旧甲州街道は、千人町四丁目と並木町の境である長房団地入口交差点を右折します。
ここに大きな石の道標とその隣りに「昭和二年新道建設時の甲州街道」と刻印され道標周辺の地図が描かれた小さな石碑が建っています。道標には、「右 高尾山道 麓マデ一里半、 左 真覺寺道 真覺寺マデ八丁」と刻まれています。このあたりは、かつては、敵の侵入を阻むためこの石碑の立っているところでわざと道を鉤形に捻じ曲げたいわゆる 「枡形道路」だったようです。
枡形になった道標の横を左折します。ここが旧甲州街道で、板塀の大きな民家があったりして、往時の佇まいがほんの少し残っています。
この旧街道の区間は短く、少し歩くと、再び国道20号線に合流します。
八王子市役所横山事務所内にあるオオツクバネガシの木です。八王子市天然記念物なんだそうです。一見すると一里塚のようですが、江戸の日本橋から12里目の「散田の一里塚」はそのオオツクバネガシの木の東側にあったそうなのですが、現在はその位置は不明なのだそうです。
武蔵陵墓地へ向かう多摩御陵入口交差点を右折するとケヤキ並木の御陵参道となります。御陵参道の入口の右側には「武蔵凌墓地参道」、左側には「多摩御陵参道」の石碑が建っています。この奥には「大正天皇多摩凌」「貞明皇后多摩東凌」「昭和天皇武蔵野凌」「香淳皇后武蔵野東凌」があります。
多摩御陵入口交差点の1つ先の信号で国道20号線から右に分かれる路地のような細い道路があり、陵南大橋のたもとまで続いています。ここが慶長9年(1604年)に開通した旧甲州街道です。地元の人による手作りの道標が立っています。
東浅川山王社です。別当寺はなく村持ちの神社でした。ご祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)です。社殿には寛政10年(1798年)に江戸浅草の福島屋金右衛門より寄贈されたとされる和太鼓が、町会によって管理されています。この東浅川山王社には次のような伝承が伝わっているそうです。ある日、名主の町田武兵衛が山仕事をしていると1匹の猿が死んでいるのを見つけました。武兵衛は猿を持ち帰り、懇ろに葬りました。そして元禄13年(1700年)、村役人の並木勘左衛門とともに山王権現を勧請してここに祀ったのだそうです。ちなみに、このあたりでは古くから猿に対する信仰が篤かったようです。
東浅川山王社にある「子育て地蔵尊」です。この子育て地蔵尊は“松姫地蔵尊”とも呼ばれ、松姫と大変に深いゆかりのある地蔵尊のようです。
八王子は武田信玄の四女である松姫と深い関わりのあるところで、松姫に関する様々な逸話が残されています。JR中央本線を渡った南側の八王子市台町に信松院という曹洞宗の寺院があります。八王子七福神の1つである布袋像を祀っている寺院ですが、ここには松姫の墓があります。
松姫は天正10年(1582年)3月、織田信長とその同盟者である徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えていた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼしたいわゆる甲州征伐で武田家が滅亡した後、出家して八王子に逃れ、下恩方町にある心源院の草庵にて武田家などの菩提を弔う生活を送っていたのですが、徳川家康が江戸に入府した後の天正18年(1590年)、八王子を知行していた武田家旧臣の大久保長安によって現在の八王子市台町の地に草庵を移転し、その後はそこで暮らし、元和2年(1616年)に当地で亡くなりました。信松院の名称は、松姫の出家後の法名である信松尼によるものです。墓地は死後 132年目にあたる延享5年(1748年)に八王子千人同心の千人頭達が寄進して建立されたものなのだそうです。
松姫に関しては、次のような話が伝わっています。松姫は、甲斐国の戦国大名である武田信玄の四女だったのですが、武田家と織田家の同盟のため、永禄10年(1567年)、7歳の時,織田信長の嫡男・織田信忠(当時11歳)と婚約しました。政略結婚の間柄であったとは言え、両者の間では頻繁に贈り物や手紙のやり取りが行われていたようで、次第に2人の間で愛は芽生えていったようです。しかし、元亀4年(1573年)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、三方ヶ原の戦いとなったため、婚約も自動的に破棄されてしまいました。織田家の跡取りであった織田信忠と武田信玄の四女・松姫はお互い惹かれあっていたようですが、戦国の世の悲劇により結ばれることはなく、松姫はその後の縁談もすべて断り、尼となって一生を終えました。ちなみに、織田信忠は天正10年(1582年)6月の本能寺の変において二条御所で明智光秀を迎え討ち、自害してしまったため、実際に生涯に渡り松姫と織田信忠が対面することはなかったようです (記録によると、本能寺の変が起きる前日、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れたのですが、残念ながらその翌日に本能寺の変が勃発してしまいました)。なので、いわゆるプラトニック・ラブってやつですね。
武田信玄の没後、天正10年(1582年)にかつての婚約者だった織田信忠率いる織田・徳川・後北条の同盟軍の大軍が甲斐へ攻め込んだ際、松姫は高遠城から新府城を経て、苦難の逃避行の末、この八王子に安住の地を求め、八王子城主・北条氏照の庇護を受けました。そして、松姫は、北条氏照の祈願寺であった心源院に移って出家、そして、信松尼は前述のように、天正18年(1590年)に現在の信松院の地に草庵(粗末な家)を移しました。その草庵で武田家や織田信忠などの菩提を弔う供養の生活を送るかたわら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、また八王子での養蚕や絹の織物の発展にも貢献しました。養蚕や絹織物で得たお金で3人の姫(養女)を養育したと伝えられています。ちなみに、前述のように、元武田信玄の家臣で江戸幕府代官頭として八王子を知行していた大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど経済面で支えたと伝えられています。また、このような信松尼の生き方は徳川家康によって甲斐の国との国境の警備に就いた多くの武田家旧臣からなる「八王子千人同心」の心の支えになっていたとされています。
また、松姫は異母姉である見性院(武田信玄の次女で、武田二十四将の1人・穴山梅雪の未亡人)とともに、後の会津藩松平家初代藩主となる保科正之を誕生後に預かり、一時、この八王子で育てました。その経緯は次のようなものだったようです。
慶長16年(1611年)、第2代将軍・徳川秀忠の4男を側室のお静の方(お志津の方、浄光院)が武州安達郡の大牧村(浦和市)にて産んだのですが、この子は江戸城北の丸にいた松姫の異母姉である見性院が自分の領地である大牧村(1000石)に連れて行き、出産を手助けした経緯によるものです。これには、最初にお静の方が身ごもった子が徳川秀忠の正妻・於江与の方(お江)の悋気に触れて、水に流れてしまった事もあったからの処置であり、生まれた庶子は江戸城から離れた場所で、見性院が養育し、一時、八王子の信松院でも松姫が預かって養育を行ったと伝えられています。松姫は元和2年(1616年)に死去したのですが、この庶子は元和3年(1617年)、旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かると、のちに高遠藩を継ぎ、保科正之と称しました。この保科正之は会津中将として、のちに会津藩松平家23万石の初代藩主となりました。また上記の経緯からいわゆる将軍の「ご落胤」で、第3代将軍・徳川家光の異母弟にあたり、徳川家光と第4代将軍・徳川家綱を輔佐し、幕閣に重きをなし、同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸時代初期の三名君と賞されました。
慶安4年(1651年)、第3代将軍徳川家光は死に臨んで枕頭に保科正之を呼び寄せ、「宗家を頼みおく」と言い残しました。これに感銘した保科正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めたのですが、その第一条には「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、会津藩の藩主・藩士はともにこの遺訓を忠実に守りました。幕末、京都守護職となった会津藩藩主・松平容保は保科正之の直系の子孫にあたり、この保科正之の遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで新政府軍(薩長軍)と戦い抜きました。
この子育地蔵は、そうした松姫ゆかりの地蔵尊として、この地の住民達によって保護され、篤く信仰されてきたようです。なお、今でもこの松姫の一生に共感する女性は多いようで、松姫の墓所がある信松院は歴女にとって欠かせない観光地となっているようです。
街道の傍らに小さくて顔の可愛い石地蔵が置かれています。その石地蔵の横から北に延びる細い道路は昔の鎌倉街道の1つで、八王子城に通じていました。
この旧甲州街道沿いには八王子千人同心の屋敷であった家々が残っているため、往時を偲ぶことができます。これはその八王子千人同心の屋敷でしょうか? 黒塀の立派な家があります。このあたりは旧街道らしい風情が色濃く残っています。
往時を偲ぶ趣きのある旧道の区間は短く、旧甲州街道はすぐに東京都道46号八王子あきる野線、通称「高尾街道」にぶち当たります。ここで旧甲州街道は東京都道46号八王子あきる野線「高尾街道」の中央分離帯のフェンスで遮断されているので、町田街道入口交差点で迂回します。
すぐに国道20号線に合流します。
この細い道路が旧甲州街道です。振り返ると先ほど歩いてきた昔の面影が残る道路が見えます。東京都道46号八王子あきる野線「高尾街道」で遮断されていますが、ここに立って見ると、繋がっていたのがよく分かります。
旧甲州街道はこの先すぐに国道20号線によって分断されているので、横断歩道橋で国道20号線を渡ります。
この国道20号線(甲州街道)の八王子市東浅川町にある町田街道入口交差点は東京都道46号八王子あきる野線「高尾街道」の起点であると同時に東京都道47号八王子町田線、通称「町田街道」の起点でもあります。
東京都道46号八王子あきる野線「高尾街道」は八王子市から楢原町を経由してあきる野市に至る道路です。東京都道47号八王子町田線「町田街道」は東京都町田市を北西から南にほぼ縦断する主要道路で、江戸時代後期から明治期にかけては八王子を集荷地として多摩・甲州・上州などと貿易港であった横浜港を結び、当時我が国最大の輸出産品であった絹を運ぶ街道「絹の道」、「八王子街道(神奈川往還)」の一部でした (八王子と横浜のほぼ中間となる原町田が中継地点でした)。この絹の道は絹の輸送で大いに栄えたそうで、その後、八王子から横浜港までの絹の輸送を主目的として明治41年(1908年)に横浜鉄道(現在のJR横浜線)も開業しています。
熊野神社の境内にあるこの大木はケヤキ(欅)とカシ(樫)の木が根元から一緒になって成長したようで、「縁結びの木」と呼ばれているのだそうです。よく見るとケヤキとカシの木がしっかりとくっついています。この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を2つ置くと、願いが叶う…と説明板に書かれています。実際小さな石ころが何個か置かれていました。
この日のゴールであるJR高尾駅北口前はバスやタクシーの発着場になっていてスペースが取れないということで、この日はこの熊野神社の境内で終わりのストレッチ体操をやりました。この終わりのストレッチ体操次第で翌日以降の筋肉痛の程度が大きく変わってくるので、重要なんです。スタート前のストレッチ体操と終わりのストレッチ体操、街道歩きにおいてはこれらは欠かせません。
ストレッチ体操を終え、この日のゴールであるJR高尾駅に向かいます。「高尾山口2km大月44km 甲府85km」という道路標識が掲げられています。道路標識から東京都の地名が消え、いよいよ甲州街道の名前の由来になった甲州の甲府が近づいてきました。
高尾駅前交差点です。この日はここで左折し、JR高尾駅に向かいますが、次回【第6回】はここを直進し、JR中央本線に沿って小仏峠を越え、JR相模湖駅まで歩きます。広い関東平野もこの高尾あたりが西側の最深部。前方に高尾山の姿が見えています。中山道から街道歩きを始めたからでしょうか、やっぱ、街道歩きといえば山が近くに見える景色でないといけません。長かった“繋ぎの区間”を終え、いよいよ次回の小仏峠越えからが本格的な街道歩きの区間に入ります。楽しみです。
ちなみに、この高尾駅前交差点から右へ入った一帯は、廿里(とどり)原古戦場で、武田家と後北条家が戦ったところなのだそうです。
JR高尾駅の北口です。この神社を思わせるデザインの高尾駅北口の駅舎は、昭和2年(1927年)に竣工した2代目の駅舎です。これは、元々大正天皇が崩御なされた時に、御遺体を多摩御陵へ送り出すために新宿御苑内に臨時で造られた宮廷臨時仮停車場に設置された仮設駅舎を移築したものです。
ちょうど駅前のバス乗り場から小仏行きの路線バスが出発していきました。いよいよ次回【第6回】は小仏峠を越えて相模国(神奈川県)に入ります。
「高尾駅前交差点」の左角に付近の地図が掲げられていて、そこに八王子城跡の説明も書かれています。ここには次のように書かれています。
八王子城(元八王子3丁目)は滝山城主であった北条氏照(1540年?~1590年)が豊臣方に備えるため、天正10年(1582年)頃から築城を始め、天正14年(1586年)頃に滝山城(高月町)から移転したといわれています。北条氏照は小田原北条氏4代目・北条氏政の弟で、北条氏のナンバー2として軍事・外交などに力を振るっていました。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東制覇を目的に小田原城を包囲しました。八王子城は6月23日、豊臣方の別働隊である前田利家・上杉景勝連合軍の猛攻撃を受け、僅か一日で落城しました。これより小田原城も降服、開城し、関東は平定され戦国時代は終わりになります。氏照が政務を執った八王子城御主殿跡からはベネチア産のレースガラスや大量の中国産陶器皿などが出土し、戦国大名の豪華な暮らしぶりを想像することができます。
いっぽう、JR中央本線のほうはこの高尾駅を境にして運行形態が大きく変化します。東京方面の快速電車および甲府方面への普通列車(中距離電車)の多くがこの高尾駅を始発・終着駅としています。実際、駅の案内放送などではこの高尾駅以東を「中央線」、以西を「中央本線」と区別して案内しています。最近は東京への通勤圏の拡大に伴いこの高尾駅より以西の大月駅まで直通する東京駅発着の快速電車も増えているようですし、甲府方面からの普通列車(中距離電車)の中にも立川駅までの乗り入れる列車があります。
ちょうど甲府方面から高尾駅終点の普通列車が入線してきました。長野色と呼ばれるスカイブルーと黄緑色の帯を纏った211系3000番台の電車です。長らく首都圏の宇都宮線(東北本線)や高崎線で活躍した寒冷地対策を施した車両です。宇都宮線(東北本線)や高崎線で活躍していた時は濃い緑とオレンジ色の帯を纏って最大15両編成の長大編成だったのですが、ここでは短い6両の編成です。国鉄時代の昭和60年(1985年)に登場した電車ですが、まだまだ頑張っていますね。入線してきた普通列車の乗客のほとんどは跨線橋を渡って、隣のホームで出発を待っている東京駅行きの“中央線”快速電車に乗り換えるようです。その普通列車の横をE257系特急電車「かいじ」が通過していきました。
高尾駅のホーム上屋にはたくさんの廃レールが支柱として使用されています。中には太平洋戦争中に米軍機による機銃掃射を受けた弾痕が生々しく残っているところもあるのだそうですが、それがどの支柱なのかは分かりませんでした。支柱に利用されている廃レールには、日本で現存する最古のレールがあったりと、なかなか貴重なものとなっています。ちなみに3番線ホームにあるこの支柱に使われている廃レールは明治34年(1901年)に操業を開始した官営八幡製鉄所が明治35年(1902年)に製造したレールで、これが現時点で確認されている国産レールとしては最古のものなのだそうです。その説明書きの上にその刻印があり、ペンキが塗られていない(あえてペンキを剝がしてある)ので鮮明に見ることができるのですが、写真に撮ると残念ながら読めませんね。
私も高尾駅始発の東京駅行きの快速電車で帰宅することにしました。さすがに高尾駅は高尾山(標高599メートル)や陣馬山(標高854.8メートル)の登山口の1つです。特に高尾山は東京都心から電車で約1時間という交通アクセスの良さに加えて、良く整備されている登山道、ケーブルカーなどを使って気軽に登山できることなどから、老若男女問わず登山者数が非常に多い山です。年間の登山者数は約260万人を超え、世界一の登山者数を誇っています。なので、この日も高尾山や陣馬山を下山してきた登山者が数多く電車に乗り込んできました。私もトレッキング用のパンツにウォーキングシューズを履き、小振りのリュックサックを背負っていたので、そうした登山者の1人のように他の人達からは見られていたかもしれませんが、私は“山歩き”ではなく、“街道歩き”でした。線路が続く向こうに高尾山と武蔵国(東京都)と相模国(神奈川県)の国境として横たわる山々の姿が見えています。
今回の高尾でこの甲州街道歩きも長かった“繋ぎの区間”は終了。次回はいきなり小仏峠を越えて相模国(神奈川県)に入ります。中山道を歩いた経験からも峠を越えるとガラッと雰囲気が変わることが分かっていますので、ここから本格的な街道歩きが始まります。楽しみです。
この日は24,703歩、距離にして17.9km歩きました。
――――――――〔完結〕――――――――
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