2018年9月27日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その3)

ここから数寄屋通りに入ります。


数寄屋橋交差点の手前にある数寄屋橋公園の一角に奇抜なモニュメントが立っています。大阪万博のシンボルタワー「太陽の塔」に似ていると思ったら、やはり「芸術は爆発だぁ!」でお馴染みの前衛芸術家・岡本太郎さん作の『若い時計台』という作品だそうです。岡本太郎さんは「岡本太郎以降、世界に名だたる芸術家は(日本からは)出ていない」と言われるほど著名な芸術家と言われていますが、私はその方面の造詣は持ち合わせていないので、申し訳ないことに、ただの奇抜なモニュメントという以外、その凄さはよく分かりません。



外堀通りと晴海通りが交差する数寄屋橋の交差点です。江戸時代、ここに外濠に架けられた数寄屋橋(すきやばし)と数寄屋橋御門(見附)がありました。数寄屋橋御門は当初「芝口御門」と呼ばれていましたが、新橋に芝口御門を築くにあたり、数寄屋橋御門と改称しました。最初の数寄屋橋は、寛永6(1629)、陸奥国仙台藩初代藩主伊達政宗によって木製の橋として石垣と枡形門とともに築かれました。関東大震災により焼失し、震災後の帝都復興事業によって昭和4(1929)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられました。その後、外濠の埋め立てに伴い橋は取り壊されて現存しないのですが、今も交差点の名称と周辺の地名にその名残りを残しています。


今回の企画も大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんによるものです。その瓜生さんが掲げているのが昭和28年当時の数寄屋橋の風景写真です。現在の外堀通りと首都高速道路になっているところはまだ埋め立てられていなくて、外濠になっています。ちなみに、この写真に写っている石造りの二連アーチ橋の数寄屋橋は前述のように昭和4(1929)の建造。泰明小学校の建造も昭和4(1929)。朝日新聞本社は昭和3(1928)、当時日本屈指4,000名収容の大劇場「日劇」は昭和8(1933)の建造。これらは数寄屋橋御門の跡地に建てられたもので、第二次世界大戦の東京大空襲でも焼け落ちなかったのですが、戦後、朝日新聞の本社は築地に移転し、日劇はなくなり映画館のみとなり、現在は昭和59(1984)に竣工した複合商業施設「有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)」に生まれ変わっています。


数寄屋橋の碑が立っています。その碑に刻まれた説明文によると、

「寛永6(西暦1629)、江戸城外廊見附として数寄屋橋が架けられた時は木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったことに依るという。見附の城門枡形は維新の際に撤去され、ついで大正大震災後の復興計画により完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼(あく)することとなった。」

と書かれています。この中で、数寄屋橋の名称となっている「数寄屋」とは日本の建築様式の1つである数寄屋造りのこと。語源の「数寄」とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味します。こういうことから、数奇屋大工が造る木造軸組工法の家屋のことを数寄屋と言い、その数寄屋造りを造る数寄屋大工が集団でまとまって住んでいた地区がこのあたりの外濠の外側ってことなのでしょう。外濠の内側は大名屋敷が建ち並ぶ武家の町、外濠の外側は町人の町でしたから。その数寄屋大工をとりまとめる幕府の数寄屋役人の公宅もこのあたりにあったということなのでしょう。


『放浪記』や『君の名は』で知られる劇作家の菊田一夫先生の石碑が建っています。石碑には「数寄屋橋 此処に ありき」という文字が刻まれています。菊田一夫先生の書かれた名作ラジオドラマ『君の名は』。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」の冒頭ナレーションが流れ放送が始まるとたちまち女湯はガラガラになると言われ、主人公の1人真知子が巻いていた「まちこ巻」が一躍、流行のファッションとなりました。その主人公の真知子と春樹が再会を約束した場所がこの数寄屋橋でした。


その左手、南西方向に外濠は続いていました。

晴海通りの数寄屋橋方向を眺めたところです。左右に走っている高架が首都高速道路で、元外濠があったところです。現在、首都高速道路が通っているところの約85%は外濠だったところです。


東京はどこも激しく変貌してきました。数寄屋橋界隈はその最たるものの1箇所かもしれません。昔の面影は微塵も残っていませんが、晴海通りの立体交差道路の壁に昔の数寄屋橋の写真が嵌めこんであります。私もうっかりして写真を撮るのを怠ってしまいましたが、毎日、何十万人と行き交う通行人の中で、この写真に気付いて、立ち止まって見る人は何人いるのでしょうか? それを見ると、かつての数寄屋橋は幅約30メートル、長さ約40メートルの立派な橋でした。


有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)です。前述のようにかつてここに数寄屋橋御門がありました。

この数寄屋橋を渡った外濠の内側あたりが有楽町です。この有楽町は織田信長の実弟・織田有楽斎こと織田長益の屋敷があった場所とされ、有楽町の名前も有楽斎から来ています。有楽町マリオン前に、ちょっとした解説版が設置されています。場所が場所だけに開発されつくされ遺構は望むことが難しい場所で、往時を偲ぶものは何も残っていません。

この織田有楽斎。実兄の信長が本能寺で斃れた後は、豊臣家に所属したり、その後関ヶ原では東軍に所属し徳川家に所属したりなど75年の天寿を全うした戦国時代の武将ですが、最期を迎えたのは京都の東山であるとも伝わり、この江戸には暮らしたという記録は残されていないのだそうです。また江戸時代の初期は銀座界隈はまだ海だったとのことで、本当に織田有楽斎の江戸屋敷がここにあったのかどうかは実は不明なのだそうです。


「あなたを待てば 雨が降る♬」で始まるフランク永井さんの大ヒット曲『有楽町で逢いましょう』の歌碑が建っています。佐伯孝夫さん作詞、吉田正さん作曲で、昭和32(1957)7月に発表されたこの楽曲は、もともとは「有楽町そごう」のコマーシャルソングとして作られたものです。大阪資本の百貨店の「そごう」が東京進出の出店地として選んだのが有楽町。有楽町の更なる活性化と高級化キャンペーンの一環として製作された楽曲ということのようです。


有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)の東側に回り込みます。ここに「朝日新聞東京本社跡」を示す記念プレートが掲げられています。それによると……


「朝日新聞社は1879(明治12)大阪で創業9年後に東京に進出し本拠を現在の銀座6丁目に置いた。社勢の伸張に伴ってここ有楽町に東京本社を移したのは関東大震災の復興なお半ばの1927(昭和2)3月であった。
その建物は当時の最高傑作とうたわれ外濠に影を落とした景観は東京の新名所となった。以来半世紀戦争と敗戦をふくむ波乱の時代を通じて朝日新聞の言論・報道活動の中心であり続けた。今日世界有数の新聞となるに至った歴史はこの有楽町の地を抜きにしては語り得ない。
しかしながら社業の発展とともに社屋の挟隘と不便さは限度に達し1980(昭和55)9月をもって築地に移転した。
創業者村山龍平はじめ万余の社員・関係者の汗と感慨のにじむこの地に新時代を象徴する巨棟を建設したのを機に一文を掲げて末永く記念するものである。
  198410月 朝日新聞社」

なのだそうです。




……(その4)に続きます。

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