2018年8月22日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第3回:飯田橋→赤坂見附】(その3)

市ヶ谷橋を渡ります。この市ヶ谷橋は江戸城外濠を堰き止める市谷土橋になっていて、JR市ヶ谷駅に向かって右側は市谷濠です。この市ヶ谷橋あたりの外濠は両岸の標高差が飯田橋あたりの牛込濠と比較するとさほどないため、江戸城防衛のため、濠の幅が広くなっているのが特徴です。


JR市ヶ谷駅に向かって左側は牛込濠(明治以降は新見附濠)です。市谷濠の水面の高さは海抜約10メートル、牛込濠の水面の高さは約3メートルとかなりの差があるので、橋の反対側からは牛込濠の水面は見えません。市谷濠はほぼ閉鎖された水環境で水循環が乏しいため、長年にわたり大量のヘドロが堆積。暑くなってきたこともありアオコが大量発生し、水面は濃い黄緑色をしています。しかし、この濃い黄緑色の水面が景観に独特の風致を与えています。




再び江戸城外濠の土手の上を歩きます。


このあたりの市谷濠は埋め立てられていて、JR中央線や総武線が走るほか、外濠公園の敷地の一部となって野球場やテニスコートなどが設けられています。


桜蔭中学・高校、女子学院中学・高校とともに「女子御三家」と呼ばれる名門私立女子校の雙葉学園(中学校・高等学校:ふたばがくえん)です。この雙葉学園は幼稚園から小学校、中学校、高校まである一貫女子校で、美智子皇后陛下も皇太子妃雅子様も通っておられたという名門校中の名門校。いかにもカトリック系の学校と思わせる荘厳な校舎です。



江戸城三十六見附の1つ、四谷見附(四谷御門)の跡です。四谷見附は江戸城の半蔵門から甲州街道(甲州道中)へと繋がる西の要衝である「四谷口」として構えられたもので、長門国萩藩藩主・毛利秀就が普請を命じられ、寛永16(1639)完成しました。江戸時代、ここには警備の武士がいて、暮れ六ツ(午後6時)になると門の扉は閉められ、夜間は通行ができませんでした。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にありましたが、明治5(1872)に撤去され、現在は石垣の一部が残るだけです。


JR四ツ谷駅前のロータリー脇に設置されている説明板の見附図を見ると、四谷見附の構造がよく分かります。これを見ると、四谷見附(四谷御門)は左折(逆方向だと右折)の枡形門となっています。渡櫓門が甲州街道(現在の新宿通り)に向かって開いていて、高麗門が現在の新四谷見附橋に出ていることがわかると思います。そのため、現在の新宿通りと異なり、江戸時代は城内から甲州街道をやって来た通行人はここで甲州街道から右に折れて一旦枡形門の中に入り、そして次に直角に左に曲がり、現在の新四谷見附橋付近にあった四谷土橋から門外(城外)に出ていきました。


ちなみに、当時、現在の四谷見附橋はありませんでした。明治以降、枡形門によるこのような喰い違い構造が交通の大きな障害となったため、明治44(1911)、四谷見附橋建設が着工され、大正2(1913)に完成。現在の真っ直ぐな新宿通りになりました。現在の四谷見附橋は、平成3(1991)に架け替えたものです。


この路上のタイルのうち、真っ直ぐ伸びる黒い直線のタイルが四谷見附の石組みの外縁を表しています。


現在の新四谷見附橋のあたりに市谷濠と四谷濠の間を堰き止める四谷土橋がありました。前述のように、市谷濠の水面の高さは海抜約10メートル、四谷土橋の先、喰違土橋までの四谷濠(真田濠)の水面の高さは海抜約20メートル弱。かなりの高低差がありました。現在、このあたりの江戸城外濠(市谷濠、四谷濠)は埋め立てられ、JR東日本および東京メトロ丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっていて、そのかなりの高低差のある外濠の景観は残念ながら窺い知れません。



四谷濠(真田濠)です。この四谷濠のあたりはもともと台地であり、この四谷濠は東西に延びる台地の分水嶺を南北に繋げる形で開削して作られた人工の地形です。この四谷濠(真田濠)は幅約90メートル、深さ約14メートル、長さ約1km。寛永13(1636)に完成した江戸城外濠延長14kmの中で最も標高の高いところに位置していたため、玉川上水の水をいったんこの四谷濠(真田濠)に引き入れ、高低差を利用して周囲の濠に水を流す外濠全体の水の流れの起点、言ってみれば貯水池になっていました。このことから、この四谷濠(真田濠)は幾つもある江戸城の外濠の中でも江戸城防衛のための最重要地点になっていたようです。


この四谷濠の開削は主に東日本の大名が務めました。その大名の中にNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田幸村の兄の真田信之いました。開削工事にはほかの大名も大勢参加していたのになぜ特別に真田濠の名が残されているのかですが、信濃国松代藩の真田信行と嫡男の信吉、信教らが開削後も定期的な濠の浚渫や玉川上水による水源としての維持管理に代々取り組んだ徳川家への忠誠の証からだと言われています。それにしても、弟幸村(信繁)は大阪城を守るために「真田丸」を作り、兄(信之)は江戸城を守るために「真田濠」を作った…、つくづく真田家というのは凄い家だと思います。おそらく、江戸城の防御のために大阪城の真田丸のようなものを築くとすれば、この四谷濠(真田濠)あたりの高台が最適地であるということを真田信之は知っていたのかもしれません。ちなみに、江戸の時代、この四谷濠(真田濠)は、一面に蓮華(レンゲ)の花が咲き誇る景勝地であったと言われています。


この四谷濠(真田濠)ですが、第二次世界大戦時の東京大空襲により出た大量の瓦礫により埋め立てられ、現在はそのほとんどが上智大学のグラウンドになってしまっています。


上智大学(Sofia University)の正門です。上智大学といえば、JR四ツ谷駅に近い聖イグナチオ教会横の門が正門のように思いがちですが、あそこは北門で、あくまでも江戸城外濠に面した西側にあるこの門が正門です。この上智大学は徳川御三家の1つ、尾張藩徳川家中屋敷だったところです。


四谷濠(真田濠)の対岸に見えるのが迎賓館(赤坂離宮)のある皇室の赤坂御用地です。この赤坂御用地内には皇太子同妃両殿下,愛子内親王殿下のお住居である東宮御所のほか、秋篠宮邸・三笠宮邸・三笠宮東邸(旧・寛仁親王邸)・高円宮邸があり,その一角では毎年春と秋に園遊会が開催されます。この赤坂御用地はもともとは徳川御三家の1つ、紀州藩徳川家の中屋敷(藩主が暮らした私的な場所)があったところで、約20万坪に及ぶ広大な敷地があります。この赤坂御用地は明治5(1872)に旧紀州藩主徳川茂承が同藩の所有であった上屋敷建物と敷地を天皇家に献上したもので、同年、赤坂離宮と命名されました。

この赤坂離宮は、明治6(1873)にそれまで皇城として使用されていた江戸城の西の丸御殿が失火のより焼失した際には、明治天皇がこの地にお移りになられ、明治21(1888)に現在も皇居として使用されている明治宮殿が完成するまで、仮皇居として使用されました。現在の建物は皇太子時代の大正天皇のために皇太子がお住まいになる「東宮御所」として建設が計画されたもので、10余年の歳月をかけて明治42(1909)完成しました。当時は文明開化が進み、西洋の文化を積極的に取り入れていた時代。建築様式は当時の欧米の宮廷建築の通例であった新バロック様式が採用され、地震を考慮して煉瓦造,石張りの構造体をアメリカ製の鉄骨で補強した建築構造となっています。室内は最高級の輸入調度品と今泉雄作や浅井忠、黒田清輝など当時の一流の芸術家達の作品で豊かに装飾されています。このように、欧州の宮殿に学び、日本の建築技術、美術工芸の総力を挙げて創り上げられた明治時代を象徴する一大モニュメントといえる建物です。縦に伸びる高層建造物になれた現代人の我々の目には、横に広がる迎賓館の雄大さに思わず息を飲むほどです。

現在は世界各国から国王、大統領、首相などの賓客をお迎えするための国の迎賓施設『迎賓館』となっています。 第2次世界大戦の後、10数年を経て日本が国際社会へ復帰し、外国からの賓客を迎えることが多くなってきたため、それまでの東宮御所を国の迎賓施設へとするため大規模な改修工事を施し、和風別館の新設と合わせて昭和49(1974)に現在の迎賓館として新たな歩みを始めました。以降、国の賓客の宿泊や首脳会談、署名式、晩餐会などの様々な接遇行事を行うことを通じて日本の外交の重要な一翼を担っています。平成21(2009)に行われた大規模改修工事の後には、日本の建築を代表する建造物の1つして、国宝に指定されました。


四谷濠(真田濠)の対岸の赤坂御用地の中に木々に囲まれるように見える緑色をした白亜の建物がその迎賓館(赤坂離宮)です。


さすがに上智大学(Sofia University)です。大学の近くの外濠の土手の上にも外国人留学生の姿をあちこちで見掛けます。


上智大学の野球のグラウンドのホームベースの真後ろあたりに迎賓館の東門が見えます。この門は紀州藩徳川家中屋敷の表門だったものです。門のみが移設されているため、こぢんまりとした印象を受けますが、江戸時代の面影を色濃く残している貴重な建造物です。



喰違見附(御門)です。この喰違見附は20メートル下の弁慶濠を見下ろす江戸城の外濠の中で最も高い地形(標高36メートル)に立地にするため、寛永13(1636)築造のその他の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として、江戸幕府開府後最も初期に構築された見附の1つです。他の見附とは異なり、石組みのない簡易的な門でした。喰違いとは、進入路に石組みのない土塁を築いて直進を阻むように、左右何れかに一旦曲がり、また直進する関門の形式名です。戦国時代に枡形門を築かない(築けない)場合に採用された古い関門の形式です。ここは慶長17(1612)に甲州流兵学者の小畑影憲が他の外郭門に先駆けて縄張(設計)した重要な拠点で、寛永13(1636)讃岐国丸亀藩主の生駒高俊が再構築しました。現在はクルマを通すために元々のクランク形からS字状の道路に変えていますが、その名残りを見ることができます。


弁慶濠はすっかり埋め立てられてしまった四谷濠(真田濠)と異なり、ほぼ往時の形のまま現存しています。傍らを首都高速新宿線が走っています。濠の名称は明治の時代に入って架けられた弁慶橋から命名されたもので、江戸時代は次の濠である溜池と同様に呼ばれていました。




……(その4)に続きます。


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