そしてここは人気TVドラマ『大岡越前』で知られる「南町奉行所」の跡です。徳川幕府の三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の1つ、江戸町奉行は南北両奉行に分かれており、今から300年近く遡った時代、名奉行と謳われた大岡越前守忠相が南町奉行所町奉行として職務を執っていたところです。
江戸時代における町奉行の役割は、町人地における警察、司法、行政、消防など多岐に渡り、南北2つの奉行所が月番(月替わり)で任務を行なっていました。現在で言うと、東京都庁と東京裁判所(地方、高等)と警視庁と東京消防庁の役割を1つの組織で果たしていたのが江戸町奉行所でした。管轄区域は外濠の外側にある江戸の町方のみで、江戸の面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及びませんでした。原則的に町奉行の定員は南北の奉行所それぞれ2名体制でしたが、元禄15年(1702年)〜享保4年(1719年)の間だけは1名増員されており、一時的に、鍛冶橋門内(東京駅八重洲南口付近)に中町奉行所が設置されていた時期もありました。町奉行の下に付く与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずつという極めて限られた人数の陣容でした。
奉行所の呼称はあくまでも設置されていた場所によるものであり、管轄区域を示すものではありません。したがって、上記のように限られた人員で当時世界最大の人口(約100万人)を誇る大都市江戸の町人地全体の行政、警察、司法、消防などを取り仕切っていました。さぞや大変な重労働だったように思えます。しかも南北の町奉行所は奉行の役宅も兼ねていて、町奉行は24時間勤務。なので、南北2つの奉行所が月番(月替わり)で任務を行なっていたわけです。TVドラマ『大岡越前』では、大岡越前守忠相が世情を知るために着流しの浪人姿で町の様子を見て回る姿が定番になっていますが、もしそういうことを実際にやっていたとしても、それは非番の月のことだったように思えます。
ちなみに、大岡越前守忠相は延宝5年(1677年)、1,700石の旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれました。貞享3年(1686年)、同族の1,920石の旗本・大岡忠真の養子となり、忠真の娘と婚約し、家督と遺領を継ぎました。第5代将軍・徳川綱吉の時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)には書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の1人を務めました。第6代将軍・徳川家宣の時代の正徳2年(1712年)に遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任。第7代将軍・徳川家継の時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮しました。そして、同年、徳川吉宗が第8代将軍に就任すると、その翌年の享保2年(1717年)、江戸町奉行(南町奉行)に就任しました。その後、元文元年(1736年)に寺社奉行となるまでの約20年間、江戸町奉行(南町奉行)を務めました (町奉行は旗本が就く役職としては最高のもので、目付から遠国奉行・勘定奉行等を経て司法・民政・財政などの経験を積んだ者が任命されました)。
この間、第8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わりました。町奉行として大岡越前守忠相が残した業績は、町人による町火消し(いろは四十七組)を編成し消火活動にあたったこと、困窮者救済策として小石川療養所の開設運営にあたり病気になった困窮者を入院させ薬を与えたりしたこと、庶民の要求・不満などの投書を受け取るために評定所の門前に箱を設置したこと、江戸で流通する金貨と上方で流通する銀貨の相場の安定を両替商に指導したこと……等々、実に多岐に渡ります。また、町奉行として江戸の都市政策に携わることに加えて評定所一座にも加わり、司法にも携わりました。この頃、奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され南北両町奉行所の支配領域が拡大し、大岡越前守忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていました。
江戸町奉行時代の裁判の見事さや、上記のような江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、大岡越前守忠相は庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で様々な架空のエピソードが人々の間に広がりました。「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などがその代表で、これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言われています。
ですが、史学的検証によると、数ある物語のうち大岡越前守忠相が約20年間の南町奉行時代に実際にお裁きを下したのは難事件とされた享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」をはじめ3件のみで、そのほかの事件は裁判が主任務であった吟味与力が裁いていたそうです。大変な激務だったわけですから、仕方ないですね。
南町奉行所を数寄屋橋御門内のこの場所に移したのは富士山の宝永大噴火のあった宝永4年(1707年)のことです。南町奉行所は2,700坪という広大な広さの土地で、数寄屋橋御門のあった現在の有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)のところからJR有楽町駅の東口にかけての一帯が南町奉行所でした。この歴史を証明する遺跡が確認されたのが平成16年(2004年)。現在「有楽町マルイ」や「有楽町イトシア」などのビルが建ち並ぶ有楽町駅前エリアの再開発事業計画のため、千代田区教育委員会が執り行った遺跡確認の試掘調査で、南町奉行所などの遺跡を確認。翌年から本格発掘調査へと移行した結果、宝永4年(1707年)から同地にあった南町奉行所跡のみならず、江戸時代初期の大名屋敷跡といった貴重な数々が発見されました。南町奉行所の遺跡として発見されたのは、屋敷の表門から裁判執行のための役所部分。井戸、土蔵の跡や石組の溝などだけでなく、「大岡越前守様御屋敷」と記された札など、歴史を紐解く資料が多数発掘されました。
この南町奉行所に関する発掘成果は、誰もが気軽に触れられる珍しい展示方法を取っているのが特徴です。まず、有楽町駅前広場の一角にあるのが、発掘により出土した石組。オブジェのような重厚感ある石組ですが、実はそれこそ南町奉行所で使用されていた本物の石垣です。
地下広場へと降りると、「有楽町イトシア」B1Fエントランスの左手に壁に埋め込まれるような形で置かれている大きな木枠があります。これは、南町奉行所の地下にあった穴蔵の跡です。大火災に見舞われることが多かった江戸時代の人々の知恵で、焼失を避けたい貴重品などの収納場所として地下に穴蔵を造る文化があり、南町奉行所に当時存在していた貴重な穴蔵がここに残っています。
穴蔵から両サイドに伸びるように置かれた横長の木製ベンチは、なんと江戸時代の水道管(木樋)の実物です。
また、地上からエスカレーターを降りて、すぐ左手にある柱をぐるりと取り囲むように置かれた石造りのベンチも、南町奉行所の跡地から発掘された石組(石垣)の石です。きっと「そうとは知らずに休憩などで使用していた!」という人が多いのではないでしょうか。それらはあの“大岡越前”も触ったかもしれない江戸時代の貴重な遺跡です。
ところで「大岡越前」と言えば、1970年から1999年にかけてと2006年にTBS系列の「ナショナル劇場」で月曜日の20時台に放送されていた時代劇TVドラマ『大岡越前』で主人公の大岡越前守忠相を演じた俳優の加藤剛さんですね
。30年以上も大岡越前守忠相を演じられてきただけに、私もそうですが、大岡越前守忠相と言えば加藤剛さんのイメージでいる方って多いのではないでしょうか。2013年からはNHK BSプレミアムにて「スペシャル時代劇 」として『大岡越前』のリメイク版が放映されていますが、こちらで大岡越前守忠相を演じているのは俳優の東山紀之さん。タイトルの題字・主題歌・音楽はTBS時代と同じものが使用され、放送される内容もTBSで過去に放送したものを参考にしているようですが、やはり大岡越前守忠相は加藤剛さんのイメージが強すぎて、どうしてもまだ違和感を感じてしまいます。でもまぁ、東山紀之さんも素晴らしい俳優さんなので、回を重ねるごとに大岡越前守忠相らしくなっていくことでしょう。期待しています。
加藤剛さんは今年(2018年)6月18日、胆嚢癌のためお亡くなりになりました。享年80歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます。
……(その5)に続きます。
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