2022年4月30日土曜日

鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線②

 公開予定日2022/07/08

 [晴れ時々ちょっと横道]第94回 鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線②


【三津駅】

続いて三津駅です。三津駅は古町駅・松山市駅とともに明治21(1888)1028日の伊予鉄道開業時に設置された駅で、四国で最初に開設された鉄道駅の1つです。開業当時はこの三津駅が伊予鉄道の終点でした。文豪・夏目漱石が明治28(1895)に愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任してきた時、最初に松山の地に降り立ったのが三津浜港。そして、この三津駅(当時の名称は三津停車場)から小説『坊っちゃん』の中で「マッチ箱のような汽車」と表現した伊予鉄道の列車に乗って松山市駅(当時の駅名は外側駅)に向かいました。

三津駅の現在の駅舎は3代目で、平成21(2009)に竣工したものです。昭和初期に建築とされた2代目駅舎はアール・ヌーヴォー風のエントランスや半木骨造りと呼ばれる独特の建築様式が利用者や周辺住民に親しまれ、存続を希望する声が大きかったので、3代目駅舎はその2代目駅舎の雰囲気を色濃く残す建物となっています。

現在の三津浜駅は島式プラットホーム12線の構造になっていますが、その島式のプラットホームの幅がやけに広いことに気がつきます。さすがに伊予鉄道開業時に終端駅だった名残りでしょうね。かつては貨物積み込み用に何本かの側線もあったのではないか…と、容易に想像できます。

この三津駅は、松山市における重要港湾の1つである三津浜港の最寄り駅です。瀬戸内海交通の重要拠点とされる松山港には現在は松山観光港、高浜港、三津浜港、堀江港、松山外港、今出港という6つの港があるのですが、そのうち最も古くから整備されていた港湾が三津浜港でした。三津浜港の歴史は古く、室町時代に対岸に城(港山城)を築いて水軍の拠点(軍港)とした河野氏の頃まで遡り、皇族行幸の際に船を泊めたため御津(みつ)と呼ばれるようになりました。江戸時代には松山藩の参勤交代における外港としても使用され、舟奉行・町奉行が設置されていました。明治39年(1906年)、高浜港が開港し、定期航路の大部分が高浜港に移動してからは、三津はむしろ商業の町として発展することになりました。このように、この三津駅から三津浜港にかけての一帯は、江戸時代から昭和の時代にかけて松山の海の玄関口、そして商業の中心地として栄えた地域で、当時の古い町並みが今も残されています。ちなみに、三津浜港は現在も山口県の柳井港へ向かう防予フェリーのほか、忽那諸島の島々を結ぶ中島汽船のカーフェリーの発着する港となっています。

三津駅から三津浜港にかけての一帯は江戸時代から昭和にかけて松山の海の玄関口として栄えた地域で、当時の古い町並みの雰囲気が今も残されています。

三津浜港近くにある石崎汽船旧本社です。大正14(1925)築の鉄筋コンクリート2階建ての建物で、設計したのは愛媛県庁本館や萬翠荘(旧久松伯爵本邸)も手掛けた木子七郎。正面が左右対称形をしており、バルコニーやレリーフなど洋風の意匠が施された当時としては超ハイカラな建物です。国の登録有形文化財に指定されています。

三津浜港です。忽那諸島の島々を結ぶ中島汽船のカーフェリーが出航を待っています。

この三津浜地区に非常に興味深い乗り物があります。それが「三津の渡し」です。「三津の渡し」(別名:須崎の渡し)は松山市の三津浜港内で運航されている渡し舟で、約500年の歴史を誇っています。正式名称は「松山市道高浜2号線」。航路は松山市の“市道”になっており、松山市都市整備部道路課が運営しています。全長約9メートル、定員10名余りの小型動力船が三津浜の西性寺前と港山地区との間の約80メートルの距離を結んでいます。運航時間は7時から19時で、年中無休。運行区間は公道であるため、運賃は無料です。ふだんは通勤・通学などの市民の足として利用されているのですが、対岸までの短い距離を往復する姿はどことなく風情があり、最近ではテレビの旅番組や雑誌等で取り上げられることも多く、観光スポットとして注目されるようになってきています。その起源は室町時代にまで遡り、港山側にあった港山城への物資輸送のために利用したのが始まりとされています。江戸時代の俳人・小林一茶も句会に参加するために乗船したと言われています。また、松山を舞台とした映画『がんばっていきまっしょい』においては、田中麗奈さん演じる主人公の女子高校生が通学に利用するシーンが登場します。


「三津の渡し」(別名:須崎の渡し)です。航路は約80メートル。1分ほどの乗船で、すぐに対岸に着きます。

お好み焼きといえば関西風や広島風のお好み焼きが有名ですが、松山にも「松山市民のソウルフード」と呼ばれることもある独自のお好み焼きがあります。それが三津浜焼きです。昭和の中頃まで松山の海の玄関となっていた港町・三津浜には約30軒のお好み焼き屋さんが軒を並べ、昭和の時代からの庶民派ご当地グルメ・三津浜焼きを提供しています。

三津浜焼きは、広島県からやってきた漁師が伝えたといわれるお好み焼きがアレンジされて、独特のスタイルになったものなのですが、広島のお好み焼きとの違いが幾つかあり、それが独特の味となっています。実は広島のお好み焼きと三津浜焼きは似て非なる食べ物なのです。三津浜焼きが広島のお好み焼きと違うのは、まず、三津浜焼きでは台となる中華そばやうどんをソースで味付けしてから生地に乗せる点です。一方、多くの広島のお好み焼きでは、キャベツなどの具材が下で、味付けされていない麺がその上に乗ります。次に、一般的にお好み焼きで肉というと豚肉がほとんどではないかと思われますが、三津浜焼きでは牛肉を使うのが一般的です。また、三津浜焼きでは、焼くための油には牛脂を使います。牛脂を使うことで、山盛りのキャベツに甘みとコクをプラスしてくれます。焼いている周囲には、ジュワーっと焼ける牛脂の香ばしい匂いが漂います。さらに、三津浜焼きでは、具材の中に必ず紅白の“ちくわ”を入れます。この“ちくわ”も三津浜焼きになくてはならないものです。“ちくわ”は鉄板の上で焼かれる時に程よい弾力とダシを出し、三津浜焼きをいっそう美味しくさせる役目を担っています

私はこの三津浜焼きが大好きで、松山に帰省した折には三津浜焼きを食べるためだけの目的で、三津浜を訪れたりしています。


三津浜と言えば松山市民のソウルフード「三津浜焼き」ですね。関西風や広島風に対抗して、この「松山風お好み焼き」も全国に広めねばなりませんね。


【大手町駅】

次に取り上げるのは大手町駅のダイヤモンドクロスです。この大手町駅のダイヤモンドクロス、鉄道ファンの間では、伊予鉄道と言えばダイヤモンドクロスという声が返ってくるくらいに全国的に有名なところです。

ダイヤモンドクロスとは異なる路線の線路がほぼ直角に“+の字形”に平面交差する地点のことで、ただでさえ大変珍しいスポットなのですが、伊予鉄道では国内で唯一の激レアな光景が見られます。なんと電車の前に「遮断機」が下り、一般の自動車や歩行者とともに、「電車が電車の踏切待ちをする」という衝撃的な光景が繰り広げられるのです。その劇レアな衝撃的な光景が見られるのが高浜線大手町駅前の踏切です。この踏切では高浜線の郊外電車とJR松山駅方面に向かう市内線の路面電車が平面交差(ダイヤモンドクロス)していることから見られる光景です。しかも、高浜線の郊外電車は、日中も15分おきに大手町駅を通過するため、こうした電車同士の踏切待ちの光景が、ここでは日常茶飯事のこととして見ることができます。そして、この大手町駅のダイヤモンドクロス、高浜線の線路も市内電車の線路もどちらも複線なので、電車がダイヤモンドクロスを通過する際に発するダダダダダダダン ダダダダダダダンという連続音がとにかくたまりません!!

大手町駅前のダイヤモンドクロスです。踏切の遮断機が下りた手前で、市内線の路面電車が高浜線の郊外電車が通過していくのを待っています。写真ではお伝えできないのが残念なのですが、電車がダイヤモンドクロスを通過する際に発するダダダダダダダン ダダダダダダダンという連続音がとにかくたまりません‼️


【古町駅】

伊予鉄道高浜線の大手町駅前のダイヤモンドクロスは全国的に有名ですが、実は松山市駅から高浜線へ向かうと大手町駅の次の古町駅の構内にもダイヤモンドクロスがあります。大手町駅前のダイヤモンドクロスほど直角には横断していませんが、JR松山駅方面からやって来た市内線の電車が松山市駅方面からやって来た郊外電車(高浜線)の線路を平面交差で斜めに横切り、古町駅へと入線して来ます。その時にも特有のダダダダンダダダダンという連続音を発します。時には市内線の電車が駅構内に入る手前でいったん停車し、高浜線の電車が通過するのを待つという光景を見ることもあります。ただ、その場合、市内線の電車はこの区間は道路上を走行する路面電車区間ではないので、遮断機は下りません。

古町駅構内にある斜めダイヤモンドクロスです。駅構内に入る手前で、市内線の電車がいったん停止して、高浜線の電車が通過するのを待っています。

古町駅構内のダイヤモンドクロスでは、市内線の電車が高浜線の線路を斜めに横切って行きます。

古町駅は三津駅・松山市駅とともに明治21(1888)1028日の伊予鉄道開業時に設置された駅で、四国で最初に開設された鉄道駅の1つです。開業時の駅名は三津口駅だったのですが、翌明治22(1889)7月に現在の古町駅に改称されました。市内線の電車(環状線:軌道線)と郊外線の電車(高浜線:鉄道線)の併用駅で、ホームは45線。駅構造としては伊予鉄道最大の駅です。5線あるプラットホームのうち、1番線と2番線ホームを市内電車線、3番・4番・5番線ホームを郊外電車線(高浜線)が使用します。かつては各ホームを結ぶ地下道があったように記憶していますが、現在はバリアフリー化のためか各ホームへは遮断機付きの踏切を渡って行ける平面構造になっています。さらに、前述のダイヤモンドクロスのところで触れましたが、市内線の線路と郊外線(高浜線)の線路が駅構内で斜めに平面交差する構造になっています。

また、古町駅には古町車両工場(車両基地)を併設しており、市内電車と郊外電車の車庫と工場、検修場があります。斜めダイヤモンドクロスに加えて郊外電車や市内線の路面電車がしばし休んでいる光景がホームから間近に見られることもあり、古町駅は伊予鉄道の数ある駅の中で私の一番好きな駅でもあります。

古町駅に入選してきた横河原行きの電車、こちらは伊予鉄道3000系電車です。この3000系電車は元京王帝都電鉄井の頭線の主力電車だった3000系電車で、伊予鉄道では2009年度より3両編成10本、計30両が導入され、現在は郊外線の車両の約6割を占める主力車両となっています。

古町車庫にて、元京王帝都電鉄京王線の主力電車だった700系電車と、元京王帝都電鉄井の頭線の主力電車だった3000系電車が並んで休んでいます。同じ京王帝都電鉄と言っても京王線の線路の幅(軌間)1,372mm、いっぽうで井の頭線の線路の幅は1,067mm。東京では絶対にあり得なかった同一線路上での名車同士の共演が、この四国松山の地で実現しています。ちなみに、伊予鉄道の軌間は1,067mmです。

古町駅には市内電車の車庫も併設されています。通常の路面電車に加えて、「坊っちゃん列車」も休んでいるのが見えます。


次回(その2)では、松山市駅から東方向に延びる横河原線を取り上げます。

2022年4月28日木曜日

鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線①

公開予定日2022/07/07

 [晴れ時々ちょっと横道]第94回 鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線①


私は子供の頃からの鉄道好きです。鉄道、またはこれに関する事象を対象とする趣味(いわゆる鉄道趣味)を持っている人のこと鉄道ファンと言います。鉄道にはという漢字が付いておりますので、一口に鉄道ファンと言っても剣道や柔道、空手道、茶道、華道等と同様に鉄道ファンにも幾つかの流派があります。撮り鉄(鉄道写真)、録り鉄(録音、音声・音響研究)、描き鉄(鉄道絵画)、車両鉄(車両研究)、模型鉄(鉄道模型)、収集鉄(切符等のコレクション)、乗り鉄(鉄道旅行)、降り鉄(途中下車の旅)、駅弁鉄(駅弁探訪)、時刻表鉄(時刻表収集、鉄道ダイヤ分析)などがその代表ですが、最近は時代にあわせてゲーム鉄(運転シミュレーションゲーム)や廃線鉄(廃線跡・廃駅探訪)といった新興流派も台頭してきており、実に奥の深い趣味といえます。まぁ〜、中には鉄道路線や車両の廃止の際に突然群がる葬式鉄のような私には理解に苦しむ方々もいらっしゃいますが…。そういう鉄道ファンの中で、私は一言で言えばそれらどの流派にも深くは属さないオールラウンダー。とにかく鉄道という公共交通機関が大好きで、強いて分類するならば“乗り鉄”“降り鉄”といった感じの鉄道ファンです。

私が鉄道好きになったキッカケは、実はイヨテツ(伊予鉄道)でした。私は四国中央市(旧伊予三島市)の生まれですが、2歳から小学校4年生までの間、松山市で育ちました。当時は現在のように自家用車が広く普及しておらず、どこに行くにしても電車やバスといった公共交通機関の利用が主体でした。そんな小さな子供だった私の心をギュッと鷲掴みにしたのがイヨテツの市内電車と郊外電車でした。とにかく、イヨテツの市内電車や郊外電車に乗ることが楽しみで仕方なく、乗っては運転席後ろの通称鉄ちゃんシートに陣取って、前方の風景を眺めるのが大好きな子供でした。当時は、大人になったら何になりたい?…と訊かれたら、すかさず、イヨテツの路面電車の運転士になる!…と答えていました。

私が鉄道ファンとして一番ハジけていたのは、やはり大学時代でしたね。四国を離れて、これからは日本全国の鉄道を乗りまくるぞ!…と期待に胸を膨らませて入学した広島大学には、当然あるものだと思っていた鉄道研究会が当時存在していないことを入学直後に知って愕然としたのですが、「だったら自分達で作っちゃえばいいじゃん!」と気持ちを切り替え、入学後に知り合った鉄道好き4人で広島大学鉄道研究会を新たに創設しました。研究会を立ち上げて活動していくうちに、同好の士が次から次へと集まり、あっという間に会員数は50名を超え、隠れ鉄道ファンの多さを知りました。この集まった仲間達は全員が強者揃い。撮り鉄”、“録り鉄”、“車両鉄”、“模型鉄”、“乗り鉄”、“廃線鉄”…とそれぞれ趣味のジャンルは異なるものの、皆、専門性が異常なまでに高く、“マニア”、あるいは最近の言葉では“ヲタク”と呼べるほどの連中が揃っていました。彼らとの交流を通して、私は鉄道趣味の奥の深さというものを知った気がします。そんな彼らとは、今も交流を続けさせていただいており、みんな定年退職した後は、もう一度集まって、鉄道趣味をさらに極めよう!…と言い合ったりもしています。ちなみに、私が創設メンバー(4)の中の1人として創設に関わった広島大学鉄道研究会ですが、創設から半世紀近く経った今も、絶滅することなく活動を継続しているようです。

大学の卒業を控え、就職先を決める際にも、第一志望を国鉄(現在のJR)にするか電電公社(現在のNTT)にするかで正直大いに悩んだのですが、最終的には、好きなものは仕事ではなく趣味で続けていこうと結論づけ、電電公社のほうを選び、運良く入社できたので、その後の通信エンジニア、ITエンジニアとしての私の人生に繋がっていきます。もちろん趣味としての鉄道好きはずっと変わらず、今でも時間を見つけては“鉄分補給”と称して日本全国の鉄道に乗りに行きますし、松山に帰省した際には、必ず、私が鉄道好きになった原点とも言える伊予鉄道の市内電車や郊外電車に、ただただ乗ることだけを目的として乗りに行ったりしています。

ということで、今回から「鉄分補給シリーズ」と題して、3回に分けて伊予鉄道の郊外電車3路線について取り上げていきたいと思います。第1回目の(その1)で取り上げるのは、伊予鉄道のメイン路線とも言える高浜線です。

ちなみに、私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』の鉄分補給シリーズとしては、既に20162月に「第17回 鉄分補給:予土線&土佐くろしお鉄道中村線編」と題して、(その1)から(その4)を掲載させていただいております。その第17回を先行パイロット版として、6年を経て本格的にシリーズとしての復活です。鉄道好きとしては、取材するのも楽しいです。

 

【伊予鉄道高浜線】

伊予鉄道は愛媛県の県都・松山市の中心部にある松山市駅を拠点に郊外電車や市内電車を運行している鉄道会社です。このうち郊外電車は松山市駅を起点に北西方向に高浜線、南西方向に郡中線、東方向に横河原線といういずれも約10km3路線が放射状に延びていて、いずれの路線も日中15分間隔で準高頻度・等間隔運転を行っています。上記3路線のうち高浜線と横河原線は直通運転を行なっており、実質は2路線のようなものです。

伊予鉄道は明治20(1887)に創立された、現存する民営鉄道としては日本で2番目に古い歴史を持つ老舗の鉄道会社です。ちなみに、一番古いのは伊予鉄道の2年前の明治18(1885)に設立された阪堺鉄道を母体とする南海電鉄です。松山市の外港である三津港と松山市中心部を結ぶ三津街道の道路事情が劣悪だったため、これを改善しようと鉄道の建設を決意したのが創業者の小林信近翁で、小林翁はイギリス人技師から教えを受け、少ない資本でも建設できる鉄道として軌間762mmの軽便鉄道を採用。明治20(1887)に伊予鉄道を設立し、日本で初めての軽便鉄道、および中国四国地方で初めての鉄道として、松山市駅〜三津駅間を創立の翌年の明治21(1888) 1028日に開業させました。 

松山市駅の隣にある伊予鉄グループ本社ビル1(スターバックスコーヒー店の奥)に「坊っちゃん列車ミュージアム」があり、そこに伊予鉄道開業時に導入された蒸気機関車、伊豫鉄道甲11号機関車の原寸大模型(レプリカ)が展示されています。この伊豫鉄道甲11号機関車は明治21(1888)、ドイツのクラウス社製で、実車は全長4,760mm、全幅1,650mm、全高2,810mm、運転整備重量7.80トン。動輪径685mm、車軸配置0-4-0(先輪0・動輪左右2対の4・従輪0)のいわゆるB(2軸動輪)の単式2気筒ウェルタンク式蒸気機関車です。伊豫鉄道甲1形蒸気機関車は伊予鉄道高浜線の松山駅〜三津駅間の開業に備えて明治21(1888)122両が、さらに横河原線の松山駅〜平井河原駅(現在の平井駅)間の開業に備えて明治24(1891)342両が導入されました。4両ともドイツのミュンヘンにあるクラウス社の工場で製造されたものです。軌間762mmの軽便鉄道用に作られた動輪周馬力40PS(公称:代表的な蒸気機関車であるD51形蒸気機関車の最大出力は1,400 PS)という現代の軽自動車以下の馬力しか出せない小型機関車ながら、昭和6(1931)に現在の1,067mmに軌間が改軌された以降も足回りの大改造を施されて使われ、昭和29(1954)までの67年間にわたり松山平野を走り続けました。

松山市駅の隣にある伊予鉄グループ本社ビル1(スターバックスコーヒー店の奥)に展示されている伊予鉄道開業時に導入された蒸気機関車、伊豫鉄道甲11号機関車の原寸大模型(レプリカ)です。

文豪・夏目漱石の小説『坊っちゃん』の中に、この伊予鉄道の列車が登場します。『坊っちゃん』は夏目漱石が明治28(1895)から明治29(1896)の間に松山中学の英語教師として赴任した時の経験をもとにして執筆された小説で、作品の冒頭に「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。」という一文があり、この伊豫鉄道甲1形蒸気機関車と後部に連結されている客車列車のことをマッチ箱のような汽車という表現で描いています。このことから、この小型の蒸気機関車で牽引される伊予鉄道の客車列車は、その後、「坊っちゃん列車」の愛称で親しまれてきました。平成13(2001)にはこの作品が書かれた当時の様子を再現する試みとして、ディーゼルエンジンでの駆動ではありますが観光列車「坊っちゃん列車」も市内線(路面電車区間)で運行が開始されました。伊予鉄道のこの発想は凄いです。この現代に再現された「坊っちゃん列車」、今では伊予鉄道の看板列車になって、鉄道マニアだけでなく、松山を訪れる多くの観光客の皆さんに楽しんでいただいているようです。

今や松山市のシンボルともなった伊予鉄道の観光列車「坊っちゃん列車」です。

また、松山市駅から徒歩数分の正宗寺の境内にある正岡子規が17歳まで暮らした家を復元した「子規堂」には、坊っちゃん列車に使用された124輪客車とされる客車が、夏目漱石の胸像とともに静態保存されています。「ハ1」と標記があるこの客車、車内には「この客車は現在たゞ一つ残っているその当時のものである(1888年独逸製)」と記載されていますが、その来歴には謎の部分があり、一説には現在梅津寺公園に静態保存されている1号機関車(ベースは3号機関車)とともに、かつて道後公園に保存されていたものではないかとされています。いずれにしても、このハ124輪客車も伊予鉄道開業当時にドイツから輸入されたものです。定員は乗客18+乗員1(うち座席定員12)、客室面積4.73平方メートル、全長5,010mm、全幅2,130mm、全高2,845mm、自重3.2トン。軽便鉄道の車両ということで、機関車も客車も現代の鉄道の基準から言うと、かなりの小型です。ちなみに、伊予鉄道本社の1階にあるスターバックスコーヒーの店内に展示されている伊豫鉄道甲11号機関車もハ124輪客車も原寸大のレプリカ(複製)ですが、梅津寺駅前にある梅津寺公園内にはオリジナルの伊豫鉄道甲1形蒸気機関車と後部に連結されている客車が静態保存されています(後述)。

松山市駅に近い「子規堂」に展示されているハ124輪客車とされる客車です。

124輪客車の車内です。夏目漱石先生も正岡子規も秋山好古・真之兄弟もおそらく乗ったであろう歴史を感じさせる客車です。
伊予鉄道郊外線路線図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

伊予鉄道高浜線路線図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

伊予鉄道の郊外電車は松山市駅を起点に北西方向に高浜線、南西方向に郡中線、東方向に横河原線といういずれも約10km3路線が放射状に延びているということを最初に書かせていただきましたが、今回取り上げるのはその伊予鉄道の中でも明治21(1888)開業と最も古い歴史を誇る高浜線です。この高浜線、鉄道マニアにとってはなかなか魅力的な見どころ満載の路線です。まずは高浜線の終点・高浜駅です。

 

【高浜駅】

高浜駅は松山市の沖に浮かぶ興居島(ごごしま)に渡るフェリーが発着する高浜港の最寄り駅で、高浜港はこの高浜駅から道路を渡ってすぐのところにあります。また、広島行きのフェリーや高速船、九州小倉行きのフェリーが発着する松山観光港は、この高浜駅から連絡バスで5分ほどのところにあるという松山にとっては海の玄関口と言ってもいい駅です。高浜港が瀬戸内海航路の大型客船の乗り場だった頃には、この高浜駅の駅舎から駅前の県道を挟んで高浜港の桟橋まで屋根付きの通路が延びていましたが、昭和42(1967)に新たに松山観光港が完成したことに伴い大型客船の乗り場は松山観光港のほうに移転し、その後、桟橋までの屋根付き通路も撤去されました。

この高浜駅、昭和チックななかなかレトロな感じの駅舎が鉄道マニアの間では人気の駅で、私も大好きな駅の1つです。駅の開業は明治25(1892)ですが、当時は今の場所よりも少し松山市駅寄りに建っていました。現在の場所に駅が移ったのは明治38(1905)のことで、その翌年の明治38(1905)に高浜港が開港し、定期航路の大部分が三津浜港から高浜港に移動してきました。現在の駅舎はその時に建てられたものと推定され、今年で築117年とも言われています。ちなみに、明治38年ということは日露戦争の日本海海戦が行われた年です。日露戦争で大活躍して日本国の勝利に貢献した松山出身の偉人、秋山好古陸軍大将・真之海軍中将の兄弟も、もしかしたら移転後のこの駅舎を使って列車に乗り、郷里に凱旋したのかもしれません。そういう歴史を感じさせてくれる駅舎です。 

この高浜駅、福山雅治さんが主人公の帝都大学理学部物理学科の湯川学准教授を演じたテレビドラマ『ガリレオ』の映画版第2作『真夏の方程式』の中で、湯川准教授が物語の軸となる少年と出会う重要なシーンで「玻璃ヶ浦(はりがうら)駅」として登場しました。その撮影の際に使われた「玻璃ヶ浦駅」の駅名標が駅舎内に今も飾られています。「う〜ん、趣きのある駅だ。実に興味深い‼️

伊予鉄道高浜線の終点・高浜駅です。築116年という歴史を感じさせる味わいのある駅舎です。


松山観光港への連絡シャトルバス乗り場から見た高浜駅です。細い軽便鉄道時代のレールを用いたホームの柱が実に味わい深い雰囲気を醸し出しています。

昭和レトロな雰囲気のホームに入線してきたのは伊予鉄道700系電車。元京王帝都電鉄京王線の主力電車だった5000系電車です。四国松山の地で、3両編成5(15)2両編成2(4)の計19両が、オレンジ一色に塗られて第2の人生を送っています。

この高浜駅、福山雅治さんが主人公の帝都大学理学部物理学科の湯川学准教授を演じたテレビドラマ『ガリレオ』の映画版第2作『真夏の方程式』の中で、湯川准教授が物語の軸となる少年と出会う重要なシーンで「玻璃ヶ浦(はりがうら)駅」として登場しました。


現在の高浜駅から松山市駅方向に400メートルほど進んだ道路脇に綺麗に積まれた石垣があります。最初の駅のホーム跡なのでしょうか? 高浜駅の開業は明治25(1892)のことですが、現在の場所に駅が移ったのは明治38(1905)のことです。

その旧ホームと思しき石垣の傍に種田山頭火の句碑が建っています。句碑に刻まれた句は「秋晴れ ひょいと四国に 渡って来た」 まさに今の私の心境です。

高浜港から高浜駅を見たところです。高浜駅と高浜港は道路を挟んですぐのところにあります。

高浜港には興居島に渡るフェリーが発着します。写真の後方に写っているのがその興居島で、高浜港から興居島の泊港までは約10分、由良港までは約13分の所要時間です。


【梅津寺駅】

次に取り上げるのは梅津寺(ばいしんじ)駅です。高浜駅を出ると次の駅が梅津寺駅。この駅もいろいろな意味で見どころがいっぱいの駅です。

 まずはプラットホーム。ホームの柵を挟んですぐ真下が砂浜であり、改札を出てすぐの階段からその砂浜に降りることができる海にメチャメチャ近いところにある駅です。愛媛県には瀬戸内海沿いに鉄道が走っているところが幾つかあり、海を満喫できる駅が多いのですが、海への近さということで言うと、この梅津寺駅が一番なのではないでしょうか。かつてこの梅津寺駅の目の前に広がる砂浜が海水浴場になっていました。私も子供の頃の海水浴と言えば梅津寺でした。

この梅津寺駅も、かつて鈴木保奈美さん織田裕二さん主演で制作され、1990年代を代表するとさえ言われることもある伝説的TVドラマ『東京ラブストーリー』の重要なシーンのロケに使われたところです。ズバリ言っちゃうと、最終回で鈴木保奈美さんが演じた赤名リカがホームの柵にハンカチを結びつけた駅がこの梅津寺駅です。ドラマのロケ地(聖地)巡礼のハシリになったような場所で、当時社会現象とまで言われて話題になりました。放送が終了して20年以上が経過するのに、今でもこの駅のホームの柵にはハンカチが結び付けられています。ちなみに、織田裕二さんが演じたカンチは愛媛県の出身という設定で、愛媛県内には久万高原町や大洲市などに『東京ラブストーリー』のロケ地が幾つもあります。

梅津寺駅の駅前に梅津寺公園があります。この梅津寺公園のある場所には、かつて梅津寺パークと呼ばれる遊園地があり、観覧車をはじめとした各種のアトラクションがありました。現在、梅津寺公園には鉄道記念物に指定されている「伊豫鉄道甲1形蒸気機関車」のオリジナル車両が静態保存で展示されています。

また、梅津寺駅のすぐ近くにある見晴山には、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』の主人公で、日露戦争で日本を勝利に導いた松山が生んだ偉人、秋山好古陸軍大将と秋山真之海軍中将の兄弟の銅像が立っています。

梅津寺駅はホームの柵を挟んですぐ真下が砂浜であり、改札を出てすぐの階段からその砂浜に降りることができる海にメチャメチャ近いところにある駅です。かつてはこのホーム下の砂浜が海水浴場になっていました。ホームから見える瀬戸内海の風景も格別です。

駅の左手にはサッカーJ3の愛媛FCのクラブハウスと練習場があります。

この梅津寺駅は1990年代を代表するトレンディードラマ1つ『東京ラブストーリー』の重要なシーンのロケ地になった場所です。主人公の赤名リカ(演・鈴木保奈美さん)がホームの柵にハンカチを結びつけたまさにその場所です。今でもここにハンカチを結びつける人が後をたちません。

三津浜港を出港した中島汽船の忽那諸島航路のフェリーが梅津寺駅のすぐ沖合いを進んでいきます。


梅津寺駅前にある梅津寺公園です。かつてここには梅津寺パークという遊園地がありました。

梅津寺公園には鉄道記念物として伊豫鉄道甲1形蒸気機関車が静態保存で展示されています。夏目漱石先生の小説『坊っちゃん』に登場する「マッチ箱のような汽車」というのが、この伊豫鉄道甲1形蒸気機関車と後部に連結されている客車のことで、これがその本物です。

この伊豫鉄道甲1形蒸気機関車は伊予鉄道高浜線の松山駅〜三津駅間開業に備えて今から133年前の明治21(1888)に導入された機関車の本物ですが、綺麗に整備がなされているので、今にも動き出しそうです。

梅津寺駅のすぐ近くにある見晴山には、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』の主人公で、日露戦争で日本を勝利に導いた松山が生んだ偉人、秋山好古陸軍大将と秋山真之海軍中将の兄弟の銅像が立っています。


続いて、鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線②を掲載します。