2019年8月25日日曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その14)

予定よりちょっと早くゴールに着いたので、リュックを観光バスに積み、身軽な格好で頼岳寺を訪れることにしました。

頼岳寺はJR中央本線のガードを潜った先にあります。
「信玄公ゆかりの地 上原城跡」の案内表示が出ています。前述の、かつて諏訪氏の居城であった上原城跡です。城跡への登り道はここからのようです。
曹洞宗の寺院らしく「山門禁葷酒」と刻まれた石碑が立っています。「不許葷酒入山門(くんしゅ さんもんにいるを ゆるさず)」ということですね。
山門前は立派な杉の古木の並木になっています。
曹洞宗の寺院、少林山頼岳寺です。この頼岳寺は高島藩初代藩主の諏訪頼水が寛永8(1631)に上野国甘楽郡白井の双林寺第13世関徹禅師を招いて開山した寺院です。上原五山の1つ、永明寺にあった釈迦如来を本尊とし、父母の御霊を祀るために創建しました。境内奥の霊廟には諏訪家中興の祖とされる頼水の父・諏訪頼忠(永明寺殿)と母の頼忠夫人(理昌院殿)の墓を永明寺から移して埋葬しています。また、頼水自身もこの頼岳寺に葬られました。
天文11(1542)、武田晴信(信玄)との瀬沢の戦い敗れた諏訪惣領家の諏訪頼重が武田氏によって滅ぼされて以降、雌伏40年。諏訪大社の上社大祝職にあった諏訪頼忠(頼重の従弟)は、密かに再興の機を窺っていました。天正10(1582)、甲斐武田家が天目山に滅び、その2ヶ月後に織田信長も本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復し、再興したのが諏訪頼忠でした。

しかし時勢の変遷はさらに厳しく、やがて豊臣の治政となり、豊臣秀吉に諏訪の領主として認められなかった諏訪頼忠はこの地を追われ、およそ10年の間、武州、さらには上州の地を転々としていたのですが、慶長5(1600)の関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康軍)につき、目覚ましい戦功を挙げたことによって、翌慶長6(1601)、再び故国諏訪の地に移封となり、息子の諏訪頼水が高島藩(諏訪藩)初代藩主となりました。この際、諏訪頼忠・頼水父子は領民が歓呼の声で迎える中を旧領に復帰したと言われています。ちなみに、諏訪家は、その後、幕末まで譜代の高島藩(諏訪藩)3万石の藩主として10代続くことになります。

諏訪への帰国の4年後の慶長10(1605)8月、諏訪頼忠は71歳でその波乱の生涯を閉じ、茅野市の上原五山の1つ、永明寺に葬られました。その後、寛永7(1630)、故あって永明寺は破却され、それ以後はこの頼岳寺の境内を牌所として、諏訪頼水の手により両親である頼忠(宗湖庵)、頼忠室(理昌院)の供養塔が建立され、後世に至っています。

頼岳寺の本堂(間口十四間)とその後方の開山堂は大正6(1917)、本堂右の庫裡は明治35(1902)に建立された比較的新しいものですが、本堂内陣正面の欄間彫刻は天保15(1844)、名宮大工と言われる立川流二代和四郎冨昌の作なのだそうです。
本堂には諏訪家の紋章である「梶(かじ)の葉」が掲げられています。
これがその「梶(かじ)」の木です。説明書きによると、梶は楮(こうぞ)属に属するクワ()科の落葉樹で本州の中部以南に分布します。樹皮からは紙や布を製します。梶葉・梶紋と呼ばれる紋章はこの若木の葉を模様化したもので、昔から神木として尊ばれています。古代から諏訪地方に政権を保持した大祝諏訪氏は衣服に、また鎌倉時代には旗印としてこの梶の葉の紋章が用いられました。現在の図案化されたものは江戸時代以降のものなのだそうです。頼岳寺の開基となった高島藩初代藩主の諏訪頼水との縁により、頼岳寺は藩主家の家紋を寺紋として用いているのだそうです。
境内奥にある霊廟です。ここに諏訪家中興の祖とされる諏訪頼忠(永明寺殿)と頼忠夫人(理昌院)、高島藩初代藩主の諏訪頼水(頼岳寺殿)の墓が祀られています。墓は左から諏訪頼水(頼岳寺殿)、諏訪頼忠(永明寺殿)、頼忠夫人(理昌院殿)の順に並んでいます。この霊廟は国指定の史跡に選定されています。
この3人の墓の裏にも林の中に歴史を感じさせる古い墓標が幾つも立っています。高島藩の歴代藩主や主な家臣達の墓なのでしょうか?
頼岳寺の境内には句碑や歌碑が幾つも立っています。その中に、あの松尾芭蕉の句碑があります。句碑には
「名月や 池を巡りて 夜もすがら  芭蕉」
と刻まれています。松尾芭蕉と言えば…で、連想されるような代表作の1つですが、残念ながらこの句はこの頼岳寺で詠まれた句ではありません。この句は貞亨3(1686)8月の十五夜の日に江戸深川にあった芭蕉庵で月見の会を催した際に詠んだ句で、芭蕉43歳という心身ともに最も充実しきった時期の作品です。
諏訪盆地の茅野に入り、諏訪大社や、7年に1回行われる諏訪大社の奇祭「御柱祭」に関連する見どころが増えてきました。茅野は甲州街道の終着の下諏訪宿の一歩手前です。頼岳寺は少し標高の高いところにありますので、遠方がよく見えます。北西の方角を見ると、遠くに諏訪湖の湖面が見えます。甲州街道の次の宿場である上諏訪宿、そして終わりの宿場で中山道との合流点である下諏訪宿は諏訪湖の湖岸にあります。長かった甲州街道歩きも、ついにゴールが見えてきました。いよいよ次回【第16回】が甲州街道歩きの最終回で、上諏訪宿を経て、中山道と合流する終着の下諏訪宿に到着します。
今日は19.6km、歩数にして26,403歩、歩きました。今日のコースは基本的に諏訪湖に向けて標高差約250メートルを下っていくだけだったのですが、途中、アップダウンを何度か繰り返しながらの下りなので、ちょっと脚にきています。
朝は少し心配したお天気も、歩いている最中は一度だけ雨具を使う時間帯がありましたが、極々弱い短時間の雨でしたし、途中晴れ間もあって暑いくらいでした。この2日間を振り返ってみても、1日目にも少し雨具を使う時間帯がありましたがそれも極々短時間の弱い雨で、梅雨前線が停滞した気圧配置を考えると、今回も『晴れ男のレジェンド』は健在と言えるのではないでしょうか。梅雨前線との戦いはこのところ連勝続きです。ちなみに、帰りの中央自動車道では、途中、バスのフロントガラスに雨粒が打ちつけられる区間がありました。


――――――――〔完結〕――――――――

2019年8月24日土曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その13)

昼食休みが終わり、甲州街道歩きの再開です。とは言え、今回【第15回】のゴールの頼岳寺はあと3kmほどです。40分ほどで到着の予定です。週末午後の中央自動車道上り(東京方向)は必ずと言っていいほど小仏トンネルを先頭に大月ジャンクション付近まで20km以上の大渋滞を起こします。ましてや、この日は3連休の最終日。かなりの渋滞が予想されているので、極力早い時間帯に帰りにかからないといけません。この日は14時半にはゴールの頼岳寺に到着できそうなので、15時過ぎには中央自動車道に乗れそうです。甲州街道歩きは毎回帰りの渋滞が気になります。
上川橋で宮川の支流である上川を渡ります。
諏訪大社の御柱祭りで上社の本宮と前宮に立てる8本の巨大な御柱を茅野市宮川沿いの「御柱屋敷」まで曳行する「山出し」で、木落し坂を過ぎると待ち受けるのが、山出し最後の難所、宮川の「川越し」です。ここがその「川越し」が行われる場所です。川の向こうに木落し坂が見えます。木落し坂の下をJR中央本線の線路が通っていて、一体どうするのだろうと思っていたのですが、なるほどここでそのJR中央本線の線路の下も一気に潜って川の対岸まで御柱を持ってくるのですね。この「川越し」、御柱を宮川の雪解け水で洗い清める意味があるともいわれ、水温10℃以下の身を切るような冷たい流れに、氏子の若者衆が我先にと飛びこむ姿は壮観なのだそうです。
茅野市の中心部に入っていきます。茅野はかつては諏訪惣領家の居城・上原城の城下町として、また江戸時代に入ってからは甲州街道の間の宿(あいのしゅく)であった茅野村から発展した都市です。間の宿は旧街道の宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設のことです。甲州街道の金沢宿と次の上諏訪宿までの距離は31355(13.3km)と長いので、この茅野の間の宿はここを旅する旅人に重宝がられ、大いに賑わったそうです。この茅野の間の宿は慶長年間(1596年〜1615)より街づくりが行われていたと考えられています。間の宿成立当初より延宝年間(1673年〜1681)初期までは「千野村」と表記されていましたが、延宝6(1678)以降は「茅野村」と表記されるようになりました。

旧甲州街道を先に進みます。左手に「こてえ 天香館」があります。
こてえとは漢字では鏝絵と書き、日本で発展した漆喰を用いて作られる伝統的な装飾技法のことで、左官職人が「こて()」で仕上げていくことからこの名前がついたのだそうです。この「こてえ 天香館」は鏝絵の名工として全国各地の公共施設も手掛けた左官・小川天香さんこと、小川善弥さんが残した鏝絵の作品の展示館として、孫の小川善弘さんが自宅敷地に建てたものです。館内には、迫力がある鏝絵「魚藍観音」や、「舞姿」、「籠に盛り花」など、多数の作品が並んでいるのだそうです。日本の伝統的な職人技に興味がある私としては是非立ち寄りたい衝動に駆られるところなのですが、団体行動なので諦めます。

 茅野市のお店情報 鏝絵天香館【信州諏訪 茅野 泥工美術の館】 

進行方向右手にJR茅野駅が見えてきました。茅野駅の駅前には姥塚古墳の跡があり、姥塚古墳跡碑」が建てられています。8世紀末頃の築造と推定される古墳なのですが、残念ながら茅野駅の改修工事の取り壊されてしまったのだそうです。
諏訪大社上社の大鳥居です。ここは諏訪大社の南西に位置する上社へ通ずる参道で、御柱祭に用いられる柱は「木落し坂」を下った後、「川越し」で宮川を渡り、この鳥居をくぐり、上社へと運ばれます。大鳥居を潜った先で道路が右へ曲がり、下り坂になっているのが分かります。42日〜4日に行われる「山出し」では御柱はこの坂を下り、宮川沿いの「御柱屋敷」まで運ばれます。
おおっと、アルピコ交通の路線バスがやってきました。旧社名は松本電気鉄道。平成23(2011)4月、諏訪バス、川中島バスと合併し、商号をアルピコ交通に改めました。この茅野のあたりの路線を運行しているのは旧諏訪バスでしょうね。現在はアイボリーホワイトに赤や緑やオレンジの斜めストライプの入る鮮やかな車体塗装ですが、肌色基調に上部が赤、下部が濃紺の細いストライプが描かれた旧車体塗装が渋くて好きでした。山梨県内を歩いている時は出会う路線バスは(渋い濃淡のある緑ストライプの)富士急行のバスか(我が家のある埼玉県さいたま市でよく見かける国際興業バスと同じ車体塗装の)山梨交通のバスばかりでしたが、長野県に入るとこのアルピコ交通のバス。公共交通機関マニアとしてはこの違いが堪りません(^ ^)
右手に見えるのが貧乏神神社のあった味噌蔵 丸井伊藤商店の本店です。
ここで旧甲州街道は長野県道197号払沢茅野線から離れ、左側の細い道に入っていきます。
S字カーブといい、見るからに旧甲州街道といった趣きの残る道路です。
上原交差点で久し振りに国道20号線と合流します。「諏訪まで6km」の道路標識が出ています。甲州街道の終点・下諏訪宿が近づいてきました。
右手の山の上にかつて諏訪氏の居城であった上原城跡があります。上原城は金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹の居館からなる諏訪総領家の本拠であった根小屋式山城です。根小屋式山城は城主が平時は麓に居住し,戦時に山城に詰めるという形式の山城のことです。上原城の築城年代は定かではありませんが、室町時代の文正元年(1466)頃、諏訪信満が中腹に居館を建て、以来570余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられています。
天文11(1542)には、瀬沢の戦いに勝利した甲斐国の武田晴信(信玄)が伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢とともに領主・諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡は武田氏の領国となりました。この上原城にも譜代家老の板垣信方が諏訪郡代として赴任し、上原城は武田家の信濃領国支配の拠点の1つとなりました。天文17(1548)2月の信濃村上氏との上田原の戦いにおいて城主・板垣信方が戦死。その後、上原城主には長坂虎房(光堅)が配置されたのですが、長坂虎房は天文18(1549)に上原城に代わる高島城(茶臼山城、諏訪市高島)を築城。虎房は高島城へ移り、諏訪郡の政治的拠点は高島城に移転されました。天正10(1582)3月の織田・徳川連合軍による武田領侵攻(甲州征伐)により甲斐武田氏は滅亡し、それに伴い上原城は廃城となりました。

上原城下町はその後もしばらくは存続していたのですが、江戸時代には諏訪高島城が築城され新城下町が整備されると、上原城の城下町も移転され消滅してしまいました。現在は主郭や土塁・二の郭・三の郭・曲輪・空堀・物見石などの遺構が残されているのだそうです。

上原八幡交差点です。左手に小さな神社があります。上原八幡神社です。由来碑によると鎌倉時代に鎌倉鶴岡八幡宮から分社した神社なのだそうです。また、小さな神社ではありますが、高島藩主の諏訪家が参勤交代で江戸に上る際には、必ずここに参拝してから出府したという由緒ある神社なのだそうです。
葛井神社です。葛井神社は久頭井、楠井、久須井、槻井等とも書かれ、祭神は槻井泉神とされています。祭祀の始まりは明らかではありませんが、古くから諏訪大社の末社であり、特に上社の前宮とは関係が深いとされています。諏訪大社の大祝の即位にあたって13箇所の神社の御社参りをする時の1社に入っていて、『諏訪上下宮祭祀再興次第』にも 祭礼や瑞垣、鳥居の建立について細かく触れられているのだそうです。
この葛井神社で忘れてならないのが「諏訪上社の七不思議」です。

諏訪大社七不思議とは、諏訪大社で言い伝えられている七不思議のことです。一般に諏訪大社の七不思議と言うと以下の7つを指します。
• 御神渡
• 元朝の蛙狩り
• 五穀の筒粥
• 高野の耳裂け鹿
• 葛井の清池
• 御作田の早稲
• 宝殿の天滴
しかし、実際には上社と下社で重複を含め別々に七不思議が存在し、計11個が存在するのだそうです。基本的には諏訪大社の行事や神事に関わる不思議な現象を指すのですが (特に諏訪大社の神事は数が多いことと、奇異なことで有名)、蛙狩神事のように行事自体を指すものもあります。そして信憑性の低い物もあれば、御神渡(おみわたり)のように現代においては科学的に説明ができる物まで、様々な物が存在します。

上社に関する七不思議は以下のとおりです。

① 元朝の蛙狩り ……蛙狩神事において、御手洗川の氷を割ると必ず23匹のカエル()が現れる。

② 高野の耳裂鹿……御頭祭では神前に75頭の鹿の頭を供えるのだが、毎年必ず1頭は耳の裂けた鹿がいる。

③ 葛井の清池……葛井神社の池に、上社で1年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、元旦に遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮く。また、この池には池の主として片目の大魚がいるとされている。

④ 宝殿の天滴……どんなに晴天が続いても上社宝殿の屋根の穴からは13粒の水滴が落ちてくる。日照りの際には、この水滴を青竹に入れて雨乞いすると必ず雨が降ったと言われている。

⑤ 御神渡……冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため膨張し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる。

⑥ 御作田の早稲……藤島社の御作田は630日に田植えをしても7月下旬には収穫できたと言われている。

⑦ 穂屋野の三光……御射山祭の当日は、必ず太陽・月・星の光が同時に見える。

上記のうちの「③葛井の清池」はこの葛井神社の裏手にあります。「葛井神社の池に、上社で1年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、元旦に遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮く」実際は、そんなことはないと思うので、神職が、人知れず回収して、遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮かべているのでしょうか。この伝承は『諏訪効験』に「楠井の池の白木綿 かくとみえて、国の堺もとをき海の、さなきの汀に浮ぶなる」と書かれていて、鎌倉時代にはすでに成立していたものなのだそうです。また、葛井の池に関しては、「葛井の池の主は片目の魚で、捕れば祟る」とか、「雨乞いの時は、竹で池の水を叩き振り上げると、後の人に水がかかり、雨が降る」などの伝承もあります。

「スズメオドリ(雀踊り)」と呼ばれる棟飾りが付いた屋根の本棟造りの立派な民家があります。
石塔が立っています。この石塔の立っているところから右手に入った奥に「千鹿頭(ちかとう)神社」があります。この神社はこの地区の産土神ですが、諏訪信仰のその社名が示す通り、上社で催される御頭祭に供される75頭の鹿を用意する神社で、狩猟の神を祀る神社であったと言われています。すなわち、諏訪大社上社の七不思議のうちの「高野の耳裂鹿」の舞台になっている神社で、75頭の鹿の中で、毎年必ず1頭は耳の裂けた鹿がいると言われている神社です。
ここが今回【第15回】のゴール、頼岳寺駐車場です。


……(その14)に続きます。