。ちなみに、この土橋、元々は平坦な橋だったのですが、明治時代の後期に門前の九段坂を掘り下げたため、田安御門を出た土橋が平坦から下り坂に変わったのだそうです。



……(その4)に続きます。

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