目の前は東京湾。すなわち、海です。夏の日差しはメチャメチャ強いのですが、海からの風が爽やかです。
ここに「海手の御茶屋跡」があります。この「海手の御茶屋」は宝永4年(1707年)、第6代将軍・徳川家宣が舟遊びや漁夫達の漁の様子を見るために建てた休憩所です。現在は礎石が残されているだけになっています。
潮入りの池の1つ「横堀」です。「海手お伝い橋」で横堀を渡ります。この「海手のお伝い橋」も鉤形の特徴的な構造をしています。対岸を見ると緑が広がっていて、東京都心のど真ん中にいながらも、自然の豊かさを感じさせてくれます。この横掘の水は水門を通して東京湾(江戸湾)の海水をもう1つの潮入りの池である「大泉水」まで導いています。
海水ですので鯉などの淡水魚はいませんが、クラゲ、ウナギ、ボラ、セイゴ、ハゼ等の海水魚も棲息しているそうです。
白鷺(シラサギ)を見掛けました。じっと池の水面を眺めているので、魚を狙っているのかもしれません。
庚申堂鴨場です。将軍の鷹狩りの鴨場は濱御殿には庚申堂鴨場と新銭座鴨場の2箇所があり前者が安永7年(1778年)、後者が寛政3年(1791年)の築造というのは前述のとおりですが、こちらがその古いほうの庚申堂鴨場の跡です。
東京湾(江戸湾)の海水を調整し、園内の池に引き入れるもう1つの水門「横堀水門」です。よく見るとフナムシやカニ、フジツボなど海の生き物が生息しているのが分かります。
水上バスです。この先に水上バスの乗り場があります。浅草から浜離宮までの水上バスの航路があるので、近いうちに乗りに行きたいと思っています。江戸に関する基礎知識もそれなりに豊富になってきたので、船から見える景色もこれまでとは違って見える事でしょうから。
「将軍御上がりの場」です。ここは将軍が江戸城から船(御座船)で濱御殿を訪れた時など船を接岸していた場所です。第15代将軍・徳川慶喜は戊辰戦争の緒戦「鳥羽伏見の戦い」に敗れて、わずかな側近だけを従えて大坂城を脱出し、幕府の軍艦・開陽丸に乗船して江戸に逃げ帰ってしまうのですが、その時もこの場所に開陽丸を接岸して上陸しました。
灯台の跡です。「将軍御上がりの場」があるだけでなく、前述のように濱御殿(浜離宮)は遠く京・大阪あるいは長崎等から運ばれてきた物資を江戸城へ入れるための重要な港湾施設でもありましたから、灯台が設けられていたのでしょう。
幕末の一時期、ここに江戸幕府海軍の本拠地「海軍所(旧海軍伝習所)」が置かれていました。
黒船来航後に幕府海軍の建設に乗り出した江戸幕府は、最初の本格的な海軍教育機関として、安政2年(1855年)に長崎に海軍伝習所を設置しました。そして、長崎に続いて、江戸の築地にあった講武所の中にも海軍教育部門を設けることにしました。安政4年(1857年)に、永井尚志以下の長崎海軍伝習所の学生の一部が蒸気船「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所が開かれました。その後、軍艦教授所は、軍艦操練所と改称し、しばらくは長崎海軍伝習所と並立していたのですが、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担の大きさや、西洋式軍事技術の導入に消極的な井伊直弼の大老就任により、安政6年(1859年)に長崎海軍伝習所は閉鎖されました。そのため、築地の軍艦操練所は以後の幕府海軍教育の中核施設となっていきました。
築地の軍艦操練所の当初の教育対象は幕臣に限定されていたのですが、万延年間(1860〜1861年)には諸藩からの学生も受け入れるようになりました。元治元年(1864年)に付近で発生した火災が延焼して、施設の大半を失い、勝海舟はこれを期に神戸に海軍操練所を整備しようと画策したのですが、当時の軍艦奉行であった小栗上野介忠順らが速やかに築地軍艦操練所を再建したため、神戸の海軍操練所は幕府が設置した施設でありながら、勝海舟の私塾のような色彩が濃くなり、坂本龍馬や陸奥宗光(後の外務大臣)、伊藤祐亨(初代聯合艦隊司令長官)といった幕末から明治初期にかけての人財を輩出することになります。
この築地の軍艦操練所はさらに軍艦所と改称され、慶応2年(1866年)には教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能も追加されて、最終的に海軍所と呼ばれる組織となりました。しかし、慶応3年(1867年)に再度の火災に遭って焼失し、築地から築地川を挟んで対岸にあるこの濱御殿(浜離宮)の地へと移転しました。このように江戸幕府はこの濱御殿に移転した海軍所で江戸幕府海軍を強固に構築していこうとしたのですが、残念ながら、同年に大政奉還・王政復古に伴う江戸幕府の瓦解により、実現しないままに終わってしまいました。
現在、浜離宮には水上バスの乗船場があります。ここ浜離宮の乗り場からは日の出桟橋・浅草・お台場海浜公園行きの水上バスが運航されています。船上から眺めるスカイツリーやレインボーブリッジっていうのもいいですね。
江戸幕府海軍の軍艦の停泊地であったことを示す石垣でできた岸壁の跡が水上バスの乗り場の付近に残っています。
小さな社殿と鳥居があります。「旧稲生神社(きゅう いなぶじんじゃ)」です。旧稲生神社そのものの創建時期は明らかではないそうです。前身となる社殿が明治27年(1894年)6月20日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため、翌年に当時の宮内省内匠寮の手によって、浜離宮内にあった数社をまとめ、稲生神社を再建したのだそうです。それゆえ、各所に他の神社で使用されていた古材が使用されているのだそうです。本殿内にある宮殿は江戸期に建てられたもので、大正12年(1923年)の関東大震災では倒壊は免れましたが、大きく傾き、昭和6年(1931年)になって大修理が行われたのだそうです。鳥居に刻まれている年号は天保〇年。天保年間というと西暦1831年から1845年の間で、その時の江戸幕府の将軍は第11代の徳川家斉です。
広大な敷地にはちょうどキバナコスモスやコスモスが満開でした。ここは春には黄色い菜の花のお花畑に変わるのだそうです。
「浜御殿の籾倉跡」です。です。第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐を務め寛政の改革を推し進めた陸奥国白河藩第3代藩主・松平定信(江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫)の進言により、この場所に籾倉(もみぐら)が建てられました。これは天明年間(1781年〜1789年)に相次いだ天災と飢饉によって社会不安が高まる中で、寛政元年(1789年)に諸大名に対して飢饉に備えて籾の備蓄を命じ、寛政4年(1792年)と7年(1795年)に2棟ずつ江戸幕府自ら「三十五間蔵」と呼ばれる巨大な籾倉を救荒用倉庫として建造しました。ちなみに、一間とは約1.81メートルのことですから、三十五間というと約63.35メートル。実に巨大な倉庫でした。
それにしても、この浜離宮、見どころが多くありました。濱御殿として徳川将軍家の別邸(庭園)であるばかりでなく、象の飼育所であったり、鷹狩り場であったり、将軍の乗馬の練習場であったり、江戸城の港湾施設であったり、砲台が設けられた要塞であったり、海軍伝習所が設けられていたり、飢饉に備えての籾倉があったり…と様々な側面を持ったところであったということがよく分かりました。
1時間半ほど浜離宮を散策しました。真夏の日差しが照り付ける暑い一日でしたが、さすがに東京を代表する日本庭園です。この日も多くの観光客が訪れていました。それも日本人観光客より海外からおみえになった観光客のほうが多い印象です。これから紅葉の時期になるとまた違った日本庭園の姿が見られるのではないでしょうか。その頃にまた訪れてみたいと思っています。
この日はこの浜離宮恩賜庭園までした。次回【第6回】は今回も通ったJR新橋駅にほど近い幸橋架道橋をスタートして、現在のJR山手線等に沿うように北方(山下橋、有楽町方向)に分岐していた外濠を歩きます。外濠は江戸城を中心にして反時計回りに「の」の字を描くように連なっていて、徐々に江戸城に近い内濠へと変わっていきます。江戸城が近くなってくるってことは、歴史(江戸時代)の痕跡もより多く残っていると思われるので、楽しみです。
――――――――〔完結〕――――――――
0 件のコメント:
コメントを投稿