2023年3月2日木曜日

縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡①

 公開日2023/03/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]102 縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡①


前回、第101回「鉄分補給シリーズ(その7)四国カルスト高原」からの帰りに愛媛県上浮穴郡久万高原町上黒岩にある上黒岩岩陰遺跡に立ち寄りました。久万高原町は平成16(2004)に上浮穴郡の久万町、面河村、美川村、柳谷村の13村が合併して誕生した自治体なのですが、上黒岩岩陰遺跡はそのうちの旧美川村の、面河川が久万川と合流する御三戸から久万川を約3km遡った右岸の河岸段丘上、国道33号線からほんの少し入ったところにあります。

今から1万2,00年前の縄文草創期早期の女神像線刻礫(石偶)、いわゆる「縄文のヴィーナス」です。

上黒岩岩陰遺跡の場所です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

上黒岩岩陰遺跡は、今から約14,500年前の縄文草創期早期から縄文時代後期、さらには弥生時代にわたる複合遺跡です。延々1万年近くにわたり人が住んでいたという点で、長崎県福井洞遺跡と並んで貴重な縄文時代の岩陰遺跡です。

昭和36(1961)に久万高原町上黒岩ヤナセ(発見当時は上浮穴郡美川村)で近在の中学生によって偶然発見された岩陰遺跡は、今から約14,500年前の縄文時代草創期早期の人類遺跡として一躍有名になりました。この上黒岩岩陰遺跡は久万川の河岸段丘上の高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあります。


上黒岩岩陰遺跡の発掘現場です。

「国指定史跡 上黒岩岩陰遺跡」の碑です。

人が埋葬されていた穴です。おそらく深く掘られた穴だったので、鬼界カルデラの巨大噴火による大量の火山灰によっても溶けることなく、ほとんど原形をとどめたまま人骨が出土したのでしょう。

5次にわたる発掘調査の結果、第1層から第9層まで遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって使用されてきた岩陰であったことが判明しました。昭和37(1962)10月の調査で、とくに第4層からは縄文時代早期の埋葬人骨が出土しました。また、昭和37(1962)8月には日本考古学協会洞穴遺跡特別調査委員会による調査が行われ、第14層までの掘り下げを行った結果、第9層から細隆起線文土器、有舌尖頭器、矢柄研磨器、削器、礫器、緑泥片岩製の礫石に線刻した岩版7個などが一括して出土しました。年代測定の結果、これらが今から約14,500年前の縄文時代草創期早期のものであることが分かり、昭和46(1971)に国の史跡に指定されました。

遺跡とは人間の活動した痕跡のことで、上黒岩岩陰遺跡のような太古の昔の遺跡を探訪する際には、その時代のことについてある程度の基礎知識を持って臨むと、面白さがグッと高まります。上黒岩岩陰遺跡は縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近い長い時間の人間が活動した痕跡ということなので、まずは縄文時代がどういう時代であったのかを振り返ってみたいと思います。

縄文時代とは、年代でいうと今から約16,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)にかけて日本列島で発展した日本の考古学上の時代区分のことです。一口に縄文時代と言いいますが、およそ1万年以上という長い間続いたわけで、これを奈良時代や平安時代等と同列な意味での“○○時代と扱うのは大きな間違いです。そもそも日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはありません。概ね古代、中世、近世、近代、現代とする時代区分法が歴史研究者の間では広く受け入れられていて、私達一般人もこの区分を使うことが多いのですが、この時代区分においても各時代の画期をどこに置くのかについては研究者によって大きく異なるようです。その多くは国家の形成時期、政治体制、社会体制、経済体制等の見解の相違に基づくもので、時代はある日を境に明確に区分できるようなものではなく、連続線の中で緩やかに移行して変わっていくものだと考えれば、そんなに目くじらを立てて論争をするほどのものではない…と私は考えています。

一般的によく知られている時代区分は、主として政治・経済の中心がどこに置かれていたのかという所在地に着目した時代区分で、これは文字が使われるようになって、文献史料が残されるようになった以降の時代に適用されています。飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代がこれにあたります。明治維新以降の近代においては、天皇の在位に従って、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代と呼ばれて、“時代”は短く区切って呼ばれるようになっています。文献史料が残されてなくて、考古史料しか残されていない時代に関しては、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と区分されます。考古史料の代表例としては、土器や石器、金属器などの遺物、竪穴住居跡や土坑墓などの遺構など、人間の積極的な製作活動により残されたものが挙げられますが、このほかにも廃棄された獣骨や魚骨、石器製作に伴う石屑、無意識のうちに残された足跡なども含み、これらの総体であるところの遺跡全体が考古史料として扱われます。で、縄文時代とは、考古学上の分類によると「縄文土器が製作・使用されていた時代」ということになります。

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年前まで遡ります。20037月に岩手県遠野市の金取遺跡の約89万年前の地層から人が叩いて作ったと認められる石器が出土したのに続き、20098月には島根県出雲市多伎町の砂原遺跡から今から約12万年前のものと認められる石器が発見され、大きな話題となりました。ここまで古い時代ではなくても、現在までに日本列島全域の4,000ヶ所を超える遺跡から約3万年前から約12,000年前のものと認められる石器が幾つも出土しています。石器の多くは石斧に使われたと思われる刃先に人工的に磨きをかけた台形のものや、石槍に使われたと思われる縦10cmほどの長い石の剥片を加工して尖らせたもの(打製石器)で、大型哺乳動物や小動物の狩猟や解体、木の伐採や切断、土堀り等多目的に使用されたと推定されています。主な打製石器の原料として使われたのが黒曜石(こくようせき)と呼ばれる石で、加工が容易ながら耐久性に優れ、鋭利な断面を作れる石器にうってつけの石材です。黒曜石から作られた打製石器の確認例は長野県の野尻湖遺跡や上ノ平遺跡、群馬県の岩宿遺跡が有名ですが、これら以外にも全国各地から出土しており、旧石器を用いた人々が日本列島の広範囲に生活していた事が窺えます。さらに石器とともに半地下式の竪穴住居の跡も見つかっています。大阪府藤井寺市にある「はさみ山遺跡」からは、木材を組み木にして、草や皮で覆った今から約22,000年前に作られたと推定される直径約6メートルの竪穴住居の跡が発見されています。

この時代のことを旧石器時代と言います。旧石器時代とは、文字通り人類によって石器(打製石器)の使用が始まった時代のことで、石器時代の初期・前期にあたります(後期を新石器時代といいます)。始まりは年代的には200万年前にまで遡るとされていて、前述のように日本列島でもこの旧石器時代の遺跡が幾つも発見されています。旧石器時代の人類の生活様式は地域によって多様であるようですが、一般的には自然界にある大型哺乳動物や小動物、魚介類、木の実等を狩猟や採集によって食糧を得(狩猟採集社会)、小さな集団(群れ)で暮らしていたと想像されています。旧石器時代の社会は、群れごとに指導者が存在し、男性・女性は概ね平等で、基本的に男性は狩猟、女性は漁労や採取および育児を仕事としていたものの、この役割はしばしば共有されており、明確な分業はされていなかったと考えられています。当時の人糞の化石からは、旧石器時代の人類はハーブなど植物に関する知識が豊富であったことが判っていて、現代人が想像する以上に健康的な食事が実現されていたことも判明しています。

旧石器時代はこの石器の出現から農耕が開始されるようになるまでの時代のことを指すのですが、この農耕の開始には気候の変動が大きく関連しているように思えます(図1参照)。

図1 約2万年前からの気候変動

地球の歴史上の最後の氷期である「晩氷期」と呼ばれる約15,000年前から1万年前の気候は、数百年周期で寒冷期と温暖期が入れ替わるほど急激で厳しい環境変化が短期間のうちに起こりました。日本列島でも、それまでは針葉樹林が列島全体を覆っていたのですが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加して徐々に拡がっていき、北海道を除く日本列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われるようになります。本州は全域にわたってコナラ(果実のことをドングリと言います)やブナ、クリなど堅果類が繁茂するようになり、北海道でもツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が広く広がっていました。また、温暖化による植生の変化はマンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までに日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまったと考えられます。

これにより、人々の食生活、生活様式は大きく変化してきます。それまでの旧石器時代は大型哺乳動物や小動物等の狩猟による肉食が主体だったのですが、地球規模で起きた温暖化により植物採取や漁労による食生活に一気に変わっていきます。この生活様式の変化は新しい道具が短期間に数多く出現したことにより類推されます。例えば、石器群では大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などがこの時期に出現しました。しかも、この時期は、遺跡によって石器群の現れ方が微妙に違っています。これは急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていったと考えられています。狩猟や植物採取、漁労ばかりでなく植物栽培(農耕)もこの時期に始まり、生産力を飛躍的に発展させました。前述のように、この時期はマンモスやナウマンゾウといった大型哺乳動物が日本列島で絶滅した時期と重なるため、当時の人々は主食を獣肉から木の実へと変更する事を余儀なくされました。この木の実ですが、多くは収穫時期が限られるため、一年中食するためには貯蔵する必要が生じます。また食べるためには加熱処理が必要な木の実も多く、獣肉や魚介類のように単純に直火で炙るだけでは食べるのが困難であるため、加熱するための調理器具が必要となります。それで考案されたものが“器”というものというわけです。その器は土を火で焼いて固めて生成するという手法で作られました。それが土器です。

日本で最初にこの時代の土器を発見したのはアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースで、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から偶然に発見し、政府の許可を得た上で発掘調査を行い、大量の土器、骨器、獣骨等を発見しました。これが大森貝塚で、明治10(1877)のことです。縄文土器という名称は、エドワード・S・モースがこの大森貝塚で発掘した土器を「Cord Marked Pottery」と論文で発表したことに由来します。この大森貝塚は縄文時代後期(4,700年前~)から晩期(3,400年前~)にかけての遺跡で、その後、日本各地でこの時代の遺跡の発掘が行われ、日本の考古学が飛躍的に発展を遂げることになります。

この時代の土器は粘土を捏ねて器の形を作り、窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、小枝を集めて燃やした焚き火の中にくべてやや低温(600℃800℃)で焼かれて生成されたと考えられる簡素な焼物で、色は赤褐色系で、比較的軟質であるという特徴があります。土は粗く、やや厚手の深鉢が基本で、比較的大型のものが多いのですが、用途や作られた時期によっては薄手のものや小形品、精巧品等も作られています。表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で、彩色による文様はほとんど見られません。そして一番の特徴は、土器表面に施された模様です。この模様は、いわゆる縄目文様は撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけたもので、多様な模様が見られます。中には容器としての実用性からかけ離れるほどに装飾が発達した土器も出土しています(この特徴は、日本周辺の諸外国の土器にはみられない特徴です)。実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、土器型式によって様々なのですが、最初に多く出土した土器に、この縄目文様が施されていたことから、「縄文(縄目文様)が施された時代の土器」という意味で『縄文土器』と呼ばれ、この『縄文土器』が作られた時代のことを『縄文時代』と呼ぶようになりました。

この縄文時代は世界史の上では中石器時代から新石器時代に相当する時代で、日本列島において世界的に見ても最初期に土器が普及したというのは、前述のようにそれまで氷河期にあった地球が地球規模で温暖化に向かったことの影響が、日本列島でより顕著に表れたためではないか…と想像できます。これは日本の歴史において、大きな特徴と言えます。すなわち、日本の縄文時代というは、アフリカ大陸やユーラシア大陸、ヨーロッパといった世界の別の地域においては旧石器時代後期から新石器時代にかけての時代に栄えた、まったく日本独自の文化ということができます。

そして、世界がまだ石器時代の中、なぜ日本列島でなぜいち早く土器が普及したのか、いや、それ以前に粘土質の土を火を使って焼いたら硬く固まるということをなぜ人々は発見したのかということについてですが、これに関しては日本列島が火山列島であるということに深く関係があるのではないか…と私は勝手に想像しています。当時も日本列島ではたびたび火山が噴火していたと想像できます。火山が噴火すると溶岩が噴出し、溶岩流が流れ出ます。その途中で岩石を焼き、草木を焼き、そして土を焼きます。溶岩流が冷えた後、粘土質の土が石のように固まって残ることを人々が偶然に発見したとします。当時の人達はその化学変化をなんとか人工的に作りだして、便利な器を作れないものか…と考えて、長い長い年月をかけた様々な試行錯誤の結果、ついに土器の製造方法に辿り着いた…、こう考えるのが自然なのではないかと、私は考えています。

当時は日本列島の形状も今とは違っていました。今から約7万年前、地球はそれまで比較的温暖だった気候が世界的に寒冷化していき、約1万年前までヴュルム氷期と呼ばれる氷河期が長く続くことになります。特に約2万年前~15,000年前には最終氷河期の最盛期にあり、日本列島周辺でも平均気温が現在より6℃7℃も低く、シベリア並みの気温だったと考えられています。ですが、その時代が過ぎると地球規模で徐々に温暖化に向かったことが様々な古気候学の調査で判明しています。

氷河期には陸地にも多くの氷が存在することになります。近年よく耳にする地球温暖化による海水面の上昇は、地表(陸上)の氷が融けて海に流れ出すことによる全海水量の変化と、海水の温度の上昇による体積変化、すなわち熱膨張の効果が原因とされているのですが、過去の氷河期から間氷期へ移行する際にも、これと同じメカニズムで海水面の上昇が起こったと考えられています。そういうわけで、氷床コアの解析などによる古気候学の科学的な調査により、今から約2万年以上前の氷河期の地球は、現在よりも100メートル以上も海水面が低かったということが判っています。これは、現在水深100メートルのところにある海底が、当時の海岸線だったということを意味しています。その水深100メートルの海底面を図2に示します。すなわち、これが、約2万年前の日本列島周辺のおおよその地形と言うわけです。

図2 約2万年前からの海面の高さの変化

図1、図2とも気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate ChangeIPCC)の資料等をもとに私が作図したものです。また、図2における海峡毎の横のラインは、海図の水深データ等から、地続きに必要となる高さ、逆に言うと、海峡が形成されるのに必要となるであろうと考えられる高さを目安として示したものです。この図を見ていただくと、概ねどのあたりの時代にそれまで地続きだった陸地が海水面の上昇によって海の中に水没していき、海峡や瀬戸内海等ができて、現在のような日本列島の姿が形成されていったのかが、イメージとしてお分かりいただけるかな…と思います。これをご覧いただくと、北海道と樺太(サハリン)との間の宗谷海峡、さらに、樺太とユーラシア大陸(シベリア)との間の間宮海峡は海峡深度が浅く、100メートルにも満たないことから、北海道と樺太(サハリン)、そしてユーラシア大陸は間違いなく地続きだったことが分かります。また、日本列島の中も瀬戸内海などは存在せず、本州と四国、九州は地続きで、その大きな島と北海道の間には狭い狭い海峡(津軽海峡)が横たわっていたのではないかと想像できます(津軽海峡の海底深度は150メートル以上あります)。九州と対馬の間の対馬海峡(対馬海峡東水道)は海底深度が最大で125メートルほどですので地続きであったかどうかは微妙なところではありますが、朝鮮半島と対馬の間の朝鮮海峡(対馬海峡西水道)は海底深度が150メートル以上あるので、陸続きではなかった可能性が高いと考えられます。

日本人のルーツとされる、北方系古モンゴロイド(北方系蒙古民族)の起源はシベリアのバイカル湖畔あたりにあるのではないかと言われています。図1と図2を合わせて考えてみると、そのもともとはバイカル湖畔あたりに棲んでいた北方系古モンゴロイドの人達が、地球規模の気温の寒冷化によって住みやすい土地を求めて徐々に南下をはじめ、樺太から北海道を経て、本州、四国、九州に棲みついたと考えるのが日本人のルーツとしては最も考えやすいのではないかと思われます。おそらく、食料となるマンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカといった大型哺乳動物の南下を追いかけて移動してきたというのが、正確なのかもしれません(図3参照)。ちなみに、ユーラシア大陸(東シベリア)と北米大陸(アラスカ)の間にあるベーリング海峡は海底深度が50メートルにも満たない浅い海峡なので、当然、約2万年前はユーラシア大陸と北米大陸は地続きだったわけで、この時期、一部の人達はベーリング海峡を越えて、北米大陸に移住したと考えられます。この人達がアメリカインディアンの先祖というわけです。

 

図3 約2万年前の日本列島の海岸線の想像図

  

……②に続きます。②は明日掲載します。

 


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