2018年8月7日火曜日

甲州街道歩き【第5回:日野→高尾】(その2)

JR八高線を跨線橋で渡ります。八高線(はちこうせん)は、東京都多摩地域の八王子市の八王子駅から北上し、埼玉県の西部および北西部を経由して群馬県の高崎市の倉賀野駅を結ぶJR東日本の鉄道路線です。総路線距離は92.0km。路線としては倉賀野駅が終点ではありますが、実際の運行は倉賀野駅を発着する全列車が隣駅である高崎線の高崎駅を起終点とするので、実質、八王子駅〜高崎駅間と考えてもいいかと思います。路線名は、八王子の「八」と高崎の「高」に由来します。


八高線は南の八王子駅から(八高南線)と北の倉賀野駅から(八高北線)の両方から建設工事が進められ、昭和6(1931)、八高南線は八王子駅〜東飯能駅間 (25.6km) が開業、八高北線は倉賀野駅〜児玉駅間 (16.1km) が開業しました。その後、順次延伸が行われ、昭和9(1934)に寄居駅で八高南線と八高北線が接続され、八高線と呼ばれるようになりました。八王子駅〜倉賀野駅間(92.0km)は全線にわたり今も単線で、当初は非電化で蒸気機関車に牽引された客車列車が活躍していました。昭和33(1958)に全旅客列車が気動車化(ディーゼルカーでの運行)され、東京都内のJR(国鉄線)では唯一最後まで非電化のまま残されていたのですが、平成8(1996)に埼玉県日高市の高麗川駅より南側が電化されました。その際に運転系統は高麗川駅を境にして南北で完全に分断され、高麗川駅以南の列車は川越線との直通運転を行うようになりました。そのため便宜的に、高麗川駅以南の電化区間については八高南線、高麗川駅以北の非電化区間については八高北線といった表現を用いることがあります。

現在、高麗川駅以北の区間は埼玉県内では唯一、かつ群馬県内ではわたらせ渓谷鉄道線とともに数少ない非電化区間となっていて、私も鉄分が不足している時(鉄道マニアとしてしばらく趣味の時間を持てていないと感じた時)などにはフラッと乗りに行くことがある路線でもあります。

八高線と言えば、第二次世界大戦終戦直後の昭和20(1945)824日、八王子駅から2つ目の小宮駅〜拝島駅間の多摩川橋梁上で上下の列車が正面衝突する事故が発生(八高線列車正面衝突事故)し、少なくとも105名が死亡。また、その2年後の昭和22(1947)225日には東飯能駅〜高麗川駅間で下り列車が過速度により脱線・転覆(八高線列車脱線転覆事故)184名が死亡するという悲惨な事故が続けざまに起こったことでも知られています。

電化区間であるこの八王子駅〜高麗川駅の区間は、川越線の高麗川駅〜川越駅間と一体的に運転されていて、大半の列車は八王子駅〜川越駅間で直通運転がされています。東京の都心に向かう路線ではないものの通勤通学路線で、運転間隔は昼間ほぼ30分間隔。使用する車両はすべて4両編成で、電化直後は山手線と同じウグイス色一色の103系電車が主体でしたが、現在はステンレス車体に橙色とウグイス色の帯を巻いた205系電車と209系電車が主力となっていて、最近はそれに中央・総武緩行線から転用されたE231系電車が加わります。この先に、JR八高線のJR北八王子駅があります。

八王子市大和田町の石川入口交差点で東京都道59号 八王子武蔵村山線、東京都道155号 町田平山八王子線と交差します。


大和田町交差点です。八王子市から昭島市を経て武蔵村山市に至る東京都道59号八王子武蔵村山線との交差点です。



街道の右側に大和田日枝神社が建っています。神社の創建は不詳ですが、慶安2年、第3将軍徳川家光より受けた社領5石の御朱印状が残されているのだそうです。八王子宿の入口にある山王様として、江戸時代より参詣者の多い神社だったそうです。



大和田4丁目交差点で国道16号八王子バイパスと交差します。交差点には「←相模原、川越→」と書かれています。甲州街道は直進します。



大和田4丁目交差点のすぐ先で旧甲州街道は現甲州街道(国道20号線)から分岐します。左側に分岐する細い道が、旧甲州街道です。



古い石塔・石仏が集められて祀られています。おそらくこのあたりの旧甲州街道沿いのあちこちに立っていた石塔・石仏を道路の拡張工事等の際にここに集めて祀られたものではないかと思われます。こういうところに旧街道の面影が感じられます。



旧街道を進むと、用水堀に架かる橋の名前が「富士見橋」となっています。おそらく昔はここから富士山が見えたのでしょうね。


 大和田橋北詰交差点で国道20号線(現甲州街道)と合流し、大和田橋で浅川を渡ります。



浅川は、陣馬山(標高857メートル)、堂所山(標高731メートル)を源流とする多摩川の支流で、この下流の日野市内で多摩川に流入しています。前方(上流側)JR八高線の鉄橋が見えます。


かつてはこの大和田橋より少し下流側に「大和田の渡し」がありました。往時は4月より9月までの夏季は徒歩渡りで、10月から3月までの冬季は土橋が架橋されました。このあたりは鮎が名物で、将軍家にも献上されたと伝えられています。

慶応4(1868)3月、甲陽鎮撫隊を率いて勇躍甲州へ乗り込んだ大久保大和こと近藤勇は甲府の手前、勝沼での戦いで新政府軍に手痛い敗北を喫し、多摩へと引き返します。どうにか八王子宿に達し、ここ大和田の渡しで浅川を越えようとしていた時、左入村の名主の息子・小峰松之助の襲撃を受けました。ただ、幸いにも近藤が傷を負うことはなく、松之助も逃げおおせたようです。どうも松之助の兄が攘夷に奔って天狗党に肩入れし、江戸に潜伏しているところを新徴組に見つかって惨殺されたことを恨みに思い、同じ幕府方である甲陽鎮撫隊=新選組の近藤を襲ったようです。

今では甲州街道の一部として多摩川の支流である浅川を結ぶ大和田橋は昭和の時代に入った昭和16(1941)に架橋された橋ですが、その4年後の昭和20(1945)、第二次世界大戦終結間近の8月初旬に八王子市はアメリカ軍のB29爆撃機による爆撃を受け、八王子も甚大な被害を蒙りました。この時、ここ大和田橋の下に避難した人々は橋によって守られ、多くの人命が救われたといわれています。




橋のたもとに立つ説明板には次のような説明が書かれていました。

「八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和2082日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450人が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。2時間あまりの間に1,600トン(推定約24万発)もの焼夷弾が八王子旧市街に投下されたのです。この時、多くの市民が大和田橋の下に逃げ込み焼夷弾の攻撃から尊い命を守ることができました。大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推測すると橋全体で約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省(当時)相武国道建設事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し、太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。弾痕の保存については上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルでその位置を示しています。」

このように、現在でも大和田橋には、この時に投下された焼夷弾の弾痕が保存されていたり、着弾地点をカラータイルで示していたりしています。


大和田橋を渡ると大和田橋南詰交差点を右折し、北大通りに入ります。ここが旧甲州街道です。



左手に八王子市立第五中学校を見ながら西へ進みます。五叉路になった市立五中交差点で、左側の狭い道に入ります。ここが旧甲州街道で、少し行くと、現在は竹の花公園として整備された一画に八王子市の史跡に指定されている江戸の日本橋から11里目の「竹の鼻の一里塚跡」があり、石碑が立っています。



竹の花公園の隣は永福稲荷神社となっています。毎年9月に行われる例大祭、しょうが祭り等で地元では知られた神社です。






永福稲荷神社は、宝暦6(1756)、八王子出身の力士・八光山権五郎が勧請したもので、落慶の日に八光山権五郎が相撲を奉納したと伝わっています。社殿の前には、八光山権五郎の大きな石像が立っており、このあたり周辺が竹鼻森、竹の鼻と呼ばれていたことから竹の鼻稲荷神社とも呼ばれていました。



 この永福稲荷神社の境内には「蝶の飛ぶ ばかり野中の 日かげ哉」と刻まれた松尾芭蕉の句碑、通称「日影塚の碑」が立っています。


このあたりが新町、江戸時代、甲州街道八王子宿の入口に当たっていたため、往来客の信仰も厚く、今でも寄進された鳥居や天水桶等が残されています。



永福稲荷神社を出るとすぐに左に曲がります。ここは枡形になっていました。江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備されており、宿場の出入口には必ず枡形が設けられました。宿場の枡形とは、街道を2度直角に曲げ(鉤形)、外敵が進入しにくいようにしたもののことです。甲州街道は江戸幕府の軍事道路の色彩が濃い街道でしたので、枡形は他のどの街道よりもしっかりと整備されていたようです。


しばらく旧道を進むと、国道20号線に戻るので、そこを右折します。まさに枡形ですね。


路端に設置されている新編武蔵風土記の八王子宿全景図を見ると、竹の鼻一里塚を過ぎて左に曲がったあたりから八王子宿の家々が街道の両側に軒を接して建ち並んでいる様子が窺えます。旧道が国道20号線とぶち当たったあたりが新町。ここからが八王子十五宿になります。



八王子宿は、甲州街道の江戸の日本橋から数えて10番目(別の数え方もあります)の宿場であり、八王子十五宿、あるいは八王子横山十五宿とも呼ばれ、現在の八王子市の中心市街地の元となっています。

八王子宿は前述のように江戸時代になって以降、甲州街道の整備に合わせて、大久保長安により開発された宿場町です。この開発にあたっては、八王子城下より東の浅川南岸の甲州街道沿いに新たに八王子町を設けて旧滝山城下と旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させました。この際、徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣で軽輩の者を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ、普段は百姓として田畑を耕させ、特別な軍事目的の場合には下級の武士として国境の警備の任務に就かせました。これが後の八王子千人同心です。

この開発の結果、1650年代までに現在の八王子市の中心市街(JR八王子駅の北側一帯)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、「八王子十五宿(八王子横山十五宿)」と呼ばれるようになりました。天保14(1843)の記録によると人口6,026名、総家数1,548軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、飯盛旅籠も含め34軒の旅籠屋があったと伝わっています。

八王子宿は八王子横山十五宿とも呼ばれたように、(江戸側から)新町、横山宿、八日市宿、本宿、八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野宿、横町、寺町、久保宿、嶋坊宿の15宿で構成されていました。八日市、横山、八幡……などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ、そして八王子町へと受け継がれたものなのだそうです。八王子宿と呼ばれたのは後の世のことで、実は正式な名称は「横山宿」です。しかし、横山宿1宿単独ではなく、前述の15宿の中で横山宿が一番大きかったので、15宿全てを合わせて「横山宿」と呼ばれていました。八王子宿の宿内には甲斐国、信濃国などから大量に生糸などが運び込まれる様に成り織物工業が盛んに行われていました、そのため八王子宿は甲州街道で最大の宿場町に発展しました。

市守神社・大鳥神社です。八王子宿の中心部であった横山宿では毎月四のつく日に、また八日市宿では八のつく日に市が開かれ、周辺の村々から繭や生糸、織物などが市に持ち込まれて販売され、たいそう賑わいました。


そこで、市の取引きの平穏無事を守り、人々に幸せを与える守護神として市場の祭神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、天正18(1590)に長田作左衛門が横山市守稲荷を創建しました。現在でも毎年2月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる例祭が行われているそうです。また、江戸時代の中期になって殖産と武勇の守護神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀った大鳥神社が創建され合祀されました。大鳥神社のほうは毎年11月の酉の日に商売繁盛を祈願する「大鷲祭」がおこなわれ、現在でも「お酉さま」や「酉の市」と称されて賑わっているのだそうです。2つの神社が合祀されている理由は不明なのだそうです。鳥居は簡素な神明タイプで、朱色に塗られ力強い印象を受けます。

市守神社・大鳥神社を過ぎると、八王子の横山、八日市、八幡と3つの宿場が続きます。八王子駅入口交差点です。ここを左に行くとJR八王子駅です。


八王子十五宿の宿名は、今も八王子市の町名や交差点名、バス停の名称などになって残っています。このあたりからが八王子宿(横山宿)の中心部であった横山町です。




八王子駅入口交差点です。ここを左に行くとJR八王子駅です。八王子駅入口西交差点を過ぎたところで左折し、八王子駅のほうに向かいます。この日はこの先にある貸し会議室を借りて、お弁当の昼食でした。





……(その3)に続きます。

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