2018年7月31日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その2)


本郷給水所公苑を出たところから「忠弥坂」を下ります。本郷台はちょっとした標高があるので、この坂もかなり急な勾配になっています。


この坂の上のあたりに浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名な槍の名手・丸橋忠弥の槍の道場があって、丸橋忠弥が慶安4(1651)に由井正雪とともに江戸幕府転覆を企てて失敗に終わった慶安事件の際に丸橋忠弥が捕らえられた場所にも近いということで、この坂の名称が付けられました。

慶安事件は前述のように、由井正雪や丸橋忠弥らが中心となって慶安4(1651)に江戸幕府転覆を企てて起こしたクーデター事件で、由井正雪の乱と呼ばれることもあります。徳川家康が江戸に幕府を開いてから50年近くが経過したこの頃、江戸幕府では第3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていました。また、関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人が溢れていました。浪人の中には、武士として生きることを諦め、百姓や町人に転じるものも少なくありませんでした。しかし、浪人の多くは、自分達を浪人の身に追い込んだ幕府の政治に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在していて、これが大きな社会不安に繋がっていました。優秀な軍学者であった由井正雪は徳川将軍家や各地の大名家からの仕官の誘いを断り、独自の軍学塾「張孔堂」を開いて多数の塾生を集めていたのですが、正雪はそうした浪人達の支持を集めました。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には幕府の政治を批判する多くの浪人が集まるようになっていました。

そのような情勢の下の慶安4(1651)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の子・徳川家綱が継ぐこととなりました。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った由井正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始しました。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人達を味方に付けて、幕府を支持する者たちを完全に制圧する…という作戦でした。

しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまうことになります。慶安4(1651)723日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛されました。その前日である722日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、725日、駿府に到着し、駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したのですが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされました。その後、730日には首謀者である由井正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、810日に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫してしまいました。

江戸幕府では、この慶安事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を教訓に、老中・阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直して、各藩には浪人の採用を奨励するなど浪人対策に力を入れるようになりました。その後、江戸幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになります。

忠弥坂を下りきったところに、大正2(1913)に開館した宝生(ほうしょう)流の能楽専門の公演場である宝生能楽堂があります。


讃岐金刀比羅宮東京分社です。宝生能楽堂からこの讃岐金刀比羅宮東京分社にかけてのあたり一帯はもともと讃岐高松藩松平家の下屋敷のあったところです。この讃岐金刀比羅宮東京分社は讃岐高松藩松平家の第13代当主で本郷学園理事長・校長や日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任された松平賴明(よりひろ)さんが寄進し、昭和39(1964)に建立されたものです。神社としては比較的新しいものですが、ここが讃岐高松藩松平家の下屋敷跡だということに大きな意味があります。この下屋敷に隣接して讃岐高松藩松平家の上屋敷もありました。この讃岐高松藩松平家の藩邸に関しては、次に訪れる小石川後楽園のところで、水戸藩徳川家との関係で出てきます。


また、東京にある金刀比羅宮としては港区虎ノ門にある金刀比羅宮が有名ですが、こちらは讃岐丸亀藩61千石・京極家の上屋敷内に勧請されたものです。万治3(1660)、讃岐丸亀藩の藩主となった京極高和が芝・三田の江戸藩邸(上屋敷)に金毘羅大権現を勧請したものを、延宝7(1679)、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座したものです。丸亀は金刀比羅宮への金毘羅詣りの海路と陸路の拠点として繁栄したところです。なので、東京の金刀比羅宮はあくまでも旧丸亀藩上屋敷跡にある虎ノ門の金刀比羅宮で、同じ讃岐国といっても讃岐高松藩の金刀比羅宮は分社ということなのでしょう。

ちなみに丸亀(香川県丸亀市)は私が中学高校時代を過ごしたところで、私が通った香川県立丸亀高校は総高として約60メートルと日本一の高さを誇る見事な石垣で有名な丸亀城の南側、かつて侍屋敷が建ち並んでいた内濠に面した六番町にありました。なので、丸亀藩上屋敷跡と聞くと、メチャメチャ身近に感じられます。


神田川に架かる水道橋です。この水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していました。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあったようですが、この寺院は明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転しています。寛文12(1670)の地図では「水道橋」と表記されていることから、明暦の大火以降、水道橋と呼ばれるようになったようです。この橋の名称は、橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来します。前述の東京都水道歴史館のところでも述べましたように、江戸時代初期の神田上水は、井ノ頭池を水源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰で塞き上げた後、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路で導水し、そこからこの場所で神田川を懸樋で渡して、神田・日本橋方面に給水をしていました。


現在の水道橋は、昭和3(1928)に、長さ17.8メートル、幅30.7メートルの鋼製の橋に架け替えられました。現在の橋は昭和63(1988)に架け替えられたもので、先代の橋でよりやや大ぶりの橋となっています。現在の橋には上下各4車線の白山通り(東京都道301号白山祝田田町線)が通り、地下には都営地下鉄三田線が通っています。白山通りは、水道橋の左岸側の水道橋交差点で外堀通りと交差します。また、右岸側にはJR中央本線が通り、水道橋駅東口が至近にあります。都営地下鉄三田線の水道橋駅は水道橋交差点の北側にあり、橋を渡っての乗換となります。なお、この水道橋は東京都千代田区と文京区の区境になっています。


神田川を少しだけ下流のほうに進みます。ここに神田上水を神田・日本橋方面に分水するための「お茶の水分水路」があった跡を示す石碑が立っています。


さらにもう少し進むと、水道橋という橋の名称の由来となった神田川に架かる懸樋の跡を示す石碑です。石碑には当時の様子が描かれています。


戻って水道橋を渡ります。先ほど渡ったお茶の水橋と違って、同じ神田川でも水面までの距離が近いことが分かります。こういうことからも、いかに神田山(現在の本郷台、駿河台)が高い山(台地)だったかが窺えます。



水道橋で神田川を渡った先にあるのがJR総武線の水道橋駅です。


三崎稲荷神社です。三崎稲荷神社は、800年以上前の寿永元年(1182)に武蔵国豊島郡三崎村(現在の千代田区神田三崎町)の鎮守の社として創建されたと伝わっています。ちなみに、ここ“三崎町界隈”は、かつて日比谷入り江に突き出した岬でした。そのため、「三崎村」と呼ばれるようになったとされています。神社の正式な社号は「三崎稲荷神社」なのですが、金刀比羅神社を合祀しているため、地元では「三崎神社」と通称されています。現在の場所に移転したのは明治38(1905)のことで、それまでは徳川家康による日比谷入り江の埋め立て工事や江戸城外濠神田川筋の掘割工事、甲武鉄道(JR中央本線)の敷設工事という江戸(東京)の町の発展に合わせて慶長8(1603)、万治2(1659)、万延元年(1860)と何度か移転してきました。


三崎稲荷神社は、第3代将軍徳川家光から旅行安全の神様として信仰されており、家光が江戸城の出入りの際は参拝したと伝わっています。参勤交代の制度を定めた時も将軍家光自らが参拝し、諸大名にも参拝を促したとされています。それがきっかけで諸大名は参勤交代による江戸入りの際には必ずこの三崎稲荷神社に参拝し、心身を祓い清めることが慣例となっていました。このことから、「清めの稲荷」と呼ばれていたとも伝わっています。明治の時代に入ってもその風習は引き継がれ、大隈重信が海外へ渡航する際も、旅の安全を祈願するために参拝したのだそうです。

現在でも「交通安全」や、「旅行の安全」のご利益があるとされ、オフィス街の中にある神社にもかかわらず、多くの参拝者が訪れるところらしいです。私達もこの先の道中の安全祈願をさせていただきました。

新三崎橋で日本橋川を渡ります。


日本橋川は神田川の分流で、東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分岐、ここを起点として真南に流れます。分岐直後からほぼ全流路に渡って首都高速5号池袋線、首都高速都心環状線といった高速道路の高架下を流れます。靖国通りと交差後、南東方向に流れを変え、竹橋の雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に約30 メートルという近距離まで接近し、この付近から首都高速都心環状線の高架下を流れます。神田橋、日本橋、江戸橋などを通過して、江戸橋JCT(ジャンクション)からは首都高速6号向島線の高架下を流れ、亀島川を仕切る日本橋水門付近でようやく川面が開けるのですが、空を望める川面は僅か500メートル弱ほどで、そこを過ぎると中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。


この日本橋川ですが、もともとは平川と呼ばれていました。平川に繋がる神田川開削工事が行われた際、この小石川見附門付近にある三崎橋(新三崎橋の元の橋)より南側の平川の流路は一度埋め立てられ、明治36(1903)に再度開削されたものです。


神田川の前身である平川は、武蔵野台地のハケ(崖線)からの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったのですが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水でした。そこで徳川家康が着手したのが平川の普請でした。

平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われました。当時は潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸の水も海水が混じった水しか出ず飲料水には適しませんでした。これを解決するため、天正18(1590)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水を整備して主に江戸城内への用水は確保できたのですが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、次に豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備しました。神田上水は目白下(現在の文京区関口の大滝橋付近)に、石堰(大洗堰)を作って海水の遡上を防ぎ、ここで分水した平川の水を平川の北側の崖に沿って開削された特別な水路を使って通しました。平川の本流から分水した上水は水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)の中を通った後に(水道橋のところで説明した)懸樋や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給しました。で、当時は目白下の石堰から下流の平川本流は江戸川(現在の江戸川とは別物)と呼ばれていたというのは前述のとおりです。

次に、江戸城を拡張するため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀と繋ぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の外濠としました (現在の日本橋から銀座にかけての地域は徳川家康が入府する以前は平川や隅田川によって江戸前島と呼ばれる大きな砂州になっていて、西側に日比谷入江が所在していました)。しかし、この埋め立てられた日比谷入江は低地であったため、たびたび平川の氾濫による洪水に見舞われて、その洪水対策が新たな課題となりました。

2代将軍・徳川秀忠の時代には、平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われました。元和6(1620)、徳川秀忠の命を受け、初代仙台藩主・伊達政宗が現在のJR飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削という大工事に着手しました。この大工事ではこの小石川見附門付近から東の方向に神田山(本郷台地)を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶ノ水に人工の谷(茗渓)を開削しました。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれています。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて川筋を真東に向かわせ、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させました。この開削当初の「仙台堀」は江戸城の外濠としての機能は果たしたものの、川幅が狭く洪水を解消する機能には事欠いたので、次に江戸幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、万治3(1660)より拡幅工事がなされました。その後、この拡幅された掘割りから隅田川に注ぐ河口までの間の区間は神田川と呼ばれるようになり、広く開削された神田川を使って舟運が船河原橋(ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになりました。

一方、この神田川の開削によりこれまでの平川下流域における洪水対策のため、小石川見附門付近にあった三崎橋(新三崎橋の元の橋)から南流していた旧・平川は現在の九段下付近(現在の堀留橋のあたり)まで埋め立てられて、神田川と切り離されて堀留となりました。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、神田川とは別に道三堀からの舟運を導いてきました。以降、近代に至るまでこの堀(飯田川)の流域は江戸の町の経済・運輸・文化の中心として栄えました。堀(飯田川)の両側には多くの河岸が建ち並び、全国から江戸にやってくる商品で溢れ、大いに賑わいました。上流から鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸などがあり、現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っています。 (道三堀は江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城(現在の皇居)の和田倉門から辰の口(現在のパレスホテルあたり)、さらには現在の大手町交差点を経由し、現在のJR東京駅の北側にある呉服橋交差点あたりで平川に合流していた運河のことです。)

明治の時代に入り、道三堀の西半分と外濠の一部が埋め立てられ、明治28(1895)、甲武鉄道(現在のJR中央本線)の東京側のターミナル駅として飯田町駅(現在の飯田橋駅)が開設されると、飯田川は甲武鉄道の飯田町駅との間を結ぶ運河としても使われるようになります。これを受けて、前述のように明治36(1903)、かつて神田川開削時に埋めた飯田川の北側の区間を再度開削して、再び神田川(旧・平川)と結びました。これが現在の日本橋川と呼ばれている河川となりました。

日本橋川の歴史を書いた「飯田町遺跡周辺の歴史」という説明板が新三崎橋のたもとに立てられています。


今回も企画、そしてガイドは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんです。江戸に関して知らないことはない…って感じで、場所の説明だけでなく、当時の歴史的背景などもスラスラスラスラ出てきます。しかも、話がメチャメチャ上手い!!  話を聞くだけでも価値があります。

かつてここに小石川見附門がありました。小石川見附門は、寛永13(1636)、備前国岡山藩主の池田光政が築いたものです。寛政4(1792)に渡櫓門が焼失したのですが、二度と再建は許されない決まりであったため、再建されることはありませんでした。


この小石川見附門は水戸様御門とも呼ばれ、神田川に架橋された小石川見附橋の外側には徳川御三家の1つ水戸藩徳川家の上屋敷(8万坪)がありました。また神田川を挟んで小石川見附門の内側の一帯には、讃岐高松藩松平家の上屋敷と中屋敷がありました。実は小石川見附門を挟んで並ぶ水戸藩徳川家と讃岐高松藩松平家は密接な関係があるのです。

後に『水戸黄門』の名で知られる水戸藩徳川家第2代藩主・徳川光圀は実は初代藩主・徳川頼房の三男でした。その徳川頼房は徳川家康の十一男でした。頼房の兄の九男が徳川義直が尾張藩の初代藩主で、尾張藩徳川家の始祖となった人物、そして十男の徳川頼宣が紀伊国和歌山藩の初代藩主で、紀州藩徳川家の始祖となった人物です。で、この御三家のうち最初に男子に恵まれたのが水戸藩徳川家藩主の徳川頼房でした。

ですが、水戸徳川家が尾張藩徳川家や紀州藩徳川家よりも先に嫡男に恵まれるということは江戸幕府の秩序を保つ上で許されなかったことのようで、そういう“大人の事情”からせっかく授かった子供は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させられ、頼房にも隠したまま江戸で育てられました。この子が後に讃岐高松藩12万石の初代藩主となる松平頼重です。頼重は15歳の時に父・徳川頼房に初御目見できたのですが、この間に水戸藩の嗣子には同母弟の徳川光圀が既に決定していました。翌年に右京大夫を名乗り将軍徳川家光に御目見したのですが。この時の扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いでした。その後、前述のように頼重は松平頼重として讃岐高松藩12万石の初代藩主となります。ということで、水戸藩徳川家の第2代藩主徳川光圀と讃岐高松藩初代藩主の松平頼重は両親を同じくした兄弟ということになります。

水戸藩徳川家と讃岐高松藩松平家の関係はこれだけにとどまりません。後に松平頼重は実子の綱方、綱條の2人を徳川光圀の養子に差し出し、水戸藩徳川家の家督はこのうちの綱條が徳川綱條として継承しました。一方、松平頼重は徳川光圀の実子・頼常を養子に迎え、松平頼常として讃岐高松藩第2代藩主に据えました。この継嗣(相続人、後継ぎ)の交換の背景には、「本来水戸藩徳川家の家督は自分ではなく長兄の頼重が継ぐべきだったのだ」という徳川光圀の思いがあったとされています。水戸藩徳川家の上屋敷と讃岐高松藩松平家の上屋敷がお隣同士と言っていいほど非常に近いところにあるのも、こういうことが背景にあるのかもしれません。

ちなみに、水戸藩徳川家初代藩主の徳川頼房は生涯正室を迎えなかったのですが、何人かの側室から十一男十五女と多くの子をもうけ、男子は高松藩を筆頭に多くの支藩に分かれました。そのおかげで、水戸藩は幕末に至るまで他家からの養子を一切迎えず、藩祖頼房の血統を守り抜くことができました。逆に水戸本家や支藩から他家へ養子に行く者が多かったので、頼房の血筋は更に広がり、幕末に活躍した徳川慶勝(尾張藩徳川家第14代・第17代当主)、徳川茂徳(尾張藩徳川家第15代藩主)、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)などの高須四兄弟は頼房の男系子孫です。そうそう、御三卿の1つである一橋徳川家の第9代当主を経て徳川宗家を相続し、第15代将軍に就任した徳川慶喜も水戸藩徳川家第9代藩主徳川斉昭の実子です。なので、幕末の幕府は水戸藩徳川家が中心になって動くことになります。また、徳川宗家の現当主の徳川恒孝さん(元日本郵船副社長で公益財団法人徳川記念財団初代理事長等)も、水戸藩徳川家初代藩主である徳川頼房の男系子孫にあたります。


小石川見附門の櫓門の遺構が僅かに残っています。小石川見附門の櫓門は前述のように寛政4年(1792)に焼失した後は再建されませんでした。 明治5(1872)には桝形の石垣もあらかた撤去されてしまったことになっているのですが、ほんの一部が今も残っているようです。


小石川橋で神田川を渡ります。この小石川橋は千代田区飯田橋3丁目から文京区後楽1丁目に通じる橋で、江戸時代には小石川見附門があったところです。明治5(1872)に城門を撤去して、木橋を新しく架け直しました。明治28(1895)に甲武鉄道の東京側のターミナル駅である飯田町駅が近くにできてこの一帯は大いに賑わいました。同じ年、利用者の増加に応えるため、橋も修繕を加えられました。昭和2(1927)に鋼橋として架け替えられたのですが、老朽化のため、平成24(2012)に改修されています。


前述のように、小石川橋の少し下流で日本橋川が神田川の右岸から分流します。また、上流にあたるこの先の飯田橋で右岸から外濠(飯田濠)が合流します。明治36(1903)に飯田町堀留までの埋め立て部分の水路が再び掘削され、小石川見附橋(現在の小石川橋)が神田川と日本橋川の合流地点となりました。




……(その3)に続きます。




2018年7月30日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その1)


510日、某旅行会社主催の江戸城外濠内濠ウォーキングの【第2回】に参加して、御茶ノ水→飯田橋を歩いてきました。この日のスタートポイントは前回のゴールだったJR御茶ノ水駅西口改札前。ここから飯田橋まで歩くのですが、距離は短いものの、今回は比較的テーマを絞った見どころを幾つか訪ねます。

JR御茶ノ水駅の西口前に「お茶の水(御茶ノ水)」という地名の由来について書かれた石碑が立っています。その石碑によると、このあたり一帯は古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたのですが、第2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止を目的とした神田川の放水路と江戸城の外濠を兼ねて東西方向に掘割りが作られ、現在のような渓谷風の地形が形成されました。それとちょうど同じ頃、その堀割りの北側にあった高林寺から泉が湧き出し、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったのだそうです。なるほどぉ〜。


お茶の水橋で神田川を渡ります。このあたり一帯は神田山を崩して人工の堀割りが掘られ、現在のような渓谷風の地形が形成されたことは前述のとおりで、付近一帯は高林寺から湧き出した泉を由来にして「お茶の水」と呼ばれるようになりました。これにより、この人工の渓谷も「お茶の水谷」、さらに雅称として「お茶の谷」という意味の「茗溪(めいけい)」と呼ばれるようになりました。「お茶の水橋」の名称もこの地名に由来します。

しかし当時の土木技術では深い峡谷に架橋することは困難だったこともあり、橋が建設されたのは明治に入ってからのことです。初代の橋は明治24(1891)に日本人の設計としては初の鉄橋として架けられました。当時の構造は長さ38(69メートル)・幅6(11メートル)の上路式トラス橋で、橋の上には路面電車が走っていました。明治37(1904)に橋の下に甲武鉄道(現在のJR中央本線)の御茶ノ水駅が開設されました。大正12(1923)の関東大震災では橋板に木材が使われていたため焼失し、神田川は土砂崩れで堰き止められました。昭和6(1931)、関東大震災からの震災復興事業として架け替えが完成し、新たな橋は橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製のラーメン橋になりました。耐震性に優れた造りの橋で、架橋から90年近く経った現在に至るまで使用され続けられています。

茗溪と呼ばれるとおり、このあたりは人工の堀割りとは思えないほどの見事な渓谷美を醸し出しています。微妙に曲がるS字カーブなど、とても人工の堀割りとは思えません。この日も案内役を務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんによると、ここから見える風景が江戸城の外濠で一番の景観なのだそうです。堀割りに沿ってJR中央本線が走っていて、ちょうど総武線の各駅停車の電車が接近してきました。鉄道マニア的にも絶景ポイントです。この深い渓谷が人工のものとは…。現代のような近代的な重機がなかった時代に、ほとんど人力だけで掘られたものです。本当に凄いことだと思います。ちなみに、この掘割りの開削工事で出た大量の土砂は、他の神田山を崩して出た土砂と同様、日比谷入り江の埋め立て等に使われました。


ここまで何度か述べてきましたように、神田川は江戸時代に神田山を人工的に開削して構築した堀割りであり、JR御茶ノ水駅から見て神田川を挟んで北側を湯島台といい、南側は駿河台と呼ばれる台地になっています。神田川が開削されるまではこの2つの台地は地続きで、神田山という1つの大きな山でした。

神田川は東京都三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して東へ流れ、前回【第1回】で訪れた両国橋脇で隅田川に合流する流路延長約24.6kmの河川です。東京都内における中小河川としては最大規模の河川で、都心を流れているにもかかわらず全区間にわたり開渠である極めて稀な河川です。かつては平川と呼ばれ、現在の飯田橋付近から現在の日本橋川を通って日比谷入江に流れていたのですが、江戸幕府による度重なる普請と瀬替えが行われ、現在の流路となりました (なので、このあたりから東の区間は江戸時代に人工で開削された堀割りです)。江戸市中への上水が引かれてからは、上水を分流する石堰より上流を神田上水、下流を江戸川(現在の江戸川とは別物)と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになりました。明治の時代になり神田上水が廃止されてからは石堰より上流部分も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法の改正によって全て神田川の呼称で統一されるようになりました。このあたりのJR中央本線(総武線も含む)の線路は、その江戸時代に開削された堀割りの中に敷かれています。

私達の世代、「神田川」と言えば、「南こうせつとかぐや姫」が歌った『神田川』ですね。1970年代の若者文化を象徴する作品の1つに数えられ、シングル盤は200万枚以上売れる日本のフォークソング史に燦然と輝いて残る大ヒット曲となり、また、関根恵子さん草刈正雄さん主演で映画にもなりました。

お茶の水橋を渡ったところを左折してしばらく進んだところに東京都水道歴史館があります。この東京都水道歴史館は江戸から東京にわたる約400年間の大切な水道の歴史と、安全でおいしい水を届けるための水道の技術・設備に関わる展示を、無料で公開している東京都水道局が運営するPR館の1つです。神田上水や玉川上水などの江戸時代の上水から、明治時代以降の近代水道の創設、現在、規模・水質ともに世界有数のレベルに達した東京水道の歴史や技術を実物資料や再現模型、映像資料などを用いてわかりやすく紹介しています。特に玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、閲覧室では江戸時代の水道の記録『上水記』(東京都指定有形文化財[古文書])をはじめとした貴重な水道に関する歴史資料を保存・公開しています。 



私もこれまで何度か述べてきましたように、江戸時代、江戸は人口100万人を抱える世界最大の都市でした。その江戸の町に住む人々の生活用水を確保することが最重要課題であると考えた徳川家康は、江戸入府にあたって、家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じ、藤五郎は小石川上水を造ったといわれています。小石川上水の水源や配水方法、経路等についての具体的なことの詳細は現在もわかっていませんが、小石川上水は江戸における最初の水道となり、その後の江戸の発展とともに神田上水へと発展していきました。また、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の町の西南部に給水されていました。

江戸の町づくり及び城づくりは3代将軍家光の時代(元和9(1623)~慶安4(1651))に完成します。天守閣に金の鯱(しゃちほこ)が光り輝く江戸城の周辺には、豪華な大名屋敷が幾つも建ち並び、日本橋・京橋・新橋方面の下町も大いに賑わいをみせることになります。この下町に水を給水するため、井ノ頭池を水源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰で塞き上げた後、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路で導水し、神田川を懸樋(かけひ)で渡して、神田・日本橋方面に給水するという神田上水が、江戸の町づくりと軌を一にして、完成しました。この東京都水道歴史館、特にインフラ系のエンジニアにとっては、なかなかに興味深いところです。

http://www.suidorekishi.jp/ 東京都水道歴史館HP

説明員さんの解説付きで東京都水道歴史館の館内を見て回りました。


まず、説明を受けたのは江戸の町中に張り巡らされた上水道設備に関してです。この江戸の上水道設備ですが、玉川上水により江戸の町に送られてきた多摩川の水を四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配される仕組みになっていたのですが、これがとにかく凄いんです。四谷大木戸の「水番所」以下は基本的に「自然流下方式」で水の供給が行われており、樋と枡を用いた地下水道が使われていました。


樋とは送水菅のことで、石樋と木樋が一般的で他に瓦樋・竹樋などの種類もありました。このうち石樋は幹線として使われ、木樋は石樋に繋がる支線として主に用いられました。昭和53(1978)に霞ヶ関にある外務省の地下から玉川上水の幹線として使用されていた石樋が発掘されました。この石樋は側壁が石を積み上げて作られていることから「石垣樋」と呼ばれていますが、外径寸法が1,250mm×1,300mm、内径寸法が850mm×750mmと大型のもので、石と石との間には粘土を詰め込み、漏水を防ぐ工夫が施されていました。


枡は貯水槽として一時的に水を溜めておく役割をもった施設です。枡は木または石でできており、樋を通すための穴が開いていました。「埋枡」と「高枡」の2種類があり、地下に設けた枡を「埋枡」、地上に設けた枡を「高枡」と言います。さらに「高枡」には流水を高所に上げる「登り竜枡」と流水を低所に落とす「下り竜枡」の二種類がありました。それに水の勢い(水量・水質)を見たりするための「水見枡」や、分水するときに使われる「わかれ枡(分水枡)」といった枡も存在しており、これらの樋と枡を使って給水をしていたわけです。


この樋と枡による配管は元禄年間(1688年〜1704)には町屋の台所にも及んでいたようです。道路部分の伏樋から各戸に水を引き込み、宅地内の上水用井戸に水が流れるようになっていました。長屋にも上水井戸が設置され、住人たちが共同で使っていました。水量と水質に関しては厳重な管理が敷かれていました。神田上水、玉川上水の両上水とも各所に番人を置いて毎日水量と水質を検査していたようです。

なお、上水道が整備していたのは隅田川の手前までで、隅田川の東側に対しては、下の右の写真にあるように天秤棒に水の入った桶を下げた冷水売りが水を売り歩いていました。


これは神田川に架かる懸樋(かけひ)を再現した模型と、その当時の様子を描いた浮世絵です。上水の水はこのような懸樋を使って神田川等の河川を渡していました。この後で行く水道橋付近にこの模型と浮世絵に描かれた懸樋の跡があります。


江戸の上水道は地下に水道管を敷設していた点で現在の水道に通ずるところがあります。「水道の水で産湯をつかい」と江戸っ子の自慢でもあった上水道は当時の最新の技術を駆使したものだったわけです。当時、これほどの設備を持つ都市は世界でも数えるくらいで、おまけに江戸は世界最大の人口(100万人)を誇るロンドンやパリをも凌ぐ世界一の大都市でした。これは日本人として誇るべきことである!…と私は思います。このように、上水道設備は江戸の町の発展を支える最重要インフラ設備であり、徳川家康が江戸城の改築に先立っていち早く上水道の整備に着手させたこと、その結果として玉川上水の開削と合わせて江戸時代初期にここまでの上水道設備を整備したことにより、今の日本の首都東京がある…と言っても過言ではないと私は思います。この江戸の上水道設備はもっともっと注目されるべきだと私は思います。

次に玉川上水に関する説明を受けました。繰り返しになりますが、徳川家康が豊臣秀吉に命じられて入府した当時、見渡すかぎりの湿地帯が広がるだけだった江戸の町が瞬く間にロンドンやパリを凌ぐ人口100万人を超える世界的な大都市にまで発展できたのは、都市を支える基盤、すなわちインフラ設備がしっかりと構築できていたからです。中でも都市としての最重要インフラ設備が上水道です。ヒトは飲料水がないと暮らしていけません。しかも当時の江戸は現在の皇居の間際まで海水が流れ込んでいたような一面の湿地帯で、井戸を掘っても湧き出す水には海水の塩分が含まれていて、とても飲用には適さないようなところでした。

そこで江戸幕府が目を付けたのが豊富な水量を誇る多摩川の水で、その多摩川の上流から飲用に適した綺麗な水を特別な用水路を開削して江戸の町に引き込み、それを江戸の町中に張り巡らせた地下水路で各家庭にまで送り届けられるようにしたわけです。この多摩川の上流から飲料水を引き込むために開削した特別な用水路が「玉川上水」でした。




玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)のことで、江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水)と呼ばれる上水の1つです。

天正18(1590)、関白・秀吉から関東240万石への国替えを要求された徳川家康は家臣団が猛反対するなか、「関東には未来(のぞみ)がある」と居城を江戸に移して、街づくりに着手するのですが、その中でも飲料水の確保はまず最初に手を付けないといけない喫緊の課題でした。特に城下の東南側の低地は湿地帯を埋立て造られた土地であり、井戸を掘っても海水が混じり、良水は得られなかったため、上水の建設は必須となっていました。そこで徳川家康は天正18(1590)、配下の大久保藤五郎(忠行)に上水道の整備を命じます。大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で、この上水道がその後発展・拡張したのが神田上水であるといわれています。

神田上水は三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井之頭池を水源とする上水です。この井之頭池を水源とするようになったのは慶長年間間(1596年〜1614)以降のことであると推定されています。井之頭池を水源として見立てたのは前述の大久保藤五郎と内田六次郎の二人で、内田家はその後、明和6(1770)に罷免されるまで代々神田上水の水元役を勤めました。井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」とも呼ばれていました。井之頭と命名したのは3代将軍徳川家光だと言われています。

神田上水は完成したものの、江戸の都市拡大に伴って急増した水需要への対応は幕政の急務でした。そこで次に江戸幕府が目をつけたのが、多摩川の水でした。『玉川上水起元』(1803)によると、承応元年(1652)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画されました。多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、甲州街道の江戸への入り口にあたる四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配するという計画です。

工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱が、現場工事を指揮する水道奉行には利根川の東遷という江戸という街を建築していく上で極めて大きな功績を残した土木工事のスペシャリストである関東郡奉行の伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が工事を請負いました。幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは、承応2(1653)の正月で、着工が同年4月。羽村から四谷までの間の約43kmの距離の区間の標高差が僅か約100メートルしかなかったり、浸透性の高い関東ローム層の土壌に水が吸い込まれてしまう区間があったりして、引水工事は困難を極めましたが、そういう困難を次々に克服し、僅か約半年間の工期で羽村取水堰〜四谷大木戸間約43kmを開通し、承応2(1653)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3(1654)6月から江戸市中への通水が開始されました。

羽村取水堰から四谷大木戸までの間の約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれていました。一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されています。庄右衛門・清右衛門の兄弟は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。

それにしても、青梅市に近い多摩の羽村市からこの四谷大木戸までの約43kmの露天掘りの用水路をわずか半年で開通させるとは! それも現代のような大型重機もない中で!  しかも前述のように全長約43kmの上水の高低差は僅かに約100メートル。これは1km2.3メートル、10メートルでは僅かに2.3cmの高低差ということになります。現代のような精密な測量器具もない時代に、この非常に精度の高い用水路を構築したことは驚異的とも言えるものです。当時の技術力の高さには驚くばかりです。

上記でご紹介した写真は『上水記』に記載されている羽村取水堰の絵図です。この堰は固定堰と投渡堰(なげわたしぜき)2つの堰で構成されていました。投渡堰とは堰の支柱の桁に丸太や木の枝を柵状に設置したもので、大雨時に多摩川本流が増水した場合、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避する目的で、堰に設置した丸太等を取り払って多摩川本流に流す仕組みになっています。この仕組みは堰が設置された承応3(1654)から現代に至るまでほぼ変わっていません。また、固定堰と投渡堰の境には、かつて江戸へ木材を運ぶために設けられた筏の通し場が設置されていました。

上水の建設は、玉川上水の完成後も本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水の四上水が加わり、計6つの上水道が存在しました (青山・三田・千川の三上水は玉川上水の分水)。これを「江戸の六上水」と言います。しかし、江戸時代を通じて使用されたのは神田上水と玉川上水の両上水に限られ、他の四上水は、享保7(1722)に突如一斉に廃止されてしまいました。この時代は幕府の財政難を解消するため 8 代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」が行われている真っ最中であり、その享保の改革が大きく影響しているものと思われます。

東京都水道歴史館では明治時代以降の近代水道についても展示されています。


これは現代の水道設備の展示です。現代の水道設備は鋼管が中心の近代的なものになっていますが、基本は江戸時代のものと同じです。翻って言えば、いかに江戸時代の江戸の町の水道設備が時代を先取りした先進的なものであったか…とも言えようかと思います。



神田上水で実際に使われていた石樋が、東京都水道歴史館の裏手にある東京都水道局が管理する本郷給水所公苑内に移設・復元されて展示されています。



 本郷給水所公苑では、ちょうどバラ(薔薇)が満開の時期を迎えていました。綺麗です。



  

……(その2)に続きます。