昼食を終え、再び甲州街道歩きに戻ります。内濠を渡り、日比谷通り(甲州街道)に戻ります。右手に見える濠は「日比谷濠」です。
日比谷通りを進みます。地図を見返してみると、日本橋を出発してからまだ2km弱しか歩いてきていません。それでこの執筆の分量です。この日はこれから新宿まであと9km近く歩きます。果たしてこの【第1回】を最後まで執筆して完結させることができるのか…と書きながら心配になってきます。五街道は日本橋を出発してから、それぞれの方向に分かれて進んでいくのですが、皇居周辺等、東京の都心を通っているぶん、東京23区内に限っては甲州街道が一番見所が多そうです。
DNタワー21です。この建物は昭和8年(1933年)に竣工した農林中央金庫有楽町ビルと、昭和13年(1938年)に竣工し、終戦後の昭和20年(1945年)にGHQに接収され、総司令部本部として使用された第一生命館をそれぞれ部分保存の上、解体・再構築し一体の建物としたものです。平成元年(1989年)から平成7年(1995年)にかけて再開発され、ともに本社を置く第一生命保険と農林中央金庫の頭文字を取って「DNタワー21」と名付けられました。DNタワー21の西寄り部分に部分保存されているのが第一生命館です。この建物は第二次世界大戦中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されていました。 終戦後は前述のように占領軍に接収され、昭和27年(1952年)7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されていました。館内には連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の執務室がそのまま保存されているのだそうです。第一生命館の外観は西側には方柱10本が立ち並んだギリシャ風の豪壮で美しい建築で、平成16年(2004年)には東京都選定の歴史的建造物に指定されています。
日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点です。この日比谷交差点は都心部にあり、日比谷通りと晴海通りという都内の二大幹線道路が交差するため昔から交通量が多く、昭和5年(1930年)に日本初の電気式信号機が設置されました。甲州街道はここで右折し、晴海通りに入ります。
ですが、私達甲州街道歩きの一団は交差点を渡り、日比谷公園の中に入ります。
日比谷交差点からの入り口から入ってすぐに「日比谷見附跡」の碑が建っています。東京メトロ丸ノ内線と銀座線の駅名にもある赤坂見附が有名ですが、「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。言ってみれば“交番”のようなところですね。説明書きによると、この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部なのだそうです。城の外側から順に、高麗門(こまもん)、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていましたが、石垣の一部だけがここに残っているのだそうです。
また、当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時にその面影を偲び「心字池(しんじいけ)」としたのだそうです。全体を上から見ると、「心」の字を崩した形をしているのだそうです。禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法の一つだそうです。
ここに「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」という案内看板が立っています。ここは仙台藩祖・伊達政宗から三代綱宗の時代、慶長6年(1601年)から寛文元年(1661年)まで仙台藩外桜田上屋敷があったところです。その敷地は現在の日比谷公園内にあり、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷濠沿いの道路(甲州街道)から小音楽堂付近までの広大なものだったようです。伊達政宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636年)5月、この地で70年の生涯を閉じました。
面白い形をした水飲み場です。この水飲み場は明治36年(1903年)の日比谷公園開設当時のものです。鋳鉄製で重厚な中にも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。また、馬も水が飲めるような形に作られていて、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時が偲ばれます。
アークライト灯です。このアークライト灯も日比谷公園開設当時の公園灯で、園内には10基が設置されていました。また、園内にはこれ以外にもガス灯が70基設置されていました。先ほどの水飲み場と同じく鋳鉄製で統一されたデザインになっており、両方とも日比谷公園開設当時を偲ばせる記念として、園内に1基ずつ残されています。
このあたりに長州藩の上屋敷があったということなのですが、どこにも案内表示が出ていないので、よく分かりません。
祝田橋交差点を渡ります。旧甲州街道である国道20号線(国道1号線と重複)は、この祝田橋交差点で晴海通りから内堀通りに変わります。また、祝田橋を過ぎて内濠も日比谷濠から「凱旋濠」に変わります。
この敷地には江戸時代には米沢藩30万石・上杉家の藩邸(上屋敷)があり、その記念碑も建立されています。米沢藩の初代藩主は上杉景勝。その前は上杉景勝の家老だった直江兼続の所領でした。直江兼続と言えば、平成21年(2009年)のNHK大河ドラマ『天地人』で取り上げられ、主演の直江兼続を妻夫木聡さんが演じられました。その『天地人』では上杉景勝役を北村一輝さんが演じられました。
TVドラマなどでもお馴染みの警視庁の建物です。“ある筋”の方々の間の業界用語だと「桜田門=警視庁」と言う解釈になるそうですが、本来は皇居(江戸城)にある城門の事を指します。
これがその桜田門、幕府大老井伊直弼の暗殺事件(いわゆる桜田門外の変)で有名な桜田門です。正式には外桜田門といい、枡形門が完全な形で残っています。枡形門とは防備のための二重の門です。比較的小さい最初の門(高麗門といいます)をくぐると、濠や石垣に囲まれた方形の空き地があり、通常は左側または右側に第二の門があります。このため城内に侵入しようとする敵勢は直進できないようになっています。そして、第二の門は渡櫓(わたりやぐら)という形式で、門の上部に櫓があり、ここから弓や鉄砲で敵を狙い撃ちして殲滅しました。しかも、外部からは枡形の中が見えにくいため、敵の後続部隊からは門内で何が起きているか分からないようにもなっています。外桜田門の場合、高麗門を入ると、正面と左側が濠で、右側が渡櫓です。このような枡形門は江戸城の内濠、外濠に架かるほとんどの橋に設けられ、厳重な警備が行なわれていました。この外桜田門は昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財に指定されています。
万延元年(1860年)3月3日、大雪の朝、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した大老・井伊直弼(近江彦根藩の第15代藩主)は上屋敷から60名ほどの供を従えて登城する途上、外桜田門を目前にしたこの場所で水戸の藩士らに襲撃され、暗殺されました。強権をもって国内の反対勢力を粛清したいわゆる「安政の大獄」の反動を受けて暗殺されたものです。この桜田門外の変から時代は大きく動き、7年後の慶応3年(1867年)10月14日には江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したいわゆる大政奉還が起き、江戸幕府、徳川の世は264年の歴史に幕を下ろすことになります。
井伊直弼が暗殺された場所は、現在の東京メトロ有楽町線、桜田門駅の3番出口付近だと言われています。
この桜田門交差点で国道1号線が分岐左折し、桜田通りを進んでいきます。甲州街道はこのまま内堀通りを進みます。国道1号線が分岐したので、青い逆さオニギリ型をした国道表記の道路標識の番号が「20」に変わります。ここからは国道20号線単独区間となります (国道が重複する区間は、基本的に若いほうの国道の番号が表記されます)。また、桜田門から半蔵門までは橋がなく、この間の内濠の名称は「桜田濠」に変わります。
これも皆さんよぉ〜くご存知の国会議事堂です。現在の建物は昭和11年(1936年)に帝国議会議事堂として建設されたものです。建物は鉄骨鉄筋コンクリート造り地上3階(中央部分4階、塔屋最上部まで含めれば9階建て)、地下1階。左右対称の形を成しており、正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院が配置されています。外装は3種類の花崗岩を使った石積みで、内装には33種類の大理石、2種類の蛇紋岩をはじめ、沖縄県宮古島産珊瑚石灰岩、橄欖岩、黒髪石、尾立石、日華石などが使用されており、こうした石材は日本全国から取り寄せられています。特に外装に多く使われたのが広島県倉橋島の桜御影と呼ばれる桜色をした御影石で、議事堂に使用されたことから、地元では「議院石」という呼び名もつけられているのだそうです。また、天皇陛下の休憩室には島田市産の紅葉石が使用されているのだそうです。
実はこの国会議事堂って議事堂としては5代目の建物だってこと、ご存知でしたか?
初代の議事堂は現在の経済産業省の敷地内に建てられた木造洋風2階建の建物でした。竣工は第1回帝国議会召集前日の明治23年(1890年)11月24日。11月29日に貴族院議場で開院式が行われ、第1回帝国議会が開会されたのですが、会期中の翌明治24年(1891年)1月20日未明に漏電により出火し、この初代仮議事堂は全焼してしまいました。このため、急遽、貴族院議場を華族会館(旧鹿鳴館)へ、後に帝国ホテルへ移し、衆議院議場を東京女学館(旧工部大学校)へ移して会期を終了させました。
2代目の議事堂は初代の議事堂の跡地に昼夜兼行の突貫工事で再建が進められ、翌明治24年(1891年)10月30日に竣功し、第2回帝国議会はここで開催されました。初代と同じく木造洋風2階建の建物でした。この2代目の議事堂は大正13年(1924年)の第50回帝国議会まで30年以上も使用されました。この2代目の議事堂は、途中、大正12年(1923年)に発生した関東大震災は耐えきったのですが、大正14年(1925年)9月18日、改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こして焼失してしまいました。
3代目の議事堂は東京ではなく、広島に作られました。明治27年(1894年)8月に日清戦争が勃発し、大本営が広島に移されると、広島臨時仮議事堂が約半月の突貫工事で広島に建設され、同年10月14日竣工。翌10月15日に召集された第7回帝国議会で使用されました。これは東京以外で帝国議会(国会)が開会された唯一の事例です。木造板葺洋風平屋建の建物でした。帝国議会で使用されたのはこの年の1回だけで、明治30年(1897年)までに解体されてしまいました。
4代目の議事堂は2代目の議事堂が大正14年(1925年)9月18日に焼失してしまったことで、同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう9月29日に建設着手し、昼夜兼行の突貫工事でわずか3か月で建設され、同年12月22日に完成しました。木造洋風2階建の建物で、わずか3ヶ月の突貫工事で建てられた建物ではあったのですが、昭和10年(1935年)の第69回帝国議会まで使用され、現議事堂の完成に伴い解体されました。
5代目にあたる現在の議事堂は着工から実に17年を経て、前述のように昭和11年(1936年)11月7日に竣工し、その年の第70回帝国議会から使用されました。実は5代目にあたるこの現在の議事堂は本格的に建設された初めての議事堂で、それまでの4代の議事堂は仮の議事堂というものでした。ところで、この議事堂の完成が近づいた昭和11年(1936年)2月26日には二・二六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠しました。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、建設中だった永田町のこの議事堂にも艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇しました。
第二次世界大戦後に日本国憲法が制定され、帝国議会にかわる国会が国権の最高機関と位置付けられると、この5代目議事堂(現在の議事堂)は国会議事堂と呼ばれるようになり、国会(立法)の権威を象徴する施設となり、現在に至っています。現在の国会議事堂周辺には衆参両院の議員会館や政党関係の施設が立ち並び、日本の政治の中枢となっています。
……(その5)に続きます。
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