2018年6月2日土曜日

池上線 (テスト配信)


“池上線”ってご存知ですか。弊社ハレックスの本社のあるJR山手線の五反田駅から同じくJR京浜東北線の蒲田駅の間の10kmちょっとの区間を結んでいる東急電鉄の路線です。東急電鉄と言えば東京を代表する繁華街の1つであり、最先端の流行やファッション、音楽、若者文化等の発信地である渋谷を中心に延びる東横線や田園都市線といった華やかでお洒落な印象の路線が多い中、この池上線はホント地味。JR山手線の駅を起終点にしていても、知る人ぞ知るって感じで、東京23区内にあっても沿線は都会の喧騒とは無縁のどこかのどかさを感じさせる路線です。おそらく、池上線に乗ったことがあるとおっしゃられる方は少ないのではないでしょうか。沿線のほとんどは大田区の住宅街で、池上本門寺以外、さしたる観光名所もありませんし、大きな大学もありませんからね。

東急池上線五反田駅はJR山手線の五反田駅とは直角に位置しており、JR山手線を跨ぐ形でホームがあり、改札口を出たところがレミィ五反田(旧東急ストア五反田店)の4階になっています。ハレックス社の本社はそのレミィ五反田を出て歩いて10分もかからない位置にあるので、私もふだんは山手線を利用する時でも、このレミィ五反田側の連絡改札口を利用しています。

先日、ハレックス社から自宅へ帰ろうとそのレミィ五反田4階にある改札口から山手線に乗ろうとしていた時、池上線のホームに東急電鉄の車両が入線してきました。その日は急いで帰らないといけないような用事もなかったので、迷わず東急電車側の改札口を抜け、池上線のホームに向かいました。現在の池上線の車両は近代的なスタイリングのアルミ車体ですが、車体上部に濃い目の緑色の塗装が施されています。そうです、やっぱり池上線の電車はこの濃い目の緑色の車両じゃなくっちゃあいけません。30年ほど前まで、池上線には東横線で使い古された旧式の渋い緑色をした電車ばかりが、吊り掛けモーター特有の唸るような音を響かせながら走っていました。その中には第二次世界大戦前の昭和10年代に大量に作られ、製造後50年近くも走っているような電車も大量に含まれていました。その後その渋い緑色をした旧式の車両も、同じく東横線のお古ではありますが、銀色のステンレス車体の電車に置き換わってしまいましたが、やはり池上線と言えば緑色の電車が似合います。
この写真は2代目)7000系電車と1000系電車です。この(2代目)7000系電車は平成19年(2007年)に久々の新車で池上線に投入され営業運転を開始した車両です。また、1000系電車は昭和63年(1988年)から投入され、長らく東横線の主力電車として活躍してきた車両です。3両の短い編成となって池上線で活躍しています。

実は私にとって池上線は想い出深い路線なんです。妻と結婚して初めて住んだのが池上線の雪谷大塚の一つ手前の駅、石川台でした。当時、妻が五反田の関東逓信病院(現・NTT東日本病院)に助産師として勤務していたこともありますが、実は私にとって池上線は学生時代からの憧れの電車だったんです。1970年代後期、私が大学3年生だった頃、ある歌がよくラジオから流れてきました。その歌の題名は『池上線』。歌ったのは西島三重子さん。作曲も西島三重子さんで、その西島さんも、後年、影響を受けたとおっしゃっているように、その前年に大ヒットした野口五郎さんが歌った名曲『私鉄沿線』を彷彿とさせるメロディーに乗せた別れの歌詞が、なんとも魅力的な楽曲でした。

池上線の古びた電車の車内で2人が気まずく沈黙する1番の歌詞、駅を降り家まで送られる途中、恋人に突然抱き締められる2番の歌詞…。四国で生まれ、学生時代を広島で過ごした私にとって、メガロポリス首都東京は未知の土地、憧れの世界で、想像の中であれこれ夢を膨らませる大都会でした。そういう中でラジオから流れてきたこの歌には、大きなショックと、なんとも言えぬ“切なさ”、“現実感”、と言うか都会の“生活感”を受けました。物悲しいメロディーに、別れの具体的な情景が見事なまでにマッチングしていて、その沿線風景までもが脳裏に浮かびました。東京に池上線という電車の路線があるのを知ったのもこの時で、もちろん、池上線の沿線風景など当時はまったく知りませんでしたけどね。
と言うことで、結婚することになり、住まいを探す時、迷わず選んだのが池上線沿線でした。石川台はまさに西島三重子さんの『池上線』の歌詞どおりの街でした。古い電車を降りると、改札口を抜けた先にフルーツショップ(小さな果物屋)とその向かいに同じく小さな喫茶店があり、そこの角を曲がるとその先には小さな駅前商店街が連なっていました。借りたマンションはその駅前商店街を抜けたところにありました。

今回、約30年ぶりに池上線に乗って想い出の地を訪ねてみました。夕方のラッシュ時間帯とは言っても、3両編成の電車の車内はそれほど混んではいません。地方のローカル私鉄線を思わせるような長閑かさと落ち着きが車内には漂っています。現在の鉄道の分類に当てはめると、池上線はヨーロッパの都市で流行りのLRTに該当するのかもしれません。

五反田を出ると大崎広小路、戸越銀座、荏原中延、旗の台、長原、洗足池…、駅名こそ昔のままですが、沿線風景はこの30年間で大きく変わっていました。戸越銀座を出てすぐ、荏原中延駅とその前後の区間は地下化され(環七通りと交差する長原駅周辺は30年前も既に地下化されていました)、昔の面影はなく近代的になっていました。しかし、それ以外の区間は品川区、大田区の既に完成された感のある閑静な住宅街を走るので、少し近代的になったところもあるにはあるものの、沿線の雰囲気そのものは昔のままでした。特に洗足池から石川台にかけての切通し区間。このあたりは武蔵野台地の丘陵地帯になっているので、線路はあたかも川のように周囲の土地よりも少し低いところを走り、線路の両側は堤になっています(このあたりは土地が複雑に隆起しているので、池上線沿線にはこういう景色が多いです)。この洗足池から石川台にかけての切通し区間は線路の両側が桜並木になっていて、桜の季節はそれはもう綺麗な車窓の風景が楽しめるのですが、この時期は桜の時期を過ぎて、緑色の葉っぱが茂るだけになっていたので、ちょっと残念に思いました。

それでも、沿線は今でもあの名曲『池上線』のメロディが似合います。想い出の石川台駅に降りてみても駅前は昔のままの佇まいでした。少し小綺麗にはなっていましたが、駅自体の雰囲気も、駅前の雰囲気もほとんど昔のまんま。上りと下りで改札口が分かれ、その間に踏切があって、カンカンカン…という踏切の警報音がひっきりなしに鳴っています。下り(蒲田方向)の改札口を出た隣には、小さな果物屋が今も変わらず営業していて、30年前にタイムスリップしたようで、妙な安堵感がありました。小さな駅前商店街(希望ヶ丘商店街)があり、目の前を行き交う電車はステンレスの銀色がほとんどですが、相変わらずの3両の短い編成です。スタバでもド・トールでもない駅前のフルーツショップの向かいにある小さな喫茶店(昔は各テーブルにインベーダーゲームの画面が付いていました)で珈琲を飲み、しばし想い出に耽りました。夜勤のため出勤する妻を駅で見送った後、この店でコーヒーを飲んでいました。息子が産まれた日、初対面を済ませて家に帰る時に立ち寄ったのもこの店でした。
その後、昔住んでいたマンションにまで足を延ばしてみました。商店街の雰囲気はまったく変わっていません。希望ヶ丘商店街のはずれにあるそのマンションは、30年以上経った今でもちゃんとそこにありました。当時と変わらず1階はコンビニになっています。34年前、私達夫婦が入居した時は壁紙の接着剤が気になるくらいの新婚夫婦にピッタリのピッカピカの新築マンションでしたが、さすがに今はかなりくたびれた感じになってはいましたが…。今、4階のあの部屋に住んでいるのはどういう方なのでしょうか…。
いろいろと想い出を辿りながら、幸せな気持ちに浸って、石川台を後にしました。それにしても、まさかこの池上線が走る町で15年間も気象情報会社の経営に携わらせていただけるなんて…、当時の私は思ってもいませんでした。

まさに東京の中を長閑かに走るローカル私鉄線、それが池上線です。大都会の中で、そこだけ時間がゆっくりと流れているような妙な安堵感を感じさせてくれる路線です。お乗りになる時は、ぜひ、西島三重子さんの『池上線』か、野口五郎さんの『私鉄沿線』のメロディーを頭の中で何度もリフレインしながら、1970年代後期の雰囲気をお楽しみください。


【追記】
この電車は昭和37(1962)に登場して東横線の主力電車として活躍した(初代)7000系電車に床下機器をほぼ全面的に交換するなどの大改造を施した7700系電車です。登場してから50年以上経過した今でも、池上線に活躍の場を変えてまだまだ現役で活躍し続けています。私は社会人になって今年で40年。まだまだ頑張ろう!…と、この(初代)7000系電車を見て元気をもらいました p(^_^)q
この写真はデハ3450形電車です(私自作の鉄道模型コレクションの1つです)。戦前の昭和6(1931)から昭和11(1936)にかけて製造された車両で、昭和64(1989)まで50年以上も第一線で活躍しました。私が結婚して石川台に住んでいた頃の池上線の電車はほとんど全てがこのデハ3450形電車でした。まさに「古い電車の…♪」という西島三重子さんの名曲『池上線』の冒頭の歌詞のまんまの電車です。


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