2018年8月2日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その4)



小石川後楽園をあとにして、この日のゴールであるJR飯田橋駅を目指します。神田川の上を首都高速5号池袋線の高架が通っています。



今から2年後の2020年夏、1964年東京オリンピック以来、56年ぶり2回目の夏季オリンピックが東京で開催される予定です。オリンピックの開催に向けて、競技場を始め、様々な設備、インフラが整備され東京の街も大きく変わることでしょう。昭和39(1964)の東京オリンピック開催に向けても、今と同じように様々なインフラが整備されていきました。特に、当時は昭和30年代の高度経済成長期に首都東京の人口は急増し、加えて本格的なモータリゼーションの時代を迎えて道路交通量が飛躍的に増えてきたことから、高速道路網を中心とした交通インフラの整備が急務でした。そこで首都高速道路の建設が計画されたのですが、既に東京の都心部は、ビルや住宅の密集地となっていて、高速道路を建設するスペースなどありませんでした。江戸時代の古地図を見ても、既に住宅密集地で、江戸時代からとても高速道路を建設するスペースはありませんでした。しかも、高速道路建設の用地は公共用地利用が原則とされていました。

そこで当時の建設省(現在の国土交通省)が目を付けたのが東京の都心を網の目のように張り巡らされていた運河や河川でした。ビルや住宅の密集地の中で唯一ビルや住宅が建っていない、しかも公共用地である運河や河川を利用し、その上に首都高速道路を建設したわけです。実際、東京の街を歩いていると、首都高速道路の下が川になっている場所が多々見受けられます。現在、首都高速道路はクネクネと曲がりくねっていて、それが渋滞を多く発生させているとして問題視されることもありますが、これも計画的な用地買収ができなかったため用地買収の必要がなかった運河や河川の上や、かつて運河や河川であった場所を辿るように通っているからです。現在の首都高速道路の路線と、江戸時代の古地図を照らし合わせてみると、見事に運河や河川、外濠等と合致します。この飯田橋から後楽園、一ツ橋、そして日本橋、隅田川に至る首都高5号池袋線は江戸時代の平川、のちの日本橋川の流路にほぼ合致しますし、途中、江戸橋ジャンクションから南下して京橋方面に至る都心環状線は運河であった楓川、築地川の流路そのままです。

江戸時代、まだ自動車がなかった時代、物流の主役は圧倒的に船でした。なので、江戸の町中に張り巡らされた運河や河川、堀割り等は物流の大動脈で、この運河や河川が当時ロンドンやパリをも凌ぐ世界最大の都市であった江戸の町の発展・繁栄を支えていました。そして、今もその運河や河川は首都高速道路に姿を変えて、世界的大都市・東京の営みを支える大動脈であり続けています。神田川等の運河や堀割りの開削を命じた徳川家康がそこまで先のことを読んでいたかどうかは分かりませんが、都市計画として驚くべき先見性があったと言うしかないです、はい。とにかく、江戸は調べれば調べるほど奥が深く、面白いです。

飯田橋交差点とJR飯田橋駅です。飯田橋という橋の名称は人名に由来します。天正18(1590)、開府前の江戸で徳川家康にこの地域を案内したのが、土地の長老であった飯田喜兵衛なる人物で、家康はその功を称えて、この地域一帯を「飯田町」と命名しました。明治14(1881)、交通の便のため、新たに外濠(神田川)を跨ぐ橋が架けられ、飯田町に接する橋であることから「飯田橋」と命名されました。昭和3(1928)、当時の国鉄は飯田町駅の旅客営業および牛込駅を廃止すると同時に両駅の中間地点に新駅を設置したのですが、その際、至近であったこの橋の名をとって「飯田橋駅」と命名しました。以降、駅周辺の地域名として「飯田橋」の通り名が次第に浸透し、逆に元の「飯田町」という地名の存在感は急激に薄れていくこととなりました。

飯田橋交差点は外堀通りと目白通りの交差点であり、かつ大久保通りの起点であり、さらに目白通りと並行した神田川の対岸の通りも合流する「変則六叉路」になっています。その複雑な交差点の直下が神田川と江戸城外濠の合流点となっていて、その神田川の本流側に架かっている橋が船河原橋です。この船河原橋、現在は外堀通りに属する本来の橋と、目白通りへの左折専用の橋との2つで1セットになっています。写真の左側の橋が船河原橋で、右側の橋が飯田橋です。



船河原橋の最初の架橋年代は定かではないのですが、おそらく前述の仙台堀(神田川)が開かれて間もない頃であろうと言われています。神田川が開削されて隅田川と結合すると、この2つの川は江戸の物資運送の一大動脈となりました。神田川に沿って運ばれてきた物資は、現在の飯田橋付近で江戸城と反対側である北側の岸に陸揚げされ、船着場には船荷を扱う河岸が多く立ち並んでいました。特に、船河原橋から水道橋付近の地域は、当時小石川に屋敷を構えていた岩瀬市兵衛という幕府直参旗本の名前にちなんで「市兵衛河岸」と呼ばれていました。現在もこの船河原橋の付近には「新宿区揚場町」という町名が残っているのですが、この町名は船着場で船荷が陸揚げされていたことの名残です。




また、江戸時代、この船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたことから、別名「どんど橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていました。さらに、平川のここから上流の神田上水を分水する目白下の石堰(大洗堰)との間には紫鯉(紫がかった黒い鯉)が放流されていて、御留川、すなわち禁猟区となっていたことから、「おとめ(お留め)橋」とも呼ばれていました。この紫鯉はたいそうな美味で、将軍の食膳にだけ供されるものであったそうです。ただ、下流に流れ落ちた鯉を獲るぶんにはお咎めなしだったため、このあたりは数多くの釣り人で賑わった場所でもあったそうです。

ちなみに、現在の船河原橋は昭和40年(1965)に架けられた橋です。

この日は横断歩道橋で神田川を渡った先にあるJR飯田橋駅西口前がゴールでした。この日歩いた歩数は14,578歩、距離にして10.4km。今回も歩いた距離は短かったものの、江戸の町の発展と繁栄を支えた上水道設備と運河という重要なインフラの整備、さらには、徳川御三家をはじめ、江戸城の周囲に配置された各藩の藩邸など、実に多くのことが学べたように思います。

次回はこのJR飯田橋駅を出発して、江戸城の外濠に沿って四ツ谷のほうに歩きます。次回はどんな新たな発見があるのか、今から楽しみです。


【追記】
小石川後楽園のところで水戸藩徳川家をはじめとした徳川御三家の江戸藩邸、特に上屋敷に関して触れたついでに、徳川御三家の上屋敷以外の代表的な江戸藩邸とその跡地の現在について調べてみました。その結果を以下に示します。


・田安徳川家上屋敷跡 (御三卿)(千代田区北の丸公園)→北の丸公園内

・一橋徳川家上屋敷跡 (御三卿)(千代田区大手町)→気象庁

・清水徳川家上屋敷跡 (御三卿)(千代田区北の丸公園)→北の丸公園清水門

・会津藩松平家上屋敷(千代田区)→皇居前広場

・加賀藩前田家上屋敷(文京区本郷)→東京大学本郷キャンパス

・西条藩松平家上屋敷 (渋谷区渋谷)→青山学院大学

・福岡藩黒田家上屋敷 (千代田区霞が関)→外務省庁舎

・米沢藩上杉家上屋敷 (千代田区霞が関)→法務省庁舎
・広島藩浅野家上屋敷 (千代田区霞が関)→国土交通省庁舎

・松代藩真田家上屋敷 (千代田区霞が関)→経済産業省別館

・延岡藩内藤家上屋敷 (千代田区霞が関)→霞が関コモンゲート

・広島藩浅野家中屋敷他 (千代田区永田町)→国会議事堂

・彦根藩井伊家上屋敷 (千代田区永田町)→国会前庭北地区(憲政記念館等)

・田原藩三宅家上屋敷 (千代田区隼町)→最高裁判所

・熊本藩細川家上屋敷 (千代田区丸の内)→丸の内オアゾ

・岡山藩池田家上屋敷 (千代田区丸の内)→丸の内ビルディング

・土佐藩山内家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京国際フォーラム

・鳥取藩池田家上屋敷 (千代田区丸の内)→帝国劇場

・備後福山藩阿部家上屋敷 (千代田区内幸町)→帝国ホテル

・白河藩阿部家上屋敷 (千代田区内幸町)→帝国ホテル(一部)

・長州藩毛利家上屋敷(千代田区日比谷公園)→日比谷公園(一部)

・佐賀藩鍋島家上屋敷(千代田区日比谷公園)→日比谷公園(一部)

・長府藩毛利家上屋敷 (港区六本木)→六本木ヒルズ毛利家庭園(史跡・毛利甲斐守邸跡)

・仙台藩伊達家上屋敷 (港区東新橋)→汐留シオサイト(東京汐留ビルディング)

・龍野藩脇坂家上屋敷 (港区東新橋)→汐留シオサイト(電通本社)

・牛久藩山口家上屋敷 (港区赤坂)→アメリカ合衆国駐日大使館

・薩摩藩島津家上屋敷 (千代田区内幸町)→みずほ銀行旧本店

・佐土原藩島津家上屋敷 (港区三田(旧芝三田綱町))→綱町三井倶楽部

・川越藩松平家上屋敷 (港区虎ノ門)→ホテルオークラ東京本館

・丸亀藩京極家上屋敷(港区虎ノ門)→虎ノ門金刀比羅宮

・小田原藩大久保家上屋敷 (港区浜松町)→世界貿易センタービル

・久留米藩有馬家上屋敷(港区三田)→三田国際ビル

・森藩久留島家上屋敷(港区三田)→港区立三田中学校

・宇和島藩伊達家上屋敷(港区六本木)→国立新美術館

・多度津藩京極家上屋敷(港区六本木)→国際文化会館(←岩崎小弥太邸 ←井上馨邸)

・三河吉田藩大河内家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京駅

・津山藩松平家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京駅

・松本藩戸田家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京駅

・安中藩板倉家上屋敷 (千代田区神田錦町)→学士会館

・津藩藤堂家上屋敷(千代田区神田和泉町)→和泉小学校

・紀州藩徳川家中屋敷(千代田区紀尾井町)→グランドプリンスホテル赤坂

・尾張藩徳川家中屋敷(千代田区紀尾井町)→上智大学

・彦根藩井伊家中屋敷 (千代田区紀尾井町)→ホテルニューオータニ

・米沢藩上杉家中屋敷及び米沢新田藩上屋敷(港区麻布台)→外務省飯倉公館及び麻布郵便局

・伊予松山藩松平家中屋敷(港区三田)→イタリア共和国駐日大使館(史跡・大石主税良金ら十士切腹の地)

・福岡藩黒田氏中屋敷(港区赤坂)→赤坂ツインタワー敷地

・川越藩松平家中屋敷 (港区赤坂)→アークヒルズ(サントリーホール)

・熊本藩細川家中屋敷(港区高輪)→旧高松宮邸・東宮御所(史跡・大石良雄外十六人忠烈の跡)

・島原藩松平家中屋敷 (港区三田)→慶應義塾大学

・佐賀藩鍋島家中屋敷 (港区虎ノ門)→国立印刷局・虎ノ門病院

・長州藩毛利家中屋敷 (港区六本木)→東京ミッドタウン

・広島藩浅野家中屋敷(港区赤坂)→赤坂サカス

・松代藩真田家中屋敷(港区赤坂)→アメリカ合衆国駐日大使館宿舎

・会津藩松平家中屋敷 (港区東新橋)→汐留シオサイト(ホテルヴィラフォンテーヌ汐留)

・薩摩藩島津家中屋敷 (港区芝)→屋敷の中心部はセレスティンホテルや三井信託銀行芝ビル、戸板女子短期大学など、西側は桜田通りに面し、南端はNEC本社ビルや東京女子学園等

・岡崎藩水野家中屋敷 (港区芝)→史跡・水野監物邸跡

・高田藩榊原家中屋敷 (港区芝)→旧岩崎邸庭園

・小田原藩大久保家上屋敷(港区海岸)→旧芝離宮恩賜庭園

・水戸藩徳川家中屋敷(台東区池之端)→東京大学本郷キャンパス弥生地区

・熊本藩細川家下屋敷 (中央区日本橋浜町)→浜町公園

・尾張藩徳川家蔵屋敷 (中央区築地)→築地市場

・彦根藩井伊家下屋敷 (渋谷区代々木)→明治神宮

・高遠藩内藤家四谷内藤新宿下屋敷 (新宿区内藤町) →新宿御苑

・尾張藩徳川家和田戸山下屋敷 (新宿区戸山) →都立戸山公園

・薩摩藩島津家下屋敷 (渋谷区東 旧常磐松町):常陸宮邸(常盤松御用邸)

・郡山藩柳沢家下屋敷 (文京区本駒込) →六義園

・大垣新田藩戸田家下屋敷 (文京区小日向) →拓殖大学

・久留里藩黒田氏下屋敷 (文京区関口) →椿山荘(旧山縣有朋邸宅)

・熊本藩細川家下屋敷 (文京区目白台)→肥後細川庭園、和敬塾、永青文庫

・盛岡藩南部家下屋敷 (港区南麻布) →有栖川宮記念公園

・薩摩藩島津家下屋敷 (港区白金台)→八芳園

・会津藩松平家下屋敷 (港区高輪)→オーストリア共和国駐日大使館

・安志藩小笠原家下屋敷(文京区弥生)→東京大学本郷キャンパス弥生地区

・岡山藩池田家下屋敷 (品川区東五反田)→池田山公園

・仙台藩伊達家下屋敷 (品川区東五反田)→清泉女子大学

・備後福山藩阿部家下屋敷 (墨田区本所)→ライオン本社

・宮津藩本庄松平家下屋敷 (墨田区横網)→旧安田庭園

・下総関宿藩久世氏下屋敷 (江東区清澄)→清澄庭園

・福井藩松平家上屋敷(江東区新砂)→東京国際郵便局


――――――――〔完結〕――――――――



1 件のコメント:

  1. 有難う御座いました。楽しく興味深く読ませて頂いております。
    今後とも、私の浅学を深学へとの導き、読者として期待しております。

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