塩川大橋を渡ったところから韮崎市に入ります。
ここから韮崎宿にかけてはJR中央本線に沿って歩きます。列車が近づく音がすると嬉しくなって写真を撮ってしまうのは、鉄ちゃんの性(サガ)です。
JR中央本線の線路に沿って1.5kmほどほぼまっすぐ直線に黙々と歩きます。徐々に韮崎宿が近づいてきました。
下宿交差点です。ここが韮崎宿の江戸方(東の出入口)でした。その下宿交差点のところに鰍沢横丁と刻まれた道標と説明板が立っています。その説明板によると、ここは身延を経由して富士川沿いを東海道の岩淵(現在の静岡県富士市)や興津(現在の静岡市清水区)、由良宿へ向かう「身延路(みのぶみち)」の1つ「西郡路(にしこおりじ)」が分岐する追分でした。この西郡路は駿信往還ともいい、甲斐国の峡北地方(韮崎市、北杜市)や信濃国の諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を馬の背に積んで、鰍沢は甲府盆地の南西端、釜無川と笛吹川が合流して富士川となる山梨県南巨摩郡富士川町にあった鰍沢河岸という船着き場まで通行する道筋でした (鰍沢河岸以南は富士川を水運で運ばれていました)。このため、沿道には駄菓子屋や馬方茶屋などが軒を並べて賑わっていましたが、明治36年(1903年)、国鉄中央本線が開通して荷物の輸送経路は一変し、往時の活況は消え失せたのだそうです。
ちなみに、幕末にはこのすぐ先を流れる釜無川に船山河岸が設けられ、富士川水運の終点として大いに賑わっていたのですが、明治31年(1898年)に起こった釜無川の大水害で流失してしまったのだそうです。
韮崎宿は甲州街道、佐久往還、駿信往還が交わる交通の要衝で、また富士川水運の終点に当たるため、甲府街道と富士川水運の物資の集散地として海産物の陸揚げ、年貢米の積み出しなどで人馬の往来が激しく大いに賑わった宿場でした。特に、馬で荷物を運ぶ人達が活用する中馬宿としての商業が発達していました。その一方で、本陣跡碑の側面説明書きによると「諸大名の通過は有ったが、日程の関係で宿泊はごくわずかだったため、本陣は問屋の兼務であった」とのことです。参勤交代で甲州街道を利用していた藩は諏訪の高島藩諏訪家 3万石、伊那の高遠藩内藤家 3万3000石、信濃飯田藩脇坂家(のち堀家) 2万7000石の3藩だけで、いずれも譜代の中規模禄高の大名の藩ばかりでしたからね。地名の由来は、韮の葉のように続く七里岩の台地の先端にあるとか、台地上に野生の韮が多かったからとか、ニラミの略で七里岩の出崎と船山と睨み合っているが如きであったから…とかの説があります。
江戸時代後期の記録によると、韮崎宿の宿内人口は1,142人、宿内総家数は237軒。本陣1軒、旅籠17軒で、脇本陣は設けられていませんでした。この宿場の特徴は、家が街道に対して少し斜め(鋸歯状)に建てられていたことで、今でも何軒かの家並みにその面影が、僅かではありますが残っています。
左手にあるのが日蓮宗の寺院 大蓮寺で、境内に縁切り地蔵があるそうなのですが、あいにく工事中で境内には入れませんでした。
千野眼科医院のところの路地を右に入ると正面に一橋家陣屋跡があります。
徳川御三卿の1つ、一橋家(10万石)はこの甲州韮崎周辺の巨摩郡3万石を領地としていました。その一橋家が所領支配のため置いた陣屋跡です。一橋家の陣屋は宝暦3年(1763年)にこの韮崎の地に移ってきたのですが、その後、寛政13年(1801年)に遠江国相良村(静岡県相良町)に所替えになったので、陣屋は廃止され、幕府直轄領(天領)になりました。陣屋では租税・訴訟・断獄などの民政を行い、その屋敷は東西が約33メートル、南北が約52メートルの広さで、本屋・土蔵・長屋・同心役宅等の建物がありました。ちなみに、一橋家からは家斉(いえなり)が第11代将軍に、水戸徳川家から養子に入った慶喜(よしのぶ)が第15代将軍になっています。
千野眼科医院の前に韮崎宿本陣跡の碑が立っています。この本陣は問屋場を兼ねていました。甲州道中を通行する参勤交代の大名は高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩に限られていましたが韮崎宿に宿泊することは少なかったと言われています。
本陣の向かいにある弘化2年(1845年)創業の清水屋旅館です。建物は新しくなって、現在も旅館として営業しているようです。
ところどころに土蔵を備えた民家があるところが、旧宿場町ですね。
本町第二交差点の右手の上田商店前ある馬つなぎ石です。
韮崎と言えば平和観音。高台のよく目立つところにかなりグラマラスな巨大な観音像が立っています。この高台は約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流によってできた高台で、長さが約30kmもある細長い形をしていて、七里岩と呼ばれています。その長く伸びる七里岩がニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に宿場町が位置していたことから、韮崎という地名が付けられたという説があります。
この先の本町交差点を右に入ってJR韮崎駅に向かう道路は「佐久往還」や「佐久甲州街道」と呼ばれる街道で、ここが追分でした。この佐久往還は八ヶ岳の東側山麓を北上し、清里、野辺山といった高原地域を経て中山道の岩村田宿まで延びていました。現在の国道141号線に相当します。
この道路のすぐ左手が険しい丘陵になっており、この険しい丘陵がここから延々と約30km近く続く「七里岩」の南端にあたります。
この奥に曹洞宗の寺院 雲岸寺があり、裏手の七里岩末端の崖の途中に「窟観音堂」が岸壁からせり出して建っています。天長5年(828年)、空海(弘法大師)が観音石仏を洞窟に安置したのが始まりだと言われ、室町時代の寛正5年(1464年)に、祖慶和尚が雲岸寺を開基しました。現在、窟観音堂には聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、千体地蔵尊のほか数知れない石仏が安置されているのだそうです。
左側の樹木の中に小林一三翁生家跡の碑がひっそりとあります。阪急電鉄の創業者で、宝塚歌劇団などの創始者としても有名な小林一三は、ここ山梨県韮崎市の出身です。ちなみに、私が参加している甲州街道歩きツアーを主催している旅行会社は、阪急電鉄関連の旅行会社です。
この日のゴールは韮崎市役所の駐車場でした。
韮崎はサッカーの街でもあります。韮崎市役所前にはサッカーボールを模したモニュメントが幾つも飾られています。そう、元日本代表の司令塔・中田英寿選手は、山梨県立韮崎高校の出身です。
また、韮崎は平成28年度(2016年)のノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士の生誕地で、中田英寿選手と同じく山梨県立韮崎高校の出身。韮崎高校を卒業後、山梨大学学芸学部(現:教育学部)自然科学科へ進学しました。
この日は約14.2km、歩数にして19,462歩、歩きました。
次回【第14回】は来月、韮崎宿から台ヶ原宿、教来石宿を経て、蔦木宿まで歩きます。次回は甲斐国(山梨県)を抜けて、いよいよ信濃国(長野県)に入ります。甲州街道の全長(日本橋〜下諏訪宿)は53里24町20間(約210.8km)、今回の韮崎宿までは39里10町25間(約154.3km)。随分と歩いてきました。残りは約55km。甲州街道歩きもゴールの下諏訪宿まであと残りは3回。楽しみです。
――――――――〔完結〕――――――――