こりゃあ永代通りに戻って大きく迂回して進むしかないな…と思っていたのですが、ウォーキングリーダーさんは「これから意外なところを通っている甲州街道にご案内します」と言いながら、なんとドアを開けて左手のビルの中に入っていくではないですか!? そこにあったのは明るく広い空間に、そこを行き交う大勢の人!! ここは東京駅の駅ビルの中です。
駅ビルに入ってすぐに右に曲がります。東京駅の駅ビルの1階に丸の内側と八重洲側をつなぐ自由通路があるのをご存知でしょうか? 正式名称は「北自由通路」といって、丸の内北口から八重洲北口を繋いでいます。八重洲側には「東京駅一番街」という名称が付いていたりもしますが、この「北自由通路」が実は旧甲州街道なんです。
そう言えば中山道街道歩きでは埼玉県の熊谷で「百貨店の中の中山道」を歩くという貴重な体験ができたのですが、甲州街道ではいきなり「東京駅の中の甲州街道」を歩くという貴重な体験をすることができました。この東京駅の「北自由通路」、私も何度も利用したことがあるのですが、まさかここが五街道の1つ甲州街道だったとは思いもしませんでした。ビックリです!!
「北自由通路」を抜けて東京駅の丸の内北口に出てきました。このあたりは徳川家康が天正18年(1590年)に江戸城を居所とする前までは東京湾の一部で、日比谷入江と呼ばれていました。天正20年(1592年)からこの入り江が埋め立てられて、江戸城の拡張が始まりました。新たに外堀が作られ、それまで外堀であったものが内堀となったため、「御曲輪内(おくるわうち)」と呼ばれるようになり、さらに堀で囲まれた内側という意味で「丸の内」とも呼ばれていました。さらに、親藩や譜代大名の江戸藩邸が24もあったため大名屋敷が立ち並び、「大名小路」とも呼ばれ、南北町奉行や勘定奉行の奉行所、評定所も置かれていました。
当時の丸の内は草の生い茂る原野と化しており、三菱ヶ原と呼ばれたほどでしたが、明治27年(1894年)に丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が竣工。以後、三菱は大規模な再開発に乗り出し、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てていきました。赤煉瓦造りの建築物を中心としたそれらの建物群が、ロンドンのロンバードストリートの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれて持て囃されるようになりました。さらに大正3年(1914年)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至るも三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中しています。
そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年(1929年)、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和45年(1970年)、町名の表記が「丸ノ内」から「丸の内」と変更され、現在に至っています。
東京駅丸の内口の目の前にある平成19年(2007年)に竣工した「新丸の内ビルディング」です。通称は「新丸ビル」。昭和27年(1952年)に建設された8階建ての「新丸ノ内ビルヂング」を建て替えたもので、地上38階地下4階の超高層ビルです。もちろん、このビルも三菱地所が手がけた建物です。
日本工業倶楽部会館・三菱UFJ信託銀行本店ビルです。平成15年(2003年)に地上30階地下4階の高層ビルに生まれ変わったのですが、大正9年(1920年)に建てられた日本工業倶楽部会館は都心に建つ貴重な歴史的建築物ということで、その南側部分がその保存・再現が図られています。新築された地下構築物の上に免震装置を介して建物を保存するという画期的な工法を採用しているのだそうです。
薄茶色の、どこか印象深いこの建物は、かつて日本の産業界を代表する実業家の親睦を目的として大正6年(1917年)に設立された社交クラブ「日本工業倶楽部」の拠点の建物でした。建物の正面屋上にはハンマーを手にして男性と、糸巻きを手にした女性の2体の人物像が置かれ、当時の二大工業である石炭と紡績を示していました。
この日本工業倶楽部会館は、第一次世界大戦による工業の発展、昭和初期の大恐慌、戦争、敗戦、復興、経済成長を通じて常に経済界の大きなドラマの舞台であって、財界の記念碑的な存在でした。ちなみに、日本工業倶楽部の初代理事長は三井合名会社理事長の団琢磨氏。戦後は、日本経済団体連合会(経団連)、日本経営者団体連盟(日経連:平成14年に経団連と統合)をはじめとした経済団体の設立と育成に協力し、かなりの間、経団連、日経連、経済同友会もここ日本工業倶楽部会館に事務局を置いていました。
日本工業倶楽部会館の建物は正面に柱があり、日本における数少ない本格的なセセッション様式の西洋近代建築の建物であると言われています。私は建築に関する知識は乏しいので、うまく表現することができませんが、レトロながらもどこかモダンが漂ってくるって感じです。この日本工業倶楽部会館の建物は国の登録有形文化財に指定されています。
時代と共に新たな建築物が次々と生まれ、常に進化を続ける日本の首都東京。しかし、そんな時代の流れを見守りながら、古き良き時代を今に伝える「名建築」が、都内各所に残されています。特に、東京駅や日本橋の周辺には、重要文化財にも指定されているような主として大正期に建てられた西洋近代建築の建物が沢山存在しています。西洋近代建築のマニアの方々の間では聖地のようなところなのではないでしょうか。そういう建物を見て回る旅行会社主催のツアー企画もあるそうです。
そうそう、丸の内にある西洋近代建築による歴史的建造物と言えば、この建物を忘れてはいけません。ご存知、東京駅丸の内駅舎です。この建物は辰野金吾の設計により大正3年(1914年)に竣工した鉄骨レンガ造駅舎です。関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、昭和20年(1945年)の空襲で外壁、屋根、内装等が損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。2003年に国の重要文化財に指定され、2012年に元の3階建てに復元されました。日本を代表する美しい駅舎です。
江戸時代に話を戻すと、日本工業倶楽部の横のこのあたりは「伝奏屋敷(てんそうやしき)」があった場所とされています。伝奏屋敷は武家伝奏または勅使の宿舎として江戸に設けられた屋敷です。武家伝奏は朝廷に置かれた役職で、江戸幕府との各種交渉がその主な仕事でした。その武家伝奏たちが宿泊することから伝奏屋敷と名付けられました。伝奏屋敷は広さが坪数にして2,530坪もあったと言われていますから、相当に大きな建物だったと思われます。
勅使は、毎年、3月上句、年頭の挨拶のために江戸に下向してきたのですが、その際に宿泊したのもこの伝奏屋敷でした。勅使の滞在中は、勅使をもてなす勅饗応役(御接待役)を命じられた大名が、一切の世話をしました。元禄14年(1701年)の勅使下向の際に第5代将軍・徳川綱吉から命じられて勅使饗応役を務めたのが「忠臣蔵」で有名となる播磨赤穂藩五万石の第3代藩主・浅野内匠頭長矩でした。この時、赤穂藩の藩士も当然、この場所に詰めていました。
江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていたのです。幕府でこうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家旗本という役職。で、元禄14年(1701年)にその高家筆頭の立場にあったのが吉良上野介義央。浅野内匠頭は同年、吉良上野介の補佐役に任命されて、朝廷からの勅使の接待役(勅使饗応役)を受け持っていました。朝廷からの使者達は3月11日に江戸に到着し、彼等の接待を受けていました。が、とんでもない事件が、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こります。時は元禄14年3月14日(西暦だと1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)において、浅野内匠頭が吉良上野介を背後から礼式用の小刀で斬りかかり、額に傷を負わせる…というとんでもない傷害事件を起こしてしまったのです。浅野内匠頭が斬りかかったのは上司の吉良上野介になんらかの積もり積もった「遺恨」があったためであるとされていますが、詳細は不明なままです。当時殿中(江戸城内)での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたので、浅野内匠頭は即日切腹。
ここで問題なのは伝奏屋敷に詰めている赤穂藩の藩士達。松之廊下の刃傷事件が起き、勅使饗応役が急遽佐倉藩主の戸田忠真に替ったため、赤穂藩の藩士達は、急遽浅野家から持ち込んだ什器類を運び出さなくてはなりませんでした。しかしながら、藩主が江戸城内で刃傷事件を起こして即日切腹させられるという上を下への大混乱の中、赤穂藩の藩士達は粛々と、そして見事に伝奏屋敷からの運び出しを行ったと伝えられています。その手際の良さに幕府の目付は感心したといわれています。この時の“撤収”の指揮をとったのが、赤穂浪士四十七士の一人・原惣右衛門でした。原惣右衛門は、伝奏屋敷の脇を流れる道三堀を使用し、鉄砲洲の上屋敷まで、道具類を短時間で運んだと言われています。
伝奏屋敷の北隣には評定所がありました。評定所は幕府の最高裁判機関で、当時は各種政策の立案や審議もここで行われていました。講談や芝居の題材として有名な「め組の喧嘩」も事後処理もこの評定所で行われ、三奉行(寺社奉行、町奉行(北町&南町)、勘定奉行)が対応しました。
ちなみに、「め組の喧嘩」は、文化2年(1805年)に、現在の東京都港区芝大門一丁目ににある芝神明社(芝大神宮)で起きた町火消し「め組」の鳶職と、江戸相撲の力士たちの間の乱闘事件のことです。「め組の喧嘩」は死者も出ず、規模としてはそれほど大きな事件ではなかったのですが、庶民の注目を集めたのはその“事後処理”のほうでした。相撲興行を取り仕切る寺社奉行と、町方の事件を裁く町奉行、管轄する役所が異なるためいかなる仲裁も用をなさないまでに騒動は勝手に拡大。後には農民の訴訟を取り扱う勘定奉行までもが乗り出して、評定所の基本的な構成員である三奉行の協議によって進められるという、当時とても珍しい形をとったためでした。なお、「め組の喧嘩」は歌舞伎の演目にもなっていて、歌舞伎での題名は「神明恵和合取組(かみの めぐみ わごうの とりくみ)』。2012年に57歳でお亡くなりになった十八代目 中村勘三郎さんも、ご自身で立ち上げられた平成中村座において「神明恵和合取組~め組の喧嘩〜』の中で、主人公「め組の辰五郎」を演じておられます。
日比谷通りを横断歩道で渡ります。皇居の内濠です。皇居(江戸城)を取り巻く一連のお濠(堀)が内濠(内堀)で、江戸・東京の歴史を感じさせる景観が数多く残り、外国人観光客も多いところです。内壕にはそれぞれ名称が付けられていて、ここはその1つ、「和田倉濠」です。和田倉濠は皇居外苑の外側、日比谷通りに沿って馬場先濠の北に続く濠です。2つの濠を隔てる和田倉門の交差点を東へ行くと突き当たりが東京駅で、赤レンガの駅舎を望むことができます。濠はパレスホテルの前で直角に西に折れて、皇居外苑の北東端を囲んでいます。
江戸時代には濠の曲がり角付近から東の方向へも濠が伸びていました。これを「道三濠」といい、今の東京駅北方のJRの線路を越えたところで外濠(呉服橋付近)に通じていました。この水路により江戸城と隅田川、さらに江戸湾が結ばれていたわけです。江戸に入府した徳川家康がまず掘削させたのがこの道三濠で、築城に必要となる物資の運搬に利用されましたが、明治42年(1909年)に埋め立てられ、現存してはおりません。
横断歩道で日比谷通りを渡り、左折。日比谷通りを内濠に沿って歩いていきます。ここでちょっと寄り道で、和田倉橋を渡ります。
和田倉橋は内濠(和田倉濠)に架かり、皇居外苑東側から丸の内一丁目の東京海上ビル前に通じる橋で、渡った先に和田倉門がありました。門名の由来は、近くに倉(蔵)があったことによると言われています。ですから、慶長の頃までは「蔵の御門」とも呼ばれていました。元和6年(1620年)に枡形が造られました。現在は枡形になった門跡の石垣と復元された橋だけが残っています。橋は木橋の面影を残したコンクリ-ト橋です。和田倉門の内側が和田倉噴水公園です。昭和36年(1961年)に当時の皇太子殿下(現在の今上天皇陛下)の御成婚を記念して噴水が作られたのが始まりで、その後、改修され、様々な噴水が美しい水の景色を演出しています。
この和田倉噴水公園へは第1回目のトイレ休憩で立ち寄らせていただきました。畏れ多くも皇居敷地内のトイレを利用させていただきました。トイレ休憩と水分補給を済ませ、和田倉橋を渡り、甲州街道歩きに戻ります。
和田倉橋の南約200メートルの所に、「行幸通り」が内濠を横切るように伸びています。この行幸通りは東京駅正面から皇居外苑に通じる道路です。この道路は、工事に大正13年(1924年)8月から同15年(1926年)8月までの2年間かかり、当時のお金で数十万円かけて完成しました。内濠の埋め立ては難工事であったと伝えられています。
スカイバス東京のオープントップ(屋根なし)2階建て観光バスが停まっています。赤いオープンタイプの2階建ての車体が、ロンドンバスを彷彿とさせるお洒落なバスです。このオープントップ2階建て観光バスを用いた定期観光ツアーは乗客が国籍を問わず楽しめる観光バス企画として、ビジット・ジャパン・キャンペーンの活動にあわせるように2004年9月に運行を開始したのですが、運行開始直後から好調な滑り出しとなり、その後日本各地で同種のオープントップ2階建て観光バスが運行されるきっかけとなりました。私もこの赤いオープンタイプの2階建て観光バスはたびたび都内で目撃していて、いつかは絶対に乗ってみたいと思っているのですが、なかなかその機会には恵まれておりません。
マニアックなことを書かせていただくと、使用しているバスはネオプラン・スカイライナー。ネオプランはドイツに本社を置く商用車専門製造メーカー MAN Truck & Bus AGが生産するバスのブランドで、スカイライナーは同社の2階建て観光バスの愛称です。ヨーロッパではよく見かけるバスです。
右手に見える濠が「馬場先濠」に変わりました。
この立派な建物は明治安田生命保険相互会社の本社にある「明治生命保険相互会社本社本館(略称:明治生命館)」です。この明治生命館は昭和5年(1930年)9月に起工し、昭和9年(1934年)3月に竣工した建物で、5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則った外観デザインに特徴があります。第二次世界大戦後は、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、昭和31年(1956年)に返還されるまで、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。なお、戦争に敗北した日本を連合国が占領するに当たり、GHQの諮問機関として東京に設置された日本占領管理機関である「対日理事会」の第1回会議はこの明治生命館の2階の会議室で行われました。平成9年(1997年)に、昭和の建造物として初めて国の重要文化財の指定を受けました。平成13年(2001年)から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現しました。現在も明治安田生命保険の本社屋として現役利用されており、1階には同社の「丸の内お客様ご相談センター」が設けられています。
「馬場先門橋」を渡り、ちょっと寄り道で再び皇居外苑に入らせていただきます。「馬場先門橋」は皇居(江戸城)の内濠に架かり、丸の内二・三丁目の間から皇居正面に通じる土橋です。馬場先門は寛永6年(1629年)に造られました。門の名前の由来は、門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから、朝鮮馬場の名が生まれ、馬場先の名が付けられました。古くは不開門(あかずのもん)とも呼ばれました。ふだんは閉め切られていたのでしょうね、きっと。橋の北側は馬場先濠、南側は日比谷濠です。日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出る惨事が発生したため、明治39年(1906年)に枡形は撤去。堀も埋められて橋ではなくなりました。現在は石垣の一部が残っているだけです。
馬場先門を入ったところに『特別史跡 江戸城跡』の説明板が建てられています。
まっすぐ直進すると二重橋なのですが、ここで左折。「楠公(なんこう)レストハウス」に向かいます。楠公レストハウスは一般財団法人日本公園協会が運営する施設で、昭和42年(1967年)に全国から皇居参観に来られる方々や公園を利用する方々の休憩所として建てられ、平成14年(2002年)にリニューアルされて、現在の建物になりました。この日はここで昼食です。「中山道六十九次・街道歩き」では観光バスをレストラン代わりにして、バスの車内でお弁当…っていうことが多かったので、ちょっと嬉しいですね。
さすがに皇居外苑にある施設です、お箸が菊の御紋が描かれています。
昼食を美味しくいただいた後は、周囲をちょっとだけ散策。「楠公レストハウス」の楠公(なんこう)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、楠木正成のこと。その楠木正成の銅像が楠公レストハウスのすぐ近くにあります。楠木正成は後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に大きく貢献し、その後の建武の新政では足利尊氏らと共に天皇による政治を補佐するなどの立役者となりました。足利尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担いましたが、湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害しました。後醍醐天皇の討幕運動に最初に呼応した有力武将で、最後は尊皇に殉じたので忠臣と称えられています。この銅像は明治23年(1891年)に住友家が開発した別子銅山の開坑200年記念事業として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に製作を依頼したものです。製作には上野公園の西郷隆盛像の作者としても知られる高村光雲が製作主任となり、当時の著名な彫刻家や鋳造師らがあたりました。別子鉱山の銅を使って完成までに10年をかけて献納されたとされています。像のモデルは、流されていた隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた際の楠木正成の姿なのだそうです。
楠木正成の銅像の前では多くの人が記念撮影をしているのですが、その大部分は中国からの団体観光客。楠木正成って、知ってるのかなぁ〜??
中国からの団体観光客が多いので、楠公レストハウス横のトイレには、こういう注意書きも貼られていました。
……(その4)に続きます。
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