JR山手線の線路等を第三有楽町架道橋で潜り、山手線の内側、すなわち外濠の内側を進みます。
東京国際フォーラムです。東京国際フォーラムは、西新宿に移転する前の東京都庁舎跡地に建てられたものですが、江戸時代、ここには阿波国徳島藩蜂須賀家25万79百石と土佐国高知藩山内家24万2千石という四国の外様の大大名の上屋敷が置かれていました。
江戸時代には主に石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主のことを大名と呼んでいました。また、石高が十万石以上の大名を大大名、十万石未満
三万石以上の大名を中大名、それ以下の大名を小大名と呼んでいました。大名の数は260〜270家あったと言われ、加賀国・能登国・越中国のほとんどを領有した金沢藩の前田家の120万石余が最高で、その前田家のみならず、大大名と呼ばれる大名は薩摩国鹿児島藩72万8千石の島津家、陸奥国仙台藩62万石の伊達家、肥後国熊本藩54万石の細川家、筑前国福岡藩47万3千石の黒田家といった豊臣の時代から(戦国の時代から)続く名門大名か、尾張国名古屋藩61万95百石の尾張徳川家、紀伊国和歌山藩55万5千石の紀州徳川家といった徳川御三家、もしくは越前国福井藩32万石の松平家や近江国彦根藩23万石の井伊家などの徳川将軍家と密接な血縁関係のある大名、徳川家を支える重臣大名に限られていました。大大名の数は約50。1万〜3万石の小大名が大部分でした。この阿波国徳島藩蜂須賀家25万79百石と土佐国高知藩山内家24万2千石も蜂須賀小六と山内一豊を藩祖とし、戦国時代から続く豊臣恩顧の名門大名家でした。
ここに「江戸城の昔と今」と題された絵地図が展示されています。江戸の町歩きには必需品とも言える貴重な絵地図で、実は私も持っていて、このブログを書くにあたっても大いに参考にさせていただいているのですが、これまでは著作権の関係もあって、これまではそれをご紹介することは避けてきました。ですが風景写真ということなので、それも問題ないかな…ということで、ここでご紹介します。
その「江戸城の昔と今」と題された絵地図には、幕末期における江戸中心部の各大名の江戸藩邸(上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷等)の位置が住宅地図のように描かれています。それを見ると「松平」という文字がやたらと目立ちます。有力な外様大名のほとんど、前田家も島津家も伊達家も細川家もすべて「松平」と表記されています。これは江戸幕府、特に第11代将軍・徳川家斉の時代に進められたある政策によるものです。家斉は徳川御三卿の1つ一橋家の第2代当主徳川治済の長男なのですが、第11代将軍になった時、父・徳川治済の命により40名という大量の側室を持ち、100名を超える子供をもうけました。その100名を超える子供達を有力外様大名の養子に出したり、正室として嫁がせたりすることによって各大名と血縁関係を持ち、江戸幕府への忠誠心を高めようとしたわけです。こうして徳川将軍家と血縁関係を持った大名は表向きは松平を名乗るようになりました。それは嫁がせたお姫様が亡くなって以降も同じで、松平を名乗らせたわけです。なので、絵地図の上では「松平」だらけになっています。ちなみに、この絵地図では(前田)や(島津)といったように( )付きで元の苗字を表記しています。
東京国際フォーラムの1階に太田道灌の銅像が立っています。太田
道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将で、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰(家老)を務めた人物です。享徳の乱、長尾景春の乱で活躍し、最初に江戸城を築城したことでも有名です。
東京国際フォーラムのガラス棟1階の太田道灌銅像前に、太田道灌コーナーが開設されています。「太田道灌のプロフィール」「関東戦国史と太田道灌の足跡」「道灌の戦績とその後」と題する日英両語による解説版と「12体の太田道灌銅像写真」のパネル、また中央には「江戸城(寛永年期)天守閣」の模型も置かれています。
そのうちの「太田道灌のプロフィール」には次のように書かれています。
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太田道灌(1432年〜1486年)は室町時代中期の武将。30数回戦って負けなしという名将である。関東管領上杉氏の一族で、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰である太田資清(道真)の子として相模で生まれたとされるが、詳細については諸説があり定かではない。道灌は出家後の名前で、元は資長(すけなが)といった。鎌倉五山や足利学校(栃木県足利市)で学んだ後、品川湊近くに居館を構え(現在の御殿山あたり)、ここでの通商を押さえて力を蓄えた。政商の鈴木道胤との交わりなど経済面での才覚も示している。父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり、江戸城を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世を駆け抜けた悲劇の武将でもある。
太田道灌についての伝説は関東一円に様々あるが、もっとも有名なのが山吹伝説であろう。突然のにわか雨に遭って蓑を借りようと立ち寄った家で、出て来た娘は無言で一輪の八重山吹の花を差し出した。道灌はわけが分からず怒って出て行ったが、後で家臣に話をしたところ、それは「七重八重
花を咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という歌にかけて、貧しくて蓑(みの=実の)さえ持ち合わせず申し訳ありません、と言いたかったのだと教えられた。道灌は自らの教養の浅いことを恥じ、その後は歌を学び、歌人としても後世に名をとどめるという、多才な面をもった武将となった。
この言い伝えを残す場所は数多くあり、都内では豊島区高田の神田川面影橋近くや新宿区山吹町など、そして荒川区荒川7丁目の泊船軒にも山吹の塚がある。新宿区新宿6丁目の大聖院には紅皿というその少女の墓が残っている。また、埼玉県越生町には山吹の里歴史公園がある。
戦国の世にあって人心の風情を知る人柄や、下克上の世の中ゆえの非業の死から、太田道灌を偲ぶ人は多く、「道灌紀行」の著者尾崎孝氏によると、戦場の数が多いこともさることながら、道灌の銅像は関東一円、周辺も含めて12体もあり、人々の道灌に対する愛惜の思いを語っているということである。
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「道灌の戦績とその後」と題する解説版です。30数回戦って負けなしという太田道灌の輝かしい戦歴が記されています。強い!!
太田道灌が築城した当時の江戸城の全体想定図です。太田道灌が江戸城を築城したのは長禄元年(1457年)とされています。道灌が25歳の時です。当時の城ははっきり言って“砦”、すなわち軍事上の要塞で、城に天守閣を構築するということはありませんでした。天守閣は日本の戦国時代以降の城に建てられた象徴的な建造物ですが、軍事的目的というよりは城主の権威を誇示するための象徴としての建造物でした。見晴らしや防御力などの軍事的実用性を求めるのであれば、頑丈な物見櫓がその役を担っていました。城に天守閣が作られたのは織田信長が築いた岐阜城、そしてその後の安土城が最初だとされています。この初期の江戸城、さすがに30数回戦って負けなしという戦さ上手の太田道灌が築城した城だけのことはあります。二の丸と本丸の標高差が20メートル以上もあり、まさに鉄壁の砦って感じです。
余談ですが、太田道灌は扇谷上杉家の家宰であり、戦国時代、主君である扇谷上杉家の本拠は河越城(埼玉県川越市)に置かれていました。すなわち、この初期の江戸城は数ある河越城の出城(支城)の1つにすぎませんでした。現在、川越は小江戸と呼ばれ、主従関係で言えば“従”のようになっていますが、江戸時代になるまでは川越のほうが“主”でした。その証拠に、江戸城の鎮守である山王日枝神社は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城を築城するにあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるといわれています。その関係が逆転するのは徳川家康が関東に移封されてきて、江戸城を居城と定めて以降のことです。おそるべし川越。埼玉県民として誇りに思います。川越は私が住むさいたま市からは近いので、今度改めてゆっくり訪れてみたいと思います。
江戸城天守閣の模型です。江戸城の天守閣は、初代将軍徳川家康によって慶長12 年(1607年)に、第2代将軍徳川秀忠によって元和9年(1623 年)に、そして第3代将軍徳川家光によって寛永14 年(1637年)にと代替えごとに3度建築されています。特に第3代将軍徳川家光の代に建てられた五層の寛永天守閣は江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の天守閣でした。模型はその寛永天守閣のものです。
天守台は小天守を付設した南が正面で、石垣は南北36.5メートル、東西33メートル、石垣の高さは11メートルもありました。天守台の地下室は深さ4メートル、広さ135坪で御金蔵・武器庫。その上の天守一重は336坪、二重、三重と順に狭くなり、最上の五層は92坪となっています。石垣の下から金鯱までの高さは51.5メートル。屋根は瓦葺きで、壁面は白漆喰の塗込めに、より防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅板を要所に用いて火災旋風に備えていました。天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守がかつては聳えていたわけです。
しかしながら、第3代将軍徳川家光の嫡男家綱が第4代将軍となって6年目の明暦3年(1657年(1月18日午後2時頃、本郷円山町の本妙寺から出火して、翌19日にかけ江戸市中に延焼しました。明暦の大火です。その後、牛込方面から出火、市谷、麹町など城の北西からの強風にあおられ、火は内濠を越えて江戸城内にも延焼しました。徳川家光が造営した天守二層の窓の止め金のかけ忘れにより窓の隙間から火災旋風が侵入、瞬く間に天守閣が火焔に包まれ、さらに本丸要所の櫓や多聞に保管した鉄砲の火薬に引火、これを機に本丸御殿、二の丸と主要な建物を全焼してしまいました。しかし、途中で風向きが変わり、西丸御殿は罹災を免れ、本丸の避難先となりました。
すぐに江戸城天守閣の再建が計画され、土台となる天守台までは完成したのですが、第4代将軍徳川家綱の後見人で叔父にあたる幕府重臣・保科正之(徳川秀忠の4男)は、天守閣の再建について、「織田信長が岐阜城に築いた天守閣が発端で、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言で再建は後回しにされました。この保科正之の提言の根底には、これまで秀忠、家光と代替りのたびに、ともに父親との確執で天守を破却して、50年で3度建て替えるという愚挙を見かねて阻止したのであろうと考えられます。その後、江戸城の天守閣は再建されないまま今に至っています。
ちなみに、明治30年(1897年)~大正12年(1923年)、江戸城本丸北側跡地には中央気象台(現在の気象庁)が置かれ、また、天守台には風力計が設置され、東京観測点になっていました。
……(その6)に続きます。