2021年2月26日金曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)

 公開予定日2021/02/04

[晴れ時々ちょっと横道]第77回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)


『承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)』ってご存知ですか? 『承平天慶の乱』は平安時代中期の年号の承平から天慶年間のほぼ同時期に起きた、関東での平将門(たいらのまさかど)の乱と瀬戸内海での藤原純友(ふじわらすみとも)の乱の総称のことです。


それぞれの乱について簡単に振り返ってみます。まずは「平将門の乱」についてです。

 

【平将門の乱】

 

平将門は朝廷より平氏の姓を授けられた桓武平氏の祖・高望王(たかもちおう:第50代桓武天皇の孫)の孫にあたり、9世紀末以降、下総(しもうさ)国豊田・猿島(さしま)郡地域(現在の茨城県結城郡・猿島郡地域)の石井に本拠を構えて土着した軍事貴族でした。本格的な反乱が始まる前の承平年間(931年~938)には、伯父の平良兼と親族内での内紛 (亡くなった平将門の父・平良将の遺領を巡る一族内の個人的ないざこざ) を起こし、嵯峨源氏で常陸大掾(ひたちだいじょう)であった源護(まもる)や、その娘婿でもあった自身の叔父の平国香・平良正・平良兼らの同族を巻き込んで小さな合戦を繰り返していました。武勇に優れ、組織統率力もあった平将門は、どの合戦においてことごとく勝利し、ついには承平5(935)、叔父の平国香を討ち取ったのですが、承平6(936)10月、平将門はこれらの戦いのことで源護に訴えられ、京都の朝廷に召喚されます。この時は朱雀天皇元服の大赦で赦されて、全ての罪は不問とされました。

しかし、下総国への帰郷後も一族内での紛争は収まらず、もう1人の叔父の平良兼や討ち取った平国香の息子の平貞盛、さらには源護なども巻き込んでどんどんと泥沼化していきました。さらには天慶2(939)2月、武蔵国(現在の埼玉県・東京都)へ新たに赴任した権守興世王(ごんのかみおきよおう)と源経基(つねもと:清和天皇の孫で清和源氏の祖)が、足立郡の郡司・武蔵武芝との間に起きた紛争に介入し、平一族とは全く関係のない地方役人たちの領地争いにも参画していくようになります。この時は興世王と武蔵武芝を会見させて和解に持ち込んだのですが、武蔵武芝の兵がにわかに源経基の陣営を包囲し、驚いた源経基は京都へ逃げ帰ってしまいました。この頃から抗争は次第に一族の内紛から、京都の朝廷への反抗の様相を見せ始めることになるのですが、もはやこの時期の関東地方においては、朝廷の地方支配はほとんど機能しておらず、大混沌に陥っていたということもできるかと思われます。

 この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守・百済貞連と不和になり、国庁の会議に全く列席させて貰えなかった興世王は任地を離れて下総の将門のもとに身を寄せるようになり、平将門も徐々にその争いの渦中に巻き込まれていきます。その数ヶ月後の天慶2(939)1121日、平将門は常陸国(ひたち:現在の茨城県北部)の国衙(こくが:国の役所)を襲い、国守・藤原維幾(これちか)を捕らえました。この戦闘は国衙側から宣戦布告されてもので、平将門はやむなく戦うこととなったのですが、結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して叛旗を翻す形になってしまいました。すなわち、これまでの一連の戦いは、あくまでも平氏一族内での「私闘」という扱いでしたが、国の役所である国衙を攻撃し占領してしまったことは、図らずとも平将門が朝廷に対して叛旗を翻してしまったことを意味するわけです。

 その後、平将門は彼の側近となっていた興世王の進言を受け入れて下野国(しもつけ:現在の栃木県)・上野国(こうずけ:現在の群馬県)・相模国(さがみ:現在の神奈川県)などの関東諸国を巻き込み、破竹の勢いで瞬く間に次々と制圧。朝廷から派遣されていた国司を追放し、弟達や主要な従者達を各地の国司に任じて、自らは京都の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇」と称し、関東に独立王国を築く姿勢を示しました。

 これに対して朝廷は平将門を、朝廷に対して反乱を起こした叛逆者として位置づけ、鎮圧へと乗り出すこととなります。平将門と敵対関係にあった平貞盛ら平一門の武力を借り、さらには下野国の藤原秀郷ら関東の群党的領主たちを抱き込んで地元の鎮圧軍として編制。天慶3(940)2月初旬には藤原忠文を征東大将軍、源経基らを副将軍に任命して追討軍を編成し、京都から出征させました。213日、平将門は京都からの追討軍主力が到着する前に、平貞盛・藤原秀郷らの数に勝る地元鎮圧軍に攻められて「川口村の戦い」(戦闘のあった場所は現在の茨城県結城郡八千代町水口付近)で敗北。この手痛い敗戦により追い詰められた平将門は、翌214日、地の利のある本拠地石井(現在の茨城県坂東市中根付近)近くの下総国猿島郡幸島付近に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けたものの、奮戦虚しく、どこからか飛んできた流れ矢が平将門の額に命中し、あえなく討ち死に。乱は実質わずか2ヶ月ほどで平定されてしまいました。

 この平将門の乱の鎮圧に功があった平貞盛や藤原秀郷たちは、朝廷から恩賞として四位、五位の位階に叙せられ、関東の国司に任命されました。彼らはこれをもとに、中央・地方を問わず武門として発展する基盤を築いていくことになるのですが、のちの鎌倉幕府の有力御家人の多くは、この乱の功労者たちの末裔でした。平将門によって芽ばえた東国政権樹立の夢は、それから250年後の建久3(1192)、源頼朝に征夷大将軍の宣下がなされ、武家政権である鎌倉幕府が成立することによって、実現することになります。ちなみに、朝廷から差し向けられた平将門追討軍の副将軍を務めた源経基は源頼朝の父祖にあたります。

 以上が「平将門の乱」の概要です。続いて「藤原純友の乱」の概要です。

 

【藤原純友の乱】

 


藤原純友は藤原氏の中でも最も栄えた藤原北家の出身で、大叔父には清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握り、日本史上初の関白に就任した藤原基経がいます。そのような名家の出なのですが、大宰少弐だった父・藤原良範を早くに亡くし、出世に必要な人脈を失ったことから都での出世は望むべくもなくなり、やむなく地方官となりました。承平元年(931)、父の従兄弟である藤原元名が伊予国の受領(ずりょう:実際に任国に赴く諸国の長官)として伊予国に赴任するのに従って従七位下 伊予掾(いよのじょう:身分の低い役人)として伊予国に赴任し、瀬戸内に横行する海賊の鎮圧に従事しました (当時の伊予国の国府は現在の今治市にありました)

 瀬戸内海は古代より西日本からの物資や租税の多くが運ばれる物資運送の重要な海上交通路でした。瀬戸内海で海賊行為が行われ始めたのは、とても古く、奈良時代に遡ります。聖武天皇が天平2(731)に「京および諸国の盗賊と海賊を対武する」という詔を発布しているほどです。奈良・平安時代、当時の律令政治は一般庶民に重税や労役を課していたため、生活に困窮した瀬戸内の島民が、航行する船を襲い、積み荷を奪ったのが、海賊の発祥とされています。前述のように、瀬戸内海は古代より西日本からの物資や租税の多くが運ばれる物資運送の重要な海上路だったのですが、見方を変えれば、瀬戸内海の海運を握ってしまえば、朝廷の力を削ぐことも、自分達だけ豊かになることもできるわけです。当然、朝廷は税収確保のために、こういった海賊を厳しく取り締まるようになります。本来ならば、伊予掾の藤原純友も海賊達を厳しく取り締まる側だったはずなのですが……。

 その後、伊予国がよっぽど気に入ったのか、上司の藤原元名が任期を終えて都に帰任した後も藤原純友は帰京せず、伊予国に土着する道を選びます。伊予掾は解任されたものの、武勇に優れ、強さと組織統率力において海賊を圧倒してきた藤原純友は、すぐに「伊予国警固使」の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続けます。承平6(936)までには瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功したのですが、そこから驚くことに、彼は九州と四国の間の宇和海に浮かぶ伊予国日振島(ひぶりじま:宇和島市)を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げます。その背景には、藤原元名を引き継いで新しく上司の伊予守となった紀淑人が海賊の鎮圧という藤原純友の手柄を横取りし、純友の勲功を黙殺してしまったことがあるとされています。それを機に藤原純友は上司や朝廷にかなりの不満を持つようになり、それまでとは反対の立場である海賊になったということのようです。

 9世紀後半になると、瀬戸内海では航行する船を襲い、積み荷を奪う海賊がそれ以前よりも多く出没するようになりました。この背景には、実は遣唐使の廃止があるとされています。海賊というとジョニー・ディップ主演のディズニー映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくるような海の荒くれ者集団のイメージが強いのですが、瀬戸内海にいた海賊達はちょっと違っていました。彼等はなりたくて海賊になったわけではありませんでした。その多くは、もともとは朝廷の舎人(とねり)と呼ばれる朝廷の雑用をする役人だった人達でした。瀬戸内海で働く舎人達は、中国や朝鮮など海外の客人のための対外的な儀式を執り仕切る人達でした。ところが、寛平6(894)の遣唐使廃止、さらには907年の唐の滅亡以降、対外貿易も儀式も途絶え、舎人はほとんど仕事がなくなり、余剰人員になったのでした。舎人はもともと朝廷の役人であり免税の特権があったので、これにより何もしない多くの舎人達、はっきり言ってプー太郎達が瀬戸内海一帯の地域に大量にはびこることになりました。いっぽう、税の徴収が仕事である国司(受領)としてはその状態を苦々しく思い、彼等をどうにかしてほしいと朝廷に訴えました。朝廷は、税の取り立て役人である受領の機嫌を損ねたくないことから、受領に舎人をリストラ、すなわちクビにする権利、逮捕する権利を与えてプー太郎と化した舎人達を容赦なく排除させました。リストラされた舎人達は現金収入の道が突然閉ざされたわけで、手に職があるわけでもなく、生きていくために仕方なく瀬戸内で生産される米を強奪する海賊になるしかなかったとも言えます。

 海賊集団の首領となった藤原純友のもとには、純友と同じように中央で出世が望めない下級貴族や没落貴族達も集まり、共に活動を始めました。さらには、それまで藤原純友に鎮圧されていた元舎人の海賊達さえも武勇と組織統率力に優れた強い藤原純友を慕って仲間に加わりました。すなわち、努力が報われなかったり、地方に放置されたままになったりして追い詰められ、朝廷に強い不満を持つようになった“負け組”の者達が藤原純友のもとに結束し、強大な船団を作り上げ、瀬戸内海をコントロールしはじめたというわけです。言ってみれば“怒りの海賊船団”で、彼等は瞬く間に各国の国司(受領)たちの手には負えないほどの軍事力を持つようになり、千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らす海賊行為を繰り広げ、やがて広い瀬戸内海全域にその勢力を伸ばしていきました。

 東国で平将門が朝廷に対して叛旗を翻した直後の天慶2(939)12月、その海賊達の不満が一気に爆発する事件が起きます。藤原純友と親交の深かった備前国(現在の岡山県)に土着した海賊(元舎人)、藤原文元が備前国の役人(備前介)だった藤原子高とトラブルになり(トラブルの原因は藤原子高による税金の着服ではないか言われています)、藤原文元が摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)に逃亡中だった備前介 藤原子高と播磨介 島田惟幹を襲撃し殺害。この事件は海賊達の首領であった藤原純友との共謀により起こったこととされ、藤原純友は朝廷から叛逆者扱いされることとなり、これが「藤原純友の乱」の発端となりました。

 平将門と藤原純友がほぼ同時に朝廷に対して叛乱を起こしたことから、この両者で「共同謀議」があったのではないかとする説があります。その共同謀議説とは、京都で朝廷に中級官人として出仕していた青年時代の平将門と藤原純友は、ある日、一緒に比叡山に登り平安京を見下ろした。二人はともに、将来、乱を起こして都を奪い、平将門は桓武天皇の子孫だから天皇になり、藤原純友は藤原氏だから関白になろうと約束した…とする伝説です。また、比叡山上には、この伝説にちなんだ「将門岩」なるものも存在し、そこには将門の無念の形相が浮かび出るという伝承までがあります。

 しかし、実際には、両者の共同謀議の痕跡はいっさいなく、むしろ別々に自らの地位向上を目指してもがいているうちに、たまたまほぼ同時期に東国で平将門が叛乱を起こし、藤原純友は西国で蜂起に追い込まれてしまった色合いのほうが強いと言えます。まぁ、当時の日本は公地公民をベースとした律令国家体制が崩壊し、特に地方の政治は大きく乱れ、日本中で誰かがいつどこで朝廷(正しくは地方を治める国司)に対して武装蜂起を起こしてもおかしくないギリギリの切迫した状況にあったということではないでしょうか。そのうち歴史に残るほどの大きな武装蜂起をしたのが平将門と藤原純友だったという風に見たほうがいいと思います。

 こうして始まった藤原純友の乱ですが、当初は意外な展開を見せます。朝廷はまず東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、天慶3(940)130日、西の藤原純友に対しては従五位下の位階を授けて懐柔するという方策に出ました。これにより藤原純友らの反乱は一時沈静化したかに見えたのですが、その直後の214日、平将門が下総国猿島郡幸島付近で交戦中に討ち死にし、5月に平将門の乱を鎮圧した軍が帰京してくると同時に、朝廷は藤原純友追討を本格化させます。

 8月になって藤原純友軍は讃岐国の国衙(こくが:国の役所)を攻撃し、さらに備前国・備後国といった瀬戸内沿岸諸国を襲い、10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行いました。いっぽう、朝廷側は藤原純友軍追討のために右近衛少将(武官)の小野好古を山陽道追捕使長官に、平将門追討軍でも副将軍を務めた源経基を次官、藤原慶幸・大蔵春実を主典に任じ、討伐の準備を進めました。ちなみに山陽道追捕使長官となった小野好古は、小倉百人一首では参議篁で知られる歌人の小野篁(たかむら)の孫で、「三蹟」の1人と称された書家の小野道風は弟にあたります。また、一説には「六歌仙」の1人で絶世の美女と言われた女流歌人の小野小町の従弟にあたると言われています。

 藤原純友が率いた軍勢は、彼が鎮圧した海賊だけではなく、前述のように、その大半は武芸に通じた下級貴族や没落貴族達でした。そのため藤原純友軍は滅法強く、1年以上もの長きにわたって日振島を拠点に、瀬戸内海を制圧し続けました。しかし翌天慶4(941)2月、藤原純友軍の次将の1人だった大幹部の藤原恒利が藤原純友を裏切り朝廷軍に降ると、一気に形勢が逆転します。朝廷の討伐軍は藤原純友の本拠地・日振島を攻め、これを破ります。藤原純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領。藤原純友の弟の藤原純乗は柳川に侵攻しますが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池(かまち)で敗れました。

 天慶4(941)5月、小野好古率いる討伐軍が九州に到着。小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から100余隻の船団で藤原純友軍に対し攻撃を開始しました。藤原純友軍は大宰府を焼き払い、一挙に起死回生を賭けて博多湾で大蔵春実率いる討伐軍の水軍を迎撃したのですが、大激戦の末に大敗。この時、捕獲された藤原純友軍の船団は800余隻、死傷者は数百名を数えたと言われています。こうして藤原純友軍は壊滅させられました(博多湾の戦い)。

 この後、藤原純友軍の生き残った兵士達は各地に離散していき、藤原純友自身も実子の重太丸とともに小舟に乗って再度本拠地伊予国へ逃れたとされています。その後、藤原純友は同年6月に伊予国警固使・橘遠保(とおやす)により現在の新居浜市種子川町にある中野神社の裏にある生子山で討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、また、今治にあった国府か京に移されて処刑されたともいわれていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではありません。また、一説によると、それらは国府側によるまったくの捏造で、真実は藤原純友は残った海賊の船団を率いて、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロー船長のように南の海を目指して消えていった…とも言われています(私は、ロマンがあるので、俄然その説を支持します)。そのあたりが、調べてみると実に面白そうです。

 その後、藤原純友軍の残党による叛乱もあったようですが、同年末までにはほぼ鎮圧され、瀬戸内海も約1世紀にわたった海賊跳梁による混乱から、徐々に平静を取り戻していきました。これが「藤原純友の乱」のあらましです。この「藤原純友の乱」の合戦の様子は、『純友追討記』として追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されています。

 

平将門も藤原純友も、その叛乱の動機は自身の野心というよりも中央に対する不満、反発でした。2人とも叛乱を起こしたゆえに朝敵とされてしまった訳ですが、彼等は当時の腐敗した貴族社会を心底嫌っており、叛乱を起こすことが正義だと思っていたような節が感じられます。これには一理も二理もあるでしょう。「叛乱」というのは体制側から見た場合の呼び名であって、平将門や藤原純友側も言い分は「自由を回復するための戦い」でもあったのではないかと私は思っています。朝廷に虐げられた、地方の自由の回復とでも言いますか。これは、東京一極集中の現代日本にも通じるところがあるかも知れません。このように、平清盛が登場してくる250年ほど前に、貴族政治の翳(かげ)りが既に表われていたことが分かります。

 平将門と藤原純友、『承平天慶の乱』の首謀者2人はともに地方で実際に力を持っていた豪族達です。前述のように、彼等は貴族の出身ではあっても自身は身分が低く、京の都の貴族達からは全く相手にされないような存在でした。しかし、彼等が謀反を起こしたことによる朝廷の驚きは大きく、「討伐した者は、もとの身分に関わらず、貴族に取り立てる」という布告をするほどでした。どちらの叛乱に対しても、武力を持たない貴族達はまったくの無力でしたが、武力(防衛力)を有する地方の豪族達の力を借りることによって鎮められました。その結果、武力を有する地方の豪族達の力がとても強いものであることを認識させるきっかけになります。

 ちなみに、この『承平天慶の乱』の鎮定に功績のあった者の子孫達が、その後、平安時代後期の荘園公領制成立期あたりから荘園領主や国衙と結びつき、その強力な軍事警察力をもって正統な“武士”として認められるようになり、武士団形成への一歩を築くことになります。また、約250年後、関東に武士による政権(鎌倉幕府)を開くことになる源頼朝と、瀬戸内海を制して莫大な力を蓄えた平清盛。彼らにこの『承平天慶の乱』がなにがしかの影響を与えたことは想像に難くありません。

 本コラムの題名とした『風と雲と虹と』は昭和51(1976)に放送されたNHK大河ドラマの題名で、この『承平天慶の乱』を描いたTVドラマでした。この作品は海音寺潮五郎先生の歴史小説『平将門』と、同じく『海と風と虹と』を原作としたもので、主人公の平将門を加藤剛さん、藤原純友を緒形拳さんが演じたのですが、主人公はあくまでも平将門、藤原純友は重要な脇役という感じの扱いでした。このように今では中学校や高校の歴史の教科書にも載っている『承平天慶の乱』の2人の主人公、平将門と藤原純友ですが、その後の扱いは大きく違っているように私には感じられます。私に言わせれば、「平将門の乱」はあくまでも平氏一族内での「私闘」の延長線に過ぎず、しかも京から遠く離れた坂東の地で行われたものであり、わずか2ヶ月で平定されたのに対し、「藤原純友の乱」は朝廷に強い不満を持つようになった下級貴族や没落貴族達が集団に起こした朝廷に対する叛乱で、それまでの公地公民をベースとした律令国家体制の崩壊を象徴するような歴史的に見ても大きな出来事。それも京に近い、と言うか京へ向かう物資運送の重要な海上交通路であった瀬戸内海一帯を舞台にした大規模な叛乱であり、約2年という長期間に及んだにも関わらず、この扱いの差はいったいどこから来ているのか…と不思議に思っていました。そのあたりを、次回第78回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」で書きたいと思います。

 

……(その2)に続きます。