昼食を終え、甲州街道歩きの再開です。歴史を感じさせる趣きのある下今井の寺町の家並みのなかを進みます。
これは分かりやすい双体道祖神です。
かなり坂道を下ってきました。赤坂台地の上では下を通っていた高速道路の高架が、今度は上に見えます。この道路は中部横断自動車道の高架で、このすぐ先に中央自動車道と合流する双葉ジャンクション(JCT)があります。
このあたりは中央自動車道と中部横断自動車道が合流する双葉ジャンクションがあったり、国道20号線が通っていたりと道路の構造が複雑で、しかも近代化されているのでこの道がそうだ!とは言いきれませんが、おそらくこの道路でほんの少し行った先を、武田信玄によって整備された甲斐国から他国に通じる9本の軍事用道路「甲斐九筋」の1つ「穂坂路(ほさかみち)」が通っています。穂坂路は、甲斐国と信濃国を結ぶ街道の1つで、別称は川上路。道筋は甲府から北西に進み茅ヶ岳南麓を通過し、小笠原(山梨県北杜市明野地区)から塩川沿いに江草・小尾(北杜市須玉地区)を経て信州峠を越え、信濃国佐久郡川上郷(長野県南佐久郡川上村)へ至る街道です。酒折宮を出てからJR中央本線の北側に沿って通り、ここまで伸びていました (旧甲州街道はJR中央本線のほぼ南側に沿って通っています)。穂坂路はこの先もしばらくJR中央本線の北側を中央自動車道に沿って伸びていくのですが、旧甲州街道はJR中央本線の線路の下を潜り、JR中央本線の南側に沿って進みます。
丸い球体の道祖神です。比較的新しい道祖神です。中央自動車道か中部横断自動車道の工事の際にでも建てられたのでしょう。
JR中央本線の線路下を古いレンガ造りの架道橋で潜ります。この架道橋は「信州往還架道橋」といい、明治36年(1903年)の国鉄中央本線敷設当初に架けられたものです。
JR中央本線の架道橋を潜った先で、国道20号線ではなく山梨県道6号甲府韮崎線をJR中央本線の線路に沿って歩いて行きます。
右側に大きな「泣石」がデェ〜ンと立っています。
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が西上作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第20代当主となった武田勝頼は、天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍の前に敗北。その後、領国再建のため相模国の後北条氏との間で甲相同盟を結んだものの、天正6年(1578年)3月13日、越後国で上杉謙信が病死するとその後の家督相続争い、いわゆる御館の乱に巻き込まれて甲相同盟はあえなく破綻。翌天正7年(1579年)、後北条氏の北条氏政が徳川家康と同盟を結んだため、徳川・後北条氏連合軍との戦いが繰り返されます。いっぽうで、天正9年(1581年)には現在の韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始しました。
そういう中、天正10年(1582年)2月、武田信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が織田信長に寝返り、これを期に織田信長・徳川家康連合軍が満を持して信州甲州の武田領に侵攻。織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始しました。武田軍の将兵は次々と寝返り戦線はあえなく崩壊、織田信長・徳川家康連合軍は怒涛の進軍で韮崎の新府城に迫ってきました。唯一、組織的な抵抗を見せたのは武田勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけでした。その高遠城も落城し、木曽戦線に続いて伊那戦線も崩壊。
高遠城落城の知らせを受け、同年3月、武田勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡。小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城を目指して落ち延びようとしました。その途中、武田勝頼の正室の北条夫人(北条氏政の妹)がここから新府城が炎上するのを見て、涙を流したという言い伝えがあります。それで「泣石」と呼ばれています。新府城はこれから行く韮崎宿の先のJR新府駅近くの高台の上にあったので、ここから直線で約10km弱。確かにここからだと城が炎上してもうもうと立ち上る煙は見えたでしょうね。JR中央本線の鉄道開通時に100メートルほど移動してこの場所に置かれたそうで、その鉄道開通までは岩の中央部にある割れ目から水が流れていたそうです。
しかし、これまで何度も書いてきましたように、武田勝頼が最後の頼みとした家臣で岩殿山城の城主・小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路を塞がれ、後方からは織田方の滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼の一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野で追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しました(天目山の戦い)。享年37。これによって、甲斐武田家は滅亡しました。
山梨県道6号甲府韮崎線を進みます。旧街道らしいS字カーブです。
光善寺という寺院の跡に石塔石仏群が並んで立っています。丸石道祖神、三界萬霊塔、そして二十二夜塔です。ちなみに三界萬霊塔とは、多くの人々、あらゆる生物の霊が成仏するよう願って建立されたものです。
その光善寺跡の向かいに歴史を感じさせる豪壮で立派な屋敷があります。このあたりの庄屋を勤めていた富農の屋敷で、今も住宅としてそのまま使われています。このあたりの民家の蔵は、旧甲州街道に面して建ち、防火壁の様になっています。その防火壁のような土蔵が屋敷を取り囲んでいるので、中は窺えません。昔、このあたりで大火でもあって、このような造りになったのだろうと推察されます。これまでの甲州街道歩きで立派な家は幾つも見てきましたが、その中でも飛び抜けて大きな家です。あまりに立派すぎて、メチャメチャ維持費がかかりそうです。
その向かいのお宅も蔵囲いの随分と立派な屋敷です。
双葉西小学校前で左の脇道に入り、少し行ったY字路で右へ行くと、すぐに山梨県道6号甲府韮崎線に戻ります。
その戻ったところに舟形神社があります。その船形神社の石鳥居は明神鳥居の形式をしていますが、柱の太さに比べて背の低いズングリムックリの印象を受ける特徴的な形をしています。この背の低い小さな鳥居は応永4年(1397年)に建立されたものだそうで、山梨県の指定文化財になっています。室町時代期の遺構としては第一に推すべき逸作と説明には書かれています。ただし、あまりに古くて鳥居に刻まれている銘は読めませんでした。この舟形神社ですが、「甲斐国志」によると、古来より釜無川沿いに崩壊した古墳があり、崩れた古墳の石室が舟のようにみえたことから「舟形神社」と呼ばれるようになったのだそうです。参道の先に神社が見えるのですが、神社自体は普通の神社の建物でした。
松尾芭蕉の句碑が立っています。
「昼見れば 首すじ赤き 蛍哉 芭蕉」
横を流れる六反川は、昔はホタル(蛍)が飛び交う清流として知られていたのだそうです。
六反川を渡り先に進んだ右側の奥の更地に一橋陣屋跡の解説板がポツンと立っています(そこまでは見にいきませんでしたが)。一橋家は徳川吉宗の四男の一橋宗尹(むねただ)を初代とする徳川御三卿(田安家、清水家、一橋家)の1つです。ここは延亭3年(1746年)、一橋家10万石のうち巨摩郡3万石所領支配のため置かれた陣屋で、宝暦3年(1763年)、陣屋が河原部村(現在の韮崎市)に移るまで存続しました。雲が切れて、右手前方に八ヶ岳がその特徴的な姿を見せてくれました。いいですねぇ〜。
山梨県道6号甲府韮崎線から右の脇道に入ります。このあたりは金剛地と呼ばれて、この先にある金剛寺の寺領だったところです。その金剛地に向けては登りの坂道になっています。
街道脇に植えられたアヤメが綺麗です。
坂を登りきったところに二十三夜塔が2つ並んで立っています。二十三夜塔に代表される月待塔(つきまちとう)は、特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中(民間信仰)において、供養の記念として建てられた塔のことです。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月の出を待ち、上がってきた月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事でした。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広く見られます(十五夜塔も多い)。
旧暦の23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔が「二十三夜塔」です。二十三夜講のほとんどは女人講、すなわち、その地域の女性、特に嫁仲間で結成された講でした。如意輪観音を本尊とすることがほとんどですが、准胝観音を本尊とする地方もあるようです(如意輪観音は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降、民間信仰に広く取り入れられ、二十三夜様の本尊として女性の盛んな信仰を受けました)。「二十三夜」「二十三夜念仏供養」などと刻まれた文字塔と如意輪観音の刻像塔があります。地域の女性達が月に一度集まっては、亭主や舅姑の愚痴を言いあってフラストレーションの捌け口にしていたのではないでしょうか。二十三夜というと満月から新月に向かうちょうど半月の夜です。日付けが変わる深夜に月が地表から顔を出してくるので、月を拝もうとすると、深夜過ぎまで待たなくてはいけないことを意味します。遅くまでの夜遊びを正当化するにはちょうど都合がいいですね(笑) また、かつて助産師をやっていた妻によると、統計的に半月の時って出産が少ないのだそうです。そういうことも少しは関係しているのかもしれません。新しいほうの1基には「向左滝沢駒沢二通ス 滝沢青年団」もう1基には「天保七丙甲年二月吉日建立」と銘が刻まれています。天保7年とは1836年のことです。
その二十三夜塔のところで左に曲がり、今度は坂を下っていきます。
その坂道の途中には、歴史を感じさせる古く立派な民家が建ち並んでいます。この民家の裏にこのあたりを寺領にしていた金剛寺があります。
坂を下りきったところで山梨県道6号甲府韮崎線とぶつかり、右折します。
突き当たった左側、民家の高い石垣の上に石祠があり、小さな道祖神が祀られています。昔からこの高い石垣の上に置かれていたのか、最近になって置かれたのかは不明です。
塩川大橋で塩川を渡ります。前方には甲斐駒ケ岳をはじめとした雄大な南アルプス(赤石山脈)の山々が見えます。山々の景色が楽しめるのも甲州街道や中山道の魅力です。もちろん江戸時代には塩川大橋はなく、150メートルほど下流に水神橋と呼ばれる木橋が架かっていました。現在の橋も建て替えられたようで、古い塩川橋の橋脚の跡が残っています。
……(その8)に続きます。
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