2018年6月29日金曜日

甲州街道歩き【第1回:日本橋→内藤新宿】(その7)

外苑西通りと交差する四谷4丁目交差点です。新宿通り、甲州街道(国道20号線:新宿御苑トンネル)、外苑西通りの交差する五叉路になっています。ここで国道20号線が左に分岐して新宿御苑トンネルに入っていくのですが、私達は右側の新宿通り(ここからは東京都道430号新宿停車場前線)をそのまま進みます。この東京都道430号新宿停車場前線の四谷4丁目交差点〜新宿3丁目交差点の区間もかつての甲州街道にあたり、以前は全区間が国道20号線に指定されていたのですが、平成3(1991)に新宿通りの南側に並行して新宿御苑トンネルが開通したことから、東京都道430号新宿停車場前線に降格したのでした。現在、「甲州街道」と言えば、四谷4丁目交差点を起点に新宿御苑トンネルを抜けて西に府中、八王子方面に延びる国道20号線のことを指しますが、四谷4丁目交差点〜新宿3丁目交差点の区間に限っては東京都道430号新宿停車場前線のほうが正真正銘の甲州街道です。



その新宿通り(東京都道430号新宿停車場前線)を進んでいきます。


 

江戸時代にはここに甲州街道を通って江戸に出入りする人や荷物を監視する四谷大木戸がありました。交差点近くの四谷区民センター前に「四谷大木戸門跡」の碑が立っています。



 四谷大木戸跡碑の隣には玉川上水水番所跡があり、「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」の石碑が建っています(東京都指定有形文化財)。玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供溝渠給していた上水(上水道として利用される溝渠)のことで、江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水)の一つです。多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、この四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配されていました。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道でしたが、羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれていました。一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されています。



『玉川上水起元』(1803)によれば、承応元年(1652)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画されました。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が工事を請負いました。幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは、承応2(1653)の正月で、着工が同年4月。羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったり、浸透性の高い関東ローム層の土壌に水が吸い込まれてしまう区間があったりして、引水工事は困難を極めましたが、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2(1653)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3(1654)6月から江戸市中への通水が開始されました。庄右衛門・清右衛門の兄弟は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。

門井慶喜さんの『家康、江戸を建てる』の「第三話  飲み水を引く」には神田上水事業を推進した若き春日与右衛門の奮闘記が載っていますが、きっと玉川兄弟も同じような苦労をしたのだろう…と推察されます。それにしても、青梅市に近い多摩の羽村市からこの四谷大木戸までの約43kmの露天掘りの用水路をわずか半年で開通させるとは…、当時の技術力に驚きます。

四谷大木戸跡碑と玉川上水水番所跡の隣には新宿区の四谷特別出張所があり、そこでトイレ休憩です。新宿御苑が見えます。この新宿御苑になっているところには、江戸時代、譜代大名である信濃国高遠藩33千石 内藤家の広大な下屋敷がありました。この高遠藩内藤家が内藤新宿の名称に関係してきます。


四谷大木戸が甲州街道の江戸方(東方)の入り口で、ここから先が内藤新宿でした。内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた甲州街道の宿場の1つです。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している青梅街道(成木街道)の起点でもありました。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目一帯にあたります。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれました。



慶長9(1604)、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で1(4km)ごとに一里塚が設けられたほか、街道沿いに宿場が整備されました。当初、甲州街道の日本橋を出て最初の宿場は、慶長7(1602)に既に設けられていた高井戸宿でしたが、日本橋から約4(16km)と遠く離れていたため、徒歩を主な手段とする当時の交通には極めて不便でした。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持っていませんでした。このため、日本橋~高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったと言われています。また、江戸幕府成立より約100年が経過し、江戸の街の発展に伴い甲州街道の通行量も徐々に増加していきました。

こうした背景から、元禄10(1697)、幕府に対し浅草の名主であった高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋~高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出ました。請願を受けた幕府では、翌元禄11(1698)6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可し、日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との追分(分岐点)付近に宿場が設けられることとなりました。この宿場の開設予定地には信濃国高遠藩・内藤家の下屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在していたのですが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地としました。高松喜兵衛らは新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれました。元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、元禄12(1699)に内藤新宿が開設されました。宿場名である「内藤新宿」は、信濃国高遠藩・内藤家の下屋敷の一部を割いて開かれたことから命名されました。なお、浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が今では有力になっています。

内藤新宿は、玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町・下町に分けられていました。宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めました。開設当初はこの高松家が本陣を経営していたのですが、のちに本陣が存在しない時期もあるなど、火災による焼失や宿場の廃止・再開による混乱等もあり、本陣や脇本陣に関しては最後まで一定していませんでした。

宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても大いに賑わいました。当時、宿場に遊女を置くことは公式には認められていなかったのですが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女が置かれていました(いつの時代も法の抜け道を考え出す人はいるものです)。元禄15(1702)2月と正徳6(1716)正月には、火災で大きな被害を出したもののすぐに復興して大いに栄え、享保3(1718)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っています。このため、吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、これが原因の一つとなり、享保3(1718)10月、内藤新宿は幕府によって宿場開設より20年足らずで廃止されてしまいました。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となりました。

廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、内藤新宿の宿場としての機能は完全に失われました。町そのものは存続したのですが、賑わいが消え人口も一気に減少していきました。幕府が表向きに宿場廃止の理由として挙げたのは、「甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため不要」というものでしたが、この時期は8代将軍徳川吉宗による享保の改革の真っ最中でした。同年10月に「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えたほうが適切かと思われます(こういうところが新宿らしいところです)

享保8(1723)、高松喜六など4名が道中奉行所に宿場の再開を願い出たものの再開は認められず、享保20(1735)には、逆に幕府側である南町奉行所から日本橋の伝馬町に対し、内藤新宿再開の検討をするようにとの指示が出たものの、実際に伝馬町が提出した再開願いは幕府により却下。その後も数度に渡り開設願いが出されたのですが、いずれも認められることはありませんでした。これらの宿場再開・新設願いが却下され続けた理由は、廃止の際と同じく風紀上の問題が懸念されたためといわれています(新宿らしい)

そうした内藤新宿が再開されたのは、廃止から50数年が過ぎた明和9(1772)4月のことです。それまで却下され続けた再開が認められた背景には、品川宿(東海道)、板橋宿(中山道)、千住宿(日光街道・奥州街道)の財政悪化があったと言われています。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたからです。幕府はこれらの宿場の窮乏に対し、風紀面での規制緩和と、宿場を補佐する助郷村の増加で対応することにしたわけです。幕府は明和元年(1764)に、それまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩和し、宿場全体で上限を決める形式に変更しました。これにより品川宿は500人、板橋宿と千住宿は150人までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められることになりました。これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅したわけです。また、10代将軍徳川家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、再開に至る背景にあるとする説もあります。それでも宿場が再開されるまでには8年の歳月を要し、最終的には5代目の高松喜六の請願で許可が下りました。再開に際して内藤新宿の飯盛女の数は宿場全体で150人までとする、年貢とは別に毎年155両を上納する、助郷村は33か所とする、などの条件が定められました。

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5(1808)には旅籠屋が50軒、引手茶屋80軒との記録が残っています。江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続きました。現在では内藤新宿という地名は残っていませんが、新宿の地名として残っています。この新宿は、もちろんこの内藤新宿に由来するものです。

秋葉神社とその横には消防署があります。秋葉神社は遠州秋葉山秋葉山本宮秋葉神社と越後栃尾秋葉山の秋葉三尺坊大権現の二大霊山を起源として日本全国に点在する神社で、祭神の秋葉大権現は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰されました。なので、隣に消防署があるのは大いに納得です。



新宿一丁目西交差点です。東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑前駅があるこのあたりに内藤新宿の橋本本陣があったそうなのですが、今はその痕跡も残っていません。内藤新宿の案内板が立っています。



甲州街道(新宿通り)は真っ直ぐ延びているのですが、ここで新宿一丁目西交差点を右折し、すぐに左折して、一本奥の道を進みます。



内藤新宿の中央付近、仲町のすぐ北にある浄土宗の寺院・霞関山太宗寺です。院号は本覚院といい、周囲に門前町も形成していました。寺伝によれば、慶長元年(1596)頃に僧の太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身とされ、寛永6(1629)、当時安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8(1668)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け創建されたとされています。院号は内藤正勝の法名を拝しています。元禄4(1691)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されたのですが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれました。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったのですが、昭和27(1952)から行われた区画整理で縮小され、現在は5代目藩主正勝など3基の墓石が現存するのみになっています。




信濃国高遠藩5代目藩主内藤正勝の墓です。







境内には江戸に入る6本の街道の入り口 (旧東海道の品川寺、奥州街道の東禅寺、甲州街道の太宗寺、旧中山道の真性寺、水戸街道の霊厳寺、千葉街道の永代寺。このうち旧中山道の真性寺は『中山道六十九次・街道歩き』の【第1回】で訪れました) にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番があります。また、この寺には都内最大の閻魔像や、「しょうづかの婆さん」と呼ばれ飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像などが安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきました。他にも新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像や、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などなど、多くの文化財が現存しています。


   
 甲州街道(新宿通り)に戻り、さらに新宿駅方向に歩きます。



内藤新宿名物「追分だんご本舗」です。「追分だんご」の由来は、康正元年(1455)に、太田道灌が江戸城を築城中、武蔵品川の館から武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で中秋の名月のもとで宴を張っていたところ、土着の名族から手つきの団子が献上され道灌は大いに喜び、その後もその団子を所望したといわれています。後に、高井戸宿が甲州街道の宿場となり、高井戸のその団子屋は柳茶屋と号して大いに繁盛しました。元禄11(1698)、内藤新宿が新しい宿場となり、柳茶屋も内藤新宿内の青梅街道との追分(新宿追分)近くに移転し、「追分だんご」と呼ばれるようになりました。



現在の伊勢丹新宿店の角の新宿三丁目交差点が青梅街道(おうめかいどう)との追分(分岐点:新宿追分)でした。青梅街道は江戸城の大改修にあたって白壁用の石灰が大量に必要となったため、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された脇街道です。当時は「成木街道(なりきかいどう)」と呼ばれていました。青梅街道は内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流します。このため、青梅街道は「甲州裏街道」、また、青梅街道最大の難所が大菩薩峠であったことから、大菩薩峠越え」とも呼ばれました。距離で甲州街道より2里ほど短く、途中に関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用されました。途中には中野宿、田無宿、小川宿、箱根ヶ崎宿、青梅宿、氷川宿、丹波宿、塩山宿、小原宿の9つの宿場が設けられていました。

門井慶喜さんの『家康、江戸を建てる』の最後の「第五話  天守を起こす」では、2代将軍秀忠が父・家康から白壁の天守閣の造営を命じられ、その意図を計りかねて悩む姿が描かれます。大坂城(大阪城)を見ても分かる通り、当時は黒漆を塗った黒い壁が一般的だったからです。その白壁を塗るための石灰を運搬する道路として整備されたのが青梅街道だったのですね。ちなみに、この第5話のラスト、秀忠が出した答えと家康とのやり取りを通じて、家康が江戸に託した思いが明らかになる場面は胸を打ちます。繰り返しになりますが、是非、読んでみてください。絶対にお薦めの一冊です。

ちなみに、この新宿の追分付近に日本橋を出てから2里目の一里塚があったと推定されるのですが、その痕跡はどこにもありません。

  
新宿三丁目交差点を左折して明治通り(東京都道305号芝新宿王子線)に入り、次の新宿四丁目交差点を右折します。この新宿四丁目交差点で、先ほど四谷四丁目交差点で分岐した国道20号線(現在の甲州街道)に戻ります。ここからJR新宿駅南口の前を通る道路となります。陸橋を昇り、JR山手線や中央線、小田急線等の複数の線路の上を超えていきます。このあたりが内藤新宿の諏訪方(西方)の入り口だったところで、昔は木戸が設置されていました。ここまでが内藤新宿でした。



「バスタ新宿」です。正式名称は「新宿南口交通ターミナル」、新宿駅南口地区にある鉄道駅や高速バスターミナル、タクシー乗降場などを集約した交通総合ターミナルで、平成28(2016)春に完成し、同年44日から供用を開始しました。

かつて新宿駅周辺の高速バスは運行会社の違いなどからバス停留所が19か所に分散し、利用者に分かりづらいとされてきました。特に一部の停留所は新宿駅から遠く離れた道路上にあるため、鉄道からバスに乗り換える場合に長い距離を歩かなくてはならない場合があり、これらの複数の交通機関が連携することに課題がありました。バスタ新宿の3階の一部と4階は高速バスターミナルとなっています。このバスターミナルにはこれまで新宿駅周辺に点在していた高速バスや空港リムジンバス事業者の停留所が集約されました。このため、乗り入れるバス事業者数は118社、1日の発着便数は最多で1,625便、高速バス用の停留所数は15か所…という日本最大規模の高速バスターミナルとなっていて、東京都を含めた39都府県がこのバスタ新宿と結ばれています (数字は開業当時の数字です)。まさにバスマニアにとって聖地のようなところです。この日も全国各地に向かう高速バスがひっきりなしに出入りしていました。バス好きには、たまりませんねぇ〜(^∇^)

    
JR新宿駅南口の前を通過します。



陸橋を下りてすぐの西新宿一丁目交差点です。この日は週末の土曜日でしたのでかなりの人出です。私達「甲州街道あるき」の一団も隊列を組んで進むのが困難なくらいです。街道歩きというと、山の中のほとんど人やクルマが通っていない細い道を歩いていくイメージを持たれている方がほとんどだと思いますが、ここも甲州街道と言う立派な旧街道です。私もその前までは旧中山道の佐久平から木曽路にかけての鄙びた道ばかりを歩いてきたので、面食らって圧倒されてしまいました。新宿周辺はこんな感じだと思っているので、ふだんならどうってことはないのですが、街道歩きだと気持ちの上で準備が整っていないのか、さすがに圧倒されます。おそらく、日本のあらゆる旧街道歩きの中で一番人口密度の高いところを歩くのが、この甲州街道の新宿駅南口周辺なのではないでしょうか。話のネタができました。



西新宿一丁目交差点で、1本北側の細い道に入ります。この道路のどこに立ち寄るというわけでもありませんが、極力、旧道を正確になぞる…というこの旅行会社のこだわりです。


  
ちょっと広い道路に出て、そこを左折して西新宿二丁目交差点で元の国道20号線(甲州街道)に戻ります。その先を少し行った文化学園横の小さな公園がこの日のゴールでした。


   
いや〜〜ぁ、さすがは中世から現代にかけて400年以上も我が国の中心であり続けた東京、いや江戸です。思っていた以上に見所が満載でした。甲州街道は東京(江戸)の都心を通っていくだけに、なおのことです東京23区内に限って言えば、五街道の中では甲州街道が一番見所があって、街道歩きとしては面白いかもしれません。それにしても400年前、見渡す限り一面水浸しの低湿地ばかりが広がる何もない土地から、よくぞこのような世界を代表するような大都市・東京を創り上げたものです。エンジニアの目線から見て、こんなに面白いところは他にありません。徳川家康の先見性には驚くほかありません。

しかも、凄いのは今もなお成長を続けているところです。私が広島の大学を卒業して、就職のため東京へ出てきて40年が経過しました。この40年間だけでも東京は驚くべき変貌を遂げています。40年間と言えば、400年間という東京(江戸)という都市の歴史の10分の1に過ぎません。10分の1でここまで目を見張るばかりの変貌です。400年間はその10倍。そういうところからも400年間の変貌ぶりの凄さが窺い知れます。その間の変貌の遺構が今もところどころに残っているのが嬉しいところです。加えて、中世から現代にかけて400年に渡って我が国の中心であり続けたということで、なにより“物語”がいっぱい残っているのも嬉しい!  おかげで、今回のブログも5万字を遥かに越えるこんな長文になってしまいました。途中で、今回のブログが完結するのだろうか…と、不安になったほどです。これまで『中山道六十九次・街道歩き』を連載してきましたが、日帰りの1日の行程でこの文字数は初めてのことです。それだけこの『甲州街道あるき』の【第1回】は見るべきところが多く、面白かったということです。まぁ~、やたらと余談の部分が長い…という声も聞こえてきそうですが…()

2年後の2020年に東京で2度目のオリンピックが開催されるということで、東京(江戸)の変貌は今も続いています。それも急ピッチで…。これだけ長い間成長が続けられるということは、当初のインフラ(都市基盤)整備が素晴らしかったということです。ますます東京が、いや江戸が好きになってしまいました。中山道、甲州街道と2つの街道歩きで東京都内に残る江戸時代の面影を訪ねてみましたが、都内にはその2つの街道沿い以外にも実に多くの歴史の跡、遺構が残されています。街道歩き以外にも、そういうものをいろいろと訪ねてみるのも楽しいかな…と思っています。また、そういうのなら妻も喜んでついてきてくれると思いますから。繰り返しになりますが、やっぱ、私は東京(江戸)が好きです。

「東京が好き」というフレーズを書いていて、水越恵子さんのことを思い出しました。水越恵子(水越けいこ…とも)さんは私より2歳年長のシンガーソングライター。「めぐり逢いすれ違い」や「ほほにキスして」、「TOUCH ME in the memory」、そして谷村新司さんや堀内孝雄さん、安倍なつみさんもカバーした名曲「Too far away」という楽曲で知られています。水越恵子さんが「しあわせをありがとう」でソロデビューしたのが昭和53(1978)。ちょうど私が広島の大学を卒業して、東京に出てきた年で、私はラジオで水越恵子さんの「しあわせをありがとう」を聴いて、いっぺんで好きになっちゃいました。今でいうところの“追っかけ”と言うほどではないのですが、水越恵子さんのコンサートは何度も聴きに行ったものです。1枚目の「LADY」、2枚目の「HEART」に始まる初期のアルバム(LPレコード)は今でもすべて持っています。今はそれをかけるプレーヤーがありませんが…。

その水越恵子さんが昭和54(1979)に発売した3枚目のアルバム「Aquarius」には名曲「Too far away」やシングルでも発売された「TOUCH ME in the memory」に加えて、「東京が好き」という楽曲が収録されていました。シングルカットされて発売されていないのでさほど有名な楽曲ではないのですが、私はこの「東京が好き」が大好きで、当時はホントよく聴いていました。今でも私の中ではこの「東京が好き」が水越恵子さんの代表曲だと思っています。「東京が好き」のフレーズを書いて、水越恵子さんと楽曲の「東京が好き」のことを思い出したので、さっそくYouTubeで検索して水越恵子さんの「東京が好き」を聴いてみました。う~~~ん、やっぱりいい楽曲です。当時の私の中での東京のイメージは、この水越恵子さんの「東京が好き」の中で歌われている「東京」だったように思います。調べてみると、水越恵子さんは今でも音楽活動を続けられているようなので、機会があればコンサートに行って、久しぶりに水越恵子さんがナマで歌う歌声を聴いてみたいと思っています。

この日は距離にして17.4km、歩数にして23,926歩、歩きました。『甲州街道あるき』の次回【第2回】は新宿から高井戸宿を経て仙川まで歩きます。ここから八王子までは“繋ぎ”の区間とも言える区間で、街道歩きとしてはいささか殺風景なところを歩くとのことのようですが、そういう中にもかつての旧街道の面影を見つけ出していくのが街道歩きの楽しみでもあります。楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――



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