2018年10月2日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その8)


JR東京駅の八重洲北口を出て、ほんの少し東方向に歩きます。


呉服橋交差点です。現在、呉服橋は外堀通りと永代通りが交差する交差点の名称になっていますが、江戸時代、ここには江戸城の外濠に面して呉服橋御門があり、後藤橋とも呼ばれる外濠を渡る橋が架かっていました。門の外側には幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤橋の名称はこの呉服商の後藤縫殿助に由来します。また、呉服橋とも呼ばれました。この周辺は第二次世界大戦前までは地名も呉服橋13丁目と呼ばれていましたが、戦後外濠は埋められてしまい、橋と同様に地名も消失してしまいました。


この呉服橋交差点のあたりが呉服橋御門の跡です。この呉服橋御門も寛永6(1629)に東北地方の諸侯によって築かれました。ここから見える東京メトロの大手町駅の入り口あたりに御門がありました。御門の左手に先ほど訪れた北町奉行所がありました。


一石橋(いちこくばし)です。この一石橋は皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋され、江戸時代を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋の1つでした。北橋詰の本両替町には幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町には幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤家の援助により再建されました。そのため、後藤の読みから「五斗(ごと)」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から「一石橋」と名付けられたと伝わっています。


現在の橋は平成12(2000)に架け替えられたものですが、その前の橋は大正11(1922)に架けられた橋で、鉄筋コンクリートRC花崗岩張りの見事なアーチ橋でした(それまでは木橋でした)。橋長43m、幅員27mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電(路面電車)を通す構造で、完成の翌年の大正129月に発生した関東大震災にも耐え抜きました。この橋は関東大震災以前のRCアーチ橋としては都内最古のもので、貴重な近代文化遺産であることが認められ、平成14(2002)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されています。




この一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」なる碑が建っています。江戸時代~明治時代にかけてこの付近はかなりの繁華街で、迷い子が多く出たのだそうです。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4(1857)にこの「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられました。しるべの右側には「志()らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られていて、上部に窪みがあります。使用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたと伝わっています。この「満よひ子の志るべ」はここのほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたそうなのですが、現存するものはこの一石橋のものだけだそうです。この一石橋の「満よひ子の志るべ」は昭和17年に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年に種別変更されて東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。


この一石橋のところでやっと外濠が姿を見せます。外濠の上を通っているのはもちろん首都高速道路です。一石橋を渡ります。


ここを流れる川は日本橋川です。日本橋川は、東京都千代田区および中央区を流れる一級河川で、下流には「日本国道路元標」がある日本橋が架かっています。東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し南東へ流れ、中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。15世紀から17世紀にかけて数次の水利工事が行われた結果、現在の流路が形成されました。外濠の一部を形成し、現在はほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れています。

JR水道橋駅西口近くで神田川から真南に分岐し、直後に首都高速5号池袋線の高架下に入ります。靖国通りと交差後、南東方向に流れを変え、雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に約30メートルの距離まで接近します。直後に首都高速都心環状線の高架下となります。川面が開けるのは、日本橋を通過後、亀島川が分岐してから河口に至る僅か500メートル弱でしかありません。

関東移封後、徳川家康は江戸城普請の一環として日比谷入江に直接流れ込んでいた平川を道三堀・外濠に繋ぎ替えました。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられた結果、残った流路が現在の日本橋川となりました。なお、江戸幕府開幕に伴う天下普請による神田川開削で日本橋川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ外堀から切り離されていた時期もあるのですが、明治36(1903)に再びこの区間が開削され現在に至っています。

日本橋川流域は水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。周辺には河岸(かし)が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わいました。現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っています。

向こうに見えている美しい石造りの二連アーチ橋が常盤橋です。


この歴史ある石積みレンガ(煉瓦)造りの重厚な建物が日本銀行本店の本館です。完工したのは明治29(1896)2月。設計者は、他に東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた当時日本の建築学界の第一人者であった辰野金吾博士。ネオ・バロック様式にルネッサンス的意匠を加味した建築で、秩序と威厳が表現されています。外観はベルギーの中央銀行を模範に設計したと言われています。当初は総石造りとする予定でしたが、明治24(1891)に発生した濃尾大地震の被害状況から、地震が多い日本では欧米のような総石造りは無理であると判断。積み上げたレンガの外側に、外装材として石を積み上げるという方法に変更し、建物の軽量化を図りました。石の種類は、地階と1階は厚い花崗岩、2階と 3階が薄い安山岩です。これにより大正12(1923)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしませんでしたが、近隣の火災が日本銀行にもおよび、シンボルである丸屋根は、焼けてしまいました。現在のものはその後復元したものです。この日本銀行本店本館の建物は昭和49(1974)に、国の重要文化財に指定されました。


常盤橋を渡ります。常磐橋は、天正18(1590)の架橋と伝えられ、東京では最も古い橋の1つです。第3代将軍徳川家光の時代までは「大橋」とも、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれました。寛永6(1629)、常盤橋の前に常盤橋御門(見附)が設置され、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられています。「常盤橋」の名称の由来については諸説あり、明確ではありません。常盤橋御門は、江戸五口のひとつ奥州道の出口で、浅草に通じていることから浅草口、あるいは追手口、あるいは大橋ともいわれ、江戸時代を通して江戸城の正門である大手門へ向かう外郭正門でした。中世には江戸と浅草を結ぶ街道(奥州街道)の要衝でもありました。江戸の交通の中心は日本橋でしたが、常盤橋から浅草方面へ繋がる江戸通りの途中には「伝馬町」「馬喰町」など運送業者に由来する名称の町が続き、大いに栄えていたことが窺えます。


江戸時代には、この常盤橋御門には木橋が架けられていたのですが、明治10(1877)に石橋に改架されました。都内で現存する最も古い石橋です。この石橋は、一部に小石川御門の枡形石垣を転用して造られた石造りのアーチ橋でした。その特徴は、大理石による八角形の親柱や唐草の意匠が施された鋳鉄の手摺柵など、同時期に築造された他の石橋にはみられない近代的石造橋の先駆けとなりました。伝統的な石造技術を基盤としつつ、西洋近代的な意匠を取り入れた最初の折衷様式の石橋でした。


しかし、手狭であったことから関東大震災後に下流に現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになりました (般の字の下が皿から石に変わりました。これは皿は壊れやすいが、石だと壊れにくいという願いが込められてのことだそうです)。平成19(2007)に常磐橋(旧橋)は常盤橋とともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。


常磐橋(旧橋)は経年劣化と東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により大きく変形し、落橋の危険が生じていたため、平成23(2011)より通行禁止となっていましたが、平成25(2013)より大規模な修復工事が行われています。この修復工事の工事期間は平成28112日~平成301228日となっていて、今年の年末には美しい石造りの2連アーチ橋を見ることができそうです。橋の向こう側には御門の石垣が現存しています。石垣の高さが高く、常盤橋御門の立派さが窺えます。橋詰に北町奉行所があったこともありました。



常磐橋のたもとに明治時代の偉大な実業家・渋沢栄一の像が立っています。渋沢栄一は天保11(1840)213日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びました。「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。栄一は27歳の時、第15代将軍となった徳川慶喜の実弟で後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学したほか、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。


明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。明治6(1873)に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったと言われています。渋沢栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら昭和6(1931)1111日、91歳の生涯を閉じました。


……(その9)に続きます。

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