2019年8月5日月曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その15)

山口関所跡を過ぎると田圃の中の1本道を進みます。
国道20号線と合流し、右手に見える新国界橋で釜無川を渡ります。新国界橋は昭和41年(1966年)に竣工した橋で、それ以前はこの道を少し行った先にある旧国界橋で釜無川を渡っていました。旧甲州街道もその旧国界橋経由のルートで伸びていました。しかし新国界橋が出来て以降、旧国界橋橋は通行禁止になっているので、仕方なく新国界橋を渡ります。
釜無川です。これまでも何度も登場してきましたが、釜無川は一級河川 富士川の支流で、全長約68km。南アルプス(赤石山脈)の北端部に源を発し、釜無山の東麓を北流。西の赤石山脈(南アルプス)、東の秩父山地の間を流れて甲府盆地に入り、笛吹川と合流して富士川となります。富士川はそのまま富士山の西側を南流し、途中、早川、常葉川、波木井川など、さらに下って静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぎます。
国界橋の“国界”とは国境のこと。新国界橋で釜無川を渡りきると、いよいよ信濃国 長野県に入ります。長かった甲斐路も終わり、この先は信濃路の旅となります。
信濃国 長野県に入ると急に山が迫ってきます。振り返って甲斐国 山梨県方向を見ると明るく開けた感じがします。その違いに、あぁ、関東地方から中部地方に入ってきたのだな…と実感します。
長野県側にもこうした手作りの道標が立っていて、ここが甲斐国と信濃国の国境であることをアピールしています。
国道20号線から中央自動車道の小渕沢インターチェンジに向かう道路が分岐する下蔦木交差点です。
その下蔦木交差点のところに左側から合流してくる細い道があります。この道が旧国界橋で釜無川を渡ってくる道で、この道が本当の旧甲州街道です。ここからは旧甲州街道に戻ります。
下蔦木交差点の先で国道20号線と分かれ、右側の坂道を登って行きます。
坂道をちょっと登ると公民館の裏に「日蓮上人高座石」といわれる石があります。説明板によると、文永11年(1274年)3月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったのですが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになりました。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫していました。下蔦木(当時は甲斐領蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時で、伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は3日3晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたといわれています。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したのだそうです。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられています。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたのだそうです。
その日蓮上人高座石の先に甲子塔や庚申塔といった石塔石仏群が集められて祀られているのですが、その一番前に可愛らしい「夫婦道祖神」があります。
少し急な坂道を登っていきます。
進行方向右手に「古道(逸見路)追分道標」が立っています。傍に立つ説明板によると、この道は釜無川の氾濫により甲州街道が不通になった折の迂回路であり、七里岩の上方に沿って台ヶ原宿、韮崎宿へ通じていた古道なのだそうです。この道標の立っている場所はその信州側からの入口にあたります。石の上部が毀損しているため文字の一部が読み取れませんが、台ヶ原宿にある同じ道標からして、「はらぢみち」と刻まれていたと推定されるのだそうです。また、「にらさきまでむしょく」という文字も刻まれているのだそうです。ちなみに、近隣ではこの道のことを「へみみち(逸見路)」と称していたのだそうです。
下蔦木集落の登り坂を黙々と登っていくと、下蔦木集会センターの前に出るのですが、そこに「731メートル」という標高板が立っています。この地点が今回の【第14回】のコースの最高地点です。ここまで約370メートルの標高差を黙々と登ってきました。
日蓮上人高座石のところで書かせていただきましたが、もともと真言宗の寺でしたが、日蓮上人に感応して日蓮宗に改宗したといわれる真福寺です。鐘楼造りの山門が特徴的です。達筆の「南無妙法蓮華経」の題目碑が幾つもあることから、帰依の深さが伺えます。
「おびんずる様(浄行菩薩)」です。その謂れが説明板に書かれていますが、私は仏教の知識に乏しいので、ちょっと理解できていません。


……(その16)に続きます。

2019年8月4日日曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その14)

ここからは釜無川の河岸段丘の上を北北西方向に進みます。眼下に田園風景が広がります。田植えを終えた田圃が陽に映えて美しいです。昔の旅人もこの景色を見ながら旅を続けたのでしょうね。
登り坂はずっと続いています。終点下諏訪宿に向けて高度を徐々に上げていきます。
諏訪神社が一段高くなったところにあります。この神社は、元和3年(1617年)、御朱印山より現在地に社殿造営鎮座して、産土神としたことに始まります。現在の本殿は、天保15年(1844年)12月19日に再建したもので、棟梁は信濃国諏訪出身の宮大工の名工・立川和四郎富昌。本殿はケヤキ造りの総彫刻、屋根は鱗葺の覆屋で精巧を極めています。本殿を飾る数々の彫刻が素晴らしく、昭和43年(1968年)に山梨県の指定文化財に指定されています。
眼下に見える素晴らしい田園風景を眺めたのは旅人だけではなかったようで、明治13年(1880年)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際に、明治天皇もこの高台から眼下の田植え風景をご覧になられたようです。土手の上に「明治天皇御田植御通覧之趾碑」が建てられています。
ここから路肩に石塔石仏が幾つか立っています。まずはお馴染みの庚申塔。
次に題目碑です。この題目碑が建立されたのは文久元年(1861年)のことのようです。
高台からちょっと下って、教来石宿の加宿であった上教来石の集落に入って行きます。
加久保沢橋を渡って、上教来石の集落に入ります。
教来石宿の本宿であった下教来石には往時を偲ぶものはほとんど何も残っていませんが、上教来石の集落のほうは往時を偲ばせる静かな佇まいが今も残っています。
「御膳水跡碑」が立っています。明治13年(1880年)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際に、明治天皇はこの細入沢の湧水をお飲みになり、「いと旨し!」とお褒めの言葉を述べられたのだそうです。今はその湧水もすっかり涸れています。
馬頭観音が立っています。
上教来石の集落を進みます。
この先で国道20号線に合流するのですが、国道の向こう側に石塔石仏群が並んで祀られていて、その中に「教慶寺の地蔵菩薩」がこちらを見て立っています。写真では分かりづらいのですが、この地蔵様は大変柔和なお顔で、それこそ微笑んでいるような素敵な表情をなさっています。説明板によると、この地蔵尊は今から770年前の寛元5年(1247年)、中国から帰化した名僧蘭渓禅師が、村内に火災悪病、強盗などの凶事が相次ぎ、村人が難儀していたので、この災厄を取り除こうと大きな石地蔵を鎮座して、ひたすら祈願して村内に平和をよみがえらせたと言う伝承があるのだそうです。また、最近ではいくつかの交通事故を救ってくれたという霊験あらたかなお地蔵様なのだそうです。私達も道中の無事を祈願して拝みました。
この教慶寺の石塔石仏群の前で旧甲州街道はすぐに国道20号線から右に分岐します。
この脇道のような旧甲州街道は国道20号線と並行して伸びています。
上教来石集落の中心地区に入ります。
「巡禮四國八拾八箇所供養塔」が立っています。おそらく、このお宅のご先祖が四国霊場八十八ケ所巡礼の旅に出掛け、無事八十八ケ所の霊場の巡礼を終えられたので、その供養に立てられたのでしょう。私の故郷の四国のことだけに強く反応してしまいます。ウォーキングリーダーさんが「この中に四国八十八ケ所をすべて回られた方はいらっしゃいますか?」と質問したところ、八十八ケ所をすべて回ったという方がお一人いらっしゃいました。さすがに街道歩きをなさっている方は違います。13人中1人でした。
この大きな屋根の建物は体育館ではありません。一般の民家(農家)です。旧甲州街道沿いにはビックリするくらい立派な民家があります。豊かな土地柄の場所だったんでしょうね。
この奥を走る国道20号線沿いの高台に立っている石碑が山口素堂生誕地跡の碑です。江戸時代前期の俳人・山口素堂は寛永19年(1642年)、甲府魚町で酒造業を営む家庭に生まれました。実際の生まれは(母親の実家のあった?)この上教来石村であるといわれています。20歳頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしていました。俳諧は寛文8年(1668年)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。延宝3年(1675年)、初めて松尾芭蕉と出逢い、深川にあった芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、以降、門弟ではなく友人として互いに親しく交流しました。元禄8年(1695年)には甲斐国を旅して、翌元禄9年(1696年)には甲府代官 櫻井政能に濁川の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承が残っています。漢詩文の素養が深く、中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されており、延宝6年(1678年)の『江戸新道』に収録されている「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られています。ちなみに、この句により初夏になると初鰹が飛ぶように売れたとかで、俳人というよりも商品や企業を宣伝するためのコピーライターの走りのような人物でした。甲府の天尊躰寺に墓所がありました。
緩やかに枡形を描いて坂道を登っていきます。坂道の途中には家紋の描かれた土蔵のある家があります。
大目沢橋で大目沢を渡ります。
その先、少し坂を下ったところにあるのは………、蓬莱山口の関所跡です。右側に「山口関所跡碑」が立っています。ここは甲斐国に24箇所あった口留番所の1つで、甲斐国の信州口を見張った国境の口留番所があった場所です。この口留番所がいつ頃から使用されたかは不明ですが、天文10年(1546年)の武田信玄による伊那進攻の際に設けられたという伝承が残っているようです。
進行方向左側に番所の建物があったが今は蔵1棟を残して更地になっており、傍らに西番所跡と刻まれた石碑が建てられています。


……(その15)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...