2023年8月3日木曜日

鉄分補給シリーズ(その10) 住友別子鉱山鉄道②

 公開日2023/08/04

 

[晴れ時々ちょっと横道]第107 鉄分補給シリーズ(その10) 住友別子鉱山鉄道②


【東平…住友別子鉱山鉄道上部鉄道線遺構】

次にマイントピア別子の定期観光バスツアーで東平(とうなる)ゾーンに移動しました。東平ゾーンは2022319日に、東平までの通行路となる新居浜市道河又東平線が落石の影響により通行止めとなっていましたが、その道路も復旧し2023331日に通行止めが解除になりました。

東平ゾーンは標高約750メートル。標高約150メートルの端出場ゾーンから約11km離れたさらに山を登ったところにあります。「東洋のマチュピチュ」と称されることもあり、産業遺産群と自然が調和した、観光にオススメのスポットです。東平(とうなる)という珍しい読み方の地名ですが、元々は「當の鳴(とうのなる)」という地名だったところが、後に繁栄を祈願して住友の手によって「東平」という字があてられるようになったのだそうです。“鳴”やという字には、開拓によって平地になったところという意味があるそうなので、“平”の字があてられたのは分かるのですが、何故の字があてられたかの理由については現在のところ分かっていないのだそうです。東京や大阪からは西の方角ですし、新居浜の中心市街地からは南の方角です。おそらく、繁栄を祈願してということですので、おめでたい太陽が昇る方角ということから、“東”の字があてられるようになったのかもしれません。ちなみに、元々の()”という字にはという意味があるのだそうです。

標高750メートルの高地にある東平ゾーンは、天空の歴史遺産「東洋のマチュピチュ」として知られています。

もともと別子銅山の採掘の中心地で採鉱本部が置かれていたのは、元禄4(1691)の開坑以来、東平からさらに山の奥の国領川の支流である小女郎川、そのまた支流の小足谷川を遡った銅山峰(標高1,294メートル)嶺南にある旧別子”(標高約1,100メートル付近)と呼ばれる地域でした(元宇摩郡別子山村)。別子銅山の本山鉱床はこの旧別子の角石原(現在銅山峰ヒュッテがあるあたり)から東延一帯にあり、そこの東延坑の周辺には本敷部落を中心に、銅山川の支流である足谷川沿いの狭小な谷底や急斜面に幾つもの鉱山集落がみられました。その鉱山集落の人口は明治の最盛期にはなんと愛媛県内で松山市に次ぐ12千人を超え、役場や銀行・小足谷劇場や私立の住友尋常小学校もあり、目出度町には分教場も置かれて、大いに繁栄していました。ここが225年間、別子銅山採掘の中心地だったのですが、大正5(1916)、採鉱本部が赤石山系を越えた北側にある東平に移され、今度は東平が別子銅山の採掘の中心地となりました。東平の銅山設備の周りには社宅や小学校、娯楽場、接待館などが建てられ、昭和5(1930)に採鉱本部が端出場に移された後も、昭和43(1968)に別子銅山が閉山するまで大いに賑わいました。ちなみに、明治の最盛期に愛媛県内で松山市に次ぐ12千人を超える人口を擁した旧宇摩郡別子山村ですが、採鉱の中心が東平へ移ると瞬く間に衰退し、やがて西日本で最も人口の少ない自治体となり、平成15(2003)に新居浜市へ編入合併した時には、県内の自治体で最も人口が少なく、愛知県北設楽郡富山村(現・豊根村)に次ぐ、日本の離島以外の自治体では2番目に人口の少ない、僅か277人の人口の自治体になっていました。この旧別子(旧宇摩郡別子山村)にも別子銅山で大いに栄えた栄華の跡が幾つも残っており、近いうちに是非訪れてみたいと思っているところです。

「東洋のマチュピチュ」の呼び名のとおり、煉瓦造りの遺構が階段状に残っています。下に見える遺構は、幹部用社宅群の跡だそうです。

話題を東平に戻します。ここ東平には、かつて住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線が走っていました。この住友別子鉱山鉄道上部鉄道線は、旧別子の角石原駅(かどいしはらえき:現在は駅があったところに銅山峰ヒュッテになっています)と、東平にある石ケ山丈駅(いしがさんじょうえき)までを結ぶ5.5 kmの路線でした。角石原駅の標高は1,100メートル、石ケ山丈駅の標高は835メートル。この265メートルの標高差があるところを、線路は急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていました。路線は急カーブが連続し、線路用地は断崖の上を石垣を築き確保されていました。カーブは133カ所に及んだと言われ、日本初の山岳鉄道とも呼ばれています。

向こうに見える山の上部を住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線が通っていました。

ちなみに、住友別子鉱山鉄道が開通する前は、銅鉱石の主な運搬経路と方法はすべて“仲持”と呼ばれる人力による運搬で、第一次仲持道は、赤石山系東方の小箱越、第二次仲持道として、足谷(旧別子)より雲ヶ原越、石ヶ山丈立川中宿新居浜口屋(浜宿)、また第三次仲持道として、銅山越南石原馬の背東平端出場立川中宿、ここより第二次仲持道と同じく牛馬で約6km下の新居浜口屋まで運搬していました。明治26(1893)に、石ヶ山丈駅~角石原駅間の上部鉄道、端出場駅~惣開駅間の下部鉄道が開通し、両鉄道の敷設により輸送量は飛躍的に増大し、筏津坑、東平の大斜坑などが相次いで開削されると別子銅山は大きく変貌しました。鉄道の開通により運搬経路と方法は足谷より牛車で第一通洞、牛引鉱車で角石原駅、ここより上部鉄道で石ヶ山丈駅、索道で端出場(打除)へ、さらに下部鉄道で惣開製錬所へというルートに変わりました。

住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線は、伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として、下部鉄道線と共に明治26(1893)に開業しました。別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅(標高980メートル)を経由し、石ケ山丈駅で降ろされ、索道で下部鉄道線の端出場駅に輸送された後、新居浜港へ運搬されていました。その後、採掘技術の進歩により明治44(1911)に東平から第三通洞と呼ばれる地下トンネル(延長1,818メートル)と旧別子の角石原から銅山川流域に抜ける日浦通洞(延長2,020メートル)と呼ばれる斜坑の連結が完成し、坑内軌道(地下鉄道:軌間500mm)が開設されたことにより旧別子から直接鉱石を東平〜端出場間の索道経由で下部鉄道線に運搬できるようになると、その役目を終え廃止されました。角石原駅から石ヶ山丈駅に至る上部鉄道線の軌道は撤去され、軌道敷は削られ、廃線跡には崖沿いに小径だけが残されている現状のようです。

上部鉄道線はこんな感じの山岳鉄道でした。

上部鉄道線の遺構は今も残っていますが、住友金属工業の私有地のため、見学することはできません。

私は住友別子鉱山鉄道上部鉄道線は東平の近くを通っていると思い込んでいたのですが、それは大間違いで、東平からさらに200メートル近く登った場所を走っていました。なので、この日は上部鉄道線の廃線跡を訪ねるのは断念しました。上部鉄道線の遺構は今も随所に残っているようなので、いつかしっかりと登山装備をしたうえで訪れてみようと思ったのですが、上部鉄道線の廃線跡はすべて住友金属鉱山の私有地のため、見学することは残念ながらできないようです。それにしても、今から130年以上昔の明治時代中期に、この高い山の中を小さな蒸気機関車に牽引されて列車が走っていたのですね。周囲の景色を眺めながらその光景を脳裏に思い浮かべるだけでも満足です。

マイントピア別子の東平ゾーンでは、現在、東平のかつて繁栄した様子を模型や映像を使って紹介したり、銅にまつわる品々を展示したりする「東平歴史資料館」、レンガ造りの旧保安本部を活用して銅板レリーフなどを体験できる「マイン工房」、その他数々の産業遺跡が整備されています。また、旧東平中学校跡地に「銅山の里自然の家」が建設されており、古の面影を残しながら豊かな自然に囲まれた中で宿泊研修が行えるようになっています。現在は天空の歴史遺産「東洋のマチュピチュ」との宣伝文句で利用者数を増やしています。

東平ゾーンは標高約750メートル。標高約150メートルの端出場ゾーンから約11km離れたさらに山を登ったところにあります。「東洋のマチュピチュ」と称されることもあり、産業遺産群と自然が調和した、観光にオススメのスポットです。眼下に新居浜市の市街地、その向こうに瀬戸内海が見えます。

東平記念館には昔の別子銅山の写真が数多く飾られていて、大変に興味深いです。

銅の採掘、製錬でいち早く近代化を達成した住友別子銅山は、環境保護施策においても先進的なところでした。銅の製錬に伴う森林の伐採と煙害で荒廃した山を、元通りにするため、明治中期には早くも大量の植林を始め、現在、別子銅山の端出場や東平の周辺には、かつてそこに5,000人以上の人々が暮らす鉱山町が栄えていたとは想像し難いほどの緑に覆われた山並みが戻っています。

実は別子銅山にとって、植林は開山以来、鉱山の運営において不可欠の事業でした。銅の製錬においては木材を炭にして燃料として用いる必要があったため、製錬所に近い山々の木々は、片っ端から伐採されました。それを補うために、継続的な植林が必要だったためです。また、一方で、煙害による環境破壊も深刻な問題となっていました。製錬所から排出される亜硫酸ガスは、酸性雨となって周辺の山々に降りそそぎ、木々を枯らす原因となっていました。200年を越える鉱山経営により、別子銅山の周囲の山々は、明治期に入るとほとんど岩肌が剥き出した禿げ山同然のような状況になっていました。その結果、明治32(1899)に台風が直撃した際には、保水機能を失った山肌が激しい山津波(土石流)を起こし、別子山中の鉱山施設は壊滅的な打撃を受け、死者513名、倒壊家屋122戸という未曽有の大災害になりました。

明治27(1894)に別子銅山の支配人となった伊庭貞剛は、赴任した別子で荒廃した山々を見て、即座に「別子の全山を元の青々とした姿にして、これを大自然に返さなければならない」と決意し、大造林計画に着手しました。林業の専門技術者を雇い入れて植林計画を策定し、根本対策として別子山中での焼鉱や製錬を止め、木炭を石炭燃料に代替することを行いました。同時に別子の山々に毎年100万本以上の植林を開始し、最盛期には年間200万本を植林したとも言われています。その結果、別子銅山は、徐々に本来の姿を取り戻していきました。

現在、かつて別子銅山の採鉱本部のあった端出場や東平にやって来ても、そこがかつて一面の禿げ山だったことは容易に想像ができません。江戸期以来の遺構は、木々の中に埋もれるように存在しており、むしろかつてそこに5,000人以上の人々が暮らす鉱山町が栄えていたことを想像することのほうが難しいほどです。別子銅山はその役目を終え、再び眠りに就いたという感じです。ちなみに、この別子銅山の植林事業から派生して創業した会社が、今や住宅事業や不動産事業が事業の中核となっている住友林業株式会社で、別子の山々は主にその住友林業の手により現在も保林活動が続けられています。

さすがに別子銅山の採鉱本部が置かれていた場所なので、東平ゾーンには幾つもの見どころ(産業遺産群)があるのですが、マイントピア別子の定期観光バスツアーでは主に次のところを案内していただきました。

 

『東平貯鉱庫跡』…東平地域を代表する産業遺産のひとつに、重厚な花崗岩造りの貯鉱庫があります。関連施設である東平選鉱場や東平と黒石(端出場)を結ぶ東黒索道が、明治38(1905)に完成していることから、この貯鉱庫は、これらとほぼ同時期に建設されたと思われます。この貯鉱庫は、第三通洞経由で運ばれてきた鉱石を、一時的に貯蔵するためのものでした。

東平地域を代表する産業遺産のひとつ、東平貯鉱庫跡です。


『東平索道停車場跡』…東平貯鉱庫のすぐ下にあり、東平貯鉱庫と同じく明治38(1905)に完成した施設です。東平索道停車場は、鉱山施設が集中していた東平ゾーンの下部にあり、東平駅と黒石駅(後に端出場に駅名変更)を結ぶ主要輸送機関の駅でした。索道とは、空中に渡したロープに吊り下げた輸送用機器に人や貨物を乗せ、輸送を行う交通機関のことです。ロープウェイやゴンドラリフト、スキー場等のリフトがこの索道に含まれます。別子銅山では鉱石の運搬はもちろんのこと、日用生活品や郵便物、新聞もこの索道で輸送されていました。鉱石は、隣接する貯鉱庫から搬器に移され、ロープを伝って端出場へと運ばれていました。現在は赤レンガ造りの東平索道停車場の遺構が残っています。

東平索道停車場跡です。標高約750メートルのこの東平と、標高約150メートルの黒石(端出場)の間を索道で結んでいました。


【東平選鉱場跡】…第三通洞を経由して運び出された鉱石はここにあった選鉱場で選別され、貯鉱庫に一時的に保管されました。その後、選鉱が終わった鉱石は、東平索道停車場から索道を使って下部鉄道線の黒石駅(後に端出場駅に駅名変更)に降ろされ、新居浜港から船で今治市の四阪島製錬所へと運ばれていました。選鉱場跡に残る大きな煉瓦造りの柱は選鉱所の屋根を支える柱です。選鉱場は極めて広かったので、その広い選鉱場全体を覆う屋根もとてつもなく大きかったようです。砕いた銅鉱石の中から、銅の含有率の高い良質な石を選ぶ作業は、主に大勢の女性達の手作業で行われていたそうです。

東平選鉱場跡です。砕いた銅鉱石の中から、銅の含有率の高いものを選ぶ作業は、主に大勢の女性達の手作業でした。


『旧保安本部と採鉱本部跡』…前述のように、大正5(1916)から昭和3(1928)までの間、東平に採鉱本部が置かれていました。現在、東平記念館の「マイン工房」として利用されている赤煉瓦造りの建屋は、明治期は配電所、大正期は林業課事務所、その後は保安本部として活用されていました。建設時期は、落シ水力発電所、東平第三変電所が明治37(1904)の完成であることから、それらと同時期ではないかと思われます。煉瓦作りの建物は東平ではこの旧保安本部と第三変電所だけで、木造の建物は採鉱本部撤退の際に全て焼却してしまったのだそうです。マイン工房(旧保安本部建屋)から現在の駐車場へと続くコンクリート造りのL字型階段が残されていますが、この下には、第三通洞、日浦通洞を走っていた電車のホームがありました。また、現在広い駐車場になっているこのホームの周辺に二階建ての採鉱本部が建っていました。

旧保安本部は東平に現存する数少ない遺跡で現在完全な状態で残っています。現在は、東平マイン工房として生まれ変わり、銅版画やレリーフなどを体験したり手作りの楽しさを味わうことができます。

マイン工房(旧保安本部建屋)から現在の駐車場へと続くコンクリート造りのL字型階段が残されていますが、この下には、第三通洞、日浦通洞を走っていた坑内軌道のプラットホームがありました。ただの歩道のように見えるのがホームの跡です。また、現在広い駐車場になっているこのあたりに採鉱本部が置かれていました。


『小マンプ』…旧保安本部の下にあった東平の電車乗り場から第三通洞へ向けて2つのトンネルがありました。東平集落にある短いほうのトンネルを小マンプと呼んでいました。マンプとは坑道を意味する“間符”から転じたものとされています。現在、小マンプの中は、東平にゆかりのある鉱山運搬機器展示場となっています。第三通洞が完成した明治38(1905)には蓄電池式の小型の電気機関車が導入され、昭和13(1938)からは東平と第三通洞・日浦通洞経由で旧別子の日浦を結ぶ「かご電車」(1両当たり最大8人乗り)が旅客運転を開始し、一般利用にも提供されていました。


小マンプと呼ばれる坑内軌道のトンネルです。坑内軌道は東平から第三通洞・日浦通洞という地下のトンネルを通って旧別子の日浦まで繋がっていました。

蓄電池式の機関車です。

「かご電車」と呼ばれる8人乗りの客車です。坑道が狭いため、安全確保のため檻の中に閉じ込められるようになっていました。旧別子の小学生達もこの「かご電車」に乗って毎日通学していました。


『旧インクライン』…黒石(端出場)から索道を使って東平へと運ばれてきた物資は、インクライン(傾斜面を走る軌道)を通じて荷揚げされていました。現在、インクラインはマイントピア別子東平ゾーンの園内遊歩道の一部、220段の長大な階段に生まれ代わって、利用されています。

旧インクラインです。現在はマイントピア別子東平ゾーンの園内遊歩道の一部、220段の長大階段に生まれ代わって、利用されています。


マイントピア別子の定期観光バスツアーでは時間の都合で回りませんでしたが、東平ゾーンには他にもいくつもの興味深い産業遺産が残っています。

『第三通洞』…第三通洞は、標高747メートルの8番坑道の東平坑口から東延斜坑底を結ぶ延長1,795メートル、幅3.35メートル、高さ3.73メートルの主要運搬坑道で、明治35(1902)に貫通しました。明治44(1911)には、同年貫通した日浦通洞と連絡し、端出場水力発電所への導水路も併設されていました。

『大マンプ』…東平の坑内軌道乗り場から第三通洞へ向けての線路にある2つのトンネルの内の長いほうのトンネル、大マンプです。

『旧火薬庫』…明治45(1912)に設置された火薬庫です。坑口が横向きに掘られており、爆発事故の際に爆風が直接出ない構造になっています。

『旧第三変電所』…明治37(1904)に完成した赤レンガ造りの第三変電所は、落シ水力発電所から送電されてきた電力の電圧調整と明治38(1905)に第三通洞に電車が導入されたことに伴い、その電車用に直流変換するために設置されたものとされています。現在、赤レンガ造りの旧第三変電所の建屋は残されていますが、建屋の中には設備は残されておらず廃墟となっており、変電所があった面影はほとんどありません。

『一の森』…標高832メートル、大正4(1915年)から昭和3年(1928)まで大山祇神社が祀られていたところで、神社前には100メートルの円周グランドがあり、祭りや運動会が行われていました。


マイントピア別子本館のロビーに展示されていた昔の上部鉄道線の写真です。興奮しちゃいますね。


マイントピア別子も東平ゾーンは天空の歴史遺産「東洋のマチュピチュ」として有名なところですが、鉄道マニアにとっても大いに好奇心をくすぐらせてくれる夢のようなところでした。

 

【新居浜市街地の鉄道遺構】

新居浜市の中心市街地に戻って来ました。今も新居浜市内には住友別子鉱山鉄道の下部鉄道線の廃線跡がサイクリングロードや遊歩道に姿を変えて随所に残っています。そこを歩いてみるのも楽しいです。中でも見所は星越駅です。星越駅は、大正14(1925)、この近くにある新居浜選鉱場の完成により新設された駅で、この駅舎は下部鉄道線で現存する唯一の駅舎です。星越駅は昭和4(1929)に、住友の山田社宅が造成されるとその中心駅となり、多くの通勤客で賑わいました。


新居浜市の市街地にも住友別子鉱山鉄道 下部鉄道線の廃線跡がサイクリングロードや遊歩道に生まれ変わって残っています。ここはかつての多喜ノ宮信号所の跡で、ここから国鉄新居浜駅へ向かう約2.6kmの国鉄連絡線 が分岐していました。

星越駅の駅舎が今も綺麗に整備されて残っています。さすがは住友です。

ちなみに、私事ですが、私の母方の祖父は住友別子銅山に勤務しておりました。祖父は西条市丹原町鞍瀬から愛媛県道153号落合久万線で中山川に沿って久万高原町方向に入っていった山深い山中の西条市丹原町明河の保井野集落の出身で、元々は先祖代々引き継がれてきた広い山林で和紙の原料となるコウゾ()やミツマタ(三椏)の栽培を行い、西条市小松町の和紙製造業者に納める家業を営んでいたのですが、明治時代の終わりに西洋紙が入ってきたことで小松町の和紙製造業者が次々と廃業に追い込まれたことから、家業に見切りをつけ、大正時代の終わりに使用人ともども新居浜市に出てきて別子銅山に勤めました。なので、母は新居浜市の生まれです。母に聞くと、当時住んでいた場所は新居浜市の中萩町。祖父が別子銅山でどういう仕事をしていたのかは分かりませんが、別子銅山で働いていたと言っても、勤め始めた大正時代の終わりは、別子銅山の採鉱本部がまだ標高750メートルの東平にあった頃のことです(採鉱本部が端出場に移されたのは昭和5)。その頃に新居浜市内の中萩町に住んでいたということは、職場が東平や端出場の採鉱現場だったということは考えにくく、おそらく大正14(1925)に星越に完成した新居浜選鉱場か、鉱石の積み出し港である新居浜港に近く別子銅山の管理経営の中枢地であった惣開(そうびらき)にあったのではないかと推定されます。母から聞く昔話の中に惣開の地名が時々出てきますから。おそらく自宅近くにあった土橋(つちはし)駅から住友別子鉱山鉄道下部鉄道線を使って通勤していたのでしょう。祖父は第二次世界大戦終戦直後までの20年以上にわたって住友別子銅山にお世話になりました。なので、そういう意味でも今回の取材は個人的に感慨深いものがありました。

今回はマイントピア別子の端出場ゾーンと東平ゾーンの主なところだけ、それも住友別子鉱山鉄道や坑内軌道の跡を主体に駆け足で回るような取材でしたが、住友別子銅山はあまりに規模が大きい産業遺産ですので、そこだけで別子銅山のことをこれ以上語るわけにはいきません。最初に採鉱本部が置かれた旧別子をはじめ他にも是非訪れてみたいと思える見どころがいっぱい残っておりますし、今回訪れたところでも、もっと時間をかけてじっくりと見学したいと思ったところがたくさんあります。新居浜市街に残る下部鉄道線の廃線跡も全線を歩いて、今も残るトンネルや鉄橋の橋脚などの遺物から、別子銅山が繁栄した往時を偲んでみたいですし…。と言うことで、別子銅山に関しては、これから何度も訪れてみようと思っています。それくらい別子銅山は堂々と世界に誇れる貴重な産業遺産だと、私は思っています。こんなにも魅力溢れる産業遺産が愛媛県に残っていることを、本当に嬉しく思います。

 


2023年8月2日水曜日

鉄分補給シリーズ(その10) 住友別子鉱山鉄道①

 公開日2023/08/03

 

[晴れ時々ちょっと横道]第107 鉄分補給シリーズ(その10) 住友別子鉱山鉄道


別子銅山記念館の玄関前には、かつて住友別子鉱山鉄道で実際に使われた蒸気機関車や電気機関車が静態展示されています。このうち、「別子1号機関車」と呼ばれている小型のタンク式蒸気機関車「住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車」が静態保存されています。

『鉄分補給シリーズ』、“鉄分補給”と題してはいるものの、このところ取り上げているのはバスであったり船であったり、“鉄分”ではなく“塩分”、挙げ句には“骨分”まで取り上げて、脱線しまくっていたのですが、今回は久々の鉄道ネタ。取り上げるのは住友別子鉱山鉄道です。

私が改めて説明するまでもないことですが、別子銅山(べっしどうざん)は、かつて新居浜市にあった銅山で、閉山までの総産銅量は日本で2番目に多い約65万トンと、日本を代表する銅山でした(1位は古河財閥の礎となった栃木県の足尾銅山)。元禄3(1690)、標高1,000メートルを超える別子山村の山中に発見された露頭を手がかりに、ここに良好な銅の鉱脈があることを確認した住友は、翌元禄4(1691)から本格的に採掘を開始しました。以降、昭和43(1973)の閉山までの283年間、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業等、関連事業を次々と興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となった、また新居浜市が瀬戸内海工業地域の一角を形成する四国の拠点都市の1つとなる礎となった銅山です。そして、日本国の近代化に計り知れないほどの貢献をした銅山でした。

別子銅山の鉱床は新居浜市の南方に屏風のように高くそそり立つ四国山地の赤石山系の山中に位置しており、日本最大の断層帯である中央構造線のすぐ南側にある三波川変成岩帯の変成岩の中に現れる層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)と呼ばれるものです。この層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)は海底火山の活動によって地底深くからもたらされた銅の成分を多く含んだ熱水鉱床の一種と考えられており、それが中央構造線の断層活動により長い年月をかけて地表近くまで上昇してきて、一部は地表に顔を覗かせるまでなったものと考えられています。その鉱床の規模は、長さ約1,800メートル、厚さ約2.5メートル、約45度から50度傾いて海抜約1,200メートルから海面下およそ1,000メートルにわたって広がるというもので、国内では最大規模、世界的にも稀にみる大きな鉱床だったといわれています。くわえて、この鉱床からは極めて純度の高い黄銅鉱(銅の鉱石)や黄鉄鉱が産出されました。別子銅山の鉱石は銅の含有量が極めて多いという特徴があり、高品位の物だと20%台にも達していました(現在世界で最も採掘されているチリ産の銅鉱石の銅含有量は1%前後です)。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)にあったのですが、時代とともにその中心は下部の新居浜市側へと移っていきました。坑道は全長約700km、最深部は海抜マイナス1,000メートルにも及ぶという超巨大な銅山でした。出鉱量は推定約30百万トン、産銅量は前述のように約65万トンにも達しました。ちなみに、最深部の海抜マイナス1,000メートルは、日本で人間が到達した陸地の最深部となっています。

意外と思われるかもしれませんが、江戸時代、銅は日本国の最大の輸出品目でした。江戸時代初期までは金や銀も輸出されていたのですが、銀が1668年以降、金も1763年に輸出禁止となっています。銅は、元禄11(1698)に幕府が、清国とオランダに対して、年間8902,000(5,337トン)の銅輸出を取り決めたことから、輸出量が激減した金や銀に代わる主要な輸出品目となりました。この年間8902,000(5,337トン)という輸出量は膨大なもので、江戸時代、日本は世界一の産銅国でした。別子銅山は元禄4(1691)の開坑ですので、もちろん採掘された銅は長崎の出島から清国やオランダ経由で世界中に輸出されていました。そして、当時の銅の主要な使用用途は通貨(銅貨)でした。その意味で、別子銅山は江戸時代の日本経済、さらには世界経済をも支えた極めて重要な鉱山だったと言えます。赤穂浪士討ち入り前年の元禄14(1701)、大坂(現在の大阪)に銅の取引や、銅の鋳造(鋳銅)を行う“銅座”が設けられました。当時、別子銅山をはじめ日本全国の銅山から産出した荒銅(粗銅)はこの大坂にあった銅座に集積され、荒銅の中に含有される銀などを取り除いて純度99.9%程度にまで精銅した上で、長さ78(23cm)、幅5(1.5cm)、重さ7080(263300g)という細長い棒状の棹銅に精錬され、海外に輸出されていました。このため、オランダ商人は江戸参府の帰途、大坂の精錬所を見学するのが恒例だったと言われています。大坂の銅座の中心的役割を担ったのが、幕府より全国の銅山から採掘される銅の蒐荷任務を担当するようお達しを受けた泉屋(吉左衛門)と大坂屋(久左衛門)でした。このうちの泉屋が後の住友財閥発展の基礎となります。また、大坂で銅座が置かれていたところが現在の大阪市中央区北浜で、今も大阪証券取引所をはじめ証券会社や銀行等が立ち並ぶ商都大阪の中心エリアとなっています。

まったくの余談ですが、かつての日本国は地下資源大国で、金銀銅といった地下資源が最大の輸出品目でした。12世紀に平清盛が行った日宋貿易においても、宋からの輸入品が宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍だったのに対し、日本からの輸出品は金、銀、硫黄、水銀、真珠、刀剣や漆器などの工芸品でした。宋からの輸入品が宋銭というのは、明らかに“代金”ですね。物々交換では日本からの輸入品に適うものはなかったということを意味しているように思われます。宋の次の元の時代に、この日宋貿易の話がマルコ=ポーロに伝えられ、『東方見聞録』の記事となったことからも、いかに当時の日本国が諸外国の人達から見て魅力溢れる資源大国であったかがお判りいただけるかと思います。江戸時代に入ってからも基本的にはそれは変わらず、主要な輸出品目は初期には金や銀、金と銀が輸出禁止になってからは銅(棹銅)が主体で、樟脳や陶磁器、漆器などが輸出されていました。輸入されていたのは生糸や砂糖、薬品、香料などで、代表的なものは砂糖でした。日本は資源に乏しい国というイメージを現代日本人は持ちがちですが、実際にはそういうわけではありませんでした。現代人のイメージによる先入観で語っていると、日本史の解釈を見誤ることになります。

本論に戻ります。新居浜市にはその別子銅山に関連したとてつもない鉄道遺産が残されています。それが住友別子鉱山鉄道です。住友別子鉱山鉄道は、かつて新居浜市において別子銅山で採掘された鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道です。住友別子鉱山鉄道は角石原駅 〜石ケ山丈駅間の「上部鉄道」(5.5 km)と惣開駅〜端出場駅間などの「下部鉄道」(14.5km)から構成されていました。開業は明治26(1893)。伊予鉄道に次ぐ愛媛県で2番目に開業した鉄道で、山岳鉱山鉄道としては日本初の鉄道でした。開業以来、前述のように、主に別子銅山で採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担っていたのですが、昭和48(1973)の別子銅山の閉山を見届けた後、昭和52(1977)に廃止となりました。その住友別子銅山鉄道の遺構を見に、新居浜市を訪れました。

別子銅山運搬の変遷。データベース『えひめの記憶』愛媛県史 社会経済3 第二章愛媛県における主要交通企業の生成・発展より

マイントピア別子本館の玄関に飾られている別子銅山の全景の模型です。ここで位置関係を頭に入れておかないと、住友別子銅山は規模が大き過ぎて、よくわかりません。

まず最初に訪れたのは新居浜市角野新田町の山根公園に隣接する別子銅山記念館です。この別子銅山記念館の玄関前には、かつて住友別子鉱山鉄道で実際に使われた蒸気機関車や電気機関車が静態展示されています。このうち、「別子1号機関車」と呼ばれている小型のタンク式蒸気機関車「住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車」は、かつて住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線で使われていた機関車で、明治25(1892)にミュンヘン(ドイツ、当時はバイエルン王国)のクラウス社製のB形蒸気機関車で、鉱山専用鉄道用に購入されたものです。この住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車は明治34 (1901)までに10両が輸入されました。

「住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車」は、かつて住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線で使われていた機関車で、明治25(1892)にミュンヘン(ドイツ、当時はバイエルン王国)のクラウス社製のB形蒸気機関車で、鉱山専用鉄道用に購入されたものです。

クラウス社製の狭軌(軌間762mm)用のB形蒸気機関車と言えば、伊予鉄道が明治21(1888)に伊予鉄道が松山駅(現在の松山市駅)〜三津駅間で開業した際に導入したいわゆる「坊っちゃん列車」(伊予鐵道1号蒸気機関車)と同じで、愛媛県、いや、四国における鉄道の黎明期を支えた機関車でした。この別子1号機関車は昭和25(1950)に下部鉄道線が電化された際に廃車になったのですが、その後、愛媛県立新居浜工業高校に教材として保管展示されていました。昭和50(1975)に別子銅山記念館が開館するにあたって、同館の玄関前に移設され、永久保存されることとなりました。

ED-104号電気機関車。昭和25(1950)の電化後に導入された電気機関車です。


別子銅山記念館です。別子銅山記念館は大山祇神社の境内にあり、山の斜面を利用した半地下構造で、屋根には1万本を越えるサツキが植えられています。館内には別子銅山や住友の歴史を紹介するコーナーや、別子銅山及びその周辺の地質などを鉱石や模型などを用いて説明するコーナーなどがあり、好奇心を大いにくすぐられました。残念ながら館内撮影禁止です。

【端出場…住友別子鉱山鉄道下部鉄道線遺構】

次に訪れたのは、別子銅山の施設跡などを利用したテーマパーク『マイントピア別子』です。マイントピア別子は、最後の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区を開発した端出場ゾーンと、最盛期の拠点であった東平(とうなる)地区を開発した東平ゾーンに分かれているのですが、まずは端出場ゾーンです。新居浜市内のほぼ中心を南北に流れる国領川を愛媛県道47号新居浜別子山線を使って上流に向かって遡っていくと、別子ラインと呼ばれる渓谷があり、景勝地になっています。その別子ラインのほぼ真ん中あたりに端出場はあります。標高約150メートル。この端出場は別子銅山の最後となった採鉱本部が昭和5(1930)に東平から移って来た所で、明治26(1893)に下部鉄道の始発駅が完成した頃から、閉山になった昭和48(1973)まで、別子銅山で採掘された鉱石の中継地点になっていたところです。また、採掘場所が標高の低い方向に徐々に移動してきてからは、端出場の近くでも大規模な採掘現場ができ、別子銅山において常に重要な地位を占めていたところです。

「カブの駅」とは、住友別子鉱山鉄道の下部鉄道線の端出場駅があったことから名付けられたものでしょう。

端出場ゾーンの本館2階にある「開運駅」からは約400メートルの観光鉄道が開設されており、片道約5分で鉱山観光エリアと行き来できます。この観光鉄道に使用されている蒸気機関車は、住友別子鉱山鉄道で走っていた蒸気機関車「別子1号機関車」をやや小さくして復元した電気駆動式のものですが、往時の雰囲気を十分に味わうことができます。


観光鉄道に使用されている蒸気機関車は、住友別子鉱山鉄道で走っていた蒸気機関車「別子1号機関車」をやや小さくして復元した電気駆動式のものですが、往時の雰囲気を十分に味わうことができます。

端出場鉄橋を渡ります。客車も昔のものを再現したものです。

住友別子鉱山鉄道下部鉄道線はこの端出場駅が起終点で、ここから鉱石の積出港である新居浜港駅までの10.3kmが端出場本線と呼ばれ、地方鉄道として一般旅客営業も行なっていました。このほかに端出場本線の星越(ほしごえ)駅から惣開(そうびらき)駅間の1.6kmの惣開支線、同じく星越駅から国鉄新居浜駅間 2.6kmの国鉄連絡線 があり、惣開支線は本線と同じく地方鉄道として一般旅客営業を行なっていました。実は明治26(1893)に開業した際、路線は端出場駅〜星越駅〜惣開駅間でした。さらに、端出場駅から奥に向かって打除駅まで約2.6kmの専用鉄道がありました。現在観光鉄道に使われているのは、この専用鉄道だったところです。

2トン蓄電池式機関車です。狭い坑道内で鉱車の牽引用に使われました。

住友別子鉱山鉄道下部鉄道線は地方鉄道として一般旅客営業も行っていた路線ですが、軌間(線路幅)762mmの軽便鉄道と呼ばれる路線でした。伊予鉄道も開業当初は同じく軌間762mmの軽便鉄道だったのですが、その後、JR在来線と同じ1,067 mmに改軌しています。こちら住友別子鉱山鉄道下部鉄道線は昭和52(1977)に廃止になるまで、ずっと軌間762mmの軽便鉄道のままでした。開業当初は非電化で蒸気機関車牽引による運行だったのですが、昭和25(1950)に電化され、電気機関車牽引に変わりました。また、国鉄連絡線と並行する星越駅と多喜ノ宮信号所間約1kmは複線になっていました。

端出場ゾーンの周辺にはかつて鉱山軌道で使われていた機関車や貨車が整体保存されているほか、幾つかの住友別子鉱山鉄道下部鉄道線の遺構が遺されています。

 

端出場鉄橋(足谷川鉄橋)この鉄橋は打除鉄橋(うちよけてっきょう)とも呼ばれ、橋長39メートルの単線仕様。対岸と約60度ずれた斜橋形式の鋼製単トラス桁橋、中でもトラスがピン結合となっているのが特徴のドイツ・ハーコート社製のピントラス橋です。下部鉄道線が開通した明治26(1893)に建設されたものですが、建設から130年経った今も観光鉄道用として使用されています。この端出場鉄橋(足谷川鉄橋)は国の登録有形文化財に指定されています。

足谷川に架けられた端出場鉄橋(足谷川鉄橋)です。明治26(1893)に建設されたもので、建設から130年経った今も観光鉄道用として使用されています。国の登録有形文化財に指定されています。


『端出場隧道』中尾トンネルとも呼ばれるトンネルで、緩やかに湾曲する長さ92.55メートル、幅員3メートル。馬蹄形断面の煉瓦造りの隧道(トンネル)で、これも明治26(1893)に建設されたものです。この端出場隧道も観光鉄道用として現在も使用されており、国の登録有形文化財に指定されています。

『端出場隧道』です。このトンネルも明治26(1893)に建設されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。


『第四通洞と四通橋』標高156メートル。大正4(1915)に完成した長さ4,600メートルもある坑道です。昭和5(1930)、別子銅山の採鉱本部が東平から端出場へ移されたことにより、重要な位置を占めるようになりました。端出場の坑口より探鉱通洞と併せて約10kmの水平坑道によって筏津第二斜坑の下方に通じており、採鉱された鉱石は各斜坑・立坑により、この坑道に直接搬出され、端出場を経由して下部鉄道線により星越へと運ばれていました。第四通洞に繋がる坑内軌道(トロリー集電式の電気機関車に牽引されたトロッコ列車)用の四通橋は、大正8(1919)に開通した足谷川に架かるトラス橋です。大正12(1923)、この四通橋の東側に、別子銅山の全坑道から湧き出る全ての地下水を排出するための坑水管が設けられました。以降、大正、昭和と第四通洞と四通橋は別子鉱山開発の大動脈として機能し、その坑口は、昭和48(1973)の閉山まで、約60年にわたり、毎日約1,000人の入・出坑を見守り続けました。

第四通洞と第四通洞に繋がる坑内軌道の四通橋です。


『下部鉄道線廃線跡』東平から索道で下ろされた鉱石は、ここ端出場から下部鉄道で星越、そして新居浜港に運ばれました。廃線跡が残っています。


下部鉄道線の廃線跡が続いています。


端出場貯鉱庫端出場貯鉱庫は東平から索道で下ろされてきた鉱石をいったん貯めておくための施設で、大正8(1919)に完成しました。貯鉱庫の上には、第四通洞からの軌道敷きが延び、鉱石運搬車が貯鉱庫の上から鉱石を落として鉱石を貯める仕組みになっていました。この端出場貯鉱庫跡は上記の廃線跡の先にあり、残念ながら現在は立ち入り禁止になっています。

どこも「兵(つわもの)どもが夢の跡」って感じで、いいですねぇ〜。

長く別子銅山の採鉱本部が置かれた端出場ゾーンには、住友別子鉱山鉄道下部鉄道線の遺構だけでなく、往時の別子銅山の栄華を偲ばせる建物や遺構が幾つも残っています。

 

『泉寿亭の賓客用玄関と特別室の1室』昭和12(1937)に、元禄4(1691)の開坑から250周年を迎えるにあたって記念のお客様を迎えるために建てられた京風数寄屋造りの住友接待館(泉寿亭)として新居浜市内の北新町に建築されました。平成3(1991)にその地に図書館の建設計画が持ち上がり、取り壊される運命となりましたが、平成3(1991)のマイントピア別子のオープンに合わせて泉寿亭の賓客用の玄関と特別室棟を移築してきたものです。豪華な日本建築で、この旧泉寿亭特別室棟は国の登録有形文化財に指定されています。

住友の接待館であった泉寿亭の賓客用の玄関と特別室棟が移築されてきています。


旧端出場水力発電所…明治45(1912)完成した水力発電所です。当時としては東洋一の落差(596メートル)を利用して発電が行われました。これによって別子銅山の機械化による近代化が大きく進みました。赤煉瓦造りの建物は、愛媛県を代表する西洋建築の1つで、マイントピア本館のモデルとなりました。中には、ドイツのシーメンス社製発電機、フォイト社製のペルトン水車などが、当時の姿のまま残されていますが、内部は通常非公開になっていて、対岸より眺めるだけです。この旧端出場水力発電所も国の登録有形文化財に指定されています。

別子銅山の遺構の代名詞とも言える明治45(1912)完成した旧端出場水力発電所です。赤煉瓦造りの建物は、愛媛県を代表する西洋建築の1つです。この旧端出場水力発電所も国の登録有形文化財に指定されています。

旧端出場水力発電所の内部は長らく耐震補強工事のため内部の見学ができませんでしたが、工事が終わり、今年328日から内部の公開が始まりました。


『大斜坑・粗鉱ビン跡』…大斜坑は昭和43(1968)に別子銅山再生の最後の望みをかけて完成した施設です。完成した大斜坑は斜度約15度で延長4,455メートル、海面下約1,000メートルに達っしていました。そこから採掘された粗鉱は約4,000トンの貯蔵能力がある粗鉱ビンに一時貯鉱されました。粗鉱ビンは対岸の山の中腹に見えるのですが、その左にあるとされる大斜坑口は草木で埋もれていて、よく見えません。


『鹿森社宅跡』…北側の大駐車場から下部鉄道の線路跡をくぐって15分ほど上がったところに全盛期には約300戸約1,300人の社員と家族が暮した社宅の跡があります。大正5(1916)から建設が始まり、昭和45(1970)に閉鎖されました。別子銅山関連に残る最大の石積で、斜面に造られた社宅群の中央には277段の石段が上まで延びています。残念ながら今回は時間の関係でその鹿森社宅跡を訪ねることができませんでしたが。端出場の周辺も、よく見ると、針葉樹の林になった山の中にかつて住宅の基礎であった石垣の部分だけが、何段にも重なって残っています。ここも鉱山で働く人達の社宅だったんでしょうね。

端出場周辺の山の中にもかつて社宅が建てられていたことを偲ばせる石垣の遺構が幾つも残っています。その別子銅山繁栄の遺構は木々の中に埋もれるように眠っています。


『観光坑道』…また、観光鉄道の終点には往時の実際の坑道を利用した約333メートルの「観光坑道」があり、見学することができます。この観光坑道には江戸時代から近代に至るまでの別子銅山の歴史を展示模型や別子銅山で行われていた作業を体験できるアトラクションが用意されています。なかなか興味深い施設です。

観光坑道では江戸時代の採鉱の様子が人形を使って再現されています。今では想像もつかない苦労があったのでしょうね。

“仲持ち”です。仲持ちとは運搬夫()のこと。銅山から行きは粗銅や半製品の銅の塊りを、帰りは米や味噌といった生活用品を運びました。男性は約40kgを、女性も約30kgを背負って運んでいました。鉄道と索道が開通する前は、こんな感じで運ばれていたのですね。

 

……②に続きます。②は明日84日に掲載します。