2019年3月15日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第9回:江戸城西の丸・二の丸】(その5)

綺麗な湧き水が湧いています。


この二の丸の雑木林の中にはなんでも東京に住む女性達の間で恋愛成就や縁結びのパワースポットとして知られる「神秘的な井戸」があるのだそうです。その井戸がこれです。どこが神秘的な井戸なのかと言いますと、井戸の中は白く見えるのですが井戸から流れ出て来る水は無色透明なところ。改めて見てみると、井戸の中の水は白く見えるのに、確かに井戸から流れ出る水は無色透明です。不思議で神秘的です。でも、これがなぜ、恋愛などに効果的なのかは、私には分かりません()


菖蒲田です。菖蒲田には昭和41年に明治神宮神苑から株を譲り受けた84品種の花菖蒲が植栽されています。初夏のシーズンになると、さぞや綺麗でしょうね。


「二の丸池」です。小堀遠州の作といわれる庭園の池水は、古い絵図と比べてもほぼこの二の丸池と同じ場所にあるのだそうです。徳川将軍家の別邸らしく、見事な景観です。現在の二の丸池にはコウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水生植物が生育し、アサザは、赤坂御用地の池から株を移したものです。


この二の丸池には、今上天皇陛下ご発案で誕生したヒレナガニシキゴイが放流され、飼育されています。今上天皇陛下が皇太子時代の昭和37(1962)に訪問したインドネシアでヒレナガ鯉をご覧になられて、日本の錦鯉と掛け合わせたらどうだろうという考えを持たれました。昭和52(1977)に埼玉県水産試験場を訪れた際にこのお考えをご提案され、これを契機として埼玉県水産試験場は昭和55(1980)よりニシキゴイの品種改良に着手。研究が重ねられ、6年後の昭和61(1986)に交配に成功。本種が誕生しました。天皇即位後の平成3(1991)に天皇皇后両陛下が22匹をこの二の丸池に放流しました。ヒレナガニシキゴイはその後、主として埼玉県内で養殖され、観賞魚として埼玉県を中心に各地に広まっています。


この二の丸池にいる魚は、ヒレナガニシキゴイのみのようで、普通の鯉の姿は見かけません。大きな鯉達は人の姿を見ると近寄ってきます。紅白や浅黄のヒレナガニシキゴイが静かに、そして優雅に泳いでいます。この二の丸池のヒレナガニシキゴイに関しては、4月末の御退位を前に、今上天皇陛下が新たに稚魚を放流されたという報道が流れていました。


私は皇居東御苑に入るのは初めてのことでしたが、入場ヶ無料で、こんなに自由に歩けるとは思ってもいませんでした。「晴れ男のレジェンド」は今回も健在で、景色も良く、とても気持ち良く歩けました。次は家族を伴って、別の季節に訪れてみたいと思っています。


このあたりに二の丸の大奥がありました。第3代将軍徳川家光の代に本丸に隣接したこの二の丸に御殿が建てられたことは前述のとおりです。この二の丸御殿が将軍の別邸としても使用されるようになると、ここにも大奥が設けられました。お世継ぎ様でない将軍の子(やがて他家に養子に出される)などがここで育てられたり、御台所と仲が悪い側室がこちらに住まわされたり(将軍の愛人宅?)もしました。また真偽の程はわかりませんが、将軍が死亡すると、将軍の正室であった御台所や次代将軍のご生母様は本丸の大奥のほうに残れますが、側室たちはこの二の丸の大奥に移されたそうです。そして死ぬまで「将軍のお胤を残していないか」という理由で外部と遮断された生活を送りつつ、落飾して亡き上様のご冥福を祈る日々であったと言われています。

「諏訪の茶屋」です。諏訪の茶屋は二の丸庭園にある現在唯一の建物で、明治45年に再建された数寄屋風の書院茶屋です。昭和43(1968)の皇居東御苑の整備の際に、吹上御苑から現在地へ移築されました。残念ながら内部の見学はできません。


諏訪の茶屋の西側には、各都道府県から寄贈された「都道府県の木」が植樹されています。平成29(2017)に再整備が行われ、現在32樹種、約260本の樹木が植えられています。


「汐見坂」です。江戸城の本丸と二の丸をつなぐ坂道で、徳川家康が江戸城を築城した頃には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたので、「汐見坂」という名称が付けられました。元和6(1620)、第2代将軍徳川秀忠の時代に、その日比谷入江に流れ込んでいた平川を天然の濠として活用するための工事に着手。小石川から南流していた平川の流路を東に付け替え、御茶ノ水に巨大な人工の谷を開削しました。この大工事を主に担当したのが仙台藩初代藩主伊達政宗で、その工事で出た残土などを使って日比谷入江を埋め立て、江戸城の目の前に大名屋敷とするための敷地を造成しました。これにより、この坂からは海が見えなくなったわけですから、元和6(1620)頃からすでに「汐見」ではなかったことになります。大名屋敷の敷地は今では高層ビル群になっているので、今では汐見坂から見えるのは海ではなく、林立する大手町のビル群に変わっています。


また、往時は汐見坂の上には、「汐見坂御門」がありました。「江戸城三十六見附」と言って、一般的に江戸城には36箇所の枡形を持つ見附門があったといわれ、現在も四谷見附・赤坂見附など地名として残っているところもあります。しかし、実際には、江戸城の見張り場所(城門)自体はもっと多数あったようで、66門とも90門とも諸説あります。『江戸城外濠内濠全周ウォーク』ではそれらの多くを見てきたのですが、この汐見坂御門がその最後となります。


また汐見坂の横には白鳥濠があって、防御が堅いのがよくわかります。


今回【第9回】のゴール、そして『江戸城外濠内濠全周ウォーク』のゴールは「二の丸休憩所」でした。この二の丸休憩所は二の丸雑木林の南側にある趣きのある休憩所です。4月にJR両国駅前をスタートして全9回、毎月参加してきた『江戸城外濠内濠全周ウォーク』もここ江戸城二の丸でめでたくゴールを迎えました。


9回参加した証しとして、ツアーを企画した大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんと主催した旅行会社の連名で、「完歩証」をいただきました。


江戸城外濠内濠全周ウォーク』では、両国橋付近から“の”の字を描くように螺旋状に続く江戸城外濠、そしてそれに続く内濠を反時計回りに歩き、最後は江戸城そのものの北の丸、三の丸、本丸、西の丸(現皇居)、そして二の丸と歩いてきました。歩いてみた感想としては、この『江戸城外濠内濠全周ウォーク』は江戸城の城郭門を巡るツアーだったように思います。

まず外濠では、浅草橋御門、筋違橋御門、小石川御門、牛込御門、市ヶ谷御門、四ッ谷御門、赤坂御門、虎ノ御門、幸橋御門、山下御門、数寄屋橋御門、鍛冶橋御門、呉服橋御門、常磐橋御門、神田橋御門、一ツ橋御門、雉子橋御門の17 箇所の枡形構造を持った見附門の跡を辿りました(枡形構造ではないものの、四ッ谷御門と赤坂御門の間には喰違見附門というものもありました)。内濠では、清水御門、田安御門、半蔵御門、外桜田御門、日比谷御門、馬場先御門、和田倉御門、大手御門、平川御門、竹橋御門、西の丸大手御門、坂下御門、内桜田御門(桔梗御門)、北桔橋御門の14箇所。合わせて31箇所。さらに城内にも上梅林御門や汐見坂御門と言った堅固な城門の跡が数多くありました。前述のように、その総数は66門とも90門とも諸説あります。

城門といってもそれぞれの城門や随所に立つ櫓のスケールが半端なくデカイ!! 私はこの『江戸城外濠内濠全周ウォーク』を始めてから松山城、広島城、松江城と10万石以上の禄高を持つ大大名と呼ばれる大名の城を訪れる機会があったのですが、こんなスケールのデカイ城門や櫓は目にすることはありませんでした。参勤交代で江戸にやって来て、江戸城に登城してきた地方の大名なんか、藩邸から登城の際に最初に潜る外桜田門の高麗門と渡櫓門に囲まれたデッカイ枡形などを見た瞬間に萎縮してしまって、徳川幕府に逆らおうという気持ちも消し飛んだのではないかと思われます。

加えて、城門ということはその内側は城、すなわち江戸城ってことになります。私もそうでしたが、我々一般人は江戸城と言えば現在皇居のある内濠より内側のことだと思いがちですが、実はそうではなくて、外濠が江戸城を内外に分ける境界線で、外濠の内側がすべて江戸城だったということです。これは想像を絶する広さです。しかもそれが徳川家康が関東に入封以来、明確な都市計画に基づいて作られた人工の城、そして街だったということに驚きます。その総面積は約230万平方メートル。外濠の総延長は約14kmにも及ぶ想像を絶するような巨大な城でした。

この日本最大の巨大な城は徳川家康が江戸幕府を開府した直後の慶長8(1603)から本格的な築城を始め、第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光の代まで継続されて、一応の完成を見たのは寛永15(1638)のことです。なんと35年もかけて築城したわけです。まさに江戸城は徳川将軍家の威信を懸けた一大国家事業として築かれた城ってことなんですね。その一大国家事業を江戸幕府は「天下普請」という名の下で、各大名に総動員をかけて遂行したわけです。「天下普請」とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、手弁当で (すなわち、工事にかかる費用はすべて各大名持ちで) 行わせた土木工事のこと。各大名の戦力を削ぎ、江戸幕府中心の平和で安定した世の中を作り上げるにはこれほど有効な手段はありません。

しかも、それと同時に「天下普請」の名の下に全国から優れた当時の最先端の技術を結集して、難攻不落とも言える極めて堅固で、壮大な城郭を作り上げたわけです。現在でも残る西日本各地の城郭には美しい石垣を持つ城が多いのですが、江戸城の石垣もその多くは石垣造りに優れた技術を有していたそれら西日本各地の大名が主に建築を担当しました。いっぽうで、土木工事は東日本の大名。地質的に石垣にするための石が手に入りにくかった関東地方や東北地方といった東日本の城郭では、それを補うために土塁を築いたり、山城の周囲に山の尾根を切り拓いた堀切を作ったり、山の斜面を垂直に掘った堅堀を作ったり…と土木技術が高度に発達いっていました。たとえば、神田川は当時そこにあった神田山を削り開削した人工の河川(外濠で、かつ運河)なのですが、その工事を主に担当したのは東北の雄藩・陸奥国仙台藩62万石の初代藩主伊達政宗でした。その神田川開削工事では、工事で出た土砂を使って日比谷入江を埋め立て、現在の東京都中心部の地形の基礎を作り上げました。このように、江戸城は、まさに適材適所の優れたプロジェクト管理により築城された城でした。

城を作っただけではありません。同時に行ったのが上水の整備や水運のための運河の開削といった都市インフラの整備。それが、当時世界最大の人口100万人を超える巨大都市を誕生させ、現代も日本の首都であることのみならず、世界の政治経済の中核都市の1つであり続けていることに結びつきました。恐るべき先見の明としか言いようがありません。

『江戸城外濠内濠全周ウォーク』に全回参加したことで、“江戸”という街に対してエンジニアとしての好奇心が大いに擽(くすぐ)られました。これほど面白く、魅力たっぷりで、興味深い街は他にありません。せっかく東京(首都圏)に暮らしているのですから、これからも「理系の歴史学」の観点から江戸という街の探訪を続けていきたいと思っています。

『江戸城外濠内濠全周ウォーク』ツアー(9)を企画し、自ら案内役を務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんには大いに感謝しています。

これから春を迎えます。冬の間自粛していましたが、これから街歩き、街道歩きに適したシーズンです。さぁ~て、次は何を観にいこう?


――――――――〔完結〕――――――――



2019年3月14日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第9回:江戸城西の丸・二の丸】(その4)

江戸城も西の丸(皇居)を参観したので、残るは「二の丸」のみです。皇居の一般参観を終えて向かった先はその江戸城二の丸です。内桜田御門(桔梗御門)を出て、桔梗濠沿いを大手御門に向かって歩きます。桜田巽櫓、そしてその先に内桜田御門と富士見櫓が小さく見えます。この日はよく晴れて、絵葉書にでも使えそうな綺麗な写真が撮れました。


桔梗濠ではカルガモがのどかに餌を食んでいます。


手荷物チェックを受けて、大手御門を潜ります。


大手御門を入ってすぐ左手からやって来る道路があります。その先に見覚えのある皇宮警察本部庁舎(旧枢密院庁舎)が見えます。そのさらに先に内桜田御門(桔梗御門)があり、内桜田御門(桔梗門)から登城してきた10万石以下の小大名や直参旗本達はこの道路を通って本丸に向かい、大手御門から登城してきた徳川御三家をはじめ禄高10万石以上の大大名達とここで合流して、本丸に登城していました。


「三の丸尚蔵館」のあるあたり一帯が三の丸です。このあたりは前回【第8回】で訪れました。


「大手三ノ御門(下乗門)」の跡、「同心番所」の跡を過ぎ、百人番所の手前のところ右に曲がります。ここをまっすぐ進むと本丸へ向かう「中ノ御門」になります。ここにも「銅門(あかがねもん)」という御門があり、この銅門から先が江戸城二の丸でした。この銅門も枡形門で、先ほど通ってきた大手三ノ御門(下乗門)の西側に隣接していて、大手三ノ御門の枡形内の西側の面の裏が銅門枡形内の東側の面になっていて、この部分の石垣を共有している構造になっています。 共有というよりも、大手三ノ御門の石垣を銅門が借りているという印象さえ受けます。 銅門は左折れの枡形門で、枡形内には高麗門をくぐって右手のほうに番所がありました。高麗門とその石垣、渡櫓門とその石垣は完全に撤去されていて、 更にその跡地には斜めに歩道が整備され、枡形内は芝生や植木で整えられており、往時の面影を偲ぶことはできません。


皇居正門の石橋の照明だった電燈がここに移設されて立てられています。明治の時代を感じさせる豪華な電燈です。


江戸城二の丸は本丸の東側に位置し、第3代将軍徳川家光の命で寛永7(1630)に、備中松山藩第2代藩主で、のち近江小室藩初代藩主となった小堀政一に命じてこの地に遊行のための庭園を造成させました。小堀政一は備中松山藩第2代藩主、近江小室藩初代藩主という大名である一方で、優れた茶人、建築家、作庭家、書家であり、武家官位である遠江守からその方面では小堀遠州の名で知られています。この小堀遠州の手により造成された庭園では、第3代将軍の徳川家光と先代の第2代将軍徳川秀忠との茶会が催されています。築庭当初の江戸城二の丸庭園は白鳥濠と繋がる池の中に能舞台を配するなど遊興性の強い造りで、将軍の別荘のように使用されましたが、創建5年後には取り壊され、第2代将軍徳川秀忠が死去した後の寛永13(1636)にはその跡に世継ぎの竹千代(のちの第4代将軍徳川家綱)のために二の丸御殿が建てられ、その御殿の東側に庭園を配置しました。


この世継ぎの竹千代のために建てられた二の丸御殿も明暦3(1657)の「明暦の大火」で焼失。その後、二の丸は大御所(隠居した前将軍)や将軍生母達の居住場所となり、御殿は何度も焼失と再建を繰り返しますが、最終的には本丸をはじめ江戸城中の建物が焼失した文久3(1863)の大火で焼失。その後、明治維新が起きて徳川幕府そのものがなくなったため、再建はなされず、荒廃したままになっていました。

昭和35(1960)の閣議決定で皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園(東御苑)として整備することとなり、現在の池泉回遊式の庭園は、その閣議決定に伴う昭和43(1968)の皇居東御苑の公開の開始にあたり、第9代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。特に、池に関しては小堀遠州の作といわれる大名庭園時代の池泉をそのまま活用したと言われています。

このあたりは「二の丸雑木林」と呼ばれています。白鳥濠の東側に広がるこの「二の丸雑木林」は武蔵野の自然を再現した雑木林で、昭和天皇のご発意により、武蔵野の面影を持つ樹林として、昭和57(1982)から昭和60(1985)にかけて整備されたものです。また、この雑木林のある一帯は、江戸時代、二の丸御殿のあったところで、徳川家光の世子竹千代(のちの第4代将軍徳川家綱)の住まいや、前将軍の側室が晩年を過ごした場所でもあります。


このあたりの雑木林は、「昭和天皇の御発案でつくられた雑木林を拡張してはどうか」との今上天皇陛下のお考えから、平成14(2002)に整備されたものです。常緑広葉樹の植えられていた区画を落葉広葉樹の林にしたもので、多様な生き物の棲み家となるよう、隣の雑木林から種子や昆虫の卵の入った表土を運び入れ、野鳥や昆虫の好む樹木を植えて、小さな流れも作りました。新たに拡張されて雑木林では、武蔵野の雑木林を代表するクヌギ、コナラ、アカシデ、カマツカをはじめ、野鳥や昆虫が好むコゴメウヅキやウグイスカグラ、ウメモドキ等の多様な植物が植えられ、すっかり武蔵野の雑木林に戻っています。大都会の喧騒もクルマの音も聞こえず、静かです。この雑木林のすぐそばに千代田区大手町があり、ここが首都東京の正真正銘のど真ん中であることを忘れさせてくれます。また、かつて、二の丸のこの雑木林あたりに御殿があったということも信じられません。



……(その5)に続きます。