2023年5月5日金曜日

鉄分補給シリーズ(その8)今治市営せきぜん渡船②

 公開日2023/05/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第104回 鉄分補給シリーズ(その8)今治市営せきぜん渡船②


前回の最後は岡村島から安芸灘とびしま海道の3つの小さな橋を渡って広島県の大崎下島にまで来ました。②ではレーモンド松屋さんの『安芸灘の風』の2番の歌詞に登場する岡村島の隣島、大崎下島を歩き、歌詞に登場する順に写真付きで解説していきます。

まずはしつこくレーモンド松屋さんの歌う『安芸灘の風』をお聴きください。

https://youtu.be/DoQO4RDiRgQ 『安芸灘の風』ユニバーサル ミュージックジャパン公式YouTube


【御手洗の古い街並み】……瀬戸内海では1日に2回の海面の干満があり、東側の紀伊水道と西側の豊後水道の間で干満時間の微妙な差があることから、6時間毎に潮流の向きが逆転します。しかも、多島海・瀬戸内海では島と島の間の狭い海峡をその潮が流れるため、来島海峡をはじめ場所によっては10ノットを超えるような速い潮流が発生します。瀬戸内海はは穏やかですが、この潮流が問題なのです。エンジンの付いた船ばかりの現代でもこの潮流によって航路を変えたり潮待ちをする船がいるくらいなので、昔はなおさらでした。逆潮を避けるために、また潮に乗る(順潮)ために潮待ちの停泊が必要でした。

また、江戸時代に入り、大きな木綿帆が使われるようになると、船の帆走能力が一気に高まりました。それによって、多少の逆潮でも風さえよければ航海することが可能となり、潮流の比較的穏やかな沖合を一気に駆け抜ける航路が新しく開発されました。それが“沖乗り航路”です(それまでの瀬戸内海航路は船や帆が小さかったため、本州の陸地沿いを進む地乗り航路が主流でした)。それでも当時の海運は、風向きや潮の流れに大きく左右されたため、順風や順潮になるのを待つ必要がありました。岡村島と隣の大崎下島は隣接する島との関係で比較的潮流が緩やかな場所であったことから、江戸時代中期には岡村島の岡村港や大崎下島の御手洗港などは、沖乗り航路のための風待ち、潮待ちの港として整備され、大いに栄えました。

『安芸灘の風』の2番の歌詞に出てくる「御手洗(みたらい)」。ここは風待ち潮待ちの港町で、瀬戸内海のほぼ中央に位置していることから江戸時代中期以降、中継貿易港として人が集い、物が集まり、文化が育ちました。御手洗にはその栄華の跡が今も残っていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

「御手洗」と書いて「みたらい」と読む。私は今治が本籍地で、子供の頃から船も好きだったので、極々自然に読めていましたが、ふつうの人は「おてあらい」と読んでしまうでしょうね。難読地名と言えますね。御手洗という地名の由来は幾つかの伝承があるようです。

・神功皇后が三韓征伐の際にこの地で手を洗ったという伝承。

・菅原道真が大宰府に左遷された時、この地に船を着け天神山の麓で手を洗い口をすすぎお祈りしたという伝承。

・平清盛が上洛の時にこの地付近で嵐に遭遇した。清盛は手を洗い観音様に手を合わせたところ風波が止んだので、のちに清盛はこれを感謝し、草庵を立て行基作の十一面観音を安置し、この地を御手洗と命名したという伝承。

いずれにせよ、偉い人が絡んだ地名ということのようです。

御手洗には江戸時代にタイムスリップしたかのような古い町並みが今も残っています。


おやっ!?「越智医院」、明治時代の病院の跡で、看板の表記は右からの横書きです。大崎下島も昔は村上水軍の本拠地の一つだったところで、広島県といっても意外と「越智姓」が多いところです。現在は病院ではなく、お洒落なカフェになっています。

この大崎下島の御手洗は、西島秀俊さん主演の映画『ドライブ・マイ・カー』のロケ地の1つだったんですね。西島秀俊さんのファンの方にとって、ここ御手洗は聖地です。是非お越しください。

北前船の寄港地として日本遺産にも登録されているんですね。

その御手洗港の今です。定期航路もなくなり、すっかり寂れてしまっています。

日本遺産にも指定されている船主集落の建物です。歴史を感じさせる倉付きの立派な家です。

ここは江戸時代の船宿です。伊予国の大洲藩、宇和島藩が参勤交代等の際の船宿として使用していたところです。現在はカフェになっていて、ここで昼食をいただきました。

昼食をいただいた船宿の内部です。目の前に海が見えて、雰囲気がいいところです。


【大長港(おおちょうみなと)……大崎下島の中心部は、この大長(おおちょう)から小長(おちょう)にかけてです。大崎下島は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、風待ち潮待ちに適した天然の良港だったのですが、江戸時代に入って船舶が大型化され沖乗り航路が整備されると、島の南側を通る沖乗り航路からは距離があるため、約1km南側の岡村島との間の海峡の入り口にあたる御手洗に新たな港が整備され、御手洗のほうに繁栄が移りました。

大長港の建物の中です。大長港は隣接する小長港(おちょうこう)と合わせて、愛媛県の今治港と広島県の竹原港や三原港を結ぶフェリーや高速船の寄港地でした。しまなみ海道の開通によりそれら芸予航路がいっせいに廃止され、一気に寂れてしまいました。芸予航路で賑わった昭和の繁栄の跡が、今も残っています。

待合室です。幾つもの切符売り場が並んでいます。大崎下島は広島県ですが、待合室のベンチや周囲の壁に掲げられた看板には今治市の商店や病院の名前が多く見られ、今治市との繋がりを感じさせます。

現在、大長港からは竹原港行きの「しまなみ海運」の高速船が16往復運航されているだけです。時刻表を見ると、その高速船の寄港地にめばる一貫目といった気になる地名が並んでいます。漁業が盛んなところだったんでしょうね。

その竹原港行きのしまなみ海運の高速船が入港してきました。大崎下島の広島県側の対岸は竹原市。安芸灘とびしま海道が開通したと言っても、安芸灘とびしま海道の先は呉市。竹原市へは船でショートカットするほうが早いので、この高速船の需要はそれなりにあるようです。

大長港の全貌です。

こちらは大長港(おおちょうこう)からすぐのところにある小長港(おちょうこう)。ちょうど中の瀬戸大橋を潜って、小長港と大崎上島の明石港を結ぶフェリーが入港してきました。小長港にもしまなみ海道開通以前の昭和の時代の芸予航路繁栄の跡が残っていました。仁方〜今治航路や竹原〜今治航路など、行き先名は出ているのですが、時刻のほうは真っ白に塗りつぶされています。かつてはここにビッシリと船の発時刻が書かれていました。

船体の両端にランプウェイがあり、前後どちらの方向に進むことができる“神中型”と呼ばれる小型フェリーで、広島県でよく見かけるタイプのフェリーです。愛媛県では松山の高浜港と興居島を結ぶフェリーがこのタイプです。

小長港にもしまなみ海道開通以前の昭和の時代の芸予航路繁栄の跡が残っていました。


【みかん船】…大崎下島も柑橘の産地として全国的に有名なところで、特に「大長みかん」は高級みかんとして有名なブランドみかんになっています。

 

大長港から小長港にかけての海岸沿いにはみかん搬出用の一時保管のための蔵が幾つも建ち並んでいます。かつてこの港はみかんの搬出で賑わったんでしょうね。

JAの建物の前で大長みかんの販売を行っています。広島市内から安芸灘とびしま海道をドライブがてらやって来て、みかんを買って帰る人が多いようです。

そのJAの柑橘倉庫も海に面しています。安芸灘とびしま海道開通前までは、ここに貨物船を横付けして、みかんを全国各地に運んでいっていたんでしょうね。

現代の「みかん船」、軽トラです。白い車体の軽トラには、黄色い柑橘搬送用のコンテナがよく似合います。

【高燈籠】…御手洗に戻って高燈籠です。御手洗は江戸時代に入って船舶が大型化され、瀬戸内海航路も沖乗り航路が使われるようになったことで整備された港です。御手洗の街づくりが始まったのは寛文6(1666)。千砂子波止(ちさごはと)と呼ばれる防波堤が作られたのが文政11年〜12(1828年〜1829)のことです。千砂子波止ができると、その突端に目印となる灯明台が必要となりました。当時の庄屋金子 (三笠屋) 忠佐衛門が木製のものを寄進しましたが、暴風雨のために破損してしまったため、天保3(1832)現在の石製のものに造り替えられました。もともとは15 (4.5メートル) で、灯火の届く距離が3 (12km) にも及んだといわれています。この高灯籠は、明治12(1879)頃まで灯されていたといいますが、明治17(1884)の大高潮で波止ごと崩れてしまったため、一部補修されて現在の場所に移転されています。「太平夜景」と立派に刻まれた篇字は、御手洗の俳人で私塾を開業していた榊屋周助 (彭城久右衛門) によるものです。

現在の千砂子波止には、この高灯籠の姿を模した灯台が建っています。台風19号で先代の灯台が倒壊したため平成4(1992)に再建されたもので、当時全国でも珍しかったデザイン灯台です。海峡を挟んだ対岸に見えるのは岡村島。その右端が最初に訪れた観音崎です。すぐ目と鼻の先に見えるのですが、観音崎からこの御手洗まで橋を3つ渡って、約8km歩いてきました。 

この千砂子波止に守られているため、御手洗の港内の海は穏やかです。この高燈籠の場所に立ってみると、視界の右と左で潮の流れがまるで違っていることがよく分かります。で、御手洗港を出港するとすぐに沖乗り航路に乗れます。

天保3(1832)に造られた初代の石製の高燈籠です。元々は千砂子波止の突端に設置されていたのですが、明治17(1884)の大高潮で波止ごと崩れてしまったため、一部補修されて現在の場所に移転されています。

海に向かって伸びているのが江戸時代に作られた防波堤「千砂子波止」です。千砂子波止の突端にはかつての高灯籠の姿を模した灯台が建っています。この灯台は平成4(1992)に再建されたもので、当時全国でも珍しかったデザイン灯台です。

そのデザイン灯台です。狭い海峡を挟んだ対岸は岡村島です。

千砂子波止の表面はこのあたりの島でよく採れた石灰岩で覆われています。その一つ一つに手作業で石を割った跡が残っています。

港の前に船宿も建っていて、ここが風待ち潮待ちで栄えた御手洗の港だったことが分かります。

高燈籠の向こうに見える岡村島の観音崎。さぁ、ここからまた岡村港まで約9kmの道を歩いて帰ります。次のフェリーが出港する1615分までには岡村港に帰り着かないといけません。

実は岡村港から御手洗までは歩きでの移動でした。ネットでは岡村島でレンタサイクルが借りられるような記事もあったので、それを期待して行ったようなところはあるのですが、岡村島にはレンタサイクルは常備されてなく、事前予約して安芸灘とびしま海道の一番西にある下蒲刈島から持って来てもらう必要があったようなのです。で、それならば…ということで、歩いて大崎下島の御手洗まで行ってみようとなったわけです。岡村港のせきぜん渡船の職員さんからは「遠いよぉ〜」って呆れられましたが…。岡村港から3つの橋を渡って大崎下島の御手洗までの距離は約9km。往復で約18km。速歩ウォーキングを日課としている者としては決して歩けない距離ではありません。途中、休憩を入れて片道約2時間と見積もったのですが、実際には1時間45分で到着することができました。

昼食時間を含めて御手洗には1時間15分滞在して、1330分に御手洗を出発しました。戻りも約2時間と見積もったので、これなら1615分発の今治港行きのフェリーに十分に間に合います。

レーモンド松屋さんの『安芸灘の風』の3番の歌詞の最初に登場する【下蒲刈】は下蒲刈島のこと。江戸時代、朝鮮通信使が来日した際に盛大な歓迎の宴を開いたとされる【あかりの館】は下蒲刈島にあります。【であいの岬】と砂浜が美しい海水浴場の【恋ヶ浜】は上蒲刈島。【十文字山】は豊島にある展望台のことです。『安芸灘の風』には下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島そして岡村島と、瀬戸内海国立公園内の安芸灘諸島各島にある景色のいいデートスポットの地名が幾つも続きます。安芸灘諸島の、そして岡村島のご当地ソングとしては完璧ですね。で、3番の歌詞に登場する下蒲刈島、上蒲刈島、豊島の3島はあまりに遠いので、行くのを断念しました。

ちなみに、3番の歌詞に出てくる【あび漁】のあびとは、北極圏やユーラシア大陸の北部で夏季に繁殖し、冬季に南下して日本にやって来る渡り鳥のことです。カラスよりちょっと大きなサイズの水鳥で、日本では北海道以南の海上に渡来するのですが、瀬戸内海、それも安芸灘一帯には特に多くのあびが渡来することで有名です。かつて、渡来するあびの数は数千羽にも及んだとも言われ、豊島の南の海域にある「あび渡来群游海面」は、国の天然記念物に指定されています。そういうことから、あびは広島県の県鳥に指定されています。この「あび漁」について、面白いので少し解説します。

 

【あび漁】…“あび”は動物性の生きものをいろいろ食しますが、日本では小魚を主食とし、特に瀬戸内海ではイカナゴを主食としています。越冬のため渡来してきたアビは、3月頃に羽が抜け替わる換羽(かんう)”をします。換羽で一時的に飛べなくなる時期には、あびは外敵から逃げられませんので、安全な場所、そして飛んで行かなくても餌が豊富にある場所がふだんより一層必要になります。言い換えれば、あびが換羽する海域では水面下に餌となるイカナゴが多くいるということです。このイカナゴを狙っているのはあびだけではありません。海の底のほうにはタイやスズキが潜んでいます。この“あび”の習性を利用してタイやスズキを一本釣りで漁獲する安芸灘諸島の漁師の間で古くから伝わる伝統漁法が「あび漁」です。イカナゴは北半球の寒帯域から温帯域の沿岸部に棲む小魚で、沿岸付近の粒径0.5mmから2.0mmの細かく綺麗な砂泥底に棲息し、主にプランクトンを餌としています。産卵期は冬(12)から翌年の春(5)の間で、水深10メートルから30メートル付近の砂底に、粘着質の卵を産卵します。また、基本的に北方系の魚であるため、瀬戸内海のような温暖な水域では、夏季に砂に潜って夏眠を行うという特徴を持ちます。安芸灘諸島付近の沿岸は前述の上蒲刈島の「恋ヶ浜」に代表されるように美しい砂浜が多く、まさにイカナゴの棲息に適したところと言えます。まさに1番の歌詞に出てくる揺籠のような海と言えます。

で、“あび”が越冬のために北極圏やユーラシア大陸北部のシベリアあたりから渡来してくるのがだいたい毎年1月の上旬。その頃はイカナゴの産卵期にあたり、安芸灘諸島沖の海面は大量のイカナゴが群れをなして泳いでいます。それを目指してあびも渡来してくるというわけです。さらに、この時期はその時期はタイやスズキの産卵期でもあり、前述のように安芸灘の海底の地形は凹凸が多く、産卵や稚魚の生育に適していることから海底には多くのタイやスズキといった大型の魚も集まってきます。すなわち、餌となるイカナゴを追って、空中からはあびが、海中からはタイやスズキが集まってくるというわけです。したがって、“あび”がイカナゴを食している場所には必ずタイやスズキがいるというわけです。天然の魚群探知器というわけですね。しかし、最近では安芸灘諸島近海の“あび漁”の漁場を通航する船舶が多くなってきたこともあり、神経質な“あび”の飛来する数が激減してきており、「あび漁」も衰退しています。また、「あび漁」は、“あび”を驚かせないために手漕ぎの船で行わなければならず、重労働であり、後継者がいないということも衰退の原因の1つになっていると言われています。魚群探知器も小型で高性能になっていますからね。


途中、足の裏にできたマメが潰れるというアクシデントはあったものの、1515分、行きと同じく1時間45分で岡村港に着くことができました。日頃の速歩ウォーキングの成果が出たのかなと思っちゃいました。次の今治港行きのフェリーは1615分発。まだ1時間あるので、何か冷たいものでも飲むかと思い、岡村港2階の食堂兼喫茶店の「ちょうちょ島館」に上がってみると、入り口のドアのところに、なんと「レーモンド松屋 しま事務所」の看板が!

 

岡村港2階の食堂兼喫茶店の「ちょうちょ島館」です。入り口のドアのところに、なんと「レーモンド松屋 しま事務所」の看板が!

恐る恐る店内に入るとレーモンド松屋さんのポスター、それもサイン入りのポスターが何枚も貼られています。訊くと、この「ちょうちょ島館」の館長(ご主人)の船越清忠さんは安芸灘とびしま海道の岡村大橋開通記念としてレーモンド松屋さんに安芸灘とびしま海道イメージソング、すなわち『安芸灘の風』の作詞・作曲・歌唱を依頼した張本人なんだそうです。なので、偶然に分かったことなのですが、まさにこの岡村港の2階にある「ちょうちょ島館」が名曲『安芸灘の風』の正真正銘の発祥の地だということです。船越館長に『安芸灘の風』制作に至った経緯や裏話などをいろいろとお聞きすることができ、フェリーの出発時刻までの1時間はあっという間に過ぎてしまいました。

「レーモンド松屋 しま事務所」らしく、「ちょうちょ島館」の店内にはレーモンド松屋さんのポスターがいたるところに貼られています。

ここに飾られているギターはレーモンド松屋さんが『安芸灘の風』でメジャーデビューを果たした時に使っていたギターで、このコラムでもご紹介した公式YouTubeチャンネルのプロモーションビデオの中でも演奏しているギターの実物です。

続きは次回来た時に…と、再び岡村島を来訪することを約束して岡村港1615分発の船で今治港に帰ることにしました。帰りに乗船した船は今治市営せきぜん渡船のフェリー「第二せきぜん」です。この「第二せきぜん」は2003年に就航した総トン数179トンの小型フェリーです。見かけの形状はかつて芸予諸島の島々を結ぶ離島航路でよく見られた「芸予型(片頭型とも)」と呼ばれる車両の乗下船を行うランプウェイが船首の1箇所だけに設けられたフェリーなのですが、ところがどっこい、この船って、なにげに凄いんです!

なにが凄いのかというと、日本の内航旅客船史上に燦然と輝く日本初の「三胴型フェリー」なのです。主船体の両舷側に補助船体を備えたトリマラン構造と呼ばれる三胴構造にすることで、車両甲板を広く取れ、造波抵抗の減少により経済的で揺れにも強いという利点があります。来島海峡の強い潮流の中で運航する必要があるために選択された画期的な構造のフェリーで、日本初。その後、同種のフェリーは建造されていないことから、日本唯一の形状を持ったフェリーなのです。行きに乗ったウォータージェット推進の高速船「とびしま」といい3胴型フェリーの「第二せきぜん」といい、さすがに世界に名の知れた海事都市・今治の市営フェリーです。

 

今治市営せきぜん渡船のフェリー「第二せきぜん」です。日本初の「三胴型フェリー」で、来島海峡の強い潮流の中で運航する必要があるために選択された画期的な構造のフェリーです。

それにしても、この日は随分と歩きました。岡村港〜御手洗の往復に加えてもろもろ歩き、距離にして約22km、歩数にして約31千歩。1日に歩いた距離・歩数だと過去最高だったのではないでしょうか。それも速歩で。額を擦ったらジャリジャリしているので、なんだろうと思ったのですが、塩の粒でした。ずっと潮風に当たったからでしょうね。さすがにメチャメチャ疲れましたし、そのダメージはその後数日間残ったほどなのですが、気分は最高でした。

 

【追記】

あまりに楽しかったので、自宅に帰ってこんなものを作ってみました。今回のウォーキングの最終目的地であった御手洗港防波堤灯台、すなわち御手洗の「高灯籠」の縮尺1/100のペーパークラフトです。モデルになっているのは、現在、千砂子波止の突端に立つ平成4(1992)に再建されたデザイン灯台です。このペーパークラフトキットは公益社団法人 燈光会のホームページよりダウンロードさせていただきました。



2023年5月4日木曜日

鉄分補給シリーズ(その8)今治市営せきぜん渡船①

 公開日2023/05/04

[晴れ時々ちょっと横道]第104回 鉄分補給シリーズ(その8)今治市営せきぜん渡船


弁財船のペーパークラフトです。弁財船は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代、明治時代の初期にかけて日本での国内海運に広く使われた大型の木造帆船で、かつて物流の大動脈であった瀬戸内海には、無数の弁財船が米や各地の特産品等を満載して行き交っていました。模型にした船は当時一番多く見られたとされる350(52.5トン)積みの弁財船です。

“海なし県”である埼玉県の住民にとって、瀬戸内海に面した郷里・愛媛に帰って来たら、すぐに塩分補給に行きたくなってしまいます。今回、向かった先は今治港。そこから今治市営の「せきぜん渡船」に乗って岡村島を目指しました。と言うことで、今回も“鉄分”ではなく、“塩分”の補給です()

まずは今治港です。今治港は阪神と九州とを結ぶ瀬戸内海のメイン航路に接しており、海上交通の要衝として重要な役割を果たしてきた港です。かつてはその阪神、九州と結ぶ航路に加え、山陽筋の三原港、尾道港、広島港、呉港(いずれも広島県)や、広島県と愛媛県の間にある芸予諸島の島々向けのフェリーや高速船の航路を多数擁し、頻繁に船の発着する風景が見られたのですが、西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)の開通により、旅客輸送も貨物輸送も陸路、すなわち瀬戸内しまなみ海道利用に振り変わったことから、国内の定期航路は大きく縮小されてしまっています。現在、残っている今治港発着の定期航路は、芸予汽船の運航する今治港~友浦港(大島)〜木浦港(伯方島)〜岩城港(岩城島)~佐島港(佐島)~弓削港(弓削港)~生名港(生名島)~土生港(因島)航路の17往復と、大三島ブルーラインフェリーが運航する今治港〜宗方港(大三島)〜木江港(大崎上島)航路の12往復、そして今治市営の「せきぜん渡船」が運航する今治港〜岡村港間の18往復のみで、いずれも小型の快速船(旅客船)やフェリーで運航されています。かつてひっきりなしに大小様々なフェリーや高速船が発着していた繁栄を知る者としては、寂しい限りです。

芸予諸島の主な島々です。岡村島は安芸灘諸島に属していますが、愛媛県今治市です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


今治港です。今治港は阪神と九州とを結ぶ瀬戸内海の海上交通の要衝として重要な役割を果たしてきた港です。かつては頻繁に船の発着する風景が見られたのですが、瀬戸内しまなみ海道の開通により、国内の定期航路は大きく縮小されてしまっています。かつてひっきりなしに大小様々なフェリーや高速船が発着していた繁栄を知る者としては、寂しい限りです。

今治港から北の方向を見たところです。西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の来島海峡大橋の美しい姿が見えます。岡村島行きの旅客船は来島海峡大橋の下を通っていきます。

瀬戸内海の西部、広島県本土(本州)と愛媛県本土(四国)の間に位置する島々のことを「芸予諸島」と呼びます。芸予諸島一帯は多島海・瀬戸内海の中でも特に島が多いエリアで、大小数百の島々から形成されています。有人島は約50島、人口は全島合計で約17万人ほどです。瀬戸内海は幾つかの海域に分けられているのですが、この芸予諸島から東の海域が燧灘(ひうちなだ)で、西の海域が安芸灘と呼ばれます。安芸灘のことを斎灘(いつきなだ)と呼ぶこともあります。

その安芸灘の北部、本州寄りのところを広島県の呉市から愛媛県の大三島(今治市)に向かって順に下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、岡村島と東西に連なる島々があって、ここは特別に安芸灘諸島と呼ばれています。この安芸灘諸島の島々は、現在、本州(広島県呉市)から「安芸灘とびしま海道」(正式名称:安芸灘諸島連絡架橋)と呼ばれる7つの橋で結ばれています。で、この安芸灘諸島の島々のうち下蒲刈島から大崎下島までは広島県呉市で、岡村島だけが愛媛県今治市です。岡村島と中ノ島(無人島)との間に架かる岡村大橋の途中に愛媛県と広島県の県境があります。

岡村島は「安芸灘とびしま海道(安芸灘諸島連絡架橋)」の終点で、本州とは陸続きで繋がっているのですが、四国(愛媛県)とは陸続きでは繋がっておりません (安芸灘とびしま海道と瀬戸内しまなみ海道を利用すればクルマで行けないことはないのですが、その場合、実に17本もの橋を渡る必要があります)。岡村島から 4本の橋により小大下島(こおげしま)、大下島(おおげしま)、柏島を経由して大三島へ繋ぎ、西瀬戸自動車道(愛称:瀬戸内しまなみ海道)に接続する関前諸島架橋構想が存在はするそうなのですが、いつ実現するのかは未定です。「安芸灘とびしま海道」は岡村島の先は、岡村島の北にある大崎上島へ向かう8本目の橋が計画されているのですが、こちらも建設時期は未定です。この大崎上島は広島県豊田郡にあります。

現在、残っている今治港発着の定期航路の航路図です。現在は、芸予汽船の運航する今治港~友浦港(大島)〜木浦港(伯方島)〜岩城港(岩城島)~佐島港(佐島)~弓削港(弓削港)~生名港(生名島)~土生港(因島)航路の17往復と、大三島ブルーラインフェリーが運航する今治港〜宗方港(大三島)〜木江港(大崎上島)航路の12往復、そして今治市営の「せきぜん渡船」が運航する今治港〜岡村港間の18往復のみで、いずれも小型の快速船(旅客船)やフェリーで運航されています。

このため、岡村島と愛媛県今治市の間には今治市営の「せきぜん渡船」がフェリーと小型の旅客船を運航しています。運航本数はフェリー 「第二せきぜん」が今治港〜岡村港間を14往復(3往復は小大下島・大下島に寄港)、旅客船 「とびしま」が今治港〜宗方港(大三島)〜岡村港間を14往復です。

私がこの日今治港から乗船したのは、そのうちの今治港930分発の旅客船「とびしま」でした。「とびしま」は全長20.4メートル、幅4.15メートル、総トン数19トンの小型の旅客船で、最大旅客人数は40人。乗務員は2人です。20171月に就航した比較的新しい船で、見掛けと異なり最大速力は27.0ノット(時速約50km)、通常航海速力17.5ノット(時速32km)と意外なほど速く、来島海峡の速い潮流があるため、エンジンも極めて強力なエンジンを搭載しているようです。そのため、船体も特殊な形をしています。いかにも瀬戸内海の渡船らしい旅客船で、いい感じの船です。

今治市営せきぜん渡船の旅客船「とびしま」が入港してきました。すぐに折り返しの岡村港行きになって出港します。左側に停泊して出港時刻を待っているのは、芸予汽船の因島土生港行きの高速船です。

「とびしま」の船体は普通の船とはどこか異なる面白い形をしています。客室は後方に固まっています。

930分定刻に今治港を出港。港を出ると、高出力のエンジンを全開して、爆音を轟かせて猛スピードで海の上を疾走する感じで進んでいきます。どうも高出力のエンジンは客室のすぐ下に搭載されているようで、その爆音が船好きにはたまりません!

この日この時間帯の来島海峡は逆潮で、その速度は約10ノット。来島海峡大橋付近では幾つもの小さな渦潮も見えました。通常の船舶なら航行不能なのですが、「とびしま」は高出力のエンジンを全開して、左右にもの凄い波飛沫をあげながら、逆潮をものともせずにグングン進んでいきます。凄い!

来島海峡大橋が近づいてきました。この日この時間帯の来島海峡は逆潮で、その速度は約10ノット。来島海峡大橋付近では幾つもの小さな渦潮も見えました。
来島海峡大橋の下を潜っていきます。対岸の島は大島で、しまなみ海道は大島の先は伯方島、大三島、生口島、因島、向島と橋で渡って、尾道まで陸路で繋がっています。

大下島(おおげしま)の大下港に寄港しました。
次に小大下島(こおげしま)の小大下港に寄港しました。

今治港を出港して約1時間。岡村島の岡村港に到着しました。

岡村島の岡村港に到着しました。

「とびしま」は次の出港の時間まで、港内の別の場所で待機のようです。メチャメチャ速いはずです。スクリューではなく、ウォータージェット推進です! 船体後部下方に高圧の水流を噴出するノズルが2本見えています。

岡村島に上陸しました。岡村島は面積3.17平方kmという小さな島で、令和2(2021)11月時点での人口は約280人。急速に過疎化が進んでいます。この岡村島と隣接する大下島(おおげしま)、小大下島(こおげしま)3島は、安芸灘諸島の中でも特別に関前諸島と呼ばれ、今治市に合併する前の自治体名は越智郡関前村でした。関前という地名は、中世においてここは瀬戸内海を近畿に上る主要航路(沖乗り航路)の航路上で、大三島にあった潮待ちの関の手前に位置していたことから、「関前」と呼ばれるようになったとされています。この関前諸島の島々は石灰岩の露頭が見られて、明治時代には盛んに石灰の採掘が行われて島の形が変容するほどだったのですが、現在は資源の涸渇により採掘は行われておりません。

岡村島をはじめとした関前諸島の島々は農業と漁業の島で、農業ではレモンを含めた柑橘類が栽培されています。漁業では島内各地にフィッシングポイントがあるくらいで、魚の宝庫であり、特に潮の流れが速い小大下島と大下島の間にある怒魚場(100メートル四方ほどの範囲)で獲れるサバ、アジ、鯛が怒サバ、怒アジ、怒鯛というブランドとして築地市場などでも好評を得ています。また、サワラ()漁が盛んで、岡村島で獲れる旬の鰆の刺身は絶品とされています。その他、サザエ、ワカメ、ヒジキ、天草、イギス草などが採れます。ちなみに、関前諸島で採れるイギス草(紅藻)を用いて作られる「いぎす豆腐」は、今治市を中心とした瀬戸内海地方に伝わる郷土料理で、愛媛県の越智・今治地方では夏の風物詩としてお盆や法事の際に食されます。

岡村島についてご紹介するには、地元愛媛県では中年男女を中心に絶大な人気を誇り、全国にも熱烈なファンが多数いることで知られる愛媛県西条市在住のアーティスト、レーモンド松屋さんが、平成22(2010)59歳にしてメジャーデビューを果たし、第43回日本有線大賞の「新人賞」と「有線問い合せ賞」をダブル受賞した名曲「安芸灘の風」を聴いていただくのが一番です。この『安芸灘の風』は私もカラオケでよく歌う楽曲なのですが、いわゆるご当地ソングで、舞台となる場所の名所や名物がキーワードとして歌詞の中に幾つも散りばめられています。で、この『安芸灘の風』は「安芸灘とびしま海道イメージソング」で、安芸灘という地名から広島県のご当地ソングのように思われるのですが、よく歌詞を聴いていただくと、楽曲の舞台となったメインの場所は、実は安芸灘諸島の島々の中でも唯一愛媛県に属する岡村島だということがお分かりいただけると思います。このことを知らずにカラオケで歌っておられる方も多いのではないでしょうか。

ちなみに、レーモンド松屋さんの熱烈なファンの間では、岡村島は“聖地”のようになっていて、メジャーデビューして世に知られるようになってから10年以上経った今も、全国から訪れるファンが後を絶たないのだそうです。実は私が今回岡村島に行こうと思ったのも、かつてよくカラオケで『安芸灘の風』を歌っていたから。前々からいつか岡村島に行ってみよう!と思っていました。

https://youtu.be/DoQO4RDiRgQ 『安芸灘の風』ユニバーサル ミュージックジャパン公式YouTube

まずは『安芸灘の風』のプロモーションビデオ(PV)をお聴きいただき、安芸灘諸島、そして岡村島をイメージしていただければと思います。1番の歌詞に出てくるのが、モロに岡村島です。著作権法の関係で歌詞そのものは載せられないので、歌詞に出てくるキーワードを歌詞への登場順に写真付きで解説していきます。

この日は赤線の部分を往復で歩きました。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

【青くやわらかなこの海】……岡村島周辺の海は瀬戸内海を東西に走る航路や本州と四国を結ぶ航路が幾つも重なり、瀬戸内海でも特に船舶通航量の多い海域になっています。ここは岡村港。江戸時代には沖乗り航路の船の風待ち潮待ちの港として栄えました。

岡村港です。江戸時代には沖乗り航路の船の風待ち潮待ちの港として栄えました。

【揺籠】……また、岡村島周辺の安芸灘の海底の地形は凹凸が多く、産卵や稚魚の生育に適していることから水産資源に富み、タイやサワラなどを漁獲する延縄漁で知られています。

向こうに見えるのは大下島、小大下島といった関前諸島の島々と芸予諸島の中心に位置する大三島でしょうか。こうした島々に囲まれているので、沖合と比べ岡村島の周囲の海は穏やかです。

【眠る歴史】……岡村島をはじめ安芸灘(斎灘)に面した安芸灘諸島の島々は古くから瀬戸内海の海上交通の要衝にあたり、岡村島にも平安時代に空海や菅原道真らが立ち寄った伝承が残っています。また、戦国時代には村上水軍の城砦が築かれました。瀬戸内海では1日に2回の海面の干満があり、6時間毎に潮流が逆転します。逆潮を避けるために、また潮に乗る(順潮)ために潮待ちの停泊が必要でした。また、江戸時代に入り、大きな木綿帆が使われるようになると、船の帆走能力が一気に高まりました。それによって、多少の逆潮でも風さえよければ航海することが可能となり、潮流の比較的穏やかな沖合を一気に駆け抜ける航路が新しく開発されました。それが“沖乗り航路”です(それまでの瀬戸内海航路は船や帆が小さかったため、本州の陸地沿いを進む地乗り航路が主流でした)。それでも当時の海運は、風向きや潮の流れに大きく左右されたため、順風や順潮になるのを待つ必要がありました。岡村島と隣の大崎下島は隣接する島との関係で比較的潮流が緩やかな場所であったことから、江戸時代中期には岡村島の岡村港は隣島の大崎下島の御手洗港などとともに、沖乗り航路のための風待ち、潮待ちの港として整備され、大いに栄えました。さらに夜間の航行も可能とするため、天文5(1740)には岡村島の南端にある観音崎に灯明台が築かれました。


岡村島の集落は、岡村港の周辺の海岸沿いに固まってあります。

姫子島神社です。御祭神は女性の神様で木ノ花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)。木ノ花開耶姫命の父君は隣の大三島にある日本総鎮守・大山祇神社の御祭神である大山祇命(オオヤマズミノミコト)です。古い歴史を感じさせる神社です。

【蝶】……岡村島には絶滅危惧種で珍蝶であるクロツバメシジミが生息し、島のシンボル的な存在となっています。


岡村港の2階にある食堂「ちょうちょ島館」の壁に飾られていた地元の方が描かれたクロツバメシジミ蝶の絵です。
 

【関前】……前述のように、岡村島と隣接する大下島、小大下島の3島は、安芸灘諸島の中でも特別に関前諸島と呼ばれ、今治市に合併する前の自治体名は越智郡関前村でした。

今治市の関前支所。かつての越智郡関前村役場です。

【観音崎】……観音崎は岡村島の南端に位置する岬で、前述のように沖乗り航路の夜間航行を可能とするため、天文5(1740)には灯明台が築かれました。観音崎は岡村島を代表する景勝地で、展望台からは多島海瀬戸内海の美しい風景が眺められます。瀬戸内海国立公園らしいメチャメチャ美しい光景です。遠くに中島をはじめとした忽那諸島の島々、その向こうに松山市街も見えます。ただこの日はPM2.5のせいか大気が霞んでウッスラとしか分かりませんでした。観音崎には『安芸灘の風』の歌碑が立っています。歌碑には「安芸灘の風発祥地」の文字が刻まれています。確かにこの岡村島が名曲『安芸灘の風』の舞台になったところです。

観音崎です。沖乗り航路の夜間航行を可能とするため、天文5(1740)にここに灯明台が築かれました。
 
岬の先端に『安芸灘の風』の歌碑が立っています。

岡村島は瀬戸内海国立公園の一部として指定されているところで、観音崎はその景勝地です。

観音崎は岡村島を代表する景勝地で、展望台からは多島海瀬戸内海の美しい風景が眺められます。観音崎から西の方向をみたところです。遠くに中島をはじめとした忽那諸島の島々、その向こうに松山市街もうっすらと見えます。

観音崎から岡村島の西岸を北に向かって歩きます。このあたりの海は潮流が速く、そのため水が透き通っていて、メチャメチャ綺麗です。特に砂浜が美しい。狭い海峡を挟んだ対岸は大崎下島(広島県呉市)です。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている大崎下島の御手洗の街並みが見えます。瀬戸内海国立公園らしいメチャメチャ美しい光景です。


このあたりの海は潮流が速く、そのため水が透き通っていて、メチャメチャ綺麗です。特に砂浜が美しい。


狭い海峡を挟んだ対岸は大崎下島(広島県呉市)です。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている大崎下島の御手洗の街並みが見えます。
本州(広島県呉市)と岡村島の間は「安芸灘とびしま海道」(正式名称:安芸灘諸島連絡架橋)と呼ばれる7つの橋で結ばれているのですが、そのうちの3つの橋が大崎下島と岡村島の間に架かっています。

 

【とまちせと】……人待瀬戸(とまちせと)は岡村島の北西端、大崎下島との間にある海峡のことです。安芸灘諸島の島々は本州(広島県呉市)から「安芸灘とびしま海道」と呼ばれる7つの橋で結ばれているのですが、その最後の橋である岡村大橋のすぐ下にある海峡は「人待瀬戸」と呼ばれ、展望台があります。レーモンド松屋さんは、おそらくこの人待瀬戸の風景を見て、名曲「安芸灘の風」をイメージしたのではないかと推察します。ちなみに、この「人待瀬戸」、正式な地図上の表記は「戸町瀬戸」。実はレーモンド松屋さんの最初のオリジナル歌詞では「戸町瀬戸」になっています。レーモンド松屋さんの『安芸灘の風』のヒットにあやかって「人待瀬戸」と改称したと思ったのですが、古い文献の中にも「人待瀬戸」と表記されているものがあり、もともと「人待瀬戸」だったようです。

「安芸灘とびしま海道」の岡村大橋です。橋のすぐ下にある海峡は「人待瀬戸(とまちせと:地図上の表記は“戸町瀬戸”)」と呼ばれています。

「人待瀬戸」の地名から縁結びのパワースポットになっていて、多くの人が縁結びの願掛けに訪れているようです。


【幾つもの橋】……幾つもの橋というのは「安芸灘とびしま海道(安芸灘諸島連絡架橋) 」の7つの橋のことですね。その「安芸灘とびしま海道」の現時点での最終地点が岡村島です。岡村島は本州(広島県呉市)から「安芸灘とびしま海道」の7つの橋で結ばれているのですが、その最後の橋であるのがこの岡村大橋です。岡村大橋は岡村島と中ノ島という無人島を結んでいます。で、この岡村大橋の中間地点が愛媛県と広島県との県境になっています。人待瀬戸から、岡村大橋、中の瀬戸大橋、平羅橋という連続する3つの橋を使って、大崎下島に渡りました。

岡村大橋の途中にある愛媛県と広島県との県境です。海の上に記された県境。珍しい光景ではありますね。

岡村大橋の下を小型フェリーが進んでいるのが見えます。大崎下島の小長港と大崎上島の明石港を結ぶフェリーですね。船の前後両端にランプウェイを持ち、操舵室が船体中央にあり、前後どちらの方向にも進むことができる“神中型”と呼ばれるフェリーです。松山市の高浜港と興居島間の航路でも使われていますが、広島県ではよく見掛けるタイプのフェリーです。


次の橋は「中の瀬戸大橋」。この橋は中ノ島と同じく無人島の平羅島(へいらじま)の間を結んでいます。

その次の橋は平羅橋。平羅島と大崎下島の間に架かっている橋で、安芸灘とびしま海道の橋の中で一番小規模の橋です。この海峡は狭く、通航する船舶も漁船など小型船に限られるため、海面との桁下高さを5メートル程度と低く設定されたことにより、鋼橋では波浪による防錆、つまり塩害対策で維持管理費が増大する可能性が出てきたことから、経済性でコンクリート橋が採用されました。


【安芸灘の光る風】…平羅橋を渡り終えたところが大崎下島。「安芸灘の風」の2番に登場する島です。光る風とは太陽に照らされてキラキラと光る安芸灘の海面の上を吹く風のことなのでしょうが、実は岡村島から安芸灘とびしま海道の方向は南西に向いていて、午前10時を過ぎると太陽が目に入って、逆光でやたら眩しいのです。その眩しい光の中を吹いてくる風という意味もあるのではないかと私は推察します。この1番の歌詞を読む限り、この歌の主人公の女性は、明らかに岡村島に住む女性ですね。


大崎下島に渡ってきました。道路標識に見える“蒲刈”とは上蒲刈島、下蒲刈島のこと。「安芸灘とびしま海道」は蒲刈を経て、広島県呉市、すなわち本州に繋がっています。

 

……②に続きます。②は明日55日に掲載します。